真田清鏡
・天文10年(1541年)〜慶長4年(1599年)
※よく分かっていない
・真田幸隆の上州亡命中の庶子と思われる。恐らく、信綱の弟、昌輝の兄。
青森県三戸群郡田子町の真田氏記録書によると一徳斎幸隆の子式部大輔。
・清鏡は羽黒山醍醐坊の開祖と思われている。どうやって奥州へ行ったかは
明らかではないが天正19年、九戸政実の乱の時、領主南部利直を助けて
その先陣を務めて功労があった。南部氏の領内を壇廻りするときは南部氏
より伝馬を与えられ、各地の盟主の家を宿所に当てられるなど特権を与え
られていたらしい。しかし南部城中に宿泊中、南部氏に行き違いを感じた
らしく、切腹し、自ら腸を取り出し、城の大門にたたきつけ、城門にもた
れて往生した。南部利直は霊を慰めるため、清鏡神社を作って弔った。
神社は盛岡にある。清鏡の墓は羽黒山奥の院荒沢寺および、金剛寺院にある。
真田信綱
・天文6年(1537年)〜天正3年(1575年)
・幸隆の長男。母は河原丹波守隆正の妹
・幼名を源太左衛門と言い、父幸隆に従って武田信玄に仕え、二百騎の大将
として武田家24将の一人にあげられている。非常に剛勇で「青江貞次が
鍛えた三尺三寸余」の陣刀を振るって敵を悩ませたという。永禄4年(1
561)の川中島合戦で「啄木鳥の戦法」別働隊に加わってるほか、永禄
12年の北条氏政との伊豆韮山の戦い、元亀3年(1570)の徳川家康
を三方ヶ原で破った戦いなどでめざましい豪将ぶりを見せている。長篠の
合戦で討ち死したがこの戦況は「甲陽軍艦」に「織田徳川勢は柵を三重堀
切を三ヶ構として待ち受くる所へ武田勢は1万5千を6つにわけ、馬場美
濃、真田源太左衛門、同弟兵部ら六手を一組にして向かう。真田兄弟なが
ら討ち死す」とある。兄弟の墓は設楽が原宮脇の中原にある。