私こと「かたやん」の断片的な記憶は1944年4歳 終戦前年から始まってます
今でいう平凡な生活事柄は まったく記憶にはありませんが強烈?印象に残るような出来事は現在の「かたやん」の脳裏には走馬灯のように次から次えと記憶が蘇ります。
当時 長崎県北松浦郡柚木村に大きな日鉄柚木鉱業という企業の社宅からでした
同じような作りの木造の平屋建てが それこそ何十棟もあって現在の団地みたいなもので
この社宅には そこの企業で働く人たちが住んでました。
4歳のこの頃には父親は赤紙1枚(招集令状)で軍に徴兵されていたので 父親の存在そのものは知りません それ以前に抱かれた記憶もなければ顔も覚えていません
そうかといってどうして僕の所にお父さんが居ないのと聞くこともなかったそうです
そうなんですね〜 何処の家庭も終戦が迫ってる時期には学生も動員されるほど日本軍は追い詰められ適齢期になった者は戦地へ年老いた男の人も何らかの軍への協力者として狩り出されていたのでした。
終戦前の或る時 大広場では白いエプロンにモンペ姿のおばさん達が竹の棒を持ってた
そして先ほどの軍人ではないけど きっと退役軍人なのだろう男の老人の号令の元に
大勢の 社宅内のおばさんたちが 一斉にヤーヤーと言っては前に進んで突き刺す訓練をしていました 小さな僕達子供達は近くの神社の広場で訓練が終るまで遊んでた
この頃から空襲警報のサイレンがよく鳴るようになり社宅の床下に掘られた比較的浅い
掘りごたつみたいな穴倉に 警報が鳴るとサッサと潜ると言うより、しゃがむ感じでしたね
こんな状況では屋根に爆弾が落ちたら 家が吹っ飛び 何の意味もないような避難先でした そんな状況が続き 戦況も悪化し敗戦が近くなってくる頃には米軍の戦闘機が柚木の
上空にも飛来してくるようになり 昼間夏の時期に社宅の近くの川で遊んでいたりしてたら
空襲警報のサイレンが鳴りあちこちに横穴式に掘られてた防空壕に一斉に逃げ込みました でもサイレンは聞いたが戦闘機は見られなかった 警報解除のサイレンが鳴ると何事も無かったかのように また泳ぎ始めたものです
当時住んでた柚木から佐世保市内は近く その佐世保には軍港があるので米軍の空母の艦載機が佐世保の上空に偵察にきたり ついでに?柚木上空にも つまり無防備の?
日本本土の上空に敵機が飛んでくるような戦況だったのか この頃の戦闘機は偵察が目的だったのか爆撃はなかったけれども その内に床下に避難することは無くなり 本格的な大きな防空壕に社宅の人たち全員が避難させられるようになってきました。
軍港のある当時の佐世保市内の大半が焼け野原になった終戦前の頃には柚木に住んでた私達も母に手を引かれ 深夜不気味に鳴り響くサイレンの音を聞きながら炭鉱の地下深く傾斜のある坑道を徒歩で歩いて行きました レールが敷いてあって真ん中には 奥深くまでワイヤロープが這ってた。
そして長崎に原子爆弾が炸裂した頃が防空壕に避難する頻度が多かった気がします。
それ以後避難することはなかったようでした。きっと日本は負けたから避難する必要は
無くなったのでしょうね。負けたって言ったって何ら子供の私達には変化はない(笑い)
いつものの生活とは変わってはいません。
終戦前には配給の列に母と並んだ記憶が断片的にあるのは 何でも分配だったと記憶
キャラメル1箱 中身をバラシテ数個 或いは煙草でもバラにしてクジ引きで当たった人に
石鹸 固形の長〜い(笑い)石鹸を等分に切断して分けるのは当たり前でしたよ
酒なども配給 酒好きの人たちは工業に使うメチールアルコールをも飲んでたとか言われてた。生活物資は完全に不足してたとか でもある所にはあると言う事で ヤミ市場に流れヤミ市場が盛況していたものです。
この頃によく聞こえてた 耳に残る歌謡曲は「誰か故郷を想わざる」という旋律が残ってます きっと誰かが歌の好きな人が何かの時に歌ってたのが心に焼きついたのだろうかな
昭和15年1月のレコード発売と記録になってる。ラジオで聞いてたと言う記憶はない
その頃 家にはラジオなんて無かった?
当時の生活物資 工業製品 軍需産業 武装などアメリカとは比較にならない日本国が世界を相手に戦争する自体が どだい無茶な出来事で食料不足 アメリカさんはチーズ
日本はサツマイモ そんな時代に悠々と柚木上空をB29という大型爆撃機に 先ほどの
大広場で訓練してたおばさん達が爆撃機に向ってヤ〜ヤ〜といって棒を突く真似をしてた
真面目にやってたものです 戦争に勝つと信じて・・・・
そうそう 一度も日本軍の戦闘機 見たことなかった ゼロ戦とかあったそうだが 飛んでるの見てませ〜ん(笑い) B29 超高空を機体を銀色に輝かせていました。
間もなく終戦となり知らない見覚えの無い人が部屋の中に居たのを寝起きの私は5歳の
誕生前だったとか その知らないおじさんに向って お前誰やとは言わなかったと思うけど
私の父親が復員した日だったのです。 父は一度招集されて復員 戦況の悪化で再度
召集だったので父親の顔とかは5歳の時の復員までは判らなかったのが納得でした
終戦になってから柚木の品川と言う病院の玄関の前の道路を大勢の兵隊が それも始めて見る外国人でした 鉄砲 背嚢担いだ軍人達がゾロゾロと上に向って歩いていた 全員歩いていた様な気がしたが偉い軍人はきっとジープに乗ってたと思うが と言うのは
玄関の隙間から覗いてたもんだから よく観察してなかったのです。
周りの大人たちが隠れろって それに従う物の やっぱり見たのね〜でした(笑い)
でもしっかり観察は一部してたようで ソバカスの顔 赤毛の赤ら顔 真っ青な瞳 黒い顔の人 白い顔の人 口元は何かクチャクチャ 盛んにツバを吐いてた 上服はダラッと
前ボタンを外してはだけていた 夏の暑い日だったのかも知れません
先頭から最後尾の兵隊まで見ていました 生まれて始めた外国人でした。
戻って来たのは記憶はありませんが 峠を越えて伊万里方面に向かったのかな〜
柚木にも軍関係の施設などがあるが為に米軍は捜査パトロールなどしてたようでした。
思い出すのは終戦前には母とお百姓さんの所に行って 買出し?芋を買いに行ってた
食糧難時代の頃だったのかな 着物が芋に変わる物々交換でした
現在は生活必需品はお金さえ出せば何でも手に入る 昔は(笑い)お金があっても切符が
なかったら買えなかった時代もあったようです 「切符制度」
なんだかんだと言いながらも戦争も終わり 防空壕に避難することもなくなり平穏な生活に
戻る事が出来たけれども それからが大変だったようです。
戦時中は薄暗い裸電球 時折停電もする薄暗い部屋で空襲警報のサイレンが鳴る音は
不気味に感じるのはあった 現在でもその時の雰囲気と言うか 声を潜めて防空壕の中で息を殺してたのを(笑い) 声を潜めることなんかないのにね かも空襲と言ったって空高く飛んでる飛行機 防空壕の中の声が飛行機に聞こえるわけ無いのに・・・
緊急を要しないような夜間の警報のサイレンのときは電気の傘に黒い布を被せていましたよ 只でさえ薄暗い電球なのに な〜んか侘しい小さな子供の頃は何とも思わないと感じるが寂しいという思いはあった これは電球の灯りが敵機の飛行機に見つからないようにとの対策でした。こんな心配もしなくて良い戦後でした この頃の記憶はまだまだ一杯あります 私の子供達が小中学校の頃に思い出話として聞かせますが相手にもしてくれません(笑い)昔はむかしとテレビゲームに夢中です アメリカと戦争してたと言ってもフーンでしたね。
次から次にと記憶が蘇りますがキリがありません でもこれからは歳を重ねるについて
少しずつ記憶が薄れていくのかな〜 忘れちまうものなんでしょうね。
まっそれもいいっか(笑い) 長い人生少しだけの戦中 そして戦後の貴重な体験をさせて
させて貰ったと思い出に耽ってる そんな気持でこのページを作ってみました。
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