Syuugoroの格言集
《は〜ほ》

【は】破産  発明・発見 早起き 万能感【ひ】 卑怯者 非難 皮肉屋 否認 品性 【ふ】不安 夫婦 不可知 不幸 侮辱 不良 仏性【へ】 平衡感覚 平凡 へつらい【ほ】誇り 母性 凡人

 


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《は》

破産
十度破産しても一度死ぬよりはまし。(ユダヤ諺)


自分の力によらず、親の名声や家名によって尊敬を得るほどの恥はない。(プラトン)
 
よく思うことだが、ギリシャの哲学者はみんな昭和・平成の時代に生きていたのではないかと錯覚してしまう。

 相手が強いから負けた。相手が腹黒いから騙された。そんなことは恥ではない。要は自分に負けないことだ。自分に負けることこそ恥である。
 人との勝ち負けはやたらに気にするが、克己心の希薄な人間が多い。外では優等生を装い、家に帰ると子供じみたわがままを家族にぶつける。それはやはり生きているのではなく、生かされているのだ。百回戦えば百回敗れ、人のしかけた罠にはすぐにはまる。それでも自分が自分の主人であるほうが良い。

恥ということを打ち捨てて世のことはなるべし。使いどころによりてはかえって善となる。(坂本竜馬)

真に純潔であるならば裸でいることを恥ずかしいと感じることもないだろう。
 もちろん生活をしている生身の人間が完全に純粋な精神を持っていることなどあり得ないだろう。しかし純潔を考えることには意味がある。真に純潔な魂を持っていれば、人の悪意などは理解できない筈だが、それを感じている自分を見つめ、人の悪意に乱されない心の港を作ろうと思うからだ。
 とくに今の多くの日本人は自分のことは隠し、人のことは詮索したがる。結局それは自分の世界が持てないからだ。そんな中で自分のことは何も隠さず、人のことは詮索しないという生き方が出来ればすばらしいことだと思う。

発明・発見
真の発見の旅とは新しい風景を求めることではなく、新しい目を持つことである。 (マルセル プルースト)
 青い鳥は、目覚めて、気がつくと自分のそばにいた。人の幸福を羨んで、持たざるものを追いかける前に、自分が持っているものの多くが、まだ全く使われずにいることを思い出せ。平凡な日常の中に、日々新たなものを発見するのは、生活を育む心、愛する心さえあれば得ることが出来る。その感受性をもって旅に出たら、発見するものは無限にあるだろう。発見するものが無限であることは、自分の内面に無限の世界ができたことである。そしたら自分の可能性も無限に広がる。読書や芸術との出会いも旅である。人との出会いも旅である。自分を見舞う不幸でさえも、自分の人生に新たな荒地を与え、自分の世界を広げるだろう。(10月13日)

 育む心を知らず、自分の目で見ることをせず、日々新たな快楽を求める人生は、結局何の感動も得られない人間を作り上げてしまう。古代ローマのネロをはじめとする多くの皇帝や貴族たちはこのわなにはまってしった。ネロは詩人としても音楽家としても一流の才能を持っていた。そしてセネカの弟子として、一流の哲人だった。彼はけっして愚かな人間ではなかった。しかし自分の目、自分の世界を持たず、世間の、他人の価値を追いかけたら、いかに優秀な人間でも、どれだけ世間的な価値を手に入れても、感動も幸福も得られない、他人の幸福を破壊せずには自分の居場所が得られないという恐ろしいワナにはまってしまうのだ。(7月18日)

人の発明に何かを付け足すことは容易い。(不詳)
 改良する能力が悪いとは思わない。それも重要な能力だと思う。ただ自分では新しいものは作らず、いつも誰かが新しい物を生み出すのを待っているというのは自分の能力を殺してしまうことだ。


早起き
夜明けのひと時は、一日の舵だ。(ヘンリー・ビーチャー)

万能感
 文明のもたらす即物的な刺激が、人の心を暗闇にしている。(Syuugoro)

 
電灯のない昔は、深夜までの長時間労働を強いられることなどあり得なかった。夜の闇は労働に疲れた人々にとって確実に保証された癒しの時間だった。現代人の心は闇を失ってどんどん追い詰められている。そして闇を失うことによって、人は想像する力をも失ってしまった。想像力を持たない、思い出に心温めることも、知らない世界を憧れることも出来ない人々。その心は真に闇である。


《ひ》

 


良く生きることと、美しく生きることは同じである(ソクラテス)
 「良生きる」というのは、人間が人間として、ありのままに生きることだと思う。人間が持っている、能力と可能性を、自分の与えられた環境の中で精一杯実現している姿は、自然の恵みの中で咲く花のように美しい。
 人生のゴールは、自分の与えられた可能性を全うすることであって、人の能力を羨んで、それを真似することではない。
 バラはバラのように美しく、あざみはあざみのように美しいのだ。(7月7日)

美は内部の生命から差し出す光である。(カール・ケルナー/ドイツの詩人)
 
美とは、それが内部に持っている個性、可能性が実現された姿である。その人の社会での序列などは問題ではない。ましてや、生まれつき与えられた身分や外貌などではない。
 大輪の菊でなくても野菊には野菊の美しさがある。自分の個性を花開かせている人は、いかに平凡な職業や地位にある人であろうと美しい。(1月10日)

花が花の本性を現じたる時、もっとも美なるがごとく、人間が人間の本性を現じたる時は美の頂上に達するのである。(西田幾太郎)
 人との勝ち負けばかりを気にして、負けるものは何でも棄ててしまう。競争を煽り立てる今の日本の社会には、そんな人間が溢れている。有名大学を出て、社会的な地位を得ても人を暖める心を知らず、美しいものを見ても感動する心もなく、芸術に接しても評論家のような値踏みしか出来ない。そんな人間が美しい筈がない。
 名もなく、貧しくとも、美しく生きている人がいる。人に劣っても自分の持っているものを大切に育てて、精一杯生きている人がいる。ありふれた野のすみれでも、光と水を得て精一杯咲いている姿は美しい。僕ら凡人がそんな風に生きることがどうして無意味・無価値であろうか。(10月8日)

泥中の蓮。(諺)
蓮の花は泥の中に咲く。汚れた環境の中にいてもその影響を受けない。

 

卑怯者
卑怯者は安全な時だけ、居丈高になる。(ゲーテ『タッソー』)


非難

非難は烏を見逃し、鳩に襲いかかる。(ユウェナリウス)


皮肉屋

皮肉屋はあらゆるものの価格を知っているが、何ものの価値も知らない人間である。(オスカー・ワイルド)
 自分にとって芸術とは何かということを考えてみればわかることだが、自分の固有な世界を持っていなければ、その芸術の価値などわかる筈がない。芸術に感動する心は、すでに自分の固有な世界なのだから。
 価値を見出す自分の目を持たず、ただ世間的な評価だけを知っていて、ものを見、値踏みする人間が多い。彼は新たな価値に出会った時、自分の目でその価値を見ることが出来ないから、それがどんな賞を得たか、権威のある人がどんな評価をしたか、どんな経歴の人がそれを作ったかなどという知識でしか判断することが出来ない。そういうものがなければ、ただ、「誰々の作品に似てるね」などと既存の価値に結び付けてすませるのだ。
 こういう値踏み根性だけで出来ている人間は、人の価値が見えず、既存の価値になぞらえて皮肉に見ることしか出来ないから、本当に人の個性に触れるような人間関係も作れないし、自分の世界を持つことも出来ない。(1月28日)

否認
愚かな人は、自分が出来ないことは何でもけなす(ラ・ロシュフコー)
 
こういう人というのは自分では気がついていない。人が見ると裸の王様なのだが。
 人をけなすというのは、相手に不快な思いをさせるということ以上に、自分をつまらない人間にしてしまう。人の価値を否認すれば、その時は自分のコンプレックスから逃れることは出来るが、自分の持っている同じ可能性を捨ててしまうことになってしまう。(11月30日)

人間はいつも、自分に理解できないものは何でも否定したがるものである。(パスカル)

品性
彼らは非常に低いところにいるので、落ちてもいっこうに傷つかない(アナトール・フランス)
 汚職政治家や悪徳経営者のように倫理観の低い人間は自分の不道徳な行為に気づくことがない。不道徳な行為に何の痛痒も感じないというのは、一見、得のようである。しかし腐った泥の中で泳ぐ者は、その水を口にすれば腹をこわすし、清らかな水で泳ぐ人の喜びを知ることもない。世の中は所詮泥の世界だなどと居直ったことを言うが、どんな腐敗した時代でも自分の泳いでいる川をきれいにすることは出来るのだ。
 何もしない人は志を持った人に「雉も鳴かずば撃たれまい」などと揶揄する。確かに登らなければ落ちることは無い。しかし何もしないことに何の価値があるのだろうか。生きるということは、自分が登ることの出来る山に登ることではないか。(12月21日)


無知も品性の賤しさも、家柄や学歴によるものでもなければ、能力の有る無しによるものでもない。ただ自己限定して自己の成長を放棄することだけが教養や品性を奪うのだ。(Syuugoro)
 
品定め根性と物質的万能感だけが肥大化した今の多くの日本人は、人との優劣がついたら、すぐに自分の可能性を捨ててしまう。負けるゲームはすぐやめる。そして自己限定する癖がついてしまい、何の創造性もない人間になってしまう。
 人に勝とうが負けようが、創造し、成長している人は輝いている。逆に偏差値70以上の東大男も創造性を捨てたら腐ってしまうだろう。(12月7日)


《ふ》

 

不安
案ずるより生むが易し。(諺)
あれこれ悩んで心配したことも、やってみたら以外と簡単に出来る。ともかく、やり始めたら、それは半分出来ている。

夫婦
揃わぬ二輪車は一輪車に劣る。(正木ひろし/弁護士)
 
週末婚とか何とか、会いたい時だけ会って、互いの領域には干渉しないなどという男女の付き合い方が若者の間に流行している。僕から見れば、そんなものはエゴイズムをオブラートに包んでいるだけだと思う。結婚生活とは二人で築き育てるものではないか。互いに育む心がなければどんなスタイルを取ろうとも満たされた生活はないだろう。(3月14日)

不可知
不可知なものを無理に解釈してはならない。無理に解釈すれば、それだけ真理から遠ざかる。

 誤謬の原因は4つある。
 1.可知な真理を嘘解で置き換えている場合。例えばガリレオが実験して見せるまで、重たい物が早く落ちると考えていた。
 2.可知な真理を不可知だと考えている場合。例えば「連想法」でコンプレックスの存在を見つけるような心理学的な実証できる現象を知らず、人の心は見えないと信じているようなこと。
 3.不可知なものを可知だと信じる場合。例えば血液型で性格がわかると信じているようなこと。また聞いた話で輪廻転生や来世、冥界、あるいは宇宙人との遭遇を信じたりするようなこと。
 4.可知なものだけで自然や社会を説明できると考えている場合。科学的万能感がこれである。
 19世紀から20世紀の哲学は多くの場合世界観の確立をめざし、すべての現象を説明しようとした。その最たるものが唯物論的弁証法だろう。ヨーロッパの歴史を後追い的に付会して原始共産制・古代奴隷制・中世封建制・絶対主義・ブルジョア革命による産業資本主義の確立・資本主義の不均等発展による帝国主義の出現・資本主義の矛盾の止揚としての社会主義社会の成立というドグマを作ってしまって、それに歴史をむりやり当てはめようとする。一つの現象を説明できるに過ぎない要素で全部を語ろうとするから、とんでもない誤謬を冒すことになる。
 或いは歴史学者や考古学者がしばしば、発見されないものは存在しないと信じ込んでしまうように、唯物論的弁証法に限らず、この科学的万能感というのは、科学的だと信じきっている故に、最も頑迷な誤謬をもたらす。

 不可知なものは不可知と受け入れる態度が、最も真理に即した考え方である。勝敗の帰趨、天候や自然災害、事故、重病が治癒する可能性、人との遭遇など人は常に不可知なものに大きな影響を受けて生きている。それに対して可知なるものは見極めつつ、不可知なるものに対処して、失敗した場合、負けた場合、助からなかった場合、事故にあった場合にどういう行動をとるかを用意しつつ生きることが合理的な生き方だろう。そして不可知なものの背後にあって、不可知であっても人間の運命に影響を与える実体を決定するする存在としての神を信仰することは十分に意味のあることである。しばしば信仰が病気を克服するように、それは不可知な実体に影響を与えるからだ。
 不可知な現象の中にも無数に存在する真理や法則の総体を神の見えざる手と考えることは十分に意味のあることである。

不幸
◆禍いに因り福をなす。成敗の転ずるは、例えば糾(あざな)える縄の如し。(史記)

侮辱
新しい親切も古い侮辱を帳消しにはしない。(マキャベリ)
 徳川家康は、少年時代今川家の人質になっていたが、その時、自分に辛く当たった人と親切にしてくれた人をずっと覚えていた。後に今川家が滅びたあと、その二人は武田家に仕えていたが、家康が武田との戦いに勝利した時、二人は家康の前に捕虜として引き出された。家康は自分に辛く当たった武将には切腹させたが、自分に親切にしてくれた人を助けたという。
 豊臣秀吉も天下人になってから、故郷の尾張中村に立ち寄った時、少年時代、自分に虐めたガキ大将を探させた。そのガキ大将は真っ青になって逃げたという。他の村人は秀吉の同郷ということで色々の賜り物があったが、そのガキ大将は逃げたために何ももらえなかったという話だ。
 今の時代は、人を虐めたり、嫌がらせをしたり、仲間外れにしたりする風潮が蔓延しているが、身体の傷はやがて癒えても、心の傷というのは永久に消えないということを、深く自覚しなければならない。(6月9日)

仏性
そのままに生まれながらの心こそ 願わなずとても仏なるべし。(一休宗純)

 仏教は「一切衆生悉有仏性」と言って、どんな人でも生まれながらに仏の心を持っていると言う。仏の心とは生きとし生けるものを慈しみ憐れむ心、育む心である。つまり自然が自然としてあるように人間が人間としての可能性を全うし、自分を育んでいる社会や環境を全っとうさせることが仏の心である。そして人間としての可能性は、すべて生まれた時に遺伝子として与えられているのだ。その可能性を実現するかしないかが殆ど人間の価値の差のすべてである。
 動物はすべて自己保存と不快を避け、快楽を追求する本能を持っている。そして自分を庇護する者への求愛衝動を持っている。異性を求め、餌を求め、他者と闘争する本能を持っている。人間も動物だからもちろんそれらの本能を持っている。しかしこれだけしかないのなら、人間は人間を全うしたことにはならない。他の動物が持っているものを持っているに過ぎない。
 人間は物を生み出す創造性を持ち、自分の能力と可能性を実現し、社会の発展の為に役割を果たそうとする自己実現欲求を持っている。真理を追求する理性を持ち、善を追求する倫理観を持ち、美を求める感受性を持っている。そしてそれらに従い自分を高め、完成させようとする審美欲求を持っている。これが人間であるということだろう。
 人間が人間であることを全うするというのはエリートの話ではない。すべての人にとってそれは幸福の条件なのだ。

不良
もしその人の行為が不良であるなら、偏見を持たずに近づく方が良い。もしかすると不器用なだけで本当は純粋なのかも知れない。しかし、その人の心が不良であるなら、決して近づくな。彼を治せるのは神しかいない。(Syuugoro)
 
行為は見かけ上社会的なルールを守っているが、心は排他的で自己中心的という人間が、自分が欲しい人間だけには、みせかけ非常に親切・・・というような人間は多いものだ。
 反対にそんな心の不良に居場所を奪われて、その為に見かけ上人の批判を受けるような立場に追い込まれている人も多いだろう。その人は友達になれば、本当は非常に誠実な人なのかも知れない。(6月6日)


《へ》

【平衡感覚】
愛してもその悪を知り、憎みてもその善を知る。(礼記)
 自分が愛している人でも、悪いことをしたら厳しく叱責し、また自分の嫌いな人でも、良いことをしたら正当に評価する。このような公正な態度を保つことが、そんなに難しいだろうか。出来ないのではなく、したくないのだ。ずるさを確保しておきたい、そんな瞞着が今の世の中にははびこっている。
 しかし善悪というのは人生の羅針盤だから、それがなければ生き方に迷ってしまう。自分の子供にずるさを教えてしまったら、結局子供は不幸になるだろう。

平凡
ロバが旅に出かけたところで馬になって帰ってくるわけではない。(ことわざ)
 ロバの旅はロバにとっての成長に役立つのだ。馬にとやかくいわれる必要は無い。ロバにはロバの価値がある。けわしい山道ではロバの方が役に立つのだ。
 ロバが馬になろうとしても、なれる筈がないのだ。そんな無駄な努力をしている間に自分の能力も発揮できず、もっとも惨めな生き方をしてしまうだろう。充実した人生とは、人の能力を真似することではない。自分の能力と可能性を実現することだ。
 平凡の価値を貶めてはならない。もっとも平凡な人生を体験した人が、自分の人生の中で体験したこと、結婚や家族の死、愛する人との別離、仕事の苦労や悩み、貧しさへの嘆き、旅行や休みの日の遊びで小さな幸福を感じたこと、世間で起こった事件への感想など、それを正確に記録すれば、その生活が平凡であればあるほど、もっとも価値ある時代の証言になるだろう。平凡な人間こそが時代を証言する義務と権利を持っている。(6月30日)

三流だからこそ、自分の世界を持たねばならない。
 
一流の人間なら黙っていても、世間が居場所を作ってくれる。しかし、三流の人間は自分の力で居場所を作らなければ、自己実現には程遠いような役割しかくれないし、こましな仕事があれば、大抵要領のよい人間に分捕られてしまうだろう。
 三流の人間が充実した人生を送りたいと思うなら自分の手で自分の世界を作るしかないのだ。

平凡なものに感動できる人は、真に感動できる人である。
 ありふれているということは価値が無いということではない。空気も、水も、光も、平凡な人の平凡な愛も、もっともありふれたものこそ、無くては生きてゆけないものなのだ。
 平凡なものに感動できる人は、真に感動できる人である。それを陳腐と笑う人は、奇をてらったものに感動したふりをするだけで、本当の感動は知ることがないだろう。(11月9日)

凡人がその平凡で単調な生活の中に、常に新たな変化とドラマを見出して、自分の持てる能力と可能性を実現するならば、それは非凡な天才ではないか。
 多くの人は平凡を笑い、地位や名誉を得て凡人と差をつけることが幸福だと思っている。しかし教員試験に失敗したメンデルが単調な修道院の生活の中で、ひたすら庭に植えられたえんどう豆を観察し、プロの生物学者が思いもつかなかった遺伝の法則を発見したことは、人生の真相がそんなところにはないことを示している。
 「真の発見の旅とは新しい風景を求めることではなく、新しい目を持つことである。」 
とマルセル・ブルースとは言っている。満たされた環境の中で、ただレールの上を人より早く走っただけのエリートにどんなドラマがあるだろう。
 繰り返す日常の中に、変化するもの、成長しているもの、背後に隠されたものを見出す感受性を棄てなければ、平凡な生活はたちまち感動に満ちたドラマの舞台に変るだろう。そのドラマはすべての平凡な生活をしている人々に用意されているのだ。
 競争社会の毒が蔓延してしまったからか、人から凡庸とみなされたら、すぐに自分の才能を捨ててしまって、せめて・よりましで、競争のある所だけに、世間から価値とみなされていることだけにエネルギーを費やし、後はただ消費的に品定めする感覚を肥大化させ、せめて遊びの世界でヒーローになろうとする。
 皆が「作る心」を捨ててしまった中で、一人だけでも「作る心」を持ちつづけたら、それだけでも貴重な存在だ。凡庸であろうと、真似する心を捨てたら、作られたものには必ずそれだけの価値がある。それは何より自分の城だ。心の港だ。生きることの目的だ。そして、少数でも、その城に一緒に住みたいという人が必ずいる筈だ。
 昨日も書いたが、昔の百姓は大抵のものは自分で作った。家も自分で建てた。作物を丹精する中に、自分の手で物を作る中に、育む心が育つ。それが愛だろう。
 作る心を捨てない人は選ばれた人だ。それは、その気になれば、すべての人がなれる筈なのだが。♪

へつらい
へつらわれることの好きな者は、その人々にふさわしい。(シェークスピア)

隣人にへつらうものは、その足元に網を張る。(聖書)

君を値打ち以上に持ち上げるものを恐れよ。それは君を不当に貶める者であるからだ。(アラビア諺)
 へつらう者は相手が苦境にさしかかった時には、手のひらを返して陰口をたたいていると考えて間違いない。へつらう態度と尊敬する態度は見かけは同じだが、その本性はよく観察すればわかる。褒めている相手を過大に賞賛したり、本当の個性を理解していなかったりするからだ。誰かが自分の個性を本当に理解してくれているのではなく、ただ追従していると感じたら、「ともかく好意を持っていてくれるのだから」と見過ごすのではなく、「僕は君の言うような価値のある人間ではない」とはっきり否定し、「実体のない褒め言葉は中傷と同じだ」と突き放す方が良い。敵に変貌する可能性を持った大勢の取り巻きよりも、孤立した時にも裏切ることのない小数の友人だけに囲まれている方がはるかに有益である。

へつらいは、我々の虚栄がなければ通用しない贋金だ。(ラ・ロフシュコー)
 
へつらいというのも、やはり自分の世界を持たない、自尊心と優越感の区別のつかない人間の仕事だろう。もちろん誠実ではない。しかし人から持ち上げられると悪い気がしないから、多くの人はへつらう人に好意で報いる。しかし、へつらう人は陰口を言う人である。へつらう人の口車に乗せられていると、いつか足元をすくわれていることを知らなければならない。(7月3日)

へつらう者は、それを喜ぶ者の費用で生きる。(ラ・フォンテーヌ)
 へつらう者も、自分にへつらう者を喜び、虚栄に生きる者も、ともに迷いの世界で生きている。自己実現に喜びを見出す者は、人の追従に関心を持たない。

へつらうことの出来るものは中傷することも出来る。(ナポレオン)
 つまりは他人を品定めすることでしか、自分の居場所を作れない人間である。自分の世界を持たない人は、港を持たず漂流しつづける難破船のようなものだ。(12月19日)


《ほ》

誇り
太陽は一人で沈む(ユダヤ諺)


【母性】
母親は息子の友人が成功することを妬む。母親は息子よりも、息子の中の自分を愛しているのである。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』)
 母親が自分の子供に、とりわけ息子に同一化する心理は、愛と言うよりも殆ど本能なのだろう。それは他愛であると同時に無自覚な自己愛である。感情移入するというよりもはるかに自分そのものなのだ。そして自分自身のことなら身を引くことを知っていても、子供のことになれば最もエゴイスティックな行為でも出来る。それは善にもなれば悪にもなり、美にもなれば醜にもなるが、ともかく男の太刀打ちできない女の特権なのだろう。
 こんなことは恐らく多くの人が知り、実感していることなのだろうが、問題は今、その女の本性が次第に失われつつあることだ。幼児虐待がどんどん増えているが、その心理はマニュアル育児をする心理の裏返しだろう。本能ではなく、マニュアルでしか母親になれないようになれば、それは真に深刻な問題である。
 「人形遊び」や「ままごと遊び」は東洋でも西洋でも全く無自覚に、本能的に人間が生み出した文化なのだろうが、そうした根底的な心理体験がすでに奪われて来ている。それは女の本性を育てる最も重要な、基礎的な教育なのに、女性差別のなごりであるかのように受け取る風潮が蔓延している。
 最近の多くの若い娘たちは、自分の家庭を作る夢よりも、職場のサロンに喜びを見つけ、個人的な趣味や、買い物や、旅行に快楽を見出す。そして身の回りが寂しくなったら、母になりたいという気持ちとは逆の、子供のような依存心で結婚する。「結婚できない症候群」、「駆け込み結婚」、「幼児虐待」、これらの流行語はみんな一つにつながっている。
 女が「営巣本能」、自分の家庭を作る夢を失うということは社会の危機という以前に人間という生物としての危機ではないか。(11月26日)

 

凡人
英雄とは自分の出来ることをしただけの人である。ところが凡人はその出来ることをしないで、出来もしないことを望んでいるのだ。(ロマン・ロラン)
 
自分の生きる目的はすべて自分の中にある。自分の能力、性質、好きなこと、子供の頃からの夢、環境、家族、友人、社会からの要請、機会、それらをじっくり見つめればおのずと何をなすべきかが見えるだろう。(8月3日)

三流だからこそ、自分の世界を持たねばならない。(Syuugoro)
 
一流の人間なら黙っていても、世間が居場所を作ってくれる。しかし、三流の人間は自分の力で居場所を作らなければ、自己実現には程遠いような役割しかくれないし、こましな仕事があれば、大抵要領のよい人間に分捕られてしまうだろう。
 三流の人間が充実した人生を送りたいと思うなら自分の手で自分の世界を作るしかないのだ。(11月17日)