Syuugoroの格言集

 

 

自分史 Syuugoroの残日録 ゲストブックに書く
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【か】快楽 陰口 革命 学歴社会 学習 勝ち負け 悲しみ    環境 感受性 感傷 感動 【き】記憶 希望 逆境 教育 競争 今日の日の大切さ 虚栄 共感 恐怖  【く】苦労 苦悩 【け】芸術 軽蔑 結婚 潔癖 謙虚 権利 言動 【こ】 好意 幸運 後悔 向上心 公正 狡知 幸福 傲慢  心の持ち方  コスモポリタン 個性 克己心 孤独 言葉 コミュニケーション


《か》


快楽
ただ快楽を追って生きる者は、必ず幸福を見失うだろう。(Syuugoro)

  育む心を知らず、自分の目で見ることをせず、日々新たな
快楽を求める人生は、結局何の感動も得られない人間を作り上げてしまう。古代ローマのネロをはじめとする多くの皇帝や貴族たちはこのわなにはまってしった。ネロは詩人としても音楽家としても一流の才能を持っていた。そしてセネカの弟子として、一流の哲人だった。彼はけっして愚かな人間ではなかった。しかし自分の目、自分の世界を持たず、世間の、他人の価値を追いかけたら、いかに優秀な人間でも、どれだけ世間的な価値を手に入れても、感動も幸福も 蜃気楼のように逃げ去ってしまう。そして他人の幸福を破壊せずには自分の居場所が得られないという恐ろしいワナにはまってしまうのだ。

幸福は永遠に輝くダイヤモンドに、快楽は一滴の水に似ている。(シュバリエ・ド・ブーフレ)

学習
食欲がないのに食べることが健康を害するように、欲求がないのに学習するのは、記憶を損ない、記憶が保存されることもない。(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
 学んでいる知識そのものに関心が無いのに、ただ受験のために勉強しているというのは本当に不毛な勉強だと思う。受験のために勉強するのにしても、興味を持ちながら、自分の関心につなげながら勉強するべきだ。
 「損得・勝ち負け」のために勉強すれば、目先の人生ゲームに勝っても、その知識は自分の人生に殆ど役にたたないだろう。勉強は「自己実現」のためにするのだということを、いかに勝ち負けの受験勉強の中でも忘れてはならない。(8月10日)

革命
革命とはつまり、既得権にしがみつく人間から、既得権を引き剥がすことだ。(Syuugoro)

陰口
陰口は、それをする者の欲の鏡である。(Syuugoro)
  
二人の人間が、ある人間の評判が落ちれば、自分たちに都合が良いという考えを持ったなら、その人間に落ち度があろうがなかろうが、彼らはすぐにその人間の陰口を言い始めるだろう。そして二人が同じことを言えば人は耳を傾け、三人が同じことを言えばそれは真実になる。
 陰口というのは、しばしば善悪を逆転させる。本当に悪質なのは噂される方ではなく、噂でその人間を貶めてる方なのだ。僕らが、もし自分の世界と自分の良心を守ろうと思うなら、たとえ自分の利益になろうとそうした陰口に乗らないことだ。自分の良心、自分の審美観を壊せば、自分の幸福の道筋をも壊してしまう。
 汚れたシャツを着るのが不快であるように、汚れた考えを心に着ることは、なおいっそう自分を不快にさせるだろう。

勝ち負け
勝つことばかり知りて、負けることを知らざればその害身に至る。(徳川家康)
この言葉は決定的な敗北を防ぐためには、小さな敗北を経験している方が良いという意味だが、僕はそのことよりも負けることも人生だということを思う。
 人生の豊かさは、成功の数だけでなく、失敗の数も含んでいる。最後に失敗するか、成功するかはやってみないとわからない。織田信長も、ナポレオンもシーザーも最後は失敗だったが、彼らの人生はやはり偉大なものだったし、彼らはやはり豊かな人生を築いたと思う。幸福も不幸も含めて自分の人生がどれだけ大きく育つかということが、その人の大きさだろう。(7月31日)

悲しみ
悲幸福は身体にとってはためになる。だが精神の力を発達させるのは悲しみである。(マルセル・プルースト)
 悲しみとは、愛の喪失、得られぬ愛への感情である。愛は失われた時に最も純粋であるだろう。それはもはや欲が介在する余地がないからだ。悲しみをを受容する力は、人間を強くする。そして人の心の痛みを感じる心を養い、愛する心をより強靭なものに育てるだろう。
 愛する人を失った時には、心の底から悲しめば良い。深い悲しみにある時は、晴れた空よりも暗い雲に覆われた空の方が心が落ち着くかも知れない。それでいいのだ。その心の中に強固な真の愛が育っている。(2月21日)

悲しい時に泣くことが出来るからこそ、嬉しい時に笑えるのだ。悲しみの感情を殺してしまったら、石のような心になってしまう。(Syuugoro)
 最近、男が泣いているのを見たことがない。自殺者が増えつづけていることを考えれば生きている人も悲しいこと、苦しいことは増えつづけているのに違いないのに・・・。
 泣く前に切れてしまう、あるいは自殺してしまう。それは心が石のように硬くなっているからだろう。泣くことが出来れば切れることも、自殺することもなかったかも知れないのに。(8月18日)

もはや太陽も花も、私は好まない。それを見ていると私の心が痛むから。そしてあなたの死んだ日のような曇った日の方が私には好ましい。(マリー・キュリー)
 ノーベル賞科学者マリー・キュリーが夫ピエールを交通事故で失った後、日記に書いた言葉である。
 悲しみから早く立ち直って、未来を見て生きるのが前向きだとか、プラス思考だとか言っている人がいる。そんな言葉を聞くと、いかに戦後の支配イデオロギーが人の心をゆがめたかということを思わざるを得ない。
 最も美しい心は、人の哀しみの中にあると思う。それはその人が今も培おうとしている人間らしさの姿を映しているからだ。草花が実を結ぶように、人は妻を夫を家族を友人を育む。それを失ったとき、最も純粋にその心を表出するのだ。だから美しい。
 哀しみを噛みしめ、哀しみを受け入れる中に、その人の愛は花開いてゆくのだ。(7月20日)


金はあらゆる不平等を平等にする(ドフトエフスキー『未成年』)

金で信用を作ろうとは思うな。信用で金を作ろうと考えよ(テミストクレス)


神は自然に原理と法則を与えるが、決して運命を予定しない。運命を決定するのは人間の意志である。(Syuugoro)
 
神が人の運命を予定するなら、人間に「意志」などを与える筈がない。すべての生物、自然がみずからの可能性を全うし、人間もまた持てる能力と可能性を実現し、より良く生きようとすることが神の意志ならば、より良きものを選択する意志こそが人が生きることの証であり神の意志である筈だ。それならば運命は人が何を選択するかによって不断に変わってゆくことになる。人は意義のある生き方も、無意味な生き方をすることも出来る。幸福になることも、不幸になることも出来る。それはすべて人の意志によって決まるのだ。

神は決して呪縛しない。(Syuugoro)
 
神とは宇宙を創造し、宇宙が自己実現をしてゆくプログラムを与えた存在である。これは実体に与えられた定義だから、神が存在するとかしないとかいう議論事態が無意味だ。宇宙が惑星を誕生させ、生命を誕生させ、精神を持った高等生物を誕生させたのはひやかしでも偶然でもない。宇宙自体が有機的なものであり、精神を持った生物を誕生させるプログラムを持っているのだ。その宇宙の遺伝子ともいうべきものを人間は神となずけた。
 神、言い換えれば宇宙の遺伝子はあらゆるもの、あらゆる生物が内在させている可能性を自己実現するように宇宙を動かし、生物には遺伝子を与えた。その神が人間の自己実現を妨げる筈がない。だから人間を呪縛する筈が無いのだ。
 これを買わなければ祟りがあるとか、何々をしなければ祟りがあるというような呪縛は、すべて人間の自己実現を妨げる考え方だ。その考え自体が神の定義に反している。


勘とは頭の働きではなく、普段の練習の結果生まれるものだ。(中村寅吉:プロゴルファー)

環境
水は方円の器に随う(諺)
 水は形がないものなので、入れる器によって丸くも四角にもなる。人も、周りの環境によって良くも悪くもなるという事。

環境が人間の思想や価値観を決定するというのは一面でしかない。知識を得ることによって、全く対立する思想を持つこともあり得る。(Syuugoro)
 多くの人が自分の利害や立場を捨てて、真理に従おうとすれば、社会の思想的なコンセンサスは一変するだろう。今の社会は個々の利害の均衡が社会のコンセンサスを作るという考え方が支配している。しかしそこから生まれる多数派の論理、強者の論理は決してより良い選択であるとは限らないし、少数派の意見は切り捨てられてしまう。
 自分の環境に規定された経験や、自分の利害得失を越えて思想形成する人が少しでも増えることによって、その社会はより良い豊かなものとなるのだろう。(12月17日)

感受性
花は赤ん坊でも理解できる言葉である。(ビショップ・コックス)
 
大人になればなるほど、花の言葉を理解できなくなる。というより捨ててしまうのだ。世間的な価値を追いかけるようになって、そんなものには何の価値もないと思うようになる。
 しかし、感受性がなければ、自分の世界を作ることは出来ない。自分の世界を持たずに、どうして幸福が得られるだろうか。(6月3日)

虹を見ると心が躍る
 子供の時もそうだった
 大人になったいまもそうだ
 これからもそうだろう
 そうでなければ
 死んだ方がましだと思う
       (ワーズワース)

 社会人になって何かに感動する純粋さを持っていると、「いつまでも子供みたいに、成長しない」などと嘲笑する人間がいる。彼は感受性を捨てることが大人になることだと錯覚しているのだ。そして自分が捨ててしまった感動する心を見せつけられて不安になるのだろう。
 大人になっても消費的な感動、値踏みをする感動というのは持っている。初めて見たものには一応感動する。価値の高いものにはとりあえず感動する。しかしそんな感動は、つかの間の快感を得るだけで、砂に水を撒くようなものだ。
 本当の感動というものは、同じものを見て、常に新しいものを発見する感受性がなければ得られない。そしてその感動から無限の創造性と可能性が生まれてゆくのだ。
 新しいものを発見する心は天分ではない。自分の目で見ようとすれば、誰でも得ることの出来るものなのだ。(9月8日)

 

感傷
つまらないから
 あかるい陽のなかにたってなみだを
 ながしていた
 (八木重吉)

虫が鳴いている
 いま、鳴いておかなければ
 もう駄目だというふうに鳴いている
 しぜんと
 涙をさそわれる
 (八木重吉)


 不治の病に冒され、もう残された命がいくばくもなくとも、今を精一杯生きている人がいる。
 生きることの意味は喜びや悲しみを越えたところにあるように思う。悲しみを受け入れ、それに耐え、或いはそれに立ち向かい、突き進んで行く。それが真に自分の可能性を実現するものである時、それを出来ることが勇気だろう。(12月25日)

感動
感動する心を失ってはならない。感動する心を失ったら何事もなされない。(サン=シモン:臨終の時の言葉)
 
損得や勝ち負け、目先の快楽を追う人間ほど、感動する心が希薄である。それは、得を追って最も損な生き方をしているのだ。感動する心があれば、自分の世界を持つようになる。育む心、愛する心を持つようになる。だから生きがいを持ち、自分の人生を築くことができる。(7月24日)

 感動を持続させるもの。それが愛である。(Syuugoro)
 ある人は感動したことも、同じ体験を繰りかえすと、だんだん感動が薄らいで関心を失ってしまう。しかしある人は夜の浜辺で見た満天の星空に魅せられ、ついにアマチュア天文家になり、それに生涯をかける。それが愛する心だろう。
 同じ本を読むことが出来ない。同じ映画を見ることが出来ない。「何か面白いことはないか」といつも探している人、その心は全く消費的な欲の世界に落ちている。それは限りなく感動を失った世界である。(8月26日)


《き》

記憶
我々は思想を記憶することはあり得ない。記憶するのは言葉だけだ(E.アラン/仏:哲学者.批評家『幸福論』)
 つまり言葉を持たずして感動を再現することは出来ないということだ。もちろんそれには芸術的形式や表現法も含まれるしが、そのような心象を構成する要素なくして心象を再現することは出来ない。

希望
希望がもし、自分の持てる能力と可能性に発するもので、もしその希望を持ち続けるならば、それは必ず叶えられるだろう。(Syuugoro)
 
希望が、人の成功を見て、ただそれを欲しがるだけのものならば、殆ど叶えられることはないだろう。希望は必ず自分の内より発するもので、自分の持てる能力と可能性の中になければならない。そして希望は持ちつづけるならば、それは大抵実現するだろう。しないほうがアクシデントなのだ。(5月21日)

この世を動かす力は希望である。やがて成長して果実が得られるという希望がなければ、農夫は畑に種をまかない。(M.ルター)
 絶望を希望に変えるものが信仰だとある人が言った。どれだけ努力しても、どん底から逃れられない時、人はもう死んでしまおうと思うかもしれない。
 しかし目が見え、耳が聞こえて、手足が動くなら、出来ることは無数にある。自分がはぐくむことで育つものを探すことだ。それを見つけたら、絶望は希望に変わっているのだろう。(8月7日)

 断念することをほんとうに知っている者のみがほんとうに希望することができる。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできぬ。(三木清)

 努力をしても得ることの出来ないもの、努力をすれば得ることが出来るかも知れないもの、、そして自分の意志と努力があれば得ることのできるもの、それを区別出来ることが最良の人生を獲得する道だ。それを知ることが思想の目的である。
 得ることの出来ない現実に対しては「断念し、現実を受け入れる心」を持たなければならない。 努力をすれば確実に得ることの出来るものに対しては勤勉と忍耐を持って確実に手にいれるようにしなければならない。
 そして得ることが出来るかも知れない希望に対しては、「最善を尽くして、天命を待つ心、失敗しても動揺しない心」が必用だ。それが出来る人は小さな英雄である。(12月24日)

逆境
逆境の中にあって、最もゆるぎない思想は理想主義である。(Syuugoro)
 
理想主義とは、自分も含めて最大多数の人々が、持てる可能性をより良く実現出来る社会や環境、人間関係を実現しようとする思想である。
 それはもともとすぐに叶えられるという考え方ではないから、目先の利益不利益に動揺することは無い。そして逆境の中にあって進む方向だけははっきりしているのだから迷うことがない。理想主義が生きるために最も有益な思想であることは疑う余地がない。(1月12日)

教育
処罰が恥じる心を起こさせないなら教育はすでにその力を失っている。そして処罰は単なる暴力と考えられ、子供はこれを見下し、軽侮する。(フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』)
 管理教育が教育の本義に反することは誰も否定できないだろう。それならなぜそれをするのか。どう言い訳しようと、これまで日本はそれを平然とやってきた。「教育とは国家のために役に立つ人間を作ることである」と考えている人間が相変わらず政治を行っている。そして、その矛盾が明らかになってきたら、それを克服するというのでなく、単に管理教育のたがを緩めるという対応をする。それはますます教育の混迷を深めるだけだろう。(12月2日)

いかなる臆病太郎でも、「お前は強いぞ」といつも励まされたら、卑怯な真似は出来ないものである。(犬養毅)
 教育というのは自己実現する意欲をを与えることである。それが出来れば知識も技術も倫理観も、放っておいても子供は独りでに身に付ける。(11月22日)

ある事柄、ある人々への愛と義務感によって働きなさい。・・・早くから自分自身を超えて、自分だけのために生活しないということが、青年を向上させ、強健にさせ、事に屈せぬ力を与える唯一の道である。(ヒルティ『幸福論』)
 少年に「奉仕活動」の義務を負わせるという論議が盛んだが、人や社会の為に働くことを強制してしまったら、そこから得られるものはすっかり色褪せてしまうだろう。そこへ自覚を導くことが教育の使命である。

生まれて学ばざれば、生まれざるに同じ。
 学んで道を知らざれば学ばざるに同じ。
 知って行わざれば知らざるに同じ。(貝原益軒)

成長というのは自己決定できる能力が増えることである。(トインビー)
 自己決定する能力を与えるのではなく、いいなりに服従する人間を育てようとする大人がいる。
 競走馬のようにコースを前に向かって走ることしか出来ない人間を育てようとする大人がいる。
 いつまでも親から離れなれない子供に育てて喜んでいる親がいる。
 そういう大人のエゴが社会をどれだけ退廃させ、危険な状態にするか、
 政治家や教育者、親達は深く反省しなければならない。(8月20日)

人は教えることで学ぶ。(セネカ/古代ローマの哲学者)
 
なにも自分がよく知っているからというのではなくても、自分の経験や知識、思想を人に話すと、そうすることによって自分の持っているものが整理されるし、相手の意外な質問によって、今まで気が付かなかったことを発見する。そしてさらに自分の知識を深めることが出来るだろう。
 ソクラテスは対話によって真理を発見することを『産婆術』と名づけ、自分の哲学的実践の根本にした。彼は、相手がまだ未熟で経験の浅い人でも、けっして下に見て話をせず、同等に誠実に話しかけた。そして話の展開の中で自然と相手に気付かせ、その道筋を作ることによって、ソクラテス自信もさらに成長するという方法で、自分の哲学を完成させていったのである。(8月25日)

人間を高尚にすることのみが、あらゆる害悪を除いて、社会の基礎を強固にする。(長田新/教育学者)
 知識と理解力だけを詰め込んでいる教育が、どれだけ人間としての高尚さを身につけさせているだろうか。「高尚やな。近寄れんわ。」という侮蔑の言葉が氾濫している。正義感を価値と考えている日本人は1割しかいないという社会。それは「競争主義」「利益至上主義」「快楽主義」という即物的イデオロギーで国民を煽り焚き付けた戦後の政治家や企業家の責任だろう。(10月9日)

小さい時に自分の良くを抑えることを習わなかった人は不幸である(カント)

共感
唐土とこの国とは、言異なれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じなるべきにやあらむ。(紀貫之『土佐日記』)
 心の感動というのは、他の人との共感に発しているのだろう。「真」「善」「美」も、生きがいも、幸福も、みな「共感する心」によって成り立っているのだ。同じ月を見ている唐の人も、きっと同じ心で見ている筈だという感受性は、美意識の確信というだけでなく、愛や平和への確信でもある。(5月24日)

人の愛を得たいと思うなら、人の心を理解する能力ではなく、人の心に共感する能力を養わなければならない。(Syuugoro)
 
まじめで教養もある経済的にも中流以上の家庭の子供が、ドロップアウトして社会に適応できず不登校になったり、事件を起こしたりするケースが非常に増えている。それは人を「競争主義」や「効率主義」で煽りたてる今の社会の問題もあるが、そういう風潮の中で「感じる能力」ではなく「理解する能力」のみを与えようとする親や教師の育て方に大きな原因がある。
 どれだけ正しい考えでも、理屈だけでは人を動かすことは出来ない。共感があって初めて人の心は動く。共感する心が育たなければ人の心につながることは出来ない。(11月7日)

競争
「競争は正義だ」という人に聞きたい。負けた半分の人間が「つまらないから、競争はもうやめた」と言ったら、どうして彼のやる気を出させるのか。(Syuugoro)
 
企業の中の社員同士の競争が、企業の発展をもたらすという考えは、詭弁中の詭弁だ。戦国時代の武士の倫理観を見ても「抜け駆け」は厳しく戒められたが、競争を煽れば、必ず抜け駆けする者を生じる。企業内の社員同士の競争を扇動することは、集団の統率を乱すだけでなく、社員が協調して生み出すエネルギーを奪ってしまう。

人と争って快楽を手に入れようとする心と、自分の世界を持つということが両立するだろうか。そして自分の世界を持たずに幸福になるということがあるだろうか。(Syuugoro)
 
貪欲というのは最大の貧困である。世間的な価値を追いかけて、人と争わなければ自分の居場所を作れないという人間は、どれだけ人と争っても満足を得ることが出来ないだろう。どれだけ高価なものを手にいれても、その使い方を知らなければ何の満足も得られないし、どれだけ高い地位を得てもその権限を行使する能力がなければ何の仕事も出来ない。ただ虚栄を満足させるだけである。
 使いこなせないものを手に入れるより、自分が持っているものを使いこなす能力を身につけることこそが真に自分を豊かにすることである。(3月16日)

ルールのない競争は排他性と敵愾心を助長するだけで、人間関係を破壊してしまう。(Syuugoro)
 「競争は正義」という価値観が社会に蔓延している。そしてそれが今の日本人をひどく排他的にしてしまっている。10人のうち1人が、人を追い落として出世しようとしたら、残りの9人もそのやり方に巻き込まれてしまう。社員の競争によって、いいなりの服従心を植付け、果てはサービス残業や手当てなしの休日出勤、有給休暇の自粛などが当たりまえになって、自分の企業にとっては利益になると思うから、経営者は社員を競争に煽り立てる。しかしそれは排他的で自己中心的な面従腹背の社員を育て、企業目的ではなくボスに迎合するだけの「同調競争」を始めて結局企業を危機に追いやってしまう危険を生み出すだろう。
 これまで日本を発展させてきたのは、決して「競争原理」や「利潤原理」ではなく、古来から日本人が大切にしてきた「勤勉」と「誠実」であった。「競争」で人を煽り立てれば、必ず人はずるさを身につけ、裏口を探し始めて「勤勉」や「誠実」を失ってしまうだろう。(4月6日)

今日の日の大切さ
この秋は雨か風かは知らねども きょうの努めの田草刈るなり(二宮尊徳)
 二宮尊徳は幕末の勤皇か佐幕かというイデオロギーの対立の時代に生きた。しかし彼はそうした政治闘争には決して加わらず、発言もしなかった。ただ黙々と農村の復興にのみ働いた。せっかく農村の復興のために努力しても、自然災害や戦争のために水泡に帰すのかも知れない。しかしただ秋の実りを信じて、今日の日を精一杯生きようとした。(4月29日)

過ぎた日は帰らない。未来は当てにならない。しかし現在は君のものだ。(不詳)
 
会社をクビになって、友達もみんな失って、明日からどうして生きてゆけばいいのかもわからない。しかし、やりたい事が今も変わらずあるのなら、それは絶望ではない。今持っている自分の可能性をゼロからやりはじめれば良いのだから。
 人生の困難や挫折に遭遇したとき、行き方に迷わないための羅針盤を持つことが思想を持つということだろう。(5月26日)

【兄弟】
敵となった兄弟は、どのような敵よりも悪い(ユダヤ諺)

虚栄
自分が持てるもの以上の評価を求めてはならない。虚栄が膨らめば膨らむほど、自分の世界は小さくなってゆく。(Syuugoro)
 虚栄によってつくられた満足などは一人になって観客がいなくなれば影のように消えてしまう。定年退職で会社をやめた時、虚栄を追いかけた人はそのことを思い知るだろう。自分の世界を持つ者は、ただ一人の理解者が居ればそれで充分幸福を得ることが出来るだろう。(7月13日)

恐怖
終わりのない恐怖よりも、恐怖のない終わりの方が良い。(シル中佐)
 シル中佐はナポレオンと戦い敗れたプロイセンの軍人である。勇気というのは、恐怖を感じないことではなく、恐怖を越えて目的を遂行しようとする意志であるが、死を決した覚悟がそれを可能にするのだろう。
 戦場でなくても平和で平凡な人生にもやがて死は訪れる。そして80年も生きた老人が、若い20才の兵士よりも死を恐れている。結局、自己実現といえる価値ある目的を遂行しているという自覚だけが死の恐怖を乗り越えさせるようだ。


《く》

苦悩
苦しみと悩みは、大なる自覚と深い真情の持ち主にとって、常に必然的なものである。
 (ドストエフスキー)

 喜びにだけ自分の感受性を働かせるなどということは出来ない。真剣に生きようとすれば悲しみにも、苦しみにも木の葉のように心は揺れるだろう。悲しむことも、苦しむことも生きることである。誰かが「雲や嵐なしにはいかなる虹もあり得ない」と言っていた。その嵐の中で希望という羅針盤を頼りに人生の大海原を航海してゆく。それに耐える船を作ることが人の成長なのだろう。(12月12日)

苦しんで強くなることがいかに崇高なことであるかを知れ。(ロングフェロー)

 しかし、苦しむことが、自分の可能性を広げるとは限らない。むしろ苦しみの中を堂々めぐりしている人の方が多い。そんな苦しみは不幸でしかないだろう。
 また苦しみから逃れるために、安易な快楽で紛らわせたり、他のことに目をそらしたりするひとも多い。それも結局堂々めぐりでしかない。
 苦しみを克服するために、創造性を持って立ち向かうこと、そうして新たなアイデアを生み出すことの中で、初めて自分の世界は広がり、成長するのだろう。(1月30日) 

雨が降るのは聞こえるが、雪が降るのは聞こえない。軽い悩みは大声で叫ぶが、大いなる苦悩は沈黙する。(アウエルバッハ)
 本当に苦悩している人は沈黙しているから目につかないことが多いだろう。しかしそれはもっとも人の愛を必要としている人だ。やがて彼は人の愛に助けられて、苦悩を克服し最も強い価値ある人格を獲得するだろう。僕は彼を助ける人になりたいと思う。
 愛とはただ人を助けることではない。人を育むことによって自分も成長している。そして彼が立ち直った時、彼はその愛でさらに多くの人々を助けるのだろう。

苦労
苦労こそ人生の真の姿である。我々の最後の喜びと慰めは苦労した過去の追憶にほかならない。(ミュッセ/フランスの詩人)
 
苦労というのは、何ごとかを為そうとするからするものだ。人の一生が目の前に立ちはだかる岩を毀ち除いて、少しでも理想に近づこうとするものならば、それは苦労の連続に違いない。しかし同時にそれは、宛がい扶持の快楽などでは決して得られない真の喜びであるに違いない。
 そして
自分に出来る精一杯のことをやり遂げたら、苦労も必ず良い思い出となって残る。そしてその記憶を反芻する中に、さらに新たな目的が生まれる。充実した人生とはその繰り返しだ。そして年老いて、精一杯生きたという充実感を持つことが出来たら、ゆっくり休むように死を迎えることが出来るのではないか。

底荷のない船は不安定でまっすぐ進まない。一定量の心配や苦痛、苦労はだれにとっても必要である。(ショーペン・ハウアー)

苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし。(徳川光圀『処世訓』)


《け》

芸術
 芸術はそれ自体が目的ではない。人間性を表白させるための手段である。
 (ムソルグスキー/ロシアの作曲家)

 僕にとっての芸術というと、何よりもクラシック音楽だった。子供の頃から親しみ大学でもオーケストラに入って常に生活の中に音楽があった。
 ある時は、モーツァルトを聞いていて、本当に生きている喜びを感じたこともあった。それを心に与える酒だとか、快楽的な幻想を与える手段だとか言うが、そんな軽いものではない。言ってみれば芸術は真実を直感することの出来る唯一のものだと思う。
 言葉ではいかに論理的に組み立てても、人間の精神現象の真相を表現することは出来ないだろう。真相は直感でしか得ることが出来ないという意味では、禅に通じるのかも知れない。
 一つの音楽を聴いて、自殺を考えていた人が絶望を克服することがある。その力は教義のない宗教というべきかも知れない。(8月27日)

軽蔑
人をあざける者は同時にまた他にあざけられることを恐れるものである。(芥川龍之介)
 つまりは自分の世界を持たず、世間的な価値を追うことしか出来ない人間の姿である。人に勝ち、人を見下さなければ自分の存在感が感じられないとしたら、一人になったら何も無くなってしまう。
 人は一人では生きてゆけないというが、人は結局一人で死んでゆかねばならない存在だ。自分の内面に自分の城を持っていてはじめて安定した自分を得ることが出来るし、そういう自分であってこそ、本当の友人も得ることが出来るだろう。そういう自分になれば、決して人をあざけったり、人のあざけりを恐れたりしない。(4月28日)

人は軽蔑されたと感じたとき最もよく怒る。だから自信のあるものはあまり怒らない。(三木清)
 自信というのは人との競争に勝てる人ということではない。自分の持っている力を発揮することが出来ているという充実感だ。自分に勝つことが出来れば、すべての人が自信を持ち、つまらぬことに怒ることの無い人格を得ることが出来る。(9月13日)

人が軽蔑する事柄に成功することは立派なことだ。それには他人と自分とに打ち勝たなければならないからだ。(モンテルラン:仏小説家)

女は軽蔑している人間から侮辱されても、軽蔑の思いを深めるだけで、たいして傷つかないのかも知れない。
 しかし男は軽蔑している人間から侮辱されると、よけいに傷つき我慢できないように思える。(Syuugoro)

 男の同性に対する競争本能や排他性というのは、決して後天的なものではなく、先天的な性差のように思える。それが戦争を引き起こし、社会を破壊してしまう原因ともなり、社会を建設するエネルギーになることもあるのだろうが、大人になりきれない幼児性にもなっている。
 三島由紀夫は「対面を傷つけられた怒り」が男の最も大きな怒りだと言っているが、上位のものからの侮辱は我慢できても、下位の者からの侮辱は我慢できない。そういう男の本能が、しばしば歴史に汚点を残すような事件を引き起こす。
 こうした男の幼児性というのは、ただ確固とした思想を持つことによってのみ克服できるようだ。(1月26日)

 

結婚
結婚とは、二人で生活する空間を築くことだから、築くことの喜びを知らない人が結婚すれば不幸になるだけだ。(Syuugoro)
 よく結婚は恋の終わりだとか、人生の墓場だとか言う。それは恋が、まだ得られぬ人への憬れ、執着だとすれば、結婚によって相手を得た時に終わるのは当然だろう。しかし、もともと人は親の家庭から自立して、新しい自分達の生活する空間を築きたいと思って結婚するのだから、家庭を築くということに喜びを持たない人は、そもそも結婚など考えるべきではないのだ。(1月27日)

結婚とは、二人で生活する空間を築くことだから、築くことの喜びを知らない人が結婚すれば不幸になるだけだ。
 よく結婚は恋の終わりだとか、人生の墓場だとか言う。それは恋が、まだ得られぬ人への憬れ、執着だとすれば、結婚によって相手を得た時に終わるのは当然だろう。しかし、もともと人は親の家庭から自立して、新しい自分達の生活する空間を築きたいと思って結婚するのだから、家庭を築くということに喜びを持たない人は、そもそも結婚など考えるべきではないのだ。

潔癖
水至りて清ければ魚なく、人至りて察すれば徒なし。(『文選』)
 水がきれいすぎると魚が住まないように、あまりに人を洞察する力がありすぎるとしたってくる人がいない。とくに日本の社会では論理で人を負かす人は嫌われ孤立する。「道理より上意と合意が優先する」という日本人の性格が社会の閉塞状況をもたらしているのは確かだが、易きに就こうとする人間の弱さに寛容でなければ、道理を社会に広げることは出来ないし、道理が常に例外を持っているということも知っていなければならない。

権利
権利とは火のようなもので、包み込もうとすると燃え出す。(マダガスカル諺)

謙虚
◆うわべだけの謙虚は最も手の込んだ虚栄である。(ラ・ブリュイエール『人さまざま』)
 卑屈と謙虚の区別のつかない人は、相手が自分より下だと見ると、横柄になったり、尊大になったり、軽侮したりします。本当に謙虚な人は上に媚びることもなく、下を侮ることもありません。あるがままに人の価値を受け入れるということが謙虚ということでしょう。(11月19日)

実るほど頭を垂れる稲穂かな。(諺)
 吉川英治の「我以外皆師なり」と同じ心だ。謙虚というのは、何も人に不快感を与えないのが目的ではない。それは最も良く学ぶ術である。

謙虚さがその人の価値に及ぼすものは、陰影が絵の輪郭に及ぼすものと同じだ。謙虚さによって、力強さと起伏を人の価値に与えよ。(ラ・ブリュイエール)
 
謙虚というのは、自分の利害得失を超えて、人の言葉の中に真実を見出すことの出来る能力である。処世術で、上辺だけ人に合わせることではない。まして卑屈に強者におもねることではない。
 自分を批判する人の言葉の中に真実を見出すことが出来る能力は、もちろん自分を成長させる力となるのだが、その為には人の批判に耐えられるだけの自分の大きさがなければならない。そして人の批判を理解し受け入れるだけの思想がなければならない。ただ忍耐力や精神力でその時だけ人の言葉を我慢して聞くというのではだめだ。(12月20日)

我以外、皆師なり。(吉川英治)
 考えてみると、吉川英治も山本周五郎も松本清張もみな小学校しか出ていない。それでも日本人の多くは学歴の無い者を蔑み、有名大学の肩書きを得るために必死になっている。そんなところに学ぶ心が育つはずはない。「我以外、皆師なり。」というのは単なる謙虚さではなく、本当に学ぶ者の姿勢だろう。

賢明であればあるほど、人は謙虚に他人から学ぼうとする。(ロジャー・ベーコン)
 吉川英治は「我以外、すべて師なり」といっているが、自分と相容れない考えをもっている人から学ぶというのは、簡単なようで大変なことである。自分が価値判断の基準にしている認識をいったん白紙に戻す作業が必要なわけだから、相当な自制心と勇気が要る。謙虚であることは、つまりは自制心と勇気の所産である。謙虚に人から学ぶことによって、それだけ自分の認識は広がり自分を成長させるのであるが、それはあくまで成長するべき自分という核がなければならない。自分の見識を持たず、単に人の意見に同調する人間は謙虚に見えても、それはただの損得で動く要領主義である。(1月16日)

言動
一度言ってしまった言葉は二度と口にはもどらない。(メナンドロス)
 
これは誰でも知っていることなのだが、人はしばしばつまらぬことを言ってしまう。自分の中にある欲望や人に対する敵意や嫉妬によって、ただその時の自分の心理を安定させるだけのために、相手にも自分にも利益にならない破壊的なことを言ってしまうのだ。心理学者のフロイトは「衝動のあるところに自我をあらしめよ」と言っている。自分の衝動を観察できる理性を持つこと、そして衝動的な行為を超えた自己実現の欲求を育てなければ、人間関係が壊れてしまうだけでなく、自分を成長させることもできない。(11月29日)

賢人の舌は胸にあり、愚か者の心は口先にある。(聖書)

人はいつも行動するときより、口で言うときの方が大胆である。(シラー)


《こ》

 


恋をして恋を失った方が、一度も恋をしなかったことよりましである。(テニスン)。
 愛されることより、愛することで人は大きくなる。たとえ失恋しても、それは自分の人生を形作る貴重な経験となるだろう。そして、たとえ言葉を交わすことも出来なくなっても、その人を育む気持ちでいる心を持つことが出来るようになれば、それはもっとも価値あるものを得たことになる。(5月14日)

恋は守銭奴をも、束の間の詩人となし、人間にたち戻させる。(Syuugoro)

 見えるものしか信じない。損得と勝ち負けしか価値判断の基準を持たないという即物的な男でも、女に恋をした時求めるものは、肉体的な快楽以上に相手の心だろう。その女のあり方によっては、人を信じることのない猜疑心の塊のような男も、人を信じ、人に良かれと思う人間になることがある。

恋愛を一度もしたことのない女はよく見かけるが、恋愛を一度しかしたことのない女はめったに見かけない。(ラ・ロシュフコー)

いかに見栄えのしない草でも春とともに花となるように、人は恋することによってそれ自身を花咲かせる(野上弥生子)

 自分が天から与えられた種子を育て、花を咲かせることが出来れば、それが悔いない人生だろう。人に憧れ、人に恋する気持ちは、命を育む光のように自分の個性の種子を芽吹かせ、育て、花開かせる。(12月27日)


 ◆恋が単なる欲望に堕するなら、
  それはただの消耗に終わってしまうだろう。
  しかし、もし恋する人を育み生かそうと思う愛に変わるのなら、
  たとえそれが片思いであったとしても、
  恋をしないことに比べたらはるかに自分を成長させるだろう。  (Syuugoro)
(12月26日)


好意

ついた餅より心持ち。(諺)
ご馳走してもらった餅よりも、それをご馳走してくれた相手の気持ちがうれしいということ。

私達は何事にも反抗できる。しかし好意には刃向かえないものだ。(ジャン.J.ルソー)
 
だからこそ、まず自分から人を好きになるということが、大切なのだ。自分の心理を安定させるために人を軽蔑して陰口を言う。その時はそれで自分の心は落ち着くかも知れないが、その結果得るものは何もない。ただ人の自分に対する好意を失うだけだ。(9月2日)

幸運
 幸運は勇者に味方する。(ベルギリウス)
 
勇者とは利己的な損得や勝ち負けに執着せず、真偽・善悪に従って、必要ならば自己の安全や利益を犠牲にしても、自分や家族、友人・仲間・社会の自己実現のために行動できる者のことだろう。
 そして勇者であることの最も大きな要素は、何よりも純粋な感受性を持っていることである。純粋な感受性を持っていればこそ、真実と解決の方法と、運をつかむチャンスを見逃さない目を持つことが出来る。
 逆に自分の利己的な欲にとらわれ、そのために偏見と先入観に縛られた人には、かりに幸運が傍にあっても、偏見と先入観のために見逃してしまうだろう。(5月26日)

後悔
我々の悔悟は、自分の犯した悪事に対する後悔というよりは、そこからわが身にふりかかっててくるかも知れぬ禍に対する心配なのだ。(不明)
 

向上心
あの人は向上心があるといっても、その人が人や社会を生かし、育む心を持っているのか、それとも人と争い、奪う心を持っているのかでは全く反対である。(Syuugoro)
 人の上に立つ人間には、しばしば人と争い、奪い、押しのけて成功しようとする人間がいる。社会的な責任や義務を行うという自覚が希薄で、ただ利益のみ追求する企業家や、枚挙にいとまがない汚職政治家・高級官僚などがそうである。
 しかし彼らがいくら出世しても人と争い、奪い、押しのけた挙句手に入れたものなどは社会的に見れば何も生み出してはいない。それは虚業に過ぎないだろう。
 そもそも「利益追求」というものは、社会的な価値を生み出す限りにおいて正当化されるものだ。いくら権謀術策に長けて、それで富を築いても単に人のものを奪っただけのものならば、そんな人間に何の価値があるだろうか。いない方が社会のためという人間だ。(5月7日)

公正

法の決めたもの以外は、公正が正義である。(アリストテレス)

 法を遵守するだけでは、人としての義務が果たされたことにはならない。学校の教師が生徒を依怙贔屓(えこひいき)したり、会社の上司が、自分の出世や利益のために部下を利用したり、自分がされたら嫌なことを人にして反省するどころか、それで優越感を感じたりする、そんな人間が氾濫したら皆んなが不幸になってしまう。
 孔子が2600年前に言った「己の欲せざることを、人に施すなかれ」という考えは洋の東西を問わず、倫理の第一にあげられるものだろう。その考えを持たない人間は、いくら法律を守っても、倫理を持たない人間という意味で、人間とはいえない。倫理的であろうとするのは、性悪説であれ、性善説であれ、後天的であれ、先天的であれ、ともかく人間の本性なのだから。
 自分にも人にも公正であるというのは、なかなか難しいことだが、それは自分を成長させ、自己実現するためにも常に持っていなければならないことだ。そして同等の権利を持つ人に対して、不公正・不平等な処遇をするというようなことは、倫理的には犯罪というべきだろう。
 戦後の日本人は素朴に善悪を考えるということを笑う体質を身につけてしまった。その背景には利益至上主義や競争原理を正当化する戦後の支配イデオロギーがある。そしてその大人の考えを子供がまねて、どこまで行くかわからないような「いじめ社会」を作ってしまった。
 倫理において真理というのは常に素朴なものである。それを意図的に複雑に見せる者には、必ず言えないエゴセントリックな魂胆がある。(6月18日)

 

人目につく公平は、取り繕った不公平だ。(コンスタン『随想集』)

狡知
悪魔の最もみごとな狡知は悪魔はいないと信じ込ませることだ。(ボードレール)

幸福
目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる。(アンドレ・ジイト『田園交響楽』)
 
ハンデを背負いながら自己実現している身障者がたくさんいるのに、どうせ自分は何にも出来ないと自己限定する人がいる。目が見える、耳が聞こえる、手足が自由に使えるということが、どれほど多くの可能性を持っているか考えてみれば、これから出来ることは無数にあるだろう。(12月22日)

幸福は自足する人のものである。(アリストテレス『エウデモス倫理学』)
 
自分の世界をもって、自分が持っている可能性を形にすることが、自分の生き方になれば、自己実現することが幸福になる。しかしそれが人の認める世間的な価値でないと、大抵人は「自己満足だ」とか「そんなものが何の役に立つ」とか言う。それに惑わされてはいけない。
 自分の世界を持たなければ、どれだけ世間的な価値を手に入れても幸福には届かない。ただ目先の快楽を手にするだけだ。そしてそれは束の間の満足とともに、また次の快楽を探してさ迷わなければならない。自分の世界を育み、自分と同じように自分の世界を大切にする人を探せ。そして自分の世界の価値を認めてくれる人を友とせよ。

我々から奪えないただ一つの幸福は、良いことをしたという喜びである。(アンティステネス)
 
同じ喜びでも、手に入れたら、消えてしまうような快楽では幸福感とは言えない。成し遂げたという充足感を感じられる喜びが幸福感である。それは「作る心」「育む心」が無ければ得られないものだ。
 良いことをするというのは自分に対しても、他人や社会に対しても、それが持っている能力や可能性の種子を芽吹かせ、育て実らせるということだろう。何かを作った。育て実らせたという体験は、どれだけ時間が経っても、財産として自分の中に残っている。そしてその記憶を反芻するごとに幸福である。(7月2日)

幸福は愛他心から生まれ、不幸は利己心から生まれた。(仏典)

生えて伸びて咲いてゐる幸福(種田山頭火)
 
山頭火は名のある花ではなく旅の行きずりの道端の雑草に目を向ける。雑草は雑草としてあるがままに雑草を生きている。山頭火はまた「閉めて一人の障子を虫が来てたたく」と詠む。虫もあるがままに虫を生きている。人もあるがままに自分の個性を生きるべきだと思う。しかし人々は自分を生きるのではなく、世間を生きようとする。それに耐えられず彼は放浪の旅に出た。
 封建的な足枷が無くなった筈の現代でも人々は強制もされないのに、相変わらず世間を生きている。何の為の民主主義なのだろうか。(8月30日)

神が私に与えてくれた能力と可能性。それを実現することが幸福の必要充分な条件だ。(Syuugoro)

欲しいものを手に入れた。それはただの快感だ。本当の幸福は快楽と違って自己実現する中にしか存在しない。(Syuugoro)
 
幸福と快楽の区別のつかない者は、ひたすら快楽を追って、不幸の中に投げ込まれてしまう。なぜなら快楽は自分が生み出すものではなく、外から与えられるものだから、一つの快楽が去ったら次の快楽を求めざるを得ず、結局砂に水を巻くようにあてどなく快楽を求めてさ迷う事になるからだ。

手に入れることが出来ないものを欲しがるのではなく、今、自分が持っているものを愛する心が幸福への道だ。(Syuugoro)
 高い機械を買いながら、手に入れたら2、3度使って、その後はあることも忘れてしまうような人間がいる。そんな人間が次々使いこなせないような高い物をかって、放ったらかしにする。その人間は決して幸福ではないだろう。
 昔読んだ本を何度も繰り返し読む。そうすると読むたびに新しい発見がある。新しい発見がある度に自分は成長しているのだ。
 多くの人は上へ上へと、新しいものから新しいものへと幸福の材料を探す。しかし下に太い根を張らなければ決して大きな木を支えることは出来ない。今、自分が持っているものをより深め、自分の血肉にすることこそが大きな木へと自分を成長させることなのだ。

幸福論を抹殺した倫理は、一見いかに論理的であるにしても、その内実においては虚無主義にほかならぬ。(三木清)
 三木清を獄死させた戦前の軍国主義は国民に虚無主義を強要した社会だった。その軍国主義者の後継者である自民党が今も日本を支配しつづけている。その矛盾が教育の荒廃という形で噴出しているのだ。真に人の幸福を考えられる社会を作るには、彼らにまかせてはおけない。
 個人の幸福が無視され、帰属集団である国家のためにすべてを犠牲にせよという倫理は、結局は一部の特権階級の幸福に利用される、巧妙にカモフラージュされた奴隷制でしかない。その「滅私奉公」という自発性を強要する歪んだ封建思想は戦後も「企業一家」という形で生き残っている。
 TQCや生産性向上運動などの小集団運動、社員に企業のスローガンや挨拶を大声で言わせたり、自主的にサービス残業や休みの日に仕事を家に持ち帰る「ふろしき残業」をする風潮を作り出している姿は、まさに戦前のファシズムの体質がそのまま戦後の企業に持ち込まれたものである。
 しかしこの日本の矮小な集団主義が戦後も行き続けていることは、保守的政治家や企業家のみに責任があるということにはならない。
 自分で自分の幸福を考えることを放棄し、自分の個性に発するのではなく、世間的な価値を追いかけることだけを自分の人生観にすり替え、帰属集団に追随して、集団の中で優位な地位を占めることだけを目的に生きるような多数の日本人の価値観は、彼らが自分で自分を呪縛し、奴隷根性を再生産している結果である。
 彼らに幸福論などは無用である。それは世間と帰属集団が決めるからだ。後はただ遊び仲間との飲み会やスポーツ、小旅行などの目先の快楽を手帳のスケジュールに埋めることが出来ればそれだけでよいのだ。
 使い捨てに兵士が戦地に送られて行った軍国主義の時代でも、快楽を処理するための「従軍慰安婦」だけはいつも用意されていた。そして慰安婦が騙され強制連行されて来たと知っても何も心が動かない人間になっていった。それと同じ構造が戦後の日本人にも引き継がれている。考えることは世間や集団に託してしまっているから、目先の快楽がいかに不道徳なものでも感じる力を失っている。そしてその快楽に溺れることで、「企業の論理を自発的に遂行することを強要される」という欺瞞の毒を中和させているのだ。(11月15日)

人間のなすべきことは幸福追求ではなく、幸福を授かるにふさわしい人になることである。(カント)
「一生、幸せでいたければ、正直であること」という諺がある。目先の欲望を実現しても、それが一生持続することは無いのだ。自分に正直であると同じように人に正直であること。自分を育てようとするように、人の自己実現を助けること。自分を愛するように、人の中に愛するものを見つけること。そして人と一緒に築ける何かを見つけること。そうした内面の成長の中に人の幸福は築かれるのだろう。(2月2日)

本当の幸福を考えず目先の快楽を追う者を決して愛するな。最後は必ず不幸になる。(Syuugoro)
 
幸福を求める心は、「築く心」、「育む心」だが、快楽を求める心はただ「消費する心」、「奪う心」である。消費する心は、自ら生み出して充足することを知らないから、どこまでも欲しがり、満たされることがない。
 遊びのヒーローが、ただ目先の快楽を追うだけの人間なら、どれだけ彼がかっこよくても幸福を与えてくれることはないだろう。(6月16日)

最大多数の最大幸福(ベンサム)
 すべての人が自分の持っている可能性を実現出来ている社会は、最も豊かで最も強い国に違いない。だからこそ民主主義は勝利するのだ。
 ところが昨今の日本では、またぞろ低学歴の人を蔑視し、民主主義を蔑視し、能力のある、あるいは支配層に居る人間だけで政治を行なわないといけないなどと平然という人物がオピニオンリーダーになってテレビなどで面妖な論陣を張っている。
 太平洋戦争で日本が負けたのは、日本の物量ではない。民主主義に負けたのだ。もし物量が劣っていただけで、道義としては日本に理があったのなら、必ず日本に味方する国が出てきて、物量を補ってくれた筈だ。(8月29日)

一杯の茶のためには、世界など滅びてもいい。(ドストエフスキー『地下生活者の手記』)

自分の心の拠り所、居場所を、一杯の茶の中に見出す。結局、幸福といのは心の中にあるのだろう。学歴や社会的な地位、名声、金の中に幸福があるという人間も、客観的に見れば、彼を幸福にしているのは、物を得ることで自分の心理に快感を与えるからである。物に執着することで、自分の内面的な空間を著しく狭めてしまった人間、それが昔は「守銭奴」といわれ、現代では「現実主義者」といわれる人間の正体だろう。
 人間の内面の世界は、外の世界と同じくらい、あるいはそれ以上の空間の広さを持っている。それを捨てるというのは自分の人生も、幸福も捨ててしまうということではないか。

傲慢
 卑屈と傲慢は同じ心理の裏表である。(Syuugoro)
 多くの日本人は生まれた時から、競争意識を煽られ、相互監視の目にさらされて育つから、集団の中での自分の地位にしか自我の安定を得られない。だから自然に上意の者に卑屈になり、下位の者に傲慢になる。そして集団の権力に依存し、組織や権威にたかるようになる。
 日本の企業や保守主義者は、競争原理と相互監視による労務管理を「日本式経営」だとか言って自画自賛しているが、こんなものは精神文化の後進性であり、人格の小児性でしかないことは明らかである。
 このような日本人の、組織や権威への依存心は、個人の自立心に変えなければならない。そして「卑屈」を「謙虚」に、「傲慢」や「優越意識」を「自尊心」に変えるようにしなければならない。さもなければ、日本人はますます世界に通用しない民族になってしまうだろう。(12月16日)


着物を洗うように心を洗え。(アラビア諺)
 心の中は人には見えないと高をくくっている人がいるが、見えないのは本人だけで人の欲というのは傍の人からは丸見えになっていることが多い。外見を飾るより内面を豊かにするということは他人のためではない。自分の人生を豊かにすることなのだ。

心は嘘をつくことができない。(ラテン諺)
 喜びや悲しみの感情の希薄な人間ほど快感や不快感の起伏が大きい。冷酷な人間が一見無表情を装っても、その不快感はやはり表情に現れる。セールススマイルが染み付いたような人間でも、やはり内面は表情に現れている。話に巻き込まれている時は騙されることはあるが、傍観者として見ているとはっきりとその人間の心は見えるものだ。少なくとも我々凡人には心の内を隠すことなど出来ないと知るべきだろう。

心の持ち方
除き去らねばならない心の持ち方が三つある。「あきらめ根性」「みてくれ根性」「ぬけがけ根性」である。(山代巴)
 
日本人の多くは世間的価値を追いかけて自分の世界を持とうとしない。損をしないように生きると考えているのだろうが、その生き方はいつも世間を気にする緊張感の中に身を置いていなければならず、自分の個性を実現したという充足も得られない。

心の美しさは美貌と違って擦り切れることがない。そこには生命があり、絶えず新しくなる。(ジャン.J.ルソー)
 「今楽しければそれでいい」と若者は言うが、その考えで人生を80年を生き続けられる筈が無い。美しく生きることを知れば一生迷うことはない。

【志】
人から煽られたり、強制されたりしないしてはならないが、物理的な命よりも、もっと大切なものは精神的な命、「志」である。(Syuugro)
 ただ長生きをして、その時間を快楽で埋めようとする人間は本当に幸福だろうか。世間的な価値を追いかけるだけで、自分の世界を持たない。自分の持てる可能性を実現する喜びを知らない。
 人は必ず死ぬ。その命を、自分を最も生かせることに、そして生かせる時に使う。死ぬことによって、自分の人生の目的が完成するようなことに、自分の命をなげうつことは、自己犠牲でも、悲壮でもない。それは自分の命を自分で支配出来たということである。

コスモポリタン
我々はアテネ人にあらず、ギリシャ人にあらず、世界市民である。(ソクラテス)

 2500年経った今日でも、相変わらず、敵があろうがなかろうが、国益、国防と煽り立てる連中が政権を握っている。彼らは2500年経っても同じことが言われるほど人間の本性は変わらないと、国益、国防を正当化するためにソクラテスの言葉を逆用する。しかしもし過去に国家、集団のエゴと戦う勢力がなかったならば世界はとっくに滅んでいるだろう。

個性
自分の世界を持たずに、自分の人生を築くことは出来ない。自分の人生が無いのに、幸福になることなどあり得ない。(Syuugoro)

自分の個性が人の要求に合わないからといって、自分の個性を捨てるべきではない。個性は自分の城であり、心の港である。(Syuugoro)
 それに、どこかに必ず自分の個性を必用としている人がいるだろう。目先の人の要求に応じて、相手にとって不必要だから、邪魔になるからといって、自分の個性を捨ててしまったら、自分の城を失うだけでなく、本当に自分を理解してくれる友との遭遇も出来なくなってしまう。

大器は晩成す。(老子)
 
大器というのは、別に選ばれた遺伝形質を持つという意味では無い。子供なら誰でも持っているような好奇心・向上心・創造性といったものをいつまでも捨てずに生きていれば、桜が春に咲くように、菊は秋に咲くだろう。春に他の花が咲くのを見て、自分はもう咲かないなどと、自分の持っている可能性を捨ててしまうのは全く愚かなことだ。どんな花が咲くにせよ、神が与えてくれたものだ。ただ精一杯咲くことが自然の摂理だし、それ以外に幸福の道筋はないだろう。(6月2日)

自分の凡庸さを自覚して、なお自分の持てる才能を実現し、生きることに喜びを見出す人は百人の中に2人もいるだろうか。(Syuugoro)
 
競争社会の毒が蔓延してしまったからか、人から凡庸とみなされたら、すぐに自分の才能を捨ててしまって、せめて・よりましで、競争のある所だけに、世間から価値とみなされていることだけにエネルギーを費やし、後はただ消費的に品定めする感覚を肥大化させ、せめて遊びの世界でヒーローになろうとする。
 皆が「作る心」を捨ててしまった中で、一人だけでも「作る心」を持ちつづけたら、それだけでも貴重な存在だ。凡庸であろうと、真似する心を捨てたら、作られたものには必ずそれだけの価値がある。それは何より自分の城だ。心の港だ。生きることの目的だ。そして、少数でも、その城に一緒に住みたいという人が必ずいる筈だ。
 昨日も書いたが、昔の百姓は大抵のものは自分で作った。家も自分で建てた。作物を丹精する中に、自分の手で物を作る中に、育む心が育つ。それが愛だろう。
 作る心を捨てない人は選ばれた人だ。それは、その気になれば、すべての人がなれる筈なのだが。(6月5日)

克己心
強敵は67人のランナーではなく、自分自身だ。(ビキラ・アベベ/マラソン選手)
 
自分自身に勝つことこそ最も大切なことだと考えたことがない人はいないだろう。しかしどうしても自分に勝つことを忘れて、人との勝ち負けに心を奪われるのも人間の性である。人生はマラソンと同じような長距離走である。人のペースに目を奪われず、自分で立てた目標を一歩一歩実現してゆくように心がけたいものだ。

憂きことのなおこの上に積もれかし、限りある身の力ためさん。(熊沢蕃山)
 どんな環境を自分に与え、どんな邂逅を自分に与えるかは、自分の力を超えた、神の仕事である。神の与える環境や邂逅が他の人に比べひどくみすぼらしい、あるいは苦難に満ちたものであったとしても、自分に出来ることは、その時に自分に与えられた可能性を形にすることだという意味では、いかなる場合でも変わりない。そして難病を治すことが名医の誉れであるならば、自分に課せられた困難の大きさはそれを克服することが出来れば、それだけ大きな自己実現をなすチャンスと見ることも出来る。
 いずれにしても自分が選ぶことの出来ない運命を変えることは出来ない。自分がやっと到達できるゴールが人にとってははるか昔に超えたところであっても、それが自分の人生のレースなのだ。
 普通列車には特急列車の獲得できない価値がある。各駅停車の小さな町にも下りることが出来るという特急列車には真似の出来ない価値があるのだ。(6月10日)

孤独
太陽は一人で沈む(ユダヤ諺)
 一人で沈むのは太陽だけではない。どんな人間も一人で死んで行くのだ。それを自覚し自分の命、自分の人生をかけがえの無いものと知る時、命は恒星のように光を増し、真に孤独を克服するのだろう。

冬陽は郵便局の中に差し込む。路上のどんな小さな石粒も一つ一つ影を持っていて、見ていると、それがみな埃及(エジプト)のピラミッドのような巨大(コロツサール)な悲しみを浮かべている。(梶井基次郎)
 
一人一人の影を見ることが出来る感受性を持っていたら、それだけ人の幸不幸に無関心ではいられずにしんどいのかも知れない。しかしそれだけ大きな心の世界を持っているのだ。それは自分が生きる世界の広さである。

世の中で最も強い人間とは、孤独に耐え一人で立つことの出来る人間である。(イプセン『民衆の敵』)
 
自分の世界を持ち、自己実現しようとする人は孤独である。しかし人にすがって、人に寄生して生きている人は、目先は孤独から逃れることが出来るかも知れないが、究極は自分の世界を持てないという最も深刻な孤独に陥ってしまう。(3月8日)

私は孤独である。私は自由である。私は自らの王である(カント)
 僕は、男とはやせがまんするものだと思っています。何もそう躾られたからではなく、男の本性から来るものだと思っています。最近の大脳生理学の研究でわかったことを本で読むと、胎児の時に性ホルモンの分泌によって男女それぞれの性格のレールが引かれるようです。そしてあくまで大量観察による平均値ですが、先天的に男は視空間能力に優れ、女は言語能力に優れているといいます。女の仕事はコミュニケーションで男の仕事は獲物を取るために外へ行くことでしょうか。
 また心理学の実験では、狭い部屋に大勢の同性の人間を積めこむと、女は同性が近づくとかえって親和性を示すのに、男同士の場合はストレスが高まるということがわかっています。
 女の子は人形を与えられると、その人形に添い寝して、決して壊したりしないが、男の子に機械仕掛けのおもちゃを与えると、遊び飽きたらしばしばそれを壊してしまう。この違いも、大人によって作られた性格ではなく生得的なものの様な感じがします。
 男の子はおもちゃを壊して中がどうなっているかを知りたがる。その形質は様々な方向へ向かって、分析的な性格を形成します。同性に対して敵愾心を持ち、人形に添い寝するのではなく、中のしくみを見たくて壊してしまうのが男の性ならば、これはどうあっても孤独にならざるを得ません。

孤独は山に有のではなく街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の間にあるのだ。 三木清『人生論ノート』

夜の雨なれ(汝)がこころはいずくにぞ わがみつつみて降りしきるなり(若山牧水)
 詩集『秋風の歌』所収の歌。この雨は9月の雨だろうか。一人で部屋の外に降る夜の雨の音を聞いていると、雨が孤独な自分にささやきかけているように思える。夜の雨のとばりのかなたに愛した人の気配が息づいている。今は愛を失った失意の僕を、夜の雨はなぐさめているのだろうか。そして泣いてくれているのだろうか。そんな勝手なイメージで読みました。()

孤独は優れた精神の持主の運命である。(ショーペンハウアー)
 人よりも深く考えている人の心は、一人で頂上をめざす山男のように孤独である。しかしたとえさびしくても、それだけ大きな自己実現をしているのだから、そこにはそれだけ深い充実感や達成感がある。
 やがて自分の心を理解し必要とする人が現れた時、孤独に耐えた自分の生き方も、すべては報われ愛に満たされるだろう。(8月22日)

 僕は人が耐え難いという孤独の中を旅しよう。もしかすると傷つき倒れてしまうのかも知れない。しかしそれがどんな世界なのかを知ることができれば人間とは何かということを知ることが出来ると思うのだ。(Syuuoro)
 
誰にも嫌われるような折り紙つきのエゴイストがいるとする。しかしもしその人間が、世の中に二人だけしか人間がいない世界に住んでいたとしたら、彼はきっともう一人の人間をかけがえのない存在として愛するだろう。
 すべての悪は、人間との関係の中で生まれる。一人だけでは悪など存在しない。善にも悪にもそれが育ってゆくプロセスがある。それを僕は見極めたい。

言葉
心から出た言葉は心に届く。(ことわざ)

 反対に言えば、どれだけ相手を誉めちぎっても、心の中に敵意があれば、やはり相手に伝わらずにはいないだろう。言葉を弄するより、伝えたい心を大切にしたい。

コミュニケーション
難しいことをやさしく
    やさしいことを重く
    重いことをおもしろく
  (井上ひさし)

子曰く、書は言を尽くさず、言は意を尽くさずと。(易経)

自分が知らないことを知っている人があれば、出かけていって教えてもらおう。自分が知っていて知らない人がいれば、出かけていって教えよう。(Syuugoro)
 そんな立場にもないのに教えるとか、教えてもらうとかいうのは何か人を値踏みしているようでいやだから黙っているという風潮が世間にある。ものすごく無駄な考え方だ。教え教えられるというコミュニケーションが出来たら、はるかに自分の可能性を広げることが出来るだろう。