Syuugoroの格言集
【さ】猜疑心 災難 才能 避ける 挫折 悟り 差別 【し】 死 事業 自己 自己限定 自己実現 自己中心 仕事 辞世 自制 自然 思想 持続力 自尊心 嫉妬 失敗 自分を知る 自分の世界 社会 自由 秀才 習慣 宗教 羞恥心 出世 準備 傷心 衝動 職業 正直者 自立 信仰 人生 信念 信頼 真理 【す】ずるさ 【せ】正義 誠実 青春 精神 精神力 成長 生命の尊厳 世間 善 善と悪【そ】創造性 想像力 即物漢 即物性
《さ》
【才能】
◆才能とは自分の力を信じることである。(ゴーリキー)
90点取ることばかり考えているエリートもあれば、60点しか取れない人が精一杯社会に役立つ仕事をしていることもある。僕は90点取っても何も生み出さない人をたくさん知っている。そして50点でもすばらしい仕事をしている人をたくさん知っている。
たいていの人は90点取れることをすばらしい才能だというだろう。しかし何も生み出さない90点など、何の才能でもない。今の日本の学歴社会は理解力しか評価しない。そして創造力などは入試に何の役にも立たない。しかし才能というのは理解することではなく、生み出す能力である筈だ。
90点の人間がその知識を人に教えるということすら出来ないなら、その人間は0点だ。物を生み出す能力というのは自分の持っている可能性を形にする能力である。それは自分を育む心であり、自分を愛する心である。(9月16日)◆自分の中に秘められている才能の芽を育てることができるのは、自分だけなのです(千住真理子)
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【猜疑心】
◆心に私なき時は、疑うことなし。(上杉謙信)
人を疑うというのは、大抵、自分に執着するエゴイズムがあるから起こるのだろう。そして大抵、疑いの無いものを疑い、逆に本当に自分を破滅させようとする陰謀を見逃すものだ。
自分と人の利害を超えて、育むべきものを育むという心で、自分の才能も、人の才能も、同じように大切に育てる心を持てば、人への疑いに執着することもないだろうし、自分をを理解してくれる人も増えるだろう。(6月8日)◆すべてを疑うか、すべてを信じるかは、二つとも都合の良い解決法である。どちらでも我々は省察する必要がないからである。(ポアンカレ)
即物的な人間ほど、猜疑心が強い。しかし彼は何ものかを盲目的に信じている。たとえば金や富や権力を。また愚鈍な指揮官ほど、敵の動向をやたらと用心深く見守り、動こうとせずに勝機を失ってしまう。そして慢心すると、今度はやたらと敵を軽視し、敵の術中にはまる。或いはつまらぬ人間は一度勝負に勝つと、引き時を知らず墓穴を掘ってしまう。博打で破滅するのはこうした人間だ。人間の精神とはそうしたものだ。
賢明な人間とは疑う理由のあるもののみを疑い、信じるに足るもののみを信じる人だろう。
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【災難】
◆災難にあう時節には災難にあうがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これは災難をのがるる妙法にて候。(良寛)
自分に与えられた可能性を全うすることが生きることの意味ならば、自分を見舞う逆境もまた受け入れるべき運命である。それは自分の可能性を奪うものかも知れないし、逆境を克服して、より大きな可能性を与えるものかも知れない。可能性がある限り生き続け、すべての可能性を失えば、それまで成し得たものを後の人に託して、死を受け入れる。すべて天意に従うのみである。
この秋は雨か風かは知らねども きょうの努めの田草刈るなり(二宮尊徳)【避ける】
◆象を避けることは決して恥ではない。(ベトナム諺)
【策略】
策略で人を従えても、決して友を得たわけではない。むしろその逆だ。(Syuugoro)【挫折】
◆大きな損をした後でも、探せば必ず小さな得が残っている。(アメリカの諺)
失業したり、商売に失敗したりすると多くの人はやる気をなくして捨てばちになったりする。しかし大きな物を失った時に、よく探してみると、何か役に立つものが残っているはずだ。そのわずかに残されたものに注ぐ愛。その愛が本物の人生を再生させる可能性を持っている。
この言葉はローラ・インガルス=ワイルダーの『大草原の小さな家』の話の中で、ローラのお父さんが、いつも口癖にしていた諺だが、日本の『猿蟹合戦』の中で、蟹がだまされておにぎりと交換した柿の種を大きなりっぱな木に育てる心は、同じことを言っているのだろう。
この挫折の後に残されたものに自分の活路を見つける心を持っているか、持っていないか。それが人の人生を隔てることになる。(8月2日)【悟り】
◆悟りなば坊主になるな魚食へ 地獄へ行って鬼に負けるな。(蜷川新右衛門)
鬼という恐ろしものはどこにある 邪見な人の胸にすむなり(一休宗純)
蜷川新右衛門は一休の在家の高弟で親友だった人物である。アニメの『一休さん』にも毎回登場しているが、実在の人物で一休とこのような狂歌の問答を数多く残している。
当時の僧侶は「土倉」という高利貸しをしたりする者も多く、本当の宗教者といえる者はごくわずかで、多くは業として僧侶をしている者が殆どだった。そこで悟ったら坊主になるなと新右衛門は皮肉を言っている。そして形式だけの菜食などは無意味だと言い切る。一休自身魚をいつも食べており、なかでも蛸が大好物で、「引導」をちゃんと渡してから「俺に食われたら極楽往生疑いなし」などと言って食べていた。
人々が地獄に落ちるのを恐れて、見せかけの善行をしようとするのも愚かなことだ、地獄に落ちて鬼に負けないくらいの信念を持って自分の生き方を貫けと新右衛門は言っているが、これは一休の思想である。新右衛門の歌に続けて一休は鬼というのはあの世にあるのではなく現世の生きた人間の心の中に住んでいるのだという。
つまり、生きているうち生きている人の心に住む鬼と戦い、同じ人の心に住む仏に荷担せよと言うのである。(8月10日)【差別】
差別は感情ではなく構造である(伊藤正孝『南ア共和国の内幕』)
日本は「序列社会」といわれ、「タテ社会」といわれる。そして「恥の文化」の社会ともいわれる。日本人は個性ではなく、他人との相対的な優劣の関係の中にしか自分の位置を見出せない人格だとも言う。今の日本は「いじめ社会」といわれる。自分のアイデンティティーが不確かであればあるほど、人を差別し、人の価値を否認し、いわれのない優越感の中に居場所を求めようとする。すべての人が人を差別し、差別される。こういう日本の腐った構造を破壊しなければ、どうしても日本人は救われない。(12月6日)
《し》
【死】
◆一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。もし死なずば、多くの果を結ぶべし( 聖書)◆死にたくはないかと言へば
これ見よと
咽喉の傷見せし女かな(石川啄木)
◆花の咲き散り、人間の生死、嘆くべきことにあらず。(井原西鶴)
人は死んだら何も無くなってしまうと言って嘆く。しかし自然の営みは、何も人間個人が主観的に快楽を得るためにあるのでは無いだろう。自然の摂理には必ず意味があるから、生物が死んで代替わりすることにもやはり意味があるのだ。
何ゆえ生物は固体が死滅し、代替わりしてゆくのか。つまりそれが種の存続の一番合理的で確実な方法であることと、生物が進化するための唯一の方法だからだろう。
ということは生物の個体は種が存続し進化するためにあるのだということになる。その自覚を持てば自分が種の存続と進化のためになにがしかの働きをして、子孫に委ねて死んでゆくこともまた自己実現なのである。その働きを充分にすることが出来れば、自ずと死を受け入れる心は定まるのだろう。(11月20日)◆死にたいする最良の準備が最も良く生きることであることに在るは疑いがない。(阿部次郎『三太郎の日記』)
生きる意味を考えない者、自己実現することを知らず目先の快楽を追いかける者ほど死を恐れる。死ぬまで目的を持って、ともかく「精一杯生きた」と言って死ぬことが出来たら、充実した一日の労働の後の満ち足りた睡眠のように、安らかに死ぬことが出来るのではないか。
最も良く生きるということはもちろん自分の能力と可能性を最も発揮できたということだが、それだけではまだ死ぬことの意味はわからないだろう。
個体の死というのは種族の存続と進化の為に自然が作った合理的なシステムである。ということは我々が生きる意味というのはやはり種族の存続と進化のために自然から与えれた自分の能力・可能性をより良く発揮し、それを実現することだろう。それに逆らって利己的で、消費的な生き方をすれば死はますます地獄として自分の前に立ちふさがるということだろう。(11月23日)
◆死がなければ生を重んじるものはいないだろう。(ポスハルト/スイスの作家)
人は死ぬから生について考える。死にたくない、いつまでも生きたいと思う。そしたら生きたいとは、何をしたいのかを考えなければならない。もうこれ以上生きたいと思うことはなくなったというところまで、生きてしたいと思ったことをやり遂げたら自然と死を受け入れるのだろう。(10月12日)◆人生を消費と快楽と考える人にとっては死は絶望だろう。しかし人生を創造と自己実現であると考えている人にとっては死は人生の完成である。(Syuugoro)
人間以外のすべての生物は、ただ遺伝子の命じるままに、本能のままに生きている。その生き方に選択の余地はない。
人間だけが選択する。他の生物のようにただ餌と快楽を求めて、功利的に生きることも出来る。しかし人間の固有な可能性とは創造性である。価値を見出し、価値を創造する。それのみが人間的である。
動物のように、消費的に、享楽的に、保身的に、闘争的に、功利的に生きるのか、或いは人間的に、創造的に、審美的に価値の実現を求めて生きるか、どちらの生き方をするかはすべてその人の意思なのだ。
動物のように創造することなく、ただ消費的に生きる人にとっては死はすべてを否定するものでしかない。だから彼にとって死はすなわち絶望である。
一方、自分の能力と可能性を全うし、価値を創造しようとする人は、そのために必要なら自分の死の危険をも賭けようとする。死が自己実現の完成であろうとする。だから自己実現に必要な時間が与えられているなら、死はやすやかな休息となる。◆僕は畳のの上で死ぬよりも、人生の舞台の上で死にたい。(Syuugoro)
千年木は枯れる日まで幹を太らせてゆく。人生は未完であって良い。後輩たちに課題をどれだけたくさん残したかということが、その人の生きた価値ではないか。
年老いて、体力も衰えて、新しいものを吸収する力が無くなった時、その人がさらに人生の幹を太らせてゆく力は、それまでに貯えた知識と技術と体験と、それを材料にして新たなものを見出す洞察力だろう。
その為にも若いうちに出来るだけ多くのものを吸収しておかなければならない。【事業】
◆徳は事業の基なり。(菜根譚)
住専問題に端を発する金融不祥事などを見ると現代の企業意識を見ることが出来る。「利益追求」と「競争原理」がすべての正義となり、「徳」ではなく「得」が事業の基になっている。
企業目的が社会的な価値を創出することから離れ、逆にすでにある価値を横取りすることに向かったら、その企業はもはや社会の寄生虫であり癌である。そんな企業体質が正当化され、日本に蔓延すれば社会は衰退してしまうだろう。
【自己】
◆わたしの
かたわらにたち
わたしをみる
美しくみる
(八木重吉)【自己限定】
◆自己限定し始めたら、精神の成長は終わっている。そして人生も終わっている。人の幸福は成長する中にしかないのだから。(Syuugoro)
人に勝てない能力は何でも捨ててしまう。そして自分の評価や地位が定まったら新しい知識や技術に何の関心も持たなくなる。しかしそこでその人の人生は終わってしまっているのだ。もちろん幸福などとは永久にめぐり合えない。
人に勝とうが負けようが、何かが出来るというのは、自分にとって無限の可能性を秘めている。そして自己実現する意思を捨てないならば、それだけでその人は自分の世界を得ているのだ。◆自己実現を放棄した人間というのは、必ず大人びた態度を取るものだ。(Syuugoro)
学歴を追いかけるだけの人間が最終学歴が決まってしまったり、肩書きで人の値打ちを判断する人間が、自分の出世が頭打ちになった時、彼の生きる目標はもはや日々の安定と快楽の追求ということでしかないだろう。
そして自己実現を放棄すると、彼の仕事はもっぱら品定めになる。そうすると人が自分に出来ないことをするなどということは当たり前のことになってしまって、平気で見下すようになるのだ。何もしない人間というのは失敗することもないから、ますます大人びた見せかけを作ることになる。そして自分が同じ階級だと思っている人が自分の世界を持って何かに打ち込んでいたりすると必ずそれをあげつらう。
自分の仕事や行き方に悩んでいる人こそ大切にしなければならない。彼は現に成長しているか、したいと思っているからだ。彼は悩んでいるために、一見、大人になることが出来ていないように見えるかも知れないが、生き方に悩むことは自己実現の意思を棄てていないということだ。それを棄てて大人びた人間よりもはるかに価値がある。
【自己実現】
◆自分の理想を持って、自分に与えられた可能性を形にすることに、人より優れた能力などはいらない。(Syuugoro)
日本人には人に勝てなければ、何をやっても自己満足で無駄だと考える人が多い。しかし人の才能を自分の頭に移植することは出来ないし、自分の持っている可能性を実現すること以外に幸福になる道はないだろう。
そしてしばしば子供の絵が人に感動を与えるように、たとえ人に劣った能力でも、自分の目で世界を見、自分の心で感動すれば他の人には表現できないものを創造出来るだろうし、自分に与えられた可能性を精一杯生きた人生は人に感動を与えるだろう。(7月25日)◆なし得ることを望め。
この言葉に作者などはない。無数の人が、こう考え、人に言った言葉だろう。しかしこの当たり前の言葉を人はしばしば忘れ、人の成功を羨み、世間的な価値を追いかけ、出来もしないことを望む。そして出来ないことを出来たように見せかけて、出来るような地位を詐取する。
地位や肩書きは出来ることの証ではない。出来るように見せかけても何の自己実現にもならない。それは自分の人生に砂上の楼閣を築くだけだ。
「競争社会」「学歴社会」というのは、出来る人間、相応しい人間よりも、成りたがる人間が地位を占める社会だ。だからブロイラーエリートが氾濫する。そんな競争を追いかけるな。
プロに成れなくても、自分の中に出来ることがあるなら、アマチュアとして一生続ければ良い。もしその仕事が幾分でも人に糧を与えることが出来るなら、地位を得ただけのプロよりもはるかにプロと言えるだろう。(9月10日)【自己中心】
◆猫の夢にはねずみが踊る(インド諺)
物事を考えるとき、えてして自分の都合の良い面ばかり考えるものだ。人の立場、みんなの立場から見ないと本当の姿は見えない。【仕事】
◆仕事を追え。仕事に追われるな。(フランクリン)
人間は弱い者だから、わかっていても、なかなかこれが出来ない。僕も出来ない。仕事の多さを考えたらいやになる。仕事が少なければ後回しにして遊ぼうとする。
仕事を追うというのは目一杯仕事をせよという意味ではない。一日分の仕事の準備をする時、同じものなら二日分準備を一緒にやっておけば、次の日には余裕が出てくる。そういう余裕を作って毎日の仕事をすれば、プレッシャーを感じずに仕事が出来るということだ。
自分が優等生ではなくダメ人間なら、ダメ人間なりの生活の計画を立てることだ。いやなことでも、しなければならないことなら、少しだけでも自分のスケジュールに入れておく。まとめて準備出来るものならば、まとめてやって貯金を作る。貯金が出来れば余裕が出来る。余裕が出来れば新しい仕事のアイデアが生まれ、自分の仕事の世界が広がるから仕事も楽しくなってゆくだろう。◆困難な仕事も、手をつけたら半分済んでいる。
水風呂に入るのと同じで、困難な仕事も辛いのは始める時だけである。そしてその仕事が自分の意志に沿うものなら、仕事を続けることが快感となるだろう。【思索】
◆思索する者のみが、年取ることを価値となす。
肉体的な能力はもちろん、新たな知識や技術を吸収する能力も年とともに衰えてゆく。しかし蓄積された知識や技術はボケない限り消え去ることなく増えてゆく。それを生かすことが出来れば、若者には太刀打ちできない、老人である故の価値となる。
自分が培った知識や経験、技術などを、総合、整理し、体系化し、再生させ、後輩に伝える。それが老人の最も意義ある仕事だろう。その仕事は実際の行動、新しい経験を増やすことよりも、過去の経験を追体験することである。ショーペンハウエルが言ったように、「前半の人生に注釈を加えること」が老人の仕事なのだ。つまりは思索することこそが老人の最も意味のある仕事である。それをする者は年老いて死ぬときまで進歩するだろうし、それを放棄するものは肉体の衰えとともに滅びてゆくだろう。(11月24日)【辞世】
◆ついに逝く道とはかねて知りながら 昨日今日とは思はざりしを(有原業平)◆面白きことも無き世を面白く
住みなすものは心なりけり(高杉晋作)
高杉晋作が27才の生涯を閉じる時の辞世の歌である。晋作が上の句を作り下の句が出来ず苦しんでいると、看病していた野村望東尼が下の句を詠んだ。晋作はそれを聞いて頷いて「面白いのう」と言って息を引きとったという。
彼は天才的な機略で「奇兵隊」という平民で組織された軍隊を作り、佐幕派が牛耳った長州藩の軍を破って藩の指導権を握る。その後長州藩ただ一藩で幕府軍を破ってしまう。そしてたった27才で結核で死んでしまった。時代的、環境的な制約があっても、その中で自分の持てる力を使い切った。だから人生は「面白い」のだ。(6月12日)◆露と落ち露と消えぬるいのちかな 浪花のことは夢のまた夢(豊臣秀吉)
豊臣秀吉は、天下人となってから、和歌を作るのに凝って、稚拙な和歌を聞かせては周りの人をよく悩ませたという。しかし、その秀吉が臨終の時に作ったこの歌はどうだろう。もちろん、非常に有名な歌ではあるが、何も一代の栄華を極めた人の辞世の歌だからではないだろう。職業歌人などが足元にも近づけない力がある。
芸術の創作というのは、芸術家のためにあるのではない。すべての人にとって、本来必要なものなのだ。(6月20日)
◆父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。
干し柿、モチも美味しゅうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。
克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南ばん漬け美味しゅう。ございました
喜久造兄、姉上様、ブドウ酒、養命酒美味しゅうございました。
又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に乗せて戴き有難うございました。
モンゴいか美味しゅう。ございました
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、
みよ子ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な大人になって下さい。
父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒お許し下さい。
気が休まることもなく御苦労、御心配お掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。
昭和43年1月9日 円谷幸吉
自衛隊体育学校の幹部宿舎の個室。 右首動脈切断。ノーベル賞作家の川端康成は 千万言をもってつくせぬ哀切であるといった。
◆十二月一日の夜、青山のマンションから、僕が麻布に戻る時、「ひとり置いてゆかないで!」と幸子はいった。
涙を拭きながら、そう云った幸子の顔はいままでに見せてこともないものだった。「もちろんさ!」と僕は答えた。
しかし心の中を見透かされた僕は、あなたの左手をぎゅっと握ることしかてきなかった。もう自分でもとめることはできないところへ来てしまった。生きることって苦しいことだね。
死を覚悟するのはとても怖いことだよ。四十三歳まで生きて、適当に花も咲いて、これ以上のしあわせはないと自分で思う。田宮二郎という俳優が少しでも作品の主人公を演じられたことが、僕にとって不思議なことなのだ。そうは思わないか?病で倒れたと思って欲しい。事実、病なのかも知れない。そう思って、諦めてほしい。
(田宮二郎/映画俳優1978年のこの日、妻幸子宛ての遺書を残して自殺した。43才だった。)
【自制】
◆衝動のあるところに自我をあらしめよ(フロイト)
人の言動や行動は、すべて自分の自我を安定させるようになされる。無意識のうちに噂話で人の悪口をいったり、沈黙したり、相手の話を笑ったり・・・。それらの自分の心の中にある衝動を見つめる自我を持つことが出来るのと出来ないのとでは人格形成の上で決定的な差になって現れるだろう。
自分の中にある衝動を見つめた上で、なお自分の言動や行動を行うならば、それはすでに自分の思想に従ったものだといえるだろう。その結果が孤立をもたらすとしても、自我の安定は得られる筈だ。しかし衝動のままに行動するならば、その場の自我の安定は得られても、結局は不安定な自我と人との軋轢を後に残すだけに終わるだろう。(8月19日)【自然】
◆あの雲の落とした雨に濡れている(山頭火)【思想】
◆知って知らざるを上とす。(老子)
本当の思想・倫理的な知識というものは自分の日常の行動の中に肉化されているから、意識することがない。
「習慣は第二の天性である」という言葉があるが、自分の思想を肉化するのも、それが習慣となるように毎日繰り返す努力によって出来るのだろう。(7月26日)◆人は喜んで自分の望むものを信じる。(カエサル)
思想というものは常に自覚していないと、自分に都合のよい考えを集めたものになってしまう。それはすでに偏見だらけのものである。そして自分の自己中心的な態度や、人に対する不道徳な態度を合理化し、正当化する。自分の欲求を切り離して考える習慣をつけなければ偏見を去ることはできない。(12月3日)◆思想などは何もないと胸をはる人間は、最も拙劣な思想の持ち主だ。「損得・勝ち負け・世間体」がすべてだと言っているようなものだ。(Syuugoro)
思想というのは、自分の価値判断であり人生の設計図だから、思想の無い人間などがいる筈が無い。それなのに思想を持たないということが何か良いことのように思っている人が多い。
思想を持たないということは価値判断の基準を世間的な価値観に委ねて、後は損得・勝ち負けを追いかけることが幸福の条件だと考えているということだろう。それを「現実主義」などと言って正当化する。
しかし「人を育み、自分を育む」。つまり「自分と自分を育む社会・環境の持てる可能性を実現する」ことが生きる意味であり、あらゆる思想の根本的な原理だとすれば、この「現実主義」と称している保身的・打算的な精神は人間的な意味で最もそれに反した、ネガティブな生き方だと言わねばならない。そして出世主義・快楽主義というものは目先の快楽を得るだけで、最も大切な自己実現する精神を失い本当の幸福を見失ってしまうだろう。(10月18日)◆真理に対する感動が言葉に現れた思想には価値がある。しかし感情を理屈付けしただけの思想は危険である。(Syuugoro)
◆生き方を求める者と、利益や出世、勝ち負けを追いかける者とは学ぶものが全く違う。(Syuugoro)
【持続力】
◆継続は力なり。◆使っている鍵はいつも光っている。(B.フランクリン)
わずかな時間でも毎日練習をすることが、上達の秘訣だというのはスポーツでも勉強でも音楽の練習でも、何にでも言えることだろう。ただ気をつけなければならないのは、技術や知識の定着には一定の時間がかかるということだ。
詰め込みすぎると、前に習得したものが追い出されて元のもくあみになってしまう。或いは、スポーツなど練習をやりすぎると、却って悪い癖がついたり、新しい技術の習得を受け付けなくなってしまうことがある。
だから土に水を染み込ませるように、反芻し、考える時間を持って、少しずつ溢れないように知識や技術を注がなければならない。それをふまえて毎日鍵を使うなら、鍵はますます光を増してゆくだろう。(1月13日)◆雨だれ石をも穿つ。(『文選』)
「継続は力なり」というが、持続力が必要なことは誰でも分かっている。それが出来ないのが何故かがわかれば、問題は半分以上解決しているのだが、それは一つだけではないから、なかなか捕まえることが出来ない。「目移りがして、集中できない」「目先の快楽に負けやすい」「計画を立てるのが下手だ」「集中するとすぐ疲れる」などいろいろな要因がある。
持続できない自分を克服するためには、持続できない自分を見つめることだ。その為には、持続できない自分を毎日日記に書くと良い。その日記を書きつづけることで、持続できる自分を作ることが出来るだろう。(10月31日)◆全力をつくし続けることなど決して出来るものではない。歩いてでも完走することを考えよ。(Syuugoro)
テレビドラマでも映画でも小説でも大抵の物語は主人公が全力を尽くしつづけているか、絵に描いたように絶望しているように描く。実際の人生では人間が全力を出しつづけることなど出来ない。むしろどんなに優れた人間でも全力を出している時間というのはわずかなのではないか。人間は食事もし、風呂にも入り、休憩もし、トイレにも行き、無駄話もする。必要なのはそれらの自分の時間を自分でコントロール出来ることだ。【自尊心】
自尊心を持って、優越感を捨てよ。(Syuugoro)
自尊心というのは自分の人間としての能力や可能性が実現出来ている充実感である。だから他人との勝ち負けと関係なく、すべての人が持つことの出来るものだ。
ところが優越感というのは、「裏口入学」のように不正をしても人に勝てれば持つことのできるものだが、そこには自分の持てる能力や可能性を充足するという満足感は無い。そして競争相手がいなければ影のように消えてしまう。(5月17日)
【嫉妬】
◆憎しみの大半は嫉妬か、辱められた愛に他ならない。(ヒルティ『眠られぬ夜の為に』)
この言葉で自分の中にある嫉妬心や憎しみが無くなるとは思わないが、その結果として自分が落ち入った孤独を受け入れなければならないことは理解できる。
自分が誰かを嫌っているということ自体、多くの場合、その人に嫌われているか、蔑まれているという自覚の裏返しなのだろう。
人を嫉妬したり、憎んだりして、自分が孤独になることは、状況によっては止むを得ないこともあるだろう。しかしそれでも自分を理解してくれる人を探すことをあきらめてはいけない。一億2000万人いる日本人の中に一人くらい、自分と同じような価値観と性格を持っていて、人と合わず、それでも人を求めている人間がいない筈はないということを信じて。(8月21日)
◆人間だから嫉妬や憎しみの感情を持つことはあるだろうが、憎しみも嫉妬も、そこには「育む心」が無い。それはただ「奪う心」である。憎しみを追いかけるよりも、愛するものを探すことの方が、自分を幸福にすることは疑いないだろう。
この言葉で自分の中にある嫉妬心や憎しみが無くなるとは思わないが、その結果として自分が落ち入った孤独を受け入れなければならないことは理解できる。自分がこうして孤独であることは止むを得ない。しかし、それでも自分を理解してくれる人を得ることはあきらめない。一人くらい、世の中に自分と同じような人間がいない筈はないということを信じて。
◆嫉妬と競争心は自分と同じ程度だと考えている人に対していだくものだ。(ラ・ブリュイエール)
だから、ライバルの足を引っ張るという心を持つのだが、それが生み出すものは不毛な人間関係だけである。ライバルには学ぶという気持ちを持って、競争するのは昨日の自分だという心を持てば仕事の成果と人の心の両方を得ることが出来るだろう。(9月20日)◆嫉妬は千の目を持っている。しかし一つも正しく見ない。(ユダヤ格言)
嫉妬というのは強力なエネルギーを持っているが、それは決して生産的なものではない。欲しいものを手に入れたらおさまるというだけの欲のエネルギーである。満たされない欲が様々な誤解や偏見を生み、人を傷つけ、自分を傷つける。
「育む心」が愛ならば、嫉妬はそれとは似ても似つかないものだ。結局嫉妬などという感情には何の価値もない。ただ人間関係をこじらせるだけだ。好きな人が手の届かないところに居るのならば、ラブレターではなく、スターにファンレターを送る気持ちで接するのが良い。それが愛というものだろう。(11月8日)◆露骨な嫉妬は愛する者への不信であり、デリケートな嫉妬は自身への不信である。(レスピナス)
【失敗】
◆人は誰でも失敗の前には凡人だ。(プーシキン『大尉の娘』)
問題は失敗を自覚し、そこから何を学ぶのかということだ。そのことが人の価値を決めるだろう。価値ある生き方というのは、自分の限界を自覚し、そこから自分の可能性を思索し、そしてそれを実行するという繰り返しである。つまりスポーツのトレーニングと何も変わらない。(2月5日)【自分を知る】
◆汝の力に余る重荷を汝の肩に乗せるな。(ホラティウス)【自分の世界】
◆世の人は我に何とも言わば言え
我がなすことは我のみぞ知る(坂本竜馬)
坂本竜馬の少年時代の歌である。彼の姉の乙女以外は誰もが勉強嫌いの出来の良くない変わった少年だと見ていた。しかし竜馬は自分の夢、自分の世界を持っていた。
僕ら凡人はもちろん竜馬のように一人で日本を動かすような大仕事が出来るはずはない。しかし世間的な価値しか目に入らず、ただ人の成功を矮小に模倣するだけの人間になる必要はないだろう。竜馬のその生き方は学ぶことが出来る。自分で自分が納得できる生き方ををすれば良いのだ。ただ自分の持てる可能性を最大限実現することが出来れば、自分はやるだけのことはやったと言える筈だ。(8月1日)◆家は中に住むために建てるのであって、外から見るためではない。(ベーコン)
教育の目的は社会人としての能力を身につけること以上に、自分の世界の作り方を身に付けることだろう。自分の世界というのは人から見た価値ではない。目を閉じていてもどこに何があるか分かるような、自分のための、自分の持っている可能性を形にするための最適空間である。ある人にとっては刑務所のような世界が、ある人にとっては幸福の家となる。(12月31日)◆君の目を内に向けよ。そうすれば君の心の中に、まだ発見されなかった一千の地域を見出すだろう。(H.ソロー/アメリカの思想家.随筆家)
自分の世界を外に広げようとすれば、物理的な制約や自分の能力の限界もあるし、他人との競争もある。だからどれだけ上昇志向の強い人でも、少々の能力ではどこかで限界が見えてしまう。しかし自分の内面に可能性を求めれば、いかに凡庸な才能しかなくとも、100年足らずの寿命ではとても足りないほどの可能性がある。
絵を書くのも、音楽を作るのも大した出費を必要としない。詩や随想を書くなら紙と鉛筆があれば出来る。思索をするのならば何の道具もいらない。それらをするためには誰の助けもいらない。
「そんなものが何の役にたつのだ。ただの自己満足ではないか。」と世間的な価値のみを追い求める人は言うだろう。なるほど天才の作った芸術は人を感動させる。しかしだからといって凡人の作った芸術や思想が人に感動を与えないということにはならない。凡人の悩みは凡人にしかわからない。借り物ではない、自分の言葉で表現したものならば、凡人であるからこそ共感することも多いだろう。まして自分の身近な人ならば、きっと大きなメッセージを受け取るに違いない。
けっして自分の外の世界を否定しているのではない。ただ自分の内の世界を広げなければ、外の世界も拡がってゆかないというのだ。それは草木を支える滋養に満ちた土のようなものだろうからだ。(11月23日)
【社会】
◆腐敗した社会には、多くの法律がある。(サミュエル・ジョンソン)【自由】
◆自制できない人を自由の人と呼ぶことは出来ない。(ピタゴラス)
自分の内面に世界を作ることができず、ただ人と争い、奪うところにしか居場所をつくることが出来ない。そして思い通りにならないと、その不満、不快感を自制することが出来ずに爆発させ、人の居場所を破壊する。そんな人間に自由などはある筈がない。
自由というのはより良いものを選択できるということだ。自制できなければ、選択することも出来ない。ただ一直線に動物のように、快感と不快感という感情に支配されるままに条件反射するだけだ。たとえ思い通りに快楽を得ても、そんなものは持続もしないし、自分の内面に蓄えることも出来ない。すぐに次の快楽を求めて、また人と争い、人の居場所を破壊してゆく。だから誰にも愛されることのない孤独と絶望におちいってゆく。(11月10日)◆肉体の奴隷である者が、どうして自由であろうか。(セネカ/ローマの哲学者)
人間であれば肉体的な欲望を持つのは自然の摂理である。ただそれに負けて流されるならば、精神的な価値を生み出すという人間の本性を蝕んでしまう。自由は、精神的な世界の中にしか存在しない。(3月17日)◆他のすべての自由にもまして、知る自由、考える自由、信じる自由、そして良心に従って発言する自由を私に与えよ。(ミルトン)
1600年代の前半、日本ではまだ江戸時代の初期だった頃に、『失楽園』を書いたミルトンはこう言っている。これらの自由が法によって与えられている現代の日本人は、それをどれだけ大切に扱っているだろうか。「堕落した人々の間では、自由は長く存在することは出来ない」と同じイギリスの政治家エドモント・バークは言っている。精神の尊さを知らなければ自由は命を持たない。◆堕落した自由人は最悪の奴隷である。(ダビッド・ガリック/イギリスの劇作家)
日本人の多くにとっては「自由」はいまだに外来語で、「勝手、気まま」との区別がつかない。自己実現という言葉を「学歴」や「かっこいい職業」や「財産」などの消費的な欲望の充足だと考えて、それを人から横取りすることを「競争は正義だ」などと正当化する。「損得・勝ち負け・快不快」を唯一の価値判断にして、自己中心的な弱肉強食の自由を謳歌する。
自由というのは自分の持っている可能性を実現することを妨げない状態だが、「損得・勝ち負け・快不快」を追いかけるとただ世間的な価値しか見えず、人の持っている価値を欲しがり、自分で作る心を忘れ、自分の世界を捨ててしまう。そして世間的な価値に縛られて身動きできない奴隷になってしまう。(4月7日)【秀才】
◆いわゆる頭のいい人は、いわば足の速い旅人のようなものである。人より先に人の未だ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道端あるいは一寸した脇道にある肝心なものを見落とす恐れがある (寺田寅彦『科学者と頭』)
劣った者には、劣っている故の長所がある。例えば人より苦労して得たものは、人より良く教えることが出来るだろう。人より時間がかかって読んだ本は、人より細部を印象に留めているだろう。【習慣】
◆習慣は第二の天性となり、天性に十倍する力を持つ。(ウェリントン/イギリスの将軍)
自分がこうありたいという生活のあり方を習慣にしていまえば、苦労することなく自分の実現したいと考えている目標に近づくことができるだろう。偉い人とだめな人との違いは、大方この習慣を身に付けているかいないかの違いだ。必要なのは習慣にしてしまうまでの努力である。(5月23日)【宗教】
◆人類はいまだかつて宗教なしに生きてこなかったし、また生きて行けない。(トルストイ)
僕が知る限り日本人の中で信仰心を持っている人は少数である。その大半は無神論というものではなkく単なる不信仰である。無神論というのは不可知なものも科学と理性で把握できると考えているか、不可知なもののことなど考えても意味が無いということだろう。しかし僕にはそのどちらも合理的な考えとは思えない。人は不可知なものに翻弄されて生きている。科学の力で把握できないその闇を照らす光を求めることは人が人として生きようとするなら自然のことだと思われる。【羞恥心】
羞恥心の欠点は、たえず嘘をつかせることである。(スタンダール『恋愛論』)
僕は女が年齢を隠すというのが常識で、男はそれを聞かないのがエチケットだというのがどうも気に食わない。それは年を取ることが価値の喪失だということになるからだ。
年齢を実際よりも若く見せる為の化粧や服装などは、若いことが価値だという前提での沈黙の嘘ということになるだろう。
真剣に生きているならば、経験やそこから得られる洞察力は年を取っている方が優れているし、目先の衝動にも左右されない安定感がある。僕は年を取ることが羞恥などではなく誇りになるような生き方をしたいと思っている。(10月28日)【出世】
世に出る方法は二つしかない。自分自身の努力によるか、他人の愚かしさを利用するか、そのどっちかだ。(ラ・ブリュイエール『人さまざま』)【準備】
◆水を澄ませば月を映し、木を植ゆれば鳥を棲ましむ。(日蓮)
水を澄ませることによって月を映すことが出来るし、木を植えることによって鳥を済ませることが出来る。育む環境を整え、充分な準備をして、初めて成果を求めることが出来る。
【衝動】
◆衝動のあるところに自我をあらしめよ(フロイト)
人の言動や行動は、すべて自分の自我を安定させるようになされる。無意識のうちに噂話で人の悪口をいったり、沈黙したり、相手の話を笑ったり・・・。それらの自分の心の中にある衝動を見つめる自我を持つことが出来るのと出来ないのとでは人格形成の上で決定的な差になって現れるだろう。
自分の中にある衝動を見つめた上で、なお自分の言動や行動を行うならば、それはすでに自分の思想に従ったものだといえるだろう。その結果が孤立をもたらすとしても、自我の安定は得られる筈だ。しかし衝動のままに行動するならば、その場の自我の安定は得られても、結局は不安定な自我と人との軋轢を後に残すだけに終わる。
【傷心】
傷ついたのは生きたからである。(高見順)
進学や将来の希望に挫折した時、仕事に失敗した時、失恋した時、人に裏切られた時、不治の病魔に冒された時、人は傷つき、生きているのが厭になり、時には自殺を考えることがある。しかし、自分の肉体が残っている限り失った希望の何分の一かでも取り戻す可能性は残されている。そして挫折はより強固な人生を再生するための有益な教科書となる筈だ。
人はしばしば生きる苦しみから逃れるために自殺しようとするが、失ったものに目を奪われてはいけない。命ある限り、自分に残された可能性を実現しようとすることは、どんな場合でも死ぬことよりも幸福である筈だ。(10月26日)【職業】
◆不道徳の最たるものは、自分の知らない稼業をすることである。(ナポレオン)
親の七光りで政治家や企業家になったり、芸能人、スポーツ選手、学者、著述家、医者などになる。
社会的な地位や人の評価が高い、平凡でないという理由で、自分に向いていないとわかっていてもしがみつく。それは本当に能力のある人を締め出すことになるし、本当の自分の能力を殺すことにもなる。◆いかなる職業でも自分が支配する限り愉快であり、服従する限り不愉快である。電車の運転手はバスの運転手ほど幸福ではない。(アラン)
【正直者】
◆盗むチャンスの無い泥棒は自分を正直者だと思っている。(ユダヤ諺)
このような悪事を働く機会がないだけの善人というのは以外に多いのではないか。機会があっても、誘惑に負けないというのは、自立した思想や信念がなければ出来ないことだ。自立した思想というのは、つまりは自分の心を休めることのできる家のようなものである。家を持たない者は、野宿をせざるを得ず、機会があれば人の棲家を盗もうとするのだ。(12月29日)
【自立】
◆自らを灯明とし、自らを拠り所とせよ。法を灯明とし、法を拠り所とせよ。(釈迦)
釈迦が亡くなると時、弟子のアーナンダが、「師が亡くなったら、私は何を頼りに生きれば良いのか」と嘆いたのに、釈迦が答えた言葉である。
人生の解答は人に求めるものではなく、自分の中にあるのだ。そして自分の中にあるものを育て、自分を育んでいる自然や社会や人の営みをつかさどっている法則を見極めて、それを拠り所にせよということだ。(8月15日)◆自立するというのは、単に庇護を受けずに生活できるということではない。自分が庇護を受けて育ってきたように、人を庇護することが出来て、初めて自立したといえる。そうでなければ社会は存続できないのだから。(Syuugoro)
他人を庇護するどころか、自分の子供を虐待する親が増えている。これはもはや動物以下である。自分に対しても人に対しても、育て育む心がなければ、人間だとは言えないし、生きているとも言えないし、いくら消費的な快楽を追っても幸福になることも出来ないだろう。(11月12日)◇
【信仰】
◆『アンクル・トム』を書いたのは私ではありません。神自らがお書きになられたもので、私はただ、筆を運んだに過ぎないのです。(ストウ夫人)
ストウ夫人がホワイトハウスに招かれ、リンカーン大統領が、「私はあの文章の通り火を吐くような迫力のある方だと思っていましたのに、こんなか弱い方とは。」と言ったのに対して、ストウ夫人が語った言葉である。ストウ夫人は初版本を大統領に贈り、その扉に「愛あるところに神あり」と書いた。
愛は人間の本性である。それは人の心の中に自ずと生まれ、その心的エネルギーは人を育み、仕事を成し、芸術を生み、科学を生む。それは人々を覆い、社会を覆い、自然を覆い、世界を覆う。その創造する本性の力を与えた者、それを人々は神と名づけた。(5月13日)◆たとえ信仰を持っていなくとも、「祈る」ことは気を休めるものである。(チェーホフ)
祈る気持ちはすなわち信仰である。信仰とは人間が有限であることを知ることである。そして人間が、人間を超える力によって生かさせていることを知る畏敬の念である。その力に祈る気持ちによって、人は自分の中にある未知の力を引き出すことが出来るだろう。
宇宙に自然の摂理を与え、生命を生み出し、それに精神を与えた者が無機的な存在である筈はない。それは人には不可知で計り知れない精神である。人はそれを神と名づけた。
人の知識や科学は永久に有限である。だから人は常に不可知なものに支配され生きてゆかざるを得ない。それ故人は信仰を持ち、神に祈る。
すべての宗教は時代的な制約を受けているから、その中に含まれる科学的な認識には限界がある。だからその宗教の教義自身、それが作られた時代の限界がある。それ故いかなる宗教も絶えず科学の進歩に従って革新されなければならない。それを踏まえた上で、時代的な制約を超えて今も真理と認めうる教義を継承し、なお自然の摂理の不可知な部分を直観しようとする行為がすなわち真の信仰だろう。(11月17日)◆「どんな時でも僕は君のそばにいるよ。」と神様は僕に言った。(Syuugoro)
◆真実の信仰は孤立している。宗派的な信仰は偽の信仰である。(キエルケゴール)
日本人の信仰は殆どが宗派宗教である。しかも大抵はご利益宗教だ。そのような偽の信仰がオーム真理教のようなカルト教団を生むのだろう。
人間の社会や自然の一切を包摂している宇宙はさまざまな生命やとりわけ人間という精神を持った生命を生み出した。そのことを考えれば、明らかに宇宙は意味のあるプログラムを持っている。それは遺伝子を持った生命体ともいえるだろう。ならばそれは宇宙と呼ぶより人が古来から呼び習わした「神」と表現する方が相応しい。
人間を作り、人間には全貌を知りえないプログラムを持って人間を生かしている宇宙。それを神と考え、その神と対話することは決して無意味ではない。
そして自分と神、つまり人間の理解を超えた自然や社会の現象を生み出している力は何者なのかを問い、それを神と名づけるならば、神と対話しつつ自分という存在を確かめることが本当の信仰だろう。
人間には森羅万象のすべてを知ることは出来ない。未来がどうなるのかもわからない。だからさまざまな宗教が生まれ、さまざまな宗派が生まれる。しかし森羅万象は一つの宇宙の営みである以上、それを把握するべき宗教も一つしかない有りえない。結局宗派宗教というのは神の一部分を切り取ったものに過ぎないということだ。(5月12日)
◆人間が新たな真理を発見する度、ある人は科学の勝利を確信し、宗教を無用のものと考える。しかしある人は、新たな真理の発見によってますます神の存在を確信する。(Syuugoro)
科学的な真理や法則を発見すればするほど宇宙や自然が、目的を持って成長する生命的なものであることを知る。科学をのみ信じ、宗教を無用のものと考える態度はつまりは見えるものしか信じないという態度だ。
人間が宇宙や自然の営みを知り尽くすということはあり得ないだろう。一つの真理の発見は、しばしばそれまでの常識を破却し、それ以上の新たな謎や疑問を生み出してゆく。人間は常に未知な、そして生命的な何者かによって動かされているという認識が、すなわち信仰の源泉である。◆私は神とともに選び、ともに欲し、ともに意志する。(エピクテトス/古代ローマの哲学者)
◆人事を尽くして天命を待つ。
◆神仏を尊び、神仏を頼まず。(宮本武蔵)
「人事を尽くして天命を待つ」というが、最善の努力をしても結果はどうなるか判らない。その結果を支配しているものが神仏である。かりに負けても、その運命を与えた神仏の心を考え、その心に従い、受け入れる心が本当の信仰だろう。
最善の準備をしたら、その後はもう迷わず、心を空にして目標だけを見つめる。結局それが最善の結果を得る方法である。(6月15日)◆仏とてほかにもとむる心こそ まよひのなかのまよひなりけり(一休宗純)
「一切衆生悉有仏性」というのが仏教の根本思想である。仏は人の心の中にある。だからなによりも自分の中の仏に手を合わせなければならないのだ。立派な仏像に手を合わせて救われようとしたり、偉いお坊さんにすがって救われようとするのは迷いだと一休は言う。
釈迦は入滅の時、残された弟子に自らを灯明とし、自らを拠り所とせよ。法を灯明とし、法を拠り所とせよと言っている。◆悟りなば坊主になるな魚食へ 地獄へ行って鬼に負けるな。(蜷川新右衛門)
鬼という恐ろしものはどこにある 邪見な人の胸にすむなり(一休宗純)
蜷川新右衛門は一休の在家の高弟で親友だった人物である。アニメの『一休さん』にも毎回登場しているが、実在の人物で一休とこのような狂歌の問答を数多く残している。
当時の僧侶は「土倉」という高利貸しをしたりする者も多く、本当の宗教者といえる者はごくわずかで、多くは業として僧侶をしている者が殆どだった。そこで悟ったら坊主になるなと新右衛門は皮肉を言っている。そして形式だけの菜食などは無意味だと言い切る。一休自身魚をいつも食べており、なかでも蛸が大好物で、「引導」をちゃんと渡してから「俺に食われたら極楽往生疑いなし」などと言って食べていた。
人々が地獄に落ちるのを恐れて、見せかけの善行をしようとするのも愚かなことだ、地獄に落ちて鬼に負けないくらいの信念を持って自分の生き方を貫けと新右衛門は言っているが、これは一休の思想である。新右衛門の歌に続けて一休は鬼というのはあの世にあるのではなく現世の生きた人間の心の中に住んでいるのだという。
つまり、生きているうち生きている人の心に住む鬼と戦い、同じ人の心に住む仏に荷担せよと言うのである。◇
【人生】
◆春咲く花を羨むな。菊は秋には咲くのだ。(吉岡たすく/教育評論家)
人生の花咲く時期は人それぞれによって異なるだろう。人の人生が開花しているのを見て、羨み焦る必要は無い。自分の人生が花咲く時をじっくりと待ちそれまでの間、水と肥やしを欠かさないことだ。(11月16日)◆良く生きることと、美しく生きることは同じものである(ソクラテス)
人間には「審美欲求」というものが備わっている。しかし恐らく歴史上、今日ほどこの審美欲求の存在が疑われ否定された時代は無いのではないか。戦前の社会で、審美欲求は国家主義によって歪められ強制され破産しまい、その反動で思想・倫理観というものが懐疑されるようになってしまった。しかし思想を持たず生きることは、羅針盤を持たず航海するようなものだ。
人が生きることとは、自分の持っている人間としての可能性を具現することである。その最も人間的なものが「美しく生きる」という欲求だろう。
美しく生きるということは、「自分を育み、人を育み、社会を育む」心である。美とはその物が持つ個性が最も完全に実現された姿だから、人の美もその人の個性が最も実現されている姿ということが出来る。そして人が社会的な存在であるということを考えれば、他人の自己実現、社会の自己実現に対して自分に出来る援助・貢献を最も良く成し得ている姿であるといえるだろう。
自分と人と社会と、それらが持っている可能性が最も良く実現されていること。それが善であり、正義であり、美であり、そして真理であることは、右翼であろうと左翼であろうと否定することは出来ない。(1月3日)◆自分の人生というドラマで、他人が主役を演じることはあり得ない。ドラマが喜劇であろうと悲劇であろうと、ただ主役を演じ切ることにしか人生の充実はない。
自分の人生というドラマの中では、どう考えようと自分が主役である。主役であることから逃れることなど出来ない。主役が主役であることから逃れようとすれば、そのドラマが色あせてしまうことは明らかだろう。主役を大根役者がやっているようなドラマなど誰も見ないし、演じる満足もない。
ドラマのストーリーがいかに暗いものであっても、主役は主役でなくてはならない。演じきらねばならない。特攻隊員として死んでゆくドラマもあるし、若者を特攻隊に駆り立ててゆく社会と命がけで闘う人間のドラマもある。或いはそういう極限状態の社会に背を向けて、周りの非難を甘んじて受けても、自分の家庭の幸せを築こうとするドラマもあるだろう。真の悲劇は、自分が演じることの出来ないドラマの主役を引き受けてしまうことだ。自分が主役を出来るドラマを演じるならば、たとえそれが悲劇であろうと充足を得られるに違いない。(11月6日)◆私は人生を外部から観察する人々の最も明快な論証よりも、人生を内部から観察する人々の空想、いな、偏見をすら愛好する。(チェスタトン)
◆志をたてるのに遅すぎるということは無い。(ボールドウィン)
たとえば『大草原の小さな家』を書いたローラ・インガルス・ワイルダーは、ジャーナリストになった娘に勧められて65才になって初めて小説を書き始めた。シュリーマンがトロイを発掘するために専門的な勉強を始めたのは46才の時である。
何才になろうと、自分に出来ることでまだしていないことはある筈だ。社会的な評価などというのは結果論だ。自己限定は命に対する冒涜である。(2月1日)◆人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。(徳川家康)
◆人生は教訓に満ちている。しかし万人にあてはまる教訓は一つもない。殺すな、盗むなという原則でさえ絶対ではないのだ。(山本周五郎『赤髭診療譚』)
思想は自分の人生の設計図である。自分の人生が、他人の人生と同じではない以上、いかに偉大な人の思想でも、それを参照することは出来ても、流用することは出来ない。
いかなる人も自分で自分の思想を築くしかない。それを怠る人は設計図の無い、行き当たりばったりの人生を送るほかは無い。そして行き当たりばったりの人生を70年も、80年も続けることはほとんど不可能だ。◆人生は一冊の書物に似ている。愚か者はそれをペラペラとめくってゆくが、賢い者は念入りにそれを読む。なぜなら、彼はただ一度しかそれを読むことが出来ないことを知っているからだ。(J.パウル/ドイツの作家)
平凡なもの、一見つまらないものでも、自分にかかわるものは決して見過ごしにしない。新しいものや高価なものを欲しがるより、自分の持っているものを大切にし、これ以上使えないというところまで使いこなす。それが愛だろう。そうした生き方をしている人にとっては、例えそれが平凡な人生でも、汲めども尽きない豊かな人生がある。逆に新奇なものや世間的価値をいつも追いかけている人は、すぐにやるべきことを失ってしまい、感動も失ってしまう。そしてやることを失った時から深刻な老いが待っている。
◆「人に評価される仕事をしなければならない。社会の要請に応えなければならない。」という考えを捨てたら、はるかに多くの人生の可能性が生まれてくるだろう。◆人生は芝居に似ている。大根役者が殿様を演じることもあれば、名優が乞食をやることもある。(福沢諭吉)
自分にとって、もっとも充実した人生というのは地位や名声を得ることとは限らない。自分の自由を束縛するなら、それを捨てることもあるだろう。生きるというのは自分に与えられた力で何かを生み出すことだから、そのためにもっとも適した環境と役割を得ることこそ大切である。(5月11日)◆ ―― おれの一生は失敗だった。
―― 失敗ではあったが悔いは無い。俺は充分に生きた。(山本周五郎『由比正雪』)
徳川幕府によって追い詰められ、急迫した浪人たちを救済するために自分の人生をかけた。その結果が国家権力に弾圧され殺されるということに終わっても、自分に出来ることは精一杯やったという確信を持てることはやはり人生の勝利なのだ。◆面白きことも無き世を面白く
住みなすものは心なりけり(高杉晋作)
高杉晋作が27才の生涯を閉じる時の辞世の歌である。晋作が上の句を作り下の句が出来ず苦しんでいると、看病していた野村望東尼が下の句を詠んだ。晋作はそれを聞いて頷いて「面白いのう」と言って息を引きとったという。
彼は天才的な機略で「奇兵隊」という平民で組織された軍隊を作り、佐幕派が牛耳った長州藩の軍を破って藩の指導権を握る。その後長州藩ただ一藩で幕府軍を破ってしまう。そしてたった27才で結核で死んでしまった。時代的環境的な制約があっても、その中で自分の持てる力を使い切った。だから人生は「面白い」のだ。(6月12日)◆特急に乗りたがる者は放っておけ。各駅停車で行く者だけが、人生の隅々を見ることが出来る。
「競争原理」と「効率主義」が生み出す価値観は中抜きのゴール至上主義だ。それは疑似体験を体験とすりかえる欺瞞をはらんでいるし、バレなければ裏口入学する方が得だというような思想を平然と醸成する。
しかしそんなやり方で競争に勝ったところで、そこには実体験が何もないから、人生の充足感などある筈がない。そして、定年退職して一人になった時、彼は真にみじめな人生を味わうだろう。(8月17日)◆ある人は言う。「会社に入ってからの30年は、一瞬のようだった」と。しかし思い出を大切にする人は言う。「その30年の中に散りばめられた一瞬、一瞬は永遠の輝きを持っている」と。
人間の価値は、その人の持っている空間の広さだ。思い出はその人の体験が作った空間の拡がりだ。そして憧れはその人の未来への可能性が作る空間の拡がりだ。それは同じ心が生み出すものだ。懐かしむ心と憧れる心は同じものだろう。
培った知識、経験した出来事、成し遂げた仕事、未来への憧れ、それを実現しようとする志の強さ。それらすべての総和がその人の価値であり、魅力だろう。(6月7日)◆人生は一冊の書物に似ている。愚か者はそれをペラペラとめくってゆくが、賢い者は念入りにそれを読む。なぜなら、彼はただ一度しかそれを読むことが出来ないことを知っているからだ。(J.パウル/ドイツの作家)
平凡なもの、一見つまらないものでも、自分にかかわるものは決して見過ごしにしない。新しいものや高価なものを欲しがるより、自分の持っているものを大切にし、これ以上使えないというところまで使いこなす。それが愛だろう。そうした生き方をしている人にとっては、例えそれが平凡な人生でも、汲めども尽きない豊かな人生がある。逆に新奇なものや世間的価値をいつも追いかけている人は、すぐにやるべきことを失ってしまい、感動も失ってしまう。そしてやることを失った時から深刻な老いが待っている。(11月27日)◆悲しみも苦しみも経験しない人生などは、陰翳のない絵画のようなものだ。
「人生はひとつのキャンバスだ」という言葉があるが、自分に用意されているのはただ一つのキャンバスだけだ。そしてそのキャンバスに書き込むのは自分だけではない。自然や社会や自分を取り巻く人々が、しばしば自分の意思に反したものを書き込んで行く。だから人生という芸術を完成させるのは難しい。しかしそれだからこそ面白い。描き甲斐があるのだ。
自分の意思に反して書き込まれた「悲しみ」や「苦しみ」を受け入れ、昇華し、その翳を美しくする。そうすればそれだけ光は彩りを放つだろう。◆涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味はわからない。(ゲーテ)
最近の日本人を見ていると、悲しみとか悩みという感情を否定的に考えて、一刻も早くそこから脱出することが良いことのように思っているらしい。
昔は、たとえば愛する人を失った悲しみの中に美を見出したのだが、そういう美意識が崩壊してしまったようだ。悲しみという人間的な感情が、ただの不快という動物的な感覚に堕落してしまっているようにも思える。
愛を喪失した時には深い悲しみを持ち、人生に挫折した時には深く悩む心こそが、愛することを真に喜び、生きることを真に楽しむ心を生み出すのだ。(9月9日)◆人間はな、人生というトイシで、ごしごしこすらなくちゃ、光るようにはならないんだ。(山本有三『路傍の石』)
◆涙とともにパンを食べたものでなければ、人生の味はわからない。(ゲーテ)
◆寒さに震えた者ほど太陽の暖かさを感じる。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る。(ホイットマン/アメリカの詩人)
◇
【信念】
◆君が智恵を学ぼうとするなら、人に笑われるであろうこと、「あいつは急に哲学者になってきたぞ。何だって我々にえらそうな顔をするのか。」と、嘲りながら言われるであろうことを覚悟しなければならない。
君はけっして傲慢な態度を示してはならない。ただきみが最善を認めるものを固持せよ。そしてこれを守って動かぬならば、初め君を嘲笑した者も、後には必ず賛嘆するであろうことを確信せよ。しかし彼等に譲歩するならば、彼等はきみを二重に嘲笑するであろう。(ヒルティ『幸福論』)人の価値を否認したり、偏見で見たりするのは、心理学で防衛機制という、ネガティブな方法で自分の心理を安定させる心の働きである。自分の個性を人が非難するとき、それを知って受け止めなければならない。彼の敵は自分ではなく、彼の心の中にあるのだということを。
そして彼の心を癒すために妥協してはならない。妥協すれば彼の心の中にある価値の否認や偏見は増幅するだけだろう。
淡々として、自分が確信する真理に向かって歩むことが、結局彼との和解の唯一の道なのだ。(1月22日)
【信頼】
◆信頼とは鏡のガラスのようなものだ。ひびがはいったらもう元に戻すことはできない。(アミアン『日記』)
いくら努力しても自分を傷つけた人に対する感情が、傷つけられる前に戻ることはない。傷ついた人が許したとしても、ただ傷を残したまま許すことが出来るだけである。ひやかし・からかいやシカト・仲間はずしが氾濫する今の日本。人の心はひびだらけになっている。(12月30日)【真理】
◆真理の導く処へ赴かん。それがいかなる処であろうとも(プラトン)
人間は本来、審美欲求を持っている。損得ではなく、真理か虚偽かに従って生きることが本当の生き方だろう。人間は他人に嘘をついても自分に嘘をつくことは出来ない。自分に嘘をつけば、自分の内面に自分の世界を造ることが出来ないだろう。
自分の内面に、心の港になり、生きるための羅針盤ともなる自分の世界を築きたいと思うなら、少なくとも自分に嘘はつけない。そうであるなら、損得を捨てて真理の導く所へ赴くというのは結局自分の為なのだ。(6月19日)◆迷誤に至る道は無数にある。しかし真理にいたる道はただ一筋である。(シラー)
世間が価値だというものだけを追いかけて、あとは行き当たりばったりに、目先の楽しみだけを追いかける人生で良いのならば、真理などは必要ないだろう。
しかし、自分にとっての最善の人生を実現したいと思うのならば、真理とは何か思索することが必要だ。それは「疑い得ないことは何か」ということを、一つ、一つ積み重ねる努力である。
僕はまず「その人にとって生きることというのは、その人が持てる能力と可能性を形にすることだ」という考えをまず最初においた。その次に僕は職業とは何かと考えた。「職業とは自分が持てる能力と可能性の中で、社会が必要とし対価を支払ってくれる仕事」と。
その様に疑い得ないものは何かという思索を常に積み重ねる努力は、自分の価値が社会でどのようなものであれ、自分にとっては最善の人生をつくる唯一の道だと考えた。(1月23日)
◆なによりも第一に現時の学生に希望したきは、真理に対する従順の態度です。(吉野作造)
「人生なんかに意味は無い」という言葉をよく聞く。しかし「人間は居場所がなければ生きてゆけない」と言えば否定できるだろうか。その居場所をより良くしようとすることは、取りも直さず生きる意味ではないか。それを真理と認めればむやみに人の居場所を荒らしたりしないはずだ。
人の生き方、生きる意味にもたくさんの真理がある。それに従順であることは、人のためだけではなく、自分自身の人生を充実させることである。(12月9日)◆真実と真実が争うということはない。どちらかが虚偽なのだ。
人の行き方は一様ではない。歴史の展開も一様ではない。まず、それは一つの真実である。しかし人であることの本質がある。人間の作る社会や歴史の法則がある。それを否認して人はさまざまということは出来ない。
一方に、人や社会の為に自らの命を投げ出す人があり、一方に利己的な自分の欲求の為に社会を破壊する人間がいる。その両極端の人間を観察してなお、人間の本質がある。
猛獣は満腹すれば、餌になる動物が通りかかっても襲わない。しかし奪って生きる人間の支配欲や破壊欲は際限なく求め、際限なく破壊する。そのことは人間のみが後天的な環境や経験によって、自分の動物的な本能をも越えて、欲望を肥大化させ、破壊的になり得ることを示している。
また雄のかまきりの様に、種の保存本能として自らを犠牲にする動物はいるが、後天的に得た心理や精神によって自殺する動物などはないだろう。自らの動物的な本能をも否定してしまう。それが人間の本性なのだ。
人間は神にも悪魔にも近づける。しかしいかに異常な人間であろうと、人には自分の心理的な居場所が必要である。これは一つの真実である。だから人間は自殺することもある。そして破滅的な凶悪犯罪者の行為は、人迷惑な話しであるが、一種の道連れ自殺だろう。
何の目的をも持てない人間が、使う目的もないのに、際限なく金を貯めることに生きがいを持っていることがある。そうした自己実現のすり替えの中に居場所を求めるのも、本人は全く逆だと思っているだろうが、一種の自己否定に違いない。
人間とは何か。たとえば言語を習得する能力のように、人間の遺伝子というのは、その能力、可能性のみを与える。言語そのものを遺伝子として与えられているのではないというのが人間においては重大な意味を持っている。
言語を習得しなければ人間になれないのだ。そのことが人間の、あるいは人類の喜劇や悲劇を生み出すのだ。これは一つの真実である。
人間は言語によって、思考し、会話し、社会を作り、さまざまな可能性を実現する。それら一切は後天的なものだが、その能力は遺伝子によって与えられている。だから社会的な可能性の実現ということが、人間の本性であることもまた一つの真実である。
自殺する人間、寄生する人間、破滅的な犯罪を犯す人間・・・・これらは後天的に知識や能力を習得し、価値を創造するという人間のみが持っている可能性に対する、人間のみが持っているリスクである。
結局人間とは、習得するということでしか人間になれないし、習得するものの大きさによって、他の動物では考えられないほど個的な能力の差が出来てしまう動物だということになる。
こうして考えてゆけば、いかに神に近い人間や悪魔に近い人間がいようとも、人間らしい生き方は?と問われれば動かしがたい、論議の余地の無い真実があるだろう。(1月4日)◆真理は、それを受け入れる者には常に単純である。それを否認する者にとってのみ複雑なのだ。
真理は単純である故に、善良な人は素朴である。そしていかに無口で口下手であろうとも、彼は真理に従うゆえに最も雄弁である。
素朴な善良さをあざ笑う人間がいる。正直とは策略をめぐらせる能力の無い馬鹿のことだと思っている人間がいる。優しさとは弱い人間の処世術だと思っている人間がいる。「正義て一体何やねん。生まれてきたら人を押しのけて、人を支配して、出来るだけ良い思いをして死ぬだけや。いい格好しても赤いリンゴも一皮剥いたら白いやないか。強いものが勝つんや。その他大勢の大衆は騙されることが分相応なんや。賢い人間が国家を支配して、『愛国心』を煽り立て、阿呆な国民に国家を拝ませて、賢い人間に従わせる。それが正義いうもんや。」などと言う人間が主役を占める時代がこの30年間続いてきた。こういう人間がペダンチックに思想を武器にする時、ものすごい複雑な論理を捏造する。
しかしいかに善悪を相対化しても、人間は個が内部に持っている能力と可能性を実現しようとする本性を持っているし、他者の自己実現を助けながら種が持っている進化の可能性を追求する本性を持っている。それを全うすることが善であり、それを否認することが悪であることをどうして否定できるだろうか。
それ故に自分と家族や友人を、さらには社会や環境を「育むこと」が善である。そして「育む心」が愛である。それをどうして否定出来るだろうか。
「単純なものなどつまらない。誰にでもわかるものなどを受け入れたら自分の優越感は満たされないし、自分の居場所にならない」という単純な優越感コンプレックスを持った人間が、しばしば難解な思想を発明する。閉塞した時代にしばしば彼らは寵児となるが、彼らはいつもさんざん人を惑わせたあげく、無責任に変節してゆくのだ。(6月6日)◆真理は永遠だ。神でさえ起こったことを起こらなかったことにはできない。(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)
世間的な価値観や風潮をキャッチするレーダーだけ手入れして、羅針盤を持たずに人生を航海する人が多い。その人は「上意は道理に勝る」「権威は道理に勝る」「多数は道理に勝る」と考えて生活している。しかしそれでは自分の世界に向かう航海などは出来ないだろう。上意も権威も多数も曲げることの出来ない真理を認めることが自分の人生の羅針盤になるのだ。(1月9日)
《す》
【ずるさ】
◆生きるためにずるいことをするのは仕方がないのかも知れない。しかし、ずるいことをする人間が主役になるような社会は退廃し衰退してしまうだろう。(Syuugoro)
失業中の若者が田舎の母が病気になって、帰省するのにキセルをやるのと、裏口で有名大学に入った人間が、それでも満足せず名誉を欲しがりコネや賄賂でそれを手に入れるとは同じ不正でも質が全く違う。裏口人間が主役になったら、社会のルールは空洞化し、みんな裏口から入るのを真似し始めて、本当の価値や才能が埋もれてしまう。(5月10日)
《せ》
【正義】
◆「貴公は貴公の好むように生きろ、おれはおれの信ずる道をゆく。一言云っておくが、正しさというものを余り無力にみるなよ。」(山本周五郎『虹彩』)
主人公の樫村伊兵衛が親友だった脇田宗之助が出世のためには平気で人を利用する人間だと誤解して絶交する時にいった言葉だが「正しさというものあまり無力にみるなよ」という言葉には周五郎の思想が現れている。
多くの日本人は正しさというものを自分の要求を通すための方便、道具だと考えている。しかし周五郎は正しさというのはもっと深く、人間の生き方の羅針盤になり得るものだと考える。それは損をしても正しさを守ろうという気持ちが、結局はより大きな自己実現、人格の完成をもたらすという信念である。
事実損をしても正しさを守ろうとする人が少数でも存在する。そして「人間はみな勝ち負け・損得と快楽で生きている」と信じる人間の前に立ちはだかり、その計算を狂わして失敗させることがある。◆法の決めたもの以外は、公正が正義である。(アリストテレス)
法を遵守するだけでは、人としての義務が果たされたことにはならない。学校の教師が生徒を依怙贔屓(えこひいき)したり、会社の上司が、自分の出世や利益のために部下を利用したり、自分がされたら嫌なことを人にして反省するどころか、それで優越感を感じたりする、そんな人間が氾濫したら皆んな不幸になってしまう。
孔子が2600年前に言った「己の欲せざることを、人に施すなかれ」というのは洋の東西を問わず、倫理の第一にあげられるものだろう。その考えを持たない人間は、いくら法律を守っても、倫理を持たない人間という意味で、人間ではない。倫理観を持つというのは、人間の本性なのだから。
自分にも人にも公正であるというのは、なかなか難しいことだが、それは自分を成長させるためにも常に持っていなければならない考えだ。そして、同等の権利を持つ人に対して、不平等に物を与えるというような依怙贔屓は、公になされたら犯罪になる性質の悪である。
戦後の日本人は善悪を素朴・単純に考えることを笑う体質を身につけてしまった。その背景には利益至上主義や競争原理を正当化する支配イデオロギーがある。そして大人の考えを子供がまねて、どこまで行くかわからないような「いじめ社会」を作ってしまった。
倫理において真理というのは常に単純である。それを意図的に複雑に見せる者には、必ず言えない魂胆がある。(6月18日)【誠実】
◆約束するのに最も手間取る人が、一番忠実に約束を守る。(ルソー)
誠実な人というのは、自分に出来そうにないことは、決して約束しないのだから、相手を喜ばせるような言葉を軽々しく言わない。それどころか、耳に痛いようなことを言うこともあるだろう。
自分を喜ばせるようなことを言う人ではなく、自分の長所も短所も見ていてくれて、なお自分の価値を認めてくれている人こそ、最も大切にしなければならない人である。【青春】
◆若さが幸福を求めるというのは衰退である。(三島由紀夫)
こんな言葉を取り上げても、「それが何故悪いの。今が楽しければ、それでいいじゃない。」と言うかも知れないが、若さは本来何にでもチャレンジして、自分の人生をふくらませるエネルギーをもっている筈だ。◆青春は単に人生の花盛りではなく、来るべき結実の秋への準備の季節である。(竹越与三郎)
年を取ることの価値というのは、自己実現する意思を捨てなければ誰でも得られるものだと思うが、その意思を持ちつづけないと、何の進歩もなくただ年を取ってゆくだけである。
青春は享楽するためにあるのではない。草木が花を咲かせるのは実を結ぶためである。その自覚を持って、青春の時間を充実して生きなければならない。そして老年が人生の完成の時であるといえる生き方をすることこそが、幸福な生き方であることは疑いないだろう。
竹越与三郎は福沢諭吉の弟子で歴史家、ジャーナリスト、政治家として活躍した人である。戦前の軍国主義の台頭の中で貴族院議員や枢密顧問官などをしていた人だから、その思想には環境的な制約があったが、ジャーナリストとして自由主義的な筆陣を張った人であった。ベストセラーとなった著書『二千五百年史』は講談社学術文庫から復刻出版されている。(11月27日)
【精神】
◆社会には剣と精神という二つの力しかない。結局のところ、つねに剣は精神によって打ち負かされる。(ナポレオン)
この言葉はナポレオンが言うから説得力がある。剣というのは、物という言葉に置きかえても良いだろう。物を追う人生は結局は挫折し、精神を追う人生は成就する可能性を秘めている。(12月18日)【精神力】
◆心頭人滅却すれば火もまた涼し(快川紹喜)
これは武田氏が滅亡する時、燃える火の中で快川紹喜という禅僧が言った中国の古典にある言葉だが、苦痛や快楽はあくまで感覚であって実態そのものではないということを身をもって体現したわけだ。こんなことは凡人で出来ることではないが、少しはこんな気持ちを知っていれば、ちょっぴり強くなれるのではないか。【成長】
◆成長を欲する者は、まず根を確かに下さなくてはならない。 上にのびる事のみ欲するな。まず下に食い入ることに努めよ。(和辻哲郎)
功名心につかれて、ただ世間的な評価を追い求めるだけで、自分の内実を深め、自己実現することの喜びを忘れたら、結局最後は根を持たない木が倒れてしまうように自分の人生も挫折するだろう。
認知欲求というものは自己実現をする自分の精神に他人の共感を求めるものであるべきだ。そして他人の賞賛から得るものは共感であるべきで、決して優越感を満たそうとすることであってはならない。
他人の賞賛や世間の評価、社会的な地位がもたらす優越感、それを求める功名心などで自分の人生を作るべきではない。そういう生き方をすれば自分の内面に発する本当に自分がやりたいこと、本当の自己実現を見失ってしまうだろう。
人の評価は後からついてくるものと心得て、今はかりに人が認めてくれなくても、世間的な価値を追うのではなく、ただ自分の持っている能力と可能性をより良く実現することが人生だと心得るべきである。そういう生き方が最も価値ある自分を創るのだ。(4月30日)【生命の尊厳】
生命の尊厳とは、つまり精神の尊厳である。(Syuugoro)
【世間】
◆智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角人の世は住みにくい。(夏目漱石『草枕』)
「智」・「情」・「意」、このバランスが大事なのだろう。それが本当の智恵である。しかし日本という社会は「協調」という名の同調と、「謙虚」という名の卑屈を人に要求する人が多い。そして慣習に寄りながら既得権にしがみつく即物的な保守主義が蔓延している。
そういう人々にとってはそばにプラトンやキリストや孔子や釈迦のような人が居たとしても、肩書きがあるか、世間的な評価が定まらなければ、その人の言動と行動だけでは決して価値を認めないだろう。「価値を価値として認めない。これを野蛮という。」という言葉があるが、日本というのは思想的には漱石の時代と変わらず、あるいはそれよりもさらに未開社会なのかも知れない。(5月30日)【善】
◆積極的な意思を伴わない善は、かえって人を毒する。(山本周五郎『赤髭診療譚』)
善というのは、単に社会的な規範や倫理観に基づいて行動することではない。功利的に世間の評価を得るために、倫理的であるなら、それは偽善となる。その人の善意がその人の欲求に発するものでなければ、それを受ける人も本当に心を開くことは出来ないだろう。
本当の善意かどうかは「哀れと感じる心」を持っているかどうかですぐわかる。「哀れと考える心」ではない。「感じる心」である。今の日本の教育は理解力、判断力を与えようとするが、「感じる心」を与えない。だからけなげに人に尽くす純粋な心を見て涙ぐむような心が育たない。今の日本人は憐憫の情が涸れてしまっている。
人を育む心が「愛」である。可哀想と思う心が「情」である。それを充たそうとする心が倫理的な行動をさせる時、それがはじめて「善」である。(5月9日)◆「いっておくが、人間が善良であることは決して美徳じゃないぜ、そいつは毀れ易い装飾品のようなもので、自分の良心を満足させることはできるが、現実には何の役にも立たない、そのうえ周囲の者にいつも負担を負わせるんだ」(山本周五郎『栄花物語』)
無菌体質の人間の脆弱さを指摘した深い意味を持つ言葉だが、今の時代のように倫理観が崩壊してしまった時代には危険な言葉だ。しかしやはり踏まえておかなければいけない。
人間の影の部分も人間的なものとして切り捨ててしまってはいけない。本当に自分と人と社会を育む心、つまり愛を持つためには、不道徳を居場所にしなければ生きてゆけない人がいることも、不道徳を経験することによって、本当にそれを克服する力を得ることも知っていなければならない。◆善なるものは弁ぜず。弁ずるものは善ならず。(老子)
本当に自分のなかにある善を実現しようとするものは、人の賞賛などは求めない。善は人のためではなく、自分のために必要なもので、それを行なうこと、「真善美」を自己実現しているという充足感のみが善行の報酬であるからだ。
人の報酬を求めれば、すでに善は偽善とならざるを得ない。そして善は人の賞賛がなければ、たちどころに消えてしまう影になってしまう。(11月29日)【善と悪】
◆たしかに生と死、名誉と不名誉、苦痛と快楽、富と貧、すべてこういうものは善人にも悪人にも平等に起こるが、これはそれ自身において栄あることでも恥ずべきことでもない。したがってそれは善でもなければ悪でもないのだ。(マルクス・アウレリウス)◆愛してもその悪を知り、憎みてもその善を知る。(礼記)
自分が愛している人でも、悪いことをしたら厳しく叱責し、また自分の嫌いな人でも、良いことをしたら正当に評価する。このような公正な態度を保つことが、そんなに難しいだろうか。出来ないのではなく、したくないのだ。ずるさを確保しておきたい、そんな瞞着が今の世の中にははびこっている。
しかし善悪というのは人生の羅針盤だから、それがなければ生き方に迷ってしまう。自分の子供にずるさを教えてしまったら、結局子供は不幸になるだろう。(11月26日)◆もし悪が、人と社会の持てる可能性を最もよく実現する道ならば、それが善だ。(Syuugoro)
つまり、その社会の法と権力のあり方が間違っているということに他ならない。
例え民主主義社会であれ、権力を行使する者は、つねに自己保存の本能を持っている。そしてしばしばその保身のために社会のなすべき変革を妨げ、人の持てる可能性を制限する。
もし人が正義を求めるならば、自分の能力の範囲において、この権力の生む毒を監視し、それと対決する勇気を持たねばならないだろう。◆悪とは善の生み出す影である。それ故、善が変われば悪も変わってゆく。だから僕らはその影に惑わされてはいけない。影は光がなければ存在しないものだからだ。(Syuugoro)
「悪があるから善がある。それ故悪は善の存在理由で必用なもの」というような言葉をよく聞く。しかしそれは反対である。悪が自立して存在する道理がない。
それでは善とは何か。法や規律、約束を守ることか?そんなことではないだろう。それは自然の摂理に従うこと。人間の本性に従うこと。それに従って人と人の社会が内在させている可能性を実現しようとする意思だろう。
自然は進化する。人間もまた存続し、生産し、進化しようとする本性を持っている。その本性を疑い、否認し、自らは生産・進化する意思を持たず、なお自分の居場所を確保しようとすれば、それは善の生み出したものを奪い、それに寄生せざるを得ない。それが悪である。
悪に惑わされてはならない。自ら創造し、進化しようとする意思を捨てて、他者の生み出すものを奪い寄生しても、そんな生き方には決して人間としての充足が無いからだ。(11月28日)
《そ》
【創造性】
◆料理を作ったら人に食べて欲しいし、誉めても欲しい。それは健全な認知欲求である。しかし作る喜びを知らず、ただ自己顕示欲のみが露出している人は言い様も無く醜い。(Syuugoro)
作る喜びを知る人はたいてい寡欲である。料理を作る喜びを知っている人は、作った料理を自分の皿に一番少なく盛るだろう。それは愛につながる心だ。作る喜びを知らない人は人の作った料理を、自分の皿に一番多く盛る。そして彼は愛する心も知らない。(3月8日)◆創造する者は寡欲である。(Syuugoro)
紙とペンが有ったら詩でも小説でも書ける。創造の世界に没頭している者にとっては人の物を欲しがっている暇などないだろう。彼が創作している時に欲しいものはインスピレーションだけだ。そして完成した時に欲しいものは、彼の作品を理解してくれるひとりの人だけだ。
有り合せの材料で子供の弁当を作ってやる。おかずでごはんの上にかわいい動物の絵を描いてやる。それが子供に夢を与えてやることが出来れば、子供は「買って欲しい」と言わず、「作って欲しい」と言うだろう。「作って欲しい」と思う心は「自分も作ろう」と思う心を育てる。「買って欲しい」という心がそれを育てることはない。(3月4日)◆作る心がなければ、育む心は生まれない。育む心がなければ、愛する心は生まれない。(Syuugoro)
昔、自給自足の農村では、百姓は自分の家は自分で作った。僕の子供の頃でも、犬小屋を買う人などは殆どいなかった。庭に小屋の一つも自分で作れば、それは本当に自分の城だった。女は本を見ながら、自分で型紙を作って服を縫った。漬物などは自分の家で漬けるのが当たりまえだった。だから家ごとに味が違った。
自分で作るから、物を大切に育てようという心が生まれる。そして自分の周りの人を育む心が育つ。
何でも買ってすませるというのは、知らないところで、人間にとって最も大切な物を破壊しているのだと思う。(6月4日)【想像力】
◆想像力は知識よりももっと大切である。(A.アインシュタイン)
自分の世界を持たず、世間的な価値を追い求める人は、考えることを楽しまず知識だけを増やそうとする。自分の世界を持たない人が、その知識によって世間からいくばくかの賞賛と名誉を得たとしても、そんなものは傍に人がいなければ影のように消えてしまう。僕はそんな人の年老いた姿の醜さ、侘しさを知っている。
自分の世界を持つ人は、自分の世界を作るために知識を得ようとする。知識よりも先に感受性がある。それが想像力を生み、知識を養分として求めるのだ。そうして育まれた自分の世界は、生きがいであり、幸福の住処であり、真に自分の人生の舞台である。(2月8日)【即物漢】
損得や勝ち負けと目先の快楽でしか行動しない即物漢ほど、自分の感情を抑制できず、利益を台無しにするような愚かな行動を取るものだ。(Syuugoro)
相手の一言にかっとなって暴力をふるうような人間は、たいてい損得や勝ち負け、目先の快楽を追いかける人間である。精神的な価値を大切にする人間ということは殆どないだろう。即物的な人間ほど、自分を非難する一言を逆恨みして、自分の人生を捨ててしまうような行為をするのだ。
自分の世界を持つ人は、その心の海が深いほど、大きな石を投げ込まれても、大きな波は立てないだろう。(3月15日)【即物性】
◆金銭や名声、快楽などを愛する者は、人を愛し得ない。(エピクテトス/ギリシャの哲学者)
身体的欲求や物質的欲求、出世欲、名誉欲などが価値の実態で、愛とか理想とかは幻想だと思っている人がいる。そんな人が多数派になっている社会では、誰も幸福になれない。片思いでもいいから人を愛する人になろう。そして人を愛する心を持った人々のネットワークを作ろう。