Syuugoroの格言集
《た〜の》
【た】旅 多忙 魂 騙す 堕落 【ち】智恵 知識 チャンス 中道 中年【つ】罪 【て】抵抗 敵 天才 天性【と】読書
《た》
【旅】
◆人が旅をするのは到着するためではなく、旅をする為である。(ゲーテ)
かりに目的地に到達できなくても、そこに至る道のりには多くの発見がある。到達という結果しか見ることが出来ない人は、そこに到達しても何も発見しないだろう。発見する目を持たない人の人生には、何の花も咲かず、実を結ぶこともない。(8月24日)【多忙】
◆やたらに忙しいというのはどんなもんでしょう。『忙』という字は『心が亡びる』と書きます。(高田好胤/薬師寺館長)【魂】
◆物質的な貧困は容易に癒されるが、魂の貧困はけっして癒されない。【騙す】
◆人は、愛するものによってたやすく騙される。(モリエール)【堕落】
◆落ちる道を落ちきることによって自分を発見し救わなければならない。(坂口安吾)
世間の目を気にして建て前にしがみ付いていたら、どこまでいってもニセの人生を生きなければならない。虚飾を捨てて本音を人前にさらけ出すことによって、はじめてその本音を磨くことが出来る。◆悪貨は良貨を駆逐する。(グレシャム)
これは自然現象ではなく、人間の心理現象である。だから人間のかかわるものには何にでも通じる。
本当に日本や日本人のために有益な、有能な人は雌伏し、権力欲や支配欲、出世欲、名誉欲、自己顕示欲で「なりたがる」人間が政治家になったり、組織の中で出世する。
戦前、現実主義者とは軍国主義者のことであった。合理主義的に、英米と戦争するのは無謀だと言って日米開戦に反対する人を、彼らは「アカ・非国民・国賊」と罵って弾圧した。その軍国主義者が戦後は自分のことを自由主義者と言っている。彼らは戦前、戦争に反対した人々を弾圧したことを何とも思っていない。いま自由主義や民主主義を標榜していることと何の矛盾も感じていない。
目先の欲を追いかける者、「なりたがる」者が、良識ある者、合理的に将来を予見し警告する理性と見識を持った者を排除するという構造は今もまったく変わっていない。
悪貨が良貨を駆逐するのを放置するなら、社会は混乱し閉塞する。今の日本の政治の腐敗、社会の閉塞状態を考える時、悪貨を取り除く作業をすることが何よりも急務である。(1月25日)
《ち》
【智恵】
智はなお水のごとし。流れざる時はすなわち腐る。(張詠/中国宋時代の政治家)
科学的な真理でも時代とともに変わるのだから、人間社会の常識などは、常に変化するし何が正しいかも時と所によって変化する。過去の価値観や常識に拘泥すれば、それがすなわち偏見となる。流れざる時は腐るのだ。
時代とともに生きて、常に時代の中で最善の道を求めるというのは、無節操とは違う。無節操とは自分の利益になる理屈ならなんでも引っ張り出してくることだ。(5月29日)【知識】
◆知って知らざるを上とす。(老子)
本当の思想・倫理的な知識というものは自分の日常の行動の中に肉化されているものである。だから意識することがない。それは自己実現として得られたものだから、人が見ていようと、いなかろうと変わらないものである。
損得とリスクで世間の目に追随するような思想や倫理などは、目先はそれらしく見えてもメッキはすぐに剥げてしまう。空虚な見せかけの人格を作るだけである。(1月24日)◆知識は、単に記憶力によってではなく、自分の思想上の努力によって獲得された時にのみ知識である。(トルストイ)
【チャンス】
◆太陽が照っているうちに、乾草をつくれ。(セルバンテス『ドン・キホーテ』)
人生には、今しか出来ないことがある。青春のエネルギー。人との出会い。生きがいを得るためのチャンス。中年になって得られる人生や社会を洞察する力。老人が過去を語り継ぐ仕事。それらを見逃さず、今日を大切に生きる。それが充実した人生を作るのだ。(5月4日)【中道】
◆中道というのは穏健ということでも折衷ということでもない。まして矛盾や対立、葛藤を傍観することではない。
釈迦は「琴の弦が張り過ぎても緩みすぎてもよい音が出ないように、欲望に身を委ねることも難行苦行をすることもどちらも間違っている。」と言っている。最も良い音のするように琴の弦を張るように、最も自分の持っている能力と可能性を実現できるように、そして自分の関わる人と社会が最も良く自己実現できるように自分の道を選択することだ。【中年】
◆五十にして天命を知る。(孔子)
本当に自分が何をなすべきかを知るのは50才だと孔子は言う。そして孔子は人生とは年老いるまで成長しつづけるものだと教える。今の日本は「年功序列」という価値観が、国民を実質的に支配している企業によって猛烈に破壊されている。中高年者も、そんな風潮の中で知識形成や人格形成の努力を放棄してしまって、後輩に教える気持ちを失ってしまっているようだ。
その為に、人生経験の少ない若者の価値観が社会の前面に出てしまって、非常にネガティブな意味で、これまで社会を支えてきた価値観が崩壊し続けているようだ。
たとえば子供の為に最適の環境を与えようとするのは、時代がいかに変わろうと、親の有り方として当然のことの筈だが、今の若い親を見ていると、自分の楽しみや、欲求を優先して生活の設計を考えるのを当然と思っているようだ。だから叱らなければならないところを叱らず、助けてやらなければならない時に放ったらかしにしてしまっている。
自分自身が成長し続けていなければ、子供に対して包容力を持って接することは出来ないだろう。50なって、はじめて本当の自分の仕事が分かるといえるような向上心を持ちつづけたいものだ。(7月18日)
《つ》
【罪】
◆組織の中では、しばしば、罪があって排斥されるのではなく、排斥する気があってから罪が作られるのだ。(埴谷雄高『深淵』)
職場や学校での仲間外しの実態の多くは、本人に罪は無く、仲間外しする側のなわばり作りに起因する。「ダサい」「汚い」「ネクラ」「貧乏」・・・果ては「まじめだから」「優等生だから」という理由でなわばりを作る人間によってエゴイスティックに排除される。外された人間は孤立しているから、絶対的に少ない情報しか得られず、孤立した環境で仕事や学校の活動をしなければならないから、なわばりを作る人間が攻撃する材料はいくらでも生まれる。そしてあたかも外された人間の行為が原因で、彼は皆から嫌われているのだという逆転した論理がまかり通るのだ。
スキャンダルの多くは、排斥しようとする者がシナリオを作ったものだ。孤立した人間を多数の論理で裁いてはならない。多くの場合、排斥しようとする人間こそ裁かれなければならないのだ。
集団的サディズムは日本人に特有な精神的病理だというのは、多くの心理学者が指摘している。絶対に正当化できない日本人を腐らせる体質である。(5月5日)
◆罪は憎むべきものである。しかし悔い改めたる罪ほど世に美しいものはない。
(西田幾多郎)
排他的な、攻撃的な、破壊的な、反社会的な、自己中心的な行為をする人がいる。人を傷つけ、人の物を奪い、あるいは多数や権威を頼んで弱者を排除して快感を得る人間がいる。僕はその人を憎むし、避けるか、あるいは反撃しようとするだろう。
僕は、その人を矯正しようというような高慢な考えはない。しかし、その人がいつか「育む心」を取り戻し、人を、自分を育てようとする心を持つようになるかもしれない。それを見届ける目と、その人が「育む心」を持ったとき、それを受け入れる心は常に失わずにいたいと思う。(6月14日)◆人間は罪を造らずに、生きてゆく事はできない。(倉田百三)
人が地位や富を得ることはもちろん、職業を得ることも、恋人を得ることも、必ず誰かを排除している。人の為のいかなる善言も、一方で誰かを傷つけている。
だからこそ何よりも公正でなければならない。必要な時には身を引くことを知らねばならない。
自分が得る地位や富は、それを最も有効、有益に利用できるという限度において許されるのだろう。人と争って恋人を得ることは、それが恋人の個性を最も生かす限りにおいて許されるのだろう。人に対する善言も、それがその人をより良くする限りにおいて許されるのだ。
そして他者の自己実現を助け、社会をより良くしようとする心がなければならないだろう。
つねに忘れてならないのは、人と社会と、人間が恩恵を受けている自然が、最もより良く、その可能性を実現できるようにということである。(1月29日)
《て》
【抵抗】
◆すべての悪に対して、平静な抵抗が最高の勝利を収める。(ヒルティ『眠れぬ夜の為に』)
怒りは一見、力を感じさせるが、実際は冷静な判断を奪い、人を隙だらけにしてしまう。平静な心で無益な争いは避け、それでも闘わねばならない時は、さらに平静な心で闘うべきである。(7月8日)【敵】
◆本当の敵は沈黙している。(バレリー/フランスの詩人)
獲物を襲う禽獣は、敵に気づかれないように忍び寄るものだ。そんな人間が傍にいることを思えば嫌な気持ちになるが、それを見極める力を持っているかどうかで自分の運命も変わるだろう。(5月16日)◆己自身より質の悪い敵はいない。(キケロ)
外から自分を毒するものには立ち向かうことが出来るが、自分の内部から自分を毒するものに立ち向かうのは難しい。人の成功や幸福を嫉妬する心は、人を傷つけるのみならず、自分をも蝕んでゆくのだが、そのことに気づかない。
「嫉妬」を「憧れ」に変える為には「自分の世界」を持っていなければならない。「自分の世界」とは自分の心の城、心の港である。それがあってこそ、人の幸福から自分の行き方を学び、人の成功に感動することが出来るだろう。
自分の世界を持つ為には、人と比べて自分は劣っているなどと自分を値踏みする心を捨てることだ。 自分の持っている可能性を形にすること。それを自分の目的にすることだ。(5月28日)◆救いを求めるならば、正しい友か、激しい敵をかを求むべきである(ディオゲネス)
一人の敵も持たない人間は成長することもないだろう。しかしつまらぬ人間を敵にしてはならない。自分より劣ったものを敵にして、それに勝ったところで、何一つ得るものはないだろう。強いものに媚び、弱いものに傲慢な人間は、単に醜いだけでなく、人を傷つけ、自分をも腐らせる。
友を選ばねばならないように、敵もまた選ばなければならない。すぐれた敵を持ってこそ自分もまた成長することが出来る。(1月7日)◆笑ったものが皆友ではない。怒った者が皆敵ではない。(モンゴル諺)
「良薬、口に苦し」という言葉があるが、それを我慢して受け入れる心が、自分を成長させ、真の友を見出すのだろう。しかし真の友はなかなかいないものだ。ディオゲネスという古代ギリシャの哲学者だったと思うが「人間はいないか。人間はいないか。」と叫びながら町の中を歩いていたという。
損得・勝ち負けと目先の快楽を追って生きる人は、損得と快楽の為に友を作る。しかし真実を求める人は、「人として自分に与えられた能力・可能性を全うすること」を忘れず、互いに育みあえる人を求め、友とし、妻とする。前者が喧嘩するのはただ餌の奪い合いであり、後者が喧嘩するのは易きについて志を忘れた友への叱咤である。(6月29日)【天才】
◆天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの汗である。(エジソン)
しかも、ひらめきというのも自分の記憶の中に蓄積された情報の内部反応だから、これも結局日々の努力の結果である。大きな天才は選ばれた人のことだろうが、小さな天才は誰もが持っている。◆天才とは、先例なしに正しく行動できる能力である。(ハバート)
一見、いつも人と違う行動をしながら、実はつねに周囲を意識して、それに反発したり、奇をてらって自己顕示しているだけの人がいる。これは自分の世界を持っているようで、決して自分の世界を持っているのではない。
周囲に依存している自分を見つめ、人に顕示しようとする自分を捨てて、もう一度孤独の中で、自分の内側から生まれる欲求を見出さなければならない。なおかつそこで生み出された自分の世界は社会、或いは歴史の中で真実といえるものでなければならない。
今の社会の中で受け入れられるもので無くても、将来の社会の中で受け入れられるという確信。それを持つことが出来れば、そこに生まれた新しい思想、新しい知識は天才といえるものだろう。(12月11日)◆天才というのは決して我々凡人に無縁のものではない。いつも考えていれば、いつかひらめきが生まれる。それが天才である。いつも考えているか、そんなことは無駄だと人にまかせるか。それだけの違いである。(Syuugoro)
望遠鏡を発明したのはガリレオである。しかし当時街の眼鏡屋は二枚の眼鏡を合わせると遠くのものが近くに見えることをすでに知っていた。ガリレオがやった仕事といえば、どうしてそうなるのかと考えることと、それを筒に据えつけて空に向けることだけだった。
アインシュタインは子供の頃に、友達と光より早い乗り物が出来たらどうなるかという話をしていたことが、後の「相対性理論」を生んだと言っている。
いかなる天才の仕事も無から有を生じたわけではない。ただ普通の人が時折考え、ほったらかしにすることを、目的を持った疑問として、つねに頭の中に置いて考えつづけているだけである。それが付け加えられる新しい知識と一緒になって、無意識のうちに自分の頭の中で熟成され、ある時、ひらめきとなって新たなものを生み出すのだ。
凡人の生み出す天才は、小さなものかも知れない。しかしたとえ小さなものでも、自分が考えつづけることによって、自分が生み出したと言える新しいもの得ることが出来たら、どんなにすばらしいだろう。つねに目的を持った疑問を頭の中で考えつづけること。それが創造の秘訣である。(12月10日)
【天性】
◆人の天性は良草を生ずるか、毒草を生ずるかのどちらかである。だから折を見ては良草に水をやり、毒草を取り除かなければならない。
《と》
【読書】
◆反対したり、論難したりするために読書をしてはならない。
信じたり、鵜呑みにするために読書をしてはならない。
ただ自分が感じ、考えるために読書をしなければならない。(F.ベーコン)
思想は自分の価値判断の基準であり、人生の設計図だ。自分というものが、固有なものである以上、その思想も自分のものでなければならない。人の思想は、それがどんなにすぐれたものであっても、その人のものであり、自分のものではない。それを参照することは出来ても、流用することは出来ないのだ。(6月21日)◆読書は、しばしば、考えることを回避するための巧妙な手段である。(アーサー・ヘルプス)
◆読書は充実した人間を作り、会議は覚悟のできた人間を作り、書くことは正確な人間を作る。(F.ベーコン)
◆本を読みたいという熱心な人間と、読む本が欲しいという退屈した人間との間には大きな開きがある。(G.チェスタートン/1874-1936 イギリスの小説家、評論家)
《な》
【悩み】
雨が降るのは聞こえるが、雪が降るのは聞こえない。軽い悩みは大声で叫ぶが、大いなる苦悩は沈黙する。(アウエルバッハ)
本当に苦悩している人は沈黙しているから目につかないことが多いだろう。しかしそれはもっとも人の愛を必要としている人だ。やがて彼は人の愛に助けられて、苦悩を克服し最も強い価値ある人格を獲得するだろう。僕は彼を助ける人になりたいと思う。
愛とはただ人を助けることではない。人を育むことによって自分も成長している。そして彼が立ち直った時、彼はその愛でさらに多くの人々を助けるのだろう。(5月21日)【慣れ】
慣れが軽蔑を生む。(ププリリウス・シルス『格言集』)
《に》
【憎しみ】
◆我々が人を憎むとき、我々は彼の姿をかりて自分自身の内部にある何者かを憎んでいるのである。(ヘルマン・ヘッセ『デミアン』)
何故人を憎むのか自分の心を見つめてみれば、憎んでいる人と同じ欲求が自分の中にあることに気づくだろう。もし同じ気持ちがなければ、その人の行為が理解できないだけだ。それに気がつくならば、人を裁くときは、常に自分をも裁かねばならない。それがなければ、やった行為はともかく、心理的には自分も憎む相手と五十歩百歩ということになってしまう。
人を憎む時には、人の為ではなく、他でもない自分の為にまず自らの心を正さねばならない。(9月6日)◆憎しみの大半は嫉妬か、辱められた愛に他ならない。(ヒルティ『眠られぬ夜の為に』)
◆憎悪は臆病者の復讐である。(バーナード・ショー)
人から攻撃されたり、疎外されたりして、すぐに反撃できなければやはり、臆病者でなくても相手を憎むだろう。憎むなとはいえない。しかし、一方で冷静に相手を観察する目を持っていなければならない。「ひやかし・からかい・仲間外し」など、今のいじめ社会の中で人間らしくあろうとすれば、相手と同じような人間になってはならない。ともかく自分が何をされているのかを正確に把握することだ。それが出来れば解決の糸口は見つかるだろう。(7月4日)◆憎しみは、その心を抱く者の上へ帰ってくる。(ベートーベン)
確かに人を憎めば、結局自分を自分で傷つけることになるのだろう。しかし今の日本のようないじめ社会に生きていると人を傷つけたり、排除したりする人間と会わずにすませることは出来ない。その時どうしたらいいのか。黙って耐えているのが良いのか。
不当に人を傷つけたり、排除したりする人がいれば、それを告発する人がいなければならない。誰か自分の他に言ってくれる人がいれば問題は無いが、いなければ自分が告発するしかない。しかしただ自分の憎悪を爆発させても却って孤立を深めるだけだ。
僕にいま考えられる方法は、憎しみを悲しみの感情に変えて、その気持ちに共感してくれる人を探すしかないということだ。共感してくれる人が現れたらかならず人を傷つける人間は必ず孤立する。(5月16日)【日記】
◆歴史を持たない社会が進歩しないように、日記、つまり自分の人生の記録を持たない人は、身体で覚えられるだけの成長しかできないだろう。(Syuugoro)
人は日々、知識や技術、経験を積み重ねながら、それを生かし、試行錯誤し、新たなものを生み出して成長してゆく。過去に築かれた知識・技術・経験が進化と成長と創造の土台であることは社会の歴史も、人の人生も同じである。感動したこと、満足できたこと、不満が残ったこと、考えたこと、体験したこと、新しく得た知識や技術、工夫をして成功したこと、失敗した原因などなど、それらを記録することがなければ、成長のための土台を持つことができない。ただ身体で覚えられるだけの成長で終わってしまう。
日記をつけることで、自分の行動の軌跡、心の軌跡、成長の記録を残してゆけば、それを土台にして次の成長・発展をすることが出来る筈だ。
人生は一日一日の積み重ねである。今日一日の生活が、昨日の土台の上に築かれているような生き方をしなければならない。【人気】
◆人気はその日の風とともに変わる。(J.ブライト/イギリスの政治家)
特に今の日本では人気者といわれ、多数派を作って仲間外しをする人の方に、人格的な欠陥があることが多い。排他性が正当化される異常な世の中である。そして正義感を価値と認める人が一割しかいないという正常人受難の時代である。
しかしみんなで水を汚せば誰も水を飲めなくなるのだから、いずれ排他的な人気者などを正当化する社会は持たないだろう。「仲間外しをしないというのが、人気者、あるいはリーダーとしての最低の条件である」ということは西洋人でも東洋人でも認める普遍性をもった最低限の倫理である。
「情けは人の為にならない」というような誤解を生む狂った社会は、そんなに長く続かない筈だ。明日の日の人の信頼を得るために「排他性」と対決し、「人を育む心」を守りたい。(9月18日)【人間】
◆同じ花から密蜂は蜂蜜を作り出し、毒蛇は毒液を作り出す。(ユダヤ諺)
人の才能や人格を見て、それに憧れを持つ人は、そこから多くを学び、自分を成長させるエネルギーを得るだろう。同じものを見て嫉妬する人は、そこから不快感と焦燥感を得るだけで、何も学ばず、ただ相手を貶める以外、自分の為には何のエネルギーも得ることがない。
しかし特に今の日本人の男を見ていると、やたら毒液を作り出す人間が多いように見える。競争主義に煽りたきつけられて、みんな自分を見失っているようだ。(6月25日)◆人間は他人の経験を利用するという特殊な能力を持った動物である(コリングウッド/哲学者)
◆人間は学習する動物である
人間は思索する動物である
そして人間は創造する動物である
それは能力の優劣の問題でもなく、受けた教育の問題でもない
すべての人間にとって学び、考え、作ることが人間性の証なのだ
【人間関係】
◆感動する心や共感する心を持たず人を求めれば、人間関係は功利と快楽のための道具になってしまう。
同質的な関係であろうと、相補的な関係であろうと、その人が友と呼べる人となるには、まず感情移入できる能力、同情できる心がなければならない。「遊び仲間」や「仕事仲間」などの功利的な人間関係が、真に互いの自己実現を助け、育み合う関係にはならないだろう。
今の教育は「理解力」は大切にするが、「感受性」を育てることを軽視している。評価できるものしか問題にしないからだ。
しかし感受性がなければ何も育たないし、何もなし得ない。共感する心がなければ「第二の自己」と言えるような友人も出来ないし、結婚しても真の伴侶を得ることも出来ない。(5月20日)◆不都合なことに目を背ける者を相手にしてはならない。
自己限定する者を相手にしてはならない。
虚栄を張る者を相手にしてはならない。
陰口を言い、人の価値を否認する者を相手にしてはならない。
これは僕が人を選ぶ時の価値観である。僕は学歴も社会的な地位も問題にはしない。ただその人が自分や隣人や社会に対して育む心を持って生きているかどうかを問題にする。
「真理のあるところに赴こう、それがいかなるところであろうとも」という言葉があるが、日本人というのは「仲間のあるところに赴こう、それがいかなるところであろうとも」という体質が染みついている人が多い。不都合なものから目を背けて、自分に都合のよい解釈をして、希望的観測をする。だから中国やアメリカ・イギリスと無謀な戦争をして神風が吹くなどとみんな信じたのだ。戦後も日本人の体質は何も変わっていない。ただより無責任に、より人任せに、より自己中心的に、より享楽的になっただけだ。
幸福というものが自分を実現することであるなら、自分の可能性を知り、社会の可能性を知り、真実に立ち向かう勇気を持ち、隣人と自己実現を助けあう友情を持ち、人や社会を育む愛を持たなければならない。◆生態系を破壊することが悪であるのは自然だけではない。人間関係でも同じことだ。(Syuugoro)
封建主義の時代であろうと、絶対主義の時代であろうと、民主主義の時代であろうと社会倫理の根本は自然の生態系と変わらず、互いの領域を侵さず「棲み分ける」ことであることには変わりない筈だ。
【人間性】
人間に対する最悪の罪は、人間を憎むということではなく、無関心だということだ。それが無情のエッセンスだ。(バーナード・ショウ)
人間の価値は、一言でいえば「愛」、すなわち「育む心」である。自分も、人も、仲間も、社会も、自然も、それを守り、生かし、育てようと思う心だ。その心があれば人に対して決して無関心であるはずが無い。
愛する心があれば、破壊しようとする者を憎むこともあるだろう。憎しみは愛する心の裏返しだから、人を愛する者が人を憎むのは仕方の無いことなのかも知れない。
「いじめ」や「仲間外し」をする心は「憎しみ」では無い。人の心に対する無関心・無神経だ。殆どの場合、いじめられる人間は、他人の愛を破壊するからではなく、弱いからか、孤立しているからに過ぎない。今の世の中はそんな「いじめの心」が蔓延している。世直ししなければならない最も大きなものは「人の心」を取り戻すころだろう。「学ぶ」・「考える」・「実践(創造)する」というのは一体のものだ。どれが、抜けても価値は半減する。
例えば芸術でも、背景となる知識を持つことは、作品を理解する上で必用なことだが、一方で自分でも創作するということも非常に大切なことだ と思う。例えばソナタ形式の小品でも自分で作ってみれば、交響曲の展開部の意味が深く理解できるだろう。自己限定しなければ、カラオケで歌う能力があれば、そのメロディーを料理してみるという感覚で、誰でもソナチネなどは作れる筈だ。もちろん自分が使える時間は限りがあるから、何もかもは出来ない。だから何を優先するかという問題はあるが、単に消費するだけ、享受するだけ、鑑賞するだけになってしまったら、その価値も喜びも半減してしまう に違いない。
今の時代の多数の人々、自ら「平凡」を自認する人々を見ていると、ただ知識だけを身につけて、品定め根性だけを磨いて、いつも観客席に自分を置いて、それが幸せだと思っている人が多い ように見える。もしそうなら、それは無意識的に自己限定しているのだろう。競争を煽り焚き付ける今の社会は、生まれた時から、品定めし、自己限定させる病原菌をまきちらしているよう に思う。
学ぶのも、考えるのも、実践するのも自分を高め、自己実現するためで、人の評価を得るためではない。評価を得たいというのは後の話しでなければならない。競争を煽り焚き付ける今の社会は、それを?倒させてしまっている。
何よりもはじめに「自己満足」がなければならない。そして1人でもいいから理解者を求めて、それから世間の評価を求めるのが筋道だろう。「自己満足 」がなければ、何の自己実現になるだろう。ギャラリーに見捨てられたら、影のように消えてしまう満足など何の意味があるだろう。
ならば何を学ぶのか、何を考えるのか。もちろん、生活の知識や生活の技術、科学、文学、芸術、さまざまあるだろう。しかし、それらはバラバラにあるのではない。それらを統合している自己がある。だから究極我々が学ばなければならないのは、自己とは何か。人間とは何かということではないか。
相対主義・懐疑主義を胚胎した即物的快楽主義が「現実主義」という名で蔓延している今の日本では、「本来の自己」「本来の人間性」という言葉も、風の前の蝋燭の火のように弱々しく危うく見える。
「真理のあるところに赴こう、それがいかなるところであろうとも」という言葉があるが、いつの頃からか、日本人は「仲間のあるところに赴こう、それがいかなるところであろうとも」という体質が染みついてしまった。 ただ多数の人々に同調して、不都合なものから目を背けて、自分たちに都合のよい解釈をして、希望的観測をする。だから中国やアメリカ・イギリスと無謀な戦争をして神風が吹くなどとみんな信じたのだ。戦後も日本人の体質は何も変わっていない。より無責任に、より人任せに、より 自己(身内)中心的に、より享楽的になっただけだ。
人の上に立つ人間も、社会的使命感が希薄で、ただ身内の利益のみ追求する人が多い。そんな指導者がいくら出世しても、社会的に見れば何も生み出してはいない。それは虚業に過ぎないだろう。いくら権謀術策に長けて、それで富を築いても単に 自分と身内の利益を図るだけの指導者ならば、そんな人間に何の指導者としての価値があるだろうか。
学ぶべきことはそんなことではない。考えるべきこと、実践すべきことはそんなことではない。自分の人生を考えるなら、自分の住む社会のことを考えるなら、やはり「本来の自己」「本来の人間性」を学び、考え、実践しようとする。それが永久に知りえないものであろうとも、そこが永久に到達できないところであろうとも、それを求めて生きることが人が、人が真に生きるということなのだから。
【人間不信】
◆その信念と公平さと、誠実さのゆえに高名の人を声高に賛美するのは、彼に対する賛美というより、人間一般に対する不信の表明である。(ラ・ブリュイエール)
【人情】
◆旅は道連れ、世は情け。(諺)
かつて日本人は人情で生きていた。江戸時代、お伊勢まいりに行く旅人には、乞食にでも一文与える風習があった。家族ですらホテル家族化してしまった今の日本人の心が豊かである筈はない。日本人の心を取り戻さなければならない。
【忍耐】
◆忍耐とは希望を持つことの技術である。(ヴォーヴナルグ)
忍耐を単に苦痛に耐える力と解してはならない。苦痛に耐える力などはそんなに持続しないからだ。持続する力というのは、それによって自分自身の精神をもっとも安定させ、充足させるものでなくてはならない。チャレンジすること、困難を克服すること自身が充足感をもたらす心境がなければ本当の忍耐力は得られないだろう。
だから問題を解決し、克服する充足感、自己実現する快感を求める生き方が、日常生活の性癖として身に付かなければならない。「習慣は第二の天性」という言葉のように、習慣として身につかなければ真に自己実現する力は得られないだろう。
大きな苦痛に耐えたら、成功を得ることが出来るだろうなどと考えるのではなく、身の丈に合った、生活の習慣に取り入れることの出来る克己心、それが本当の忍耐だ。(5月6日)
《ぬ》
【盗む】
◆盗むことが悪いのは、人のものを取るからということよりも、自分が天から与えられた、生産し、創造するという能力を捨てるからである。(Syuugoro)
人間は生産し、創造する能力において最も人間的である。そしてすべての悪や犯罪は寄生的である。昔は自分で家を作り、家具を作り、道具を作り、服を作って生活していた。しかし科学や技術が進歩するにつれ、物質的に豊かになるにつれて人々は、自分で作るよりも、何でも金を出して買うようになってしまった。そしてただ餌場に通い、その餌の品定めをするだけのような人間がどんどん増えている。
自ら生産しなくても、現代社会は生活に必用なものを供給してくれる。そういう社会では生活のために直接必要が無くとも自分で作る生活を守らなければ、人間性を喪失してしまうだろう。愛する心というのは育む心であり、育む心はものを作り、育てるところにあるからだ。
人や社会に寄生し、作り、育てる喜びを捨て、何もしないことが幸福だというような生き方は、最も不幸な人生である。(12月1日)
《ね》
【年功】
◆千年木は枯れる日までその幹を太らせ続ける(Syuugoro)
《の》
【能弁】
◆真実を言うものは充分に能弁である。(ププリリウス・シルス)