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平野國臣殉難の地
京都市中京区六角通大宮西入る
(市バス「壬生車庫前」停留所から徒歩約7分) |
幕末尊皇攘夷派の指導者平野國臣が処刑された所である。この地は、元「六角獄舎」があったところで、安政の大獄以後は、多くの政治犯が収容されたので、会所とも言った。
國臣は元福岡藩士で、尊王攘夷運動に参加して脱藩し、生野の乱に挙兵して捕らえられ、元治元(1864)年1月17日、ここに収容された。ところが、同年7月19日、長州藩兵の入京に端を発した禁門の変(蛤御門の変)によって京都市中の大半が兵火に見舞われ、その翌日、火勢が「六角獄舎」に迫るや、幕吏は獄中の尊皇攘夷派の志士たちを斬った。この時斬られた一人が國臣である。この難に遭った者は、國臣のほか、古高俊太郎、長尾郁三郎、水郡善之祐など30数名にのぼった。 |
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平野國臣(1828〜1864)
江戸末期、亀井南冥が興した福岡藩西学問所甘棠館(因みに現在の福岡県立修猷館高等学校は東学問所修猷館を創とする)の流れを組む亀井塾で学んだ。
その後、尊皇攘夷運動の志士として野村望東尼ら勤皇家と共に行動する。
平野國臣等の運動は後にこの福岡の地に生まれ自由民権運動の魁となった政治結社玄洋社へと繋がっていく。
古高俊太郎(1829〜1864)
近江国出身の尊皇攘夷派の志士。湯浅喜右衛門と称してこの地で古道具屋桝屋を営み志士らを援助していたが,元治元(1864)年6月4日、新選組に捕えられた。これが池田屋騒動の契機となった。
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長尾郁三郎(1837〜1864)
町人であったが学問を志し,江戸に出て平田鉄胤(1799〜1880)の門下となった。帰京後,尊王攘夷運動に参加した。将軍家茂(1846〜66)上洛に先立ち,天下に尊王の大義を知らせ幕府に警告を与える目的で、文久3(1863)年2月22日夜,同志十数人と共に等持院の足利三代の木像の首を抜き取り,三条河原に梟首した。
水郡善之祐(1826〜1864)
伊勢神戸藩の大庄屋の家に生まれ、嘉永6(1853)年家業を継いだが、尊攘運動の風潮に心酔していった。元熊本藩士松田重助などと富田林に塾を開いて郷里の師弟に国事を説き、諸国の憂国の志士とも交わった。文久元(1861)年家を弟謙三郎に委ねて同郷の長野一郎・田中楠之助らと京都に赴き、吉村寅太郎・松本謙三郎らと共に尊攘派の同士を糾合して、盟主に中山忠光を擁立して武力反乱を起こす画策をした。文久3(1863)年天誅組の乱が勃発すると、長子英太郎以下十余人の河内勢を指揮して参加し、輜重器奉行を務めた。五条・和田・大日川などを転戦したがついに敗北し、十津川勢と和歌山藩の追撃を受けて進退窮まり、河内勢8名と共に和歌山藩に自首して捕囚の身となった。 |