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日本近代医学発祥の地
日本近代医学発祥の地

京都市中京区六角通大宮西入る
 (市バス「壬生車庫前」停留所から徒歩約7分)
宝暦4(1754)年2月7日、山脇東洋は、京都所司代の官許を得て、この地で、日本最初の人体解屍観臓を行なった。
 江戸の杉田玄白らの観臓に先立つこと17年前であった。この記録は、5年後に「臓志」としてまとめられた。
 これが実証的な科学精神を医学に取り入れた成果の初めで、日本の近代医学がこれから芽生えるきっかけとなった。
山脇東洋(1705〜1762)

 東洋は本名を尚徳、字を玄飛または子樹といい、初め移山と号したが、のちに東洋と改めた。通称は道作である。宝永2(1705)年、京都に生まれる。実父清水立安は後に東洋の養父となる山脇玄脩の門に入り、医学を学んだ。東洋は少年の頃から秀才の誉が高く、21歳の時、乞われて山脇玄脩の養子となる。翌年、玄脩が没したため、その遣跡を継いでいる。享保14(1729)年、25歳で法眼に叙せられ、養寿院と号す。
 東洋の医学における最初の師は、いうまでもなく養父の山脇玄脩である。そして、その学統は曲直瀬玄朔、山脇玄心、山脇玄脩と連なる。東洋に大きな影響を及ぼしたいま一人の師は後藤艮山である。
 つまり、東洋は李朱医学を宗とする後世派の学問から出発して、のちに師の後藤艮山の医業を継承、発展させて、実証主義にもとづいた古方派医学を確立したのである。

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