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佐久間象山・大村益次郎遭難の碑
佐久間象山・大村益次郎遭難の碑

京都市中京区木屋町通御池上る西側
 (地下鉄東西線「御池」駅から徒歩約7分)

 高瀬川を挟んで西側にあるため、そばまでは行けない。
 佐久間象山・大村益次郎が遭難したのは、木屋町三条の旅宿であるが、石碑は、木屋町御池上るの地にある。
大村益次郎(1824〜1869)

 防府宮市の梅田幽斎に医学と蘭学を学び、大坂の緒方洪庵に学び塾頭に進んだ。伊予宇和島藩に招かれて蘭学・兵学を教授し、幕府の蕃書調所教授方手伝となり、翌年講武所教授に任ぜられた。文久2年帰国し、西洋学兵学教授となって山口普門寺塾で兵学を教えた。上野の彰義隊を討伐、さらに奥羽・北越の平定に尽し、軍務官副知事となり、箱館を鎮定して永世禄1500石を賜わった。兵部省新置の時、兵部大輔に任ぜられ、兵制の大改革を企て、東京を発して大坂・兵庫を巡回し、京都の三条木屋町の旅宿で暴徒に襲われ重傷を負い、大坂鈴木町の病院に入院したが、療養中に死亡した。
佐久間象山(1811〜1864)

 オランダの百科辞書等によって新しい知識を身につけ、嘉永3年深川藩邸で砲学の教授を始め、勝海舟・吉田松陰ら、多くの有能な人材を門下に集めた。
 嘉永6年、門人の松陰のアメリカ密航事件に連座して国元に蟄居を命ぜられた。文久2年蟄居を許され、元治元(1864)年、上洛中の14代将軍・徳川家茂の召命により上京、公武合体・開国佐幕の策士として活躍した。7月11日、山階宮邸からの帰途のおり、三条木屋町で因幡の前田伊右衛門、熊本藩の河上彦斎ら尊攘派の手により暗殺された。

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