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普通に死ぬかと思った。
過労かよ。
(ようやく退院しました)
・(主催者が)書籍という形にすることで満足出来たので
・事実上継続宣言だけど「終結」という言葉が米大統領から出たので
千人祈は終了ということらしい。
さらに、
・今アンタらに出来ることは山ほどあるんだから後は勝手にやってくれ
ということらしい。
どうやら千人祈は
・主催者が個人では何も出来ないので賛同者を募り
・多数の賛同者を得て、主催者の満足のために書籍を作り
・主催者が満足したので終了
ということだったらしい。
つまり、5000強の1行詩たちは
主催者のためだけにあった、それのみに利用されたと言っても過言ではない。
それは
>私達「千人祈」主催一同は「出来ること」を模索した結果、
>様々な方の協力を得て、
>出版という一つの「形」に出来ることになりました。
この一文に集約される。
“主催者は”千人祈を利用してこうこうこういうことをやりました。
で、参加者たちは
>何をすべきか、何をしたいのか、「御自分で出来ること」を考えてみて下さい。
ということなのだ。
さらに
>また書籍には掲載されなかった言葉達、異論反論も含め、
>その全てを掲載することで継続していきます。
という綺麗事よりも
>今後出版の進捗をお知らせをするページとして
を先にもってくるあたり形振りかまってなさっぷりというか
本性が浮き彫りになってて気持ちが悪い。
こんな連中に言及していたのかと思うと反吐が出る。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・以下5/3更新・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
○百人オナり
彼は「精巣」というタイトルで知られる
究極の洋モノエロビデオを手に入れた。
「精巣」は素人、玄人問わず知名度が高く
かつ、誰もが食い付きたがることでその名を広く知られていた。
彼は密かにこれを利用して一旗上げたいと考えていた。
そして。
思い付きで彼の友人に
「100人が「精巣」を見てオナってる現場を
リアルタイムで撮影しよう」
と言ってみたところ、後に主催者となる2人の賛同を得てしまった。
彼らは大々的に
「1人でオナニーするよりもみんなでオナニーして思い出にしよう!
「百人オナり」参加者募集!
ネタは伝説のビデオ「精巣」!!
現場はマット敷きのパーティールームなのでやり方問わず!!!」
をうたい文句に宣伝して回った。
すると1人、また1人と参加者が集まってきた。
彼らは「精巣」を見て思い思いのスタイルでオナり
イった後帰る奴もいれば、2ラウンド目、3ラウンド目に突入する奴もいた。
そうするうちに気がつけば現場は当初予定していた
百人をゆうに上回る人数でごった返していた。
気がつけば、スカトロに走るアブノーマル連中や
そのテのプロと思われる妙に目つきが違う連中や
果ては参加者同士の乱交まではじまってしまった。
既に「百人オナり」主催者たちは手におえないものとなってしまっていた。
しかし、主催者たちはそれでもなお形の残る物に拘った。
そして、とうとう一般にこの狂気のオナニービデオを販売することを決定した。
「百人オナり」ビデオ発売決定!
この発表がなされた時はまだ「精巣」もクライマックスにさしかかっており
3〜400人の人間が現場にいた。
だから“限定100本”には誰もがその思い出に、と飛び付いた。
しかし、コトはそう簡単には運ばない。
100本のビデオが出来あがる前に「精巣」が終わってしまったのだ。
とりあえず満足してイってしまった大多数の連中はもう既に帰ってしまった。
そしてなお悪いことにアブノーマルな特定少数の連中が
繰り返し繰り返し終わったビデオの前でなおオナっているのだ。
これには彼らも困った。
終了したいけどビデオが出来あがる前に終わるわけにはいかない。
結局彼らは現場を「伝説の場として継続する」と称して放置した。
そして、そこをビデオ製作状況をアナウンスする場とした。
この手はうまい。
そのモラルを問われたとしても、うまい。
アブノーマル連中を追い出しつつ、かつ、彼らが言いたいように言えるからだ。
さて。
ビデオがそろそろ出来る頃だろう。
一時期盛り上った連中が冷めてしまった今
どれくらい買うのか暗い興味が尽きない。
※※この文章はフィクションです※※
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・以下4/25更新・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
○前回の更新について
感情的な文章になってしまいました。とても。
それ以前に文章が滅茶苦茶。
そういった反省を踏まえ千人祈終了について再度。
○湾岸戦争時の自衛隊派兵問題について
湾岸戦争時に自衛隊の派兵の是非で大々的な議論になった。
(当然というか今回と変わらず反戦運動、派兵反対運動も多数あった)
その顛末を思い出していただきたい。
実際に派兵するかどうか未定のうちは
マスコミも大々的に取り上げその賛否でテレビや紙面が賑わっていた。
しかし。
事態が派兵へ向かうにつれ議論は少なくなり
実際に派兵される段には一切の議論がなくなった。
そして戦争が終結する頃には(政党の運動は除いて)反戦、反派兵運動は消滅した。
戦争や派兵に対し肯定していた方の意見がなくなるのはまだわかる。
戦争や派兵に対し反対していた方の意見もなくなるとはどういうことか。
○テレビの中の出来事
反戦論者の意見で
「戦争という殺人行為をテレビの中の出来事のように見ているから
戦争に肯定できるのだ。(この人でなしが。)」
というものが多い。カッコ内は余計だけど。
果たして戦争をテレビの中の出来事としか認識していないのはどちらだろうと問いたい。
インターネット上ではともかくテレビや新聞での
“ニュースの絶対量”は決まっている。
変わるのは限られた時間や頁数の割合だけだ。
戦争が長引くにつれその割合は減少し終結すればほぼ消滅する。
どんなにその戦争そのものが大きなニュースで
凄惨なものであったとしてもそればかりを取り上げることができないからだ。
(むろん視聴者の興味が削がれるからにほかならない)
そして反戦運動もマスコミからの情報量(というか煽り)の減少に伴い
減少、消滅している。
今回の戦争肯定論者の大多数は(少なくとも自分は)
自己の安全保障(大袈裟に言うと国家の安全保障)と自己の利益(国益)を勘案して
今回の戦争を肯定した。
(今回に限っていうのならば保身のために人殺しを容認したという反論は意をなさない。
自らの安全や利益を放棄してまで
10年来の経済制裁や圧制で苦しむイラク国民を見殺しにする気はないからだ。)
他人事やテレビの中の出来事だからではない。
むしろ対岸の火事で済まされないからこそ、である。
○にわか反戦論者たち
戦争に反対する行為が「まず戦争ありき」なのはおかしい。
今回の文章に直接関係は無いが、世界の平和を祈る反戦行為のほとんどが
アメリカ(と日本)が関わる問題にしか行われないのもおかしい。
マスコミの大々的な報道と共に
戦争を含めた武力行使の度に突然現れる
にわか反戦論者たち(悪意を込めてこう呼ぶ)は
不可分のはずの政治的主義主張は無関係だという。
事実、今回の統一地方選挙で
彼らが本当に分離して考えていることがよくわかった。
にわか反戦論者たちは戦争中にのみ
正確に言うならばマスコミが精力的に報道している期間のみ活動し
マスコミの論調や情報量の低下と共に消滅する。
今回、偶然にも選挙という彼らの言う反戦を
反映する場をあたえられたにもかかわらず
反映させることも出来ずに。
以下に引用する文はアメリカ同時多発テロの際に
アメリカがアフガニスタンを攻撃することに対しての
反戦運動に対しての意見であるが
>一般的に、不条理な行為に対しての可能な解釈としては、
>これらの活動を合目的的な手段と捉えるのではなく、
>活動そのものが目的なのであり、
>行為そのものより何らかの功利を得ているのだろうという見方がある。
Stethoscopic Reality:反戦平和主義
今回の反戦運動にもそのままあてはまる。
運動のための運動なのだ。
○そして千人祈について
個人的な感情で申し訳無いが
千人祈をその思想や手段は批判しつつも
前段で述べた「にわか反戦」とは一線を画する物だと考えていた。
その動機が戦争に対しての反戦ではなく
犠牲になっている人たちへの祈りであったからだ。
そして、犠牲になっている人たちを救う一歩を踏み出す
(この点については拡大解釈かもしれない)
ための“手段”であると考えていたからだ。
しかし。
戦争が原因で戦後に犠牲になる方をほっぽりだし
提供した場さえ奪うというのならば
千人祈も「にわか反戦」同様に
戦争あってのものだったと言わざるを得ない。
前回、今回の更新で
「戦争の戦争による戦争のための千人祈」
と題した理由はここにある。
犠牲になる誰かのために祈ることを決めたのならば
千人祈は続けて欲しい。
どうか今すぐに終了することはやめて欲しい。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・以下4/23更新・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
○恥ずかしながら
千人祈はイラク戦争が終結した時に終了することを
昨日知りました。
○戦争の終結
通例戦争の終結は一方の勝利宣言や
暫定政府の設置を持って終結とみなされる。
千人祈の戦いがこれらをもって終了するということだが
そればかりはどうしても理解することも納得することもできない。
千人祈がなすべきことはこれから先にもあると思うからだ。
○誰のために
彼らは“誰のために”祈ったのか。
戦争で命を奪われる罪も無い人々のために祈ったのではないのか。
(少なくとも自分はそう考えていた)
戦争が終結したからといって
奪われる命が減る、というわけではない。
確かに直接的な攻撃による死傷者は出なくなるだろう。
が、医療や食料を含めた生活全般で
今後も不自由を強いられることは想像に難しくない。
自分はユニセフなどを通して直接彼らに手を差し伸べることを選んだ。
千人祈は彼らのために祈ることを選択したのならば
これから先も祈りつづけるべきではないのか。
戦争をダシに盛り上り
手は出さずに口だけ出して
肴が無くなればお開きというのは
あんまりだ。
そもそも
>この企画が、「何か」に向けての
>第一歩となることを願ってやみません
ということではなかったのか。
その「何か」の力になりたくて参加した方は
主催者の愚挙に怒るべきだ。
今なお苦しんでいる子供たちがいることを想えば
戦争が終わったから終了だなんて
口が裂けても言えないはずだ。
自分は千人祈賛同者ではないが
千人祈が戦争終結を持って終了することに
断固反対する。
○少し気になったこと
主催者の方の中の1人のサイトから
千人祈バナーはおろかリンクや文字すら消えてるんですが(TTSRCはあるのに)。
主催者だから別にサイトに貼る必要は無いのかもしれないけど
なんだかなー、という感じ。
(何かの手違いだと思いたい)
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・以下4/21更新・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
○対北朝鮮弱腰外交について(週間アカシックレコード:元共産党議員の超大物)
仮定が多く説得力には欠けるものの
昨今の対北朝鮮弱腰外交の理由の薄さを考えると
妙に納得するものがある。
○曖昧な記憶について
土曜日に朝8時からやってるワイドショーを見た(確か読売系だったと)。
都知事選に出馬していた樋口さんに興味があったからなのだけれど
結局冒頭の10分程度しか見ることができなかった。
それで。
樋口さんが都知事選を振りかえって
“自分の考えを叫びそれに共感する人を感じることができて
本当に楽しかった”
みたいなことを仰っていた(とても記憶が曖昧だけど)。
樋口さんはもちろん当選という果たすべき目標があったのだろうが
その選挙に参加し、公約を叫び、支持を得るという
デモンストレーションとしての選挙に満足した、というわけだ。
これを聞いて千人祈について少しだけ考え方が変わった。
○そして千人祈について
千人祈がその是非はともかくとして
成功したか失敗したかと言えば
間違いなく成功といわざるを得ない。
たとえ出発点に矛盾があろうと
反戦を題材にした詩を集めるという目的(1000の予定が5000近くに)は
単純に5倍近くの成果を上げているからだ。
つまり、
イラク戦争に対しての成果というわけではなく
千人祈というデモンストレーションとして間違いなく成功した
というわけだ。
とすると、出版化についても納得することができる。
参加者にその参加した軌跡を還元する(ついでに募金する)ということだ。
物凄く単純な勘違いをしていた気がする。
自分は千人祈のコンセプトの矛盾やその実益の薄さばかりに目がいっていた。
でもそんなことはハナから問題ではなかったのだ。
賛同者がどう考えていたかは知ったこっちゃ無い。
ただ千人祈は
“1000編の反戦に関する詩を集めるという目的に対し
5倍近くの成果を得た”
ということなのだ(そしてただそれだけのことなのだ)。
うーむ。
考え方が変わったというよりも
考えるだけの価値を見出すことすら出来なくなったというべきか。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・以下4/14更新・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
○戦争と平和
「戦争に反対すること」と「平和を祈願すること」は
一見同一に見えるが同義ではない。
「戦争に反対すること」とは例え当人が意識していなくても
政治に関わってしまうということは以前の文章にも書いた。
繰り返しになるが戦争が外交の一手段である限り
政治との切り離しは不可能なのだ。
「政治とは無関係だ」と叫んでみたところで
その行為が外交に関する問題だから、と書けばわかって頂けるだろうか。
一方「平和を祈願すること」。
これは政治とは一切無関係だ。
ぞうはなのぼささん(日々雑感4/13)で
>「平和運動」と「政治」とは、相容れないんじゃないか
と仰っているとおりだと思う。
当然だ。「平和な世になるよう祈る」行為は
人として生まれたならば当然ともいえるべき感情であり
その行動が政治と結びつきようもない(利用されることはあっても)。
○言葉の意外な落とし穴
前段の最後で“利用されることはあっても”と書いた。
事実、利用されている場合が多いのだ。
今回の戦争のみならずリベラルな政党・団体・マスコミその他は
反戦運動の際必ず「平和祈願」を標榜する。
平和祈願が政治とは無関係にもかかわらず、だ。
なぜか。
「戦争」に対しての「平和祈願」という個人の感情が
「戦争」に対しての「戦争反対」という政治的問題に
極めて結びつきやすいからだ。
「戦争」に対しての「平和」は
「戦争がない状態」である。
それゆえ平和祈願運動が反戦運動へと転化したところで
賛同者はとても気づきにくい。
「感情吐露の場」が「政治運動」に
劇的な変貌を遂げているにもかかわらず、である。
かくして「思想なき反戦運動」が生まれることになる。
(実際にそう思っているのは賛同者のみではあるが)
(平和祈願運動に参加したつもりが気がつけば
発起人が左を向いていたという方には同情はするものの
千人祈賛同者に同情の余地はない。
ハナっから左を向いた政治運動なんだから。)
思うに。
千人祈の出発点が「主義主張を超えて平和祈願」であれば
これほどの叩きは生まれなかっただろう。
たとえ、それに同調する人が例え左寄りの方が多かったとしても
「主義は問うてないから」の一言で片付いたのではないか。
(そして「政治的に中立」という言葉にも説得力が生まれる)
そして現実は矛盾した出発点を持ったがゆえに
批判には感情論を持ち出さなければならず
言動には動機付けすることができず
>参加者自身の精神的充足がほとんど唯一の成果
(趣味のWebデザイン 備忘録4/13)
という賛同者の内面にのみしか
成果を見出すことができない、という
求めることもできず、かといって与えることもできないという
あまりに悲しすぎる結果となってしまったのではないか、と。
蛇足だが。
今回の戦争で反対・反反対(あえて賛成とは言わない)
様々な意見があったわけだが
「平和を祈る気持ち」は誰しもが持っていたのではないか。
戦争に反反対の意見に対し
感情論で人でなしというようなことは勘弁して欲しい。
(少数だと思いたいが)
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・以下4/11更新・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
○徳保さんの異見について(趣味のWebデザイン:備忘録4/10)
「少ない影響」をどう見るかでこんなにも意見が違うとは。
そういった意味でも徳保さんの異見は興味深い。
自分は「少ない→little」と取り
徳保さんは「少ない→a little」と取ってらっしゃるからだ。
それはさておき。
自分は、個人サイトにおける反戦運動の影響は
やはり(大勢に影響ないほどの)微弱なものだ、と考える。
例えば縁故の候補がいない場合
投票者が候補者を選別するファクターは主に候補者の政策についての公約
もしくはその候補者の所属ないし推薦を受けた政党の政策目標ということになる。
今回の統一地方選において
候補者の戦争についての考え方は一つのファクターではあるものの
それが全てではない。
今個人で反戦を叫んでいる方々の大多数が反戦を第一義に投票するのか?と考えると
大いに疑問が残る。
そもそも、個人サイトの反戦運動はその自らの政治的・思想的立場が
明確になされていないものがあまりにも多すぎる。
これらのサイトは前回の更新で書いたように
「戦争に対して起こす何らかのアクションはイコール政治的活動となる」のにもかかわらず
その根底にあるべき思想が全くといっていいほど(表明されて)ないのだ。
つまり、反戦も一つの思想ではあるものの
反戦運動を行う要因が政治的立場に立脚しておらず
また、その運動の目指す成果が「戦争の終結(もしくは根絶)にのみ」終始しているため
個人サイトの反戦運動が実際には政治運動であるにもかかわらず
それが政治(統一地方選挙)に反映されるとは考えにくい。
逆にいうと「思想なき」個人サイトの反戦運動賛同者が
統一地方選挙で自らの首をしめる覚悟をもっているとは到底思えないのだ。
(ていうか、徳保さんも意地が悪い。
“愚民政治のマヌケさ加減”と
“政党や候補者の支持は一つの公約によるものではない”と並べた上で
「千人祈の参加者はそれじゃまずいでしょう」とは。
千人祈賛同者のみなさん。千人祈賛同者はそれくらい単純で軽率じゃないの?と
馬鹿にされてるんですよ?ここ。)
ところで。
「反戦」という旗印の元「主義主張を超えて」集まった千人祈賛同者は
ただ、戦争に反対だということのみで集まっているため
政治的には中立だ、と思っているのではないのだろうか。
そのサークルの中では真っ直ぐ立っているつもりでも
外から見ると皆で左を向いて整列しているようにしか見えないんだけど。
「思想」という方位磁針が無いために
どちらを向いているのかわからない、というのは困った物だ、と。
思想無き反戦は麻薬のような物だ。
戦争(武力を背景にした外交)は政治と不可分だけど
もし仮に分離することができるのならば
「反戦」に反対する人間は快楽殺人者でもないかぎりいないだろう。
小難しい「政治思想」という足かせさえとっぱらってしまえば
これほど崇高で正しい思想はない。
しかし哀しいかな戦争と政治思想を分離することはできない。
その枠をはずすことが出来た、と思ってみたところで
実はその枠が見えてないだけだったりする。
(だからこそ左翼関係者が宣伝のダシに
あわよくばとりこもうと考えるのは自然な成り行きとも言える。
一見中立に見える分イメージもいいだろうし。)
結局。
政治思想を持った反戦運動賛同者は
そのサイトに思想があるわけではないのにもかかわず
自らの思想と合致するために賛同しているわけだ。
そういった方はほっといても左よりの政党に投票すると思う。
また、「主義主張を超えて」個人サイトの反戦運動に賛同している方々は
「政治思想」を分離している(と思っている)わけだから
それが選挙に反映されるとは考えづらい。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・以下4/10更新・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
○戦争について
戦争(武力行使も含む)は外交の一手段である。
安易に“戦争反対”を叫ぶ方々には
この当然ともいえる前提が抜け落ちている気がしてならない。
戦争の是非について語るということは
それ自体が政治的言及であるにもかかわらず、だ。
そういった意味でも千人祈は
『主義思想を超えて』と『戦争反対』という明らかに矛盾した出発点を持つために
結果的にグダグダになってしまったのではないかと思う。
○ユニセフについて
『生命の危機に瀕し
今日死んでしまったこどもたちを
明日救うことはできない。』
開戦直後に『イラク難民支援募金』を設置していたのは
ユニセフだけだ。
本当にイラクの戦争難民のことを思えば
スピードを意識してしかるべきだと思うがどうだろう。
もし、自分の子が今日栄養失調とかで死に
次の日に他国の人道援助を受け取ったとしたら
ありがとうと言いながらきっと恨むと思う。
○逆に
『罪もない人が犠牲になるのは見るに耐えない』
から
『戦争反対』を叫んでいるのであれば。
前の段にも書いた通り戦争に対して起こす
何らかのアクションはイコール政治的活動になる。
そのため、その目指されるべき成果は
当然国政に対して果たさないといけないことになる。
それは、個人や個人サイトではどうにもならないものである
と言えるのではないか。
しかし、誰かを救うために戦争反対というのであれば
その誰かを救う(可能性がある)ことならば誰にでも可能だ。
直接(といっても支援団体を通してだが)その救いたい人に
手を差し伸べればいいのだ。
同じ目的でやるのならば
成果の期待できる後者を選ぶのは当然だと思うがどうだろう。
○出版化だということで
千人祈の詩集がどうやら出版されるそうで。
書籍販売の利益率の少なさを知った上で
>実際にこの戦争で被害に遭った方のために役立てることは
>できないかと・・ずっと考えてきました。
言ってるのだろうか。
書籍の価格に対する利益割合は
書店:25% 取次:20〜30% 版元:30%前後で
残る10%強のみが著作者の利益となる。
(念の為注:取次=流通業者:版元=出版社)
さらにその利益を著作者が受け取るには
当然だが相当のタイムラグが発生することになる。
仮に予定部数1,000部@¥1,000でさばけたとしても
10万円の利益が出るかどうか、といった程度でしかない。
もしこの1,000人が同額募金を…とか考えると
のどの渇きを覚えてならない。
さらに、その利益が出たとしても
それを募金するのはまだまだ当分先のこととなるのだ。
上に引用したようなことを“本気で”考えているのならば
募金サイトにリンクを貼ってほしい。
心からそう願う。
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