▼「駄文」の部屋▼

 さて、内容が膨らみすぎて遂に後編に突入した本「駄文の部屋」、ここでは駄文に精通した私ならではの駄文講座を開こうと思う。名づけて「知識人風駄文を書こう!」。ここで言う駄文とは「下手糞な文章」とは違う。そんなもの小学生、否、幼児でさえ書ける。そうではなく、「一見難解で複雑な文章だが、実は何も中身がない文章」のことである。駄文を書く最も簡単な方法は、官僚や知識人を真似ることだ。私は何年もの研究の末、その法則を発見した。普通の文章も知識人(痴識人で充分だな、もう)の手に掛かると読解が難しい変な文章になる。ここでお教えするのが惜しいくらいだが、敢えてその全てを紹介したい。例)は、矢印の前が普通の文章、後が知識人風文章。

方法@ 何でもとにかく「的」を使う。
最近の若者もよく「ワタシ的には〜」とか、「オレ的にはね」とか言いますがそういうたわけたのではなく、○○的な何とか、という表現を多用せよ、ということだ。こうすると、・なんとなく難しい文章になる・表現をぼかして責任逃れができる、など利点が多い。
例)「正直に言ってこの計画は失敗すると思うよ。一目見てあまりのずさんさに驚いたもの。」  →「主体的に吟味して当計画は総合的に失敗しそうだ。瞬間的に驚異的な杜撰さが露呈している。」

方法A 何でもとにかく「等」を使う。
何々である。と限定せずに何々などであるということで責任逃れをする。後から、「などって言ったでしょ。例外もあるんです。」と反論できる。これもなんとなく文章に重みがでる。
例)「だいたいどいつもこいつもテレビばかり見ている。活字離れが激しいってのは本当ですね。」  →「現代社会に於いてはテレヴィジョン等の影響が一般大衆間等で著しいようだ。活字離れ等の急速な進展も当然だろう。」

方法B 何でもとにかく「性」を使う。
男女の性ではない。○○性のある何とか、といった表現のこと。ものの性質をあらわすだけのことだが、これを連発するとなんとなく難しい文章に見える。
例)「僕の父は島国根性が強いし、母は田舎じみててね。普通のことかな。日本では。」  →「父は島国に特有の閉鎖性を強く包含しており、母は田舎に有りがちな独自性と自然性を見せている。一家の持つ普遍性は我が国の社会性を特徴付けている。」

方法C 何でもとにかく「化」を使う。
だんだん〜する、というのを○○化で表す。名詞を何でも形容詞化できて便利なので知識人の文章には頻出する。
例)「川が船の通り道になってから魚がとれなくなってね。あいつら禁欲して暮らしてるらしい。」  →「河川の交通路化は同時に漁業の停滞化をも意味し、それが彼らの間にストイックな根性を顕在化させた。」

方法D 〜は明らかだ、という表現を多用する。
これは知識人たちの癖らしく、よく見る表現だ。「〜はもはや自明の理であろう」「〜は間違いないといえよう」「〜であるとは周知の事実だ」など種類がある。
例)「間違いないよ。きっと○○君が僕の鉛筆を取ったんだ。きっとそうだよ。いじわるだもん。」  →「疑義を差し挟む余地もない。○○君が僕の鉛筆を取ったことはもはや自明の理であろう。彼には攻撃的性向があるからだ。」

方法E 表現を似た言葉で難解なものに置き換える。
これは慣れないと難しい。例えば「〜と比べて」を「〜と比して」、「〜する人もいる」を「〜する向きもある」などの表現のこと。さり気なく普通の文章とは違うことを示している表現だ。
例)「西洋と比べると東洋の海は大平原の反対に位置すると考えられていると思っている人もいるね。」  →「西洋に比して東洋の海洋は大平原に対置されると見る向きもある。」

方法F 代名詞・接続詞・副詞などを多用する。
こうすると文章が読みにくくなる。しょうもない文章でもなんとなくまとまりがあるように思えたり、大事なことを言っているように思えたりするのだ。読み手を錯覚に陥らせるのである。なお、「彼」とか「彼女」とかの表現は、そもそもの日本語からは離れており英語的表現と言えるが、知識人は使いたがる。
例)「ここでは犬は犬じゃないからどういう犬かも気にされない。だからみんな逃げようとするんだ。」  →「ここでは犬はその本来持つ特性を滅却される。ゆえに彼らの概略は決して注視されぬ。であればこそその悉(ことごと)くが逃走を試みるのだろう。」

方法G 受身表現を多用する。
これも知識人たちの癖らしく、よく見る表現だ。英語的な文章になる。知識人たちの多くは欧米の文化に異常な憧憬を抱いているとしか思えない文章を書く。Iの外来語もその一端だが、この受身も欧米を意識しているのかもしれない。日本語としてはあまり優れているとはいえない。日本語では、それほど受身を好まないのだ。受身を使うくらいなら主語を省略してしまう。
例)「僕はあの絵を見た時点でおかしいと思っていた。店員の態度がいつもと違ったのも不安の理由だった。」  →「あの絵が僕の胸中に疑念を想起させ、それは自然と増幅した。店員の常時とは異質な態度もそれに拍車をかけた。」

方法H 和語を漢語に直し、できるだけ長い熟語を使う。
基本中の基本である。どんどん漢字を使おう。漢字が多ければ多いほど読みにくくなり、難解になり、いかにも内容のありそうな文章と化す。
例)「めいめいが家へ帰ったが、だからといってまだ安心はできない。夜が明けてから襲われることも充分考えに入れておかないと。」  →「各々は帰宅したが、未だ安堵のぬるま湯に浸かるには早計であろう。早暁の襲撃も考慮に入れ、総括的対策を立案せねば。」

方法I カタカナ語を多用し、表記も工夫する。
知識人は本当にこれが好きである。だいたいやね、「キッチュ」だの「メタフィディーク」だの「アレゴリー」やの「デカダンス」やのが分かる人間がどれだけおるのよ。初めから日本語で書けば分かるのに訳す努力を怠った(本当に日本語を愛するものから見れば愚弄しているも同じ)挙句、それが分からない人間を馬鹿にするなど言語道断もいいところだ。
例)「俗受けする寓話を書きたかったのではなく、文壇の主導権をにぎるようないい作品を書きたかっただけだ。」  →「キッチュを含むアレゴリーの描写を至上命題とはしていない。文壇のイニシアチブを得るに足る秀作を書きたかっただけだ。」

 まだまだあるがこんなところにしておく。ここまでの話をまとめると、自分のもつ日本語能力を最大限に駆使していかにも読みにくい、抽象的な文章を書けばいいのだ。最後は自分自身も何を書いてるか分かんなくなったっていいんだ。それが知識人というものである。では今度はここまでの話から知識人風の長文を作ってみよう。

深層心理の文化的考察
 我々日本人が月を見たとき、その観察態度が主観・客観の別を問わず繊細な美的感覚を内包したものであるかは、月の持つ歴史的意義や科学的真理のみでなく、自我の発露や両性具有的アグレッシブな思想の顕在化などに見られる相対的関係がインテリゲンチャを瓦解させ得るか、による。そのため私たちが月と太陽を視覚要因で比較する際の感覚器官の働きに、頭脳の活性化が映像としての月を緻密な飛鳥時代流の精神要素を倦怠感から諸行無常の黎明へと感化することによって生じるのは、もはや自明の理である。一方、欧州では潜在的に継承されてきたオポチュニズム万歳式の宗教上儀礼的な思考回路が、月という一種の西欧的近代社会に溶解した聖火とも言うべき存在の個別確立を阻んだ。近年、比較文化論においてはこの両極端のメカニズムを臨床医学的に、或いは理論物理学的に解明し、論証しようとして来た。畢竟、シニスムの台頭が東洋に於けるある種の永続的心理描写を外郭として、月の持つ魅力を相乗的に口承化し、これをアイロニーとして受容せしめる土壌の形成を担っている。それでもこの電気分解式の精神構造には抵抗を覚えるものも多く、戦艦大和の轟沈に見られるようなアブノーマルな股肱の炸裂を、表層部の恣意的現象として厳粛に捉える向きもある。あまつさえ、先進諸国の生理的横暴に悉く体裁を持って変容を見つめてきたものにとって、それは妄執から解き放つ洗礼ですらあった。これらを鑑みるに、融通無碍の遠隔的咆哮が、洋の東西に関わらず、ノスタルジックな響きを持って到達するのは、歴史の必然と言えよう。月はその摂理を代表するに過ぎず、過剰な近代化による頽廃の一端がそこには垣間見える。私たちはこの差異を丁々発止、世間へ提起し、鷹揚にその文化的価値を勘案していくべきなのである。

 皆さんは異常に難しい文章を読んで、「この文章の筆者はなんて頭のいい人だ。こんな難しい漢字や表現が使えるなんて。何かすごく大変なことを言ってるようだが、全部意味がわからない。自分はなんて馬鹿なんだ。」などと悲しい思いをしたことはないだろうか。だが、ここまで読んで下さった方にはもうそのカラクリは分かったことと思う。彼ら知識人は頭がいいのではない。いや、正確に言えば「文章力」というごく限定された能力のみ突出して頭がいいのだ。あなたが劣等感を持つ必要は全くない。なぜなら知識人は知識を身に付け難しい言葉を駆使するのが仕事だからだ。あなたが仕事で使う道具を思い浮かべて見よう。それを使うことが知識人にできるだろうか。あなたがそれの使い方を専門用語を駆使して書いたとして、知識人にそれが分かるだろうか。分かるはずがない。彼らは何も内容のないところへいかにも難解な文章を使ってそれらしくするのが仕事だからだ。もちろん知識人どうしでそれをやるのなら問題はない。あなたが同業者と専門用語で話しても問題ないのとおなじである。問題は知識人が一般人向けの文章を書くとき、私たちの理解できない表現を使って自分の知識と文章力をひけらかそうとすることだ。

 そもそも私がこの「駄文の部屋」を作ったのは自分の行為を反省してである。かつて私は知識人をかっこいいと思い込み、やたらと難解な文章を書き、それを読めない人々を内心小馬鹿にしていた。全く失礼な話である。しかし私は気付いたのだ。知識人は大衆を馬鹿にしている。彼らは誰のおかげで暮らせるのであろうか。自分たちの文章を読んでくれる大衆のおかげである。にもかかわらず彼らは大衆には理解し難い文章を書き、それを読めない人間を「大衆」だの「愚民」だのという言葉でくくり、自分たちを「識者」だの「インテリゲンチャ」だのと称して憚らない。その上「ポピュリズム」(大衆迎合主義)という言葉で自分たちの生活を支える人間を馬鹿にする。どうしようもない人たちだ。何をどうしようと結構だが思想や哲学で飯は食えないのだ。日本語力が一般人より優れているのは分かるから、そうひけらかすのはやめてほしい。そして我々一般大衆に分かる文章を書いてもろもろの事象を説明するのが知識人の務めではないだろうか。

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