私にとって空手道とは、 

 

 

 

 


・まえがき・

 

卒業した今日、あらためて三年間を振り返って私にとって空手とは!?と言うことで少し書いてみようと思っています。つまらない読み物ですがもしよろしければ読んで下さい。

 

・空手道初体験・

 

そもそも私が空手道部に入ろうと思ったきっかけは確かに空手道には少し興味があったし幼少の頃から『道』と言う日本古来から続く考え方と言うのでしょうか、そう言った考え方が物凄く好きだったんです。だから何らかの形で少しでも成長できればと思ったからです。そして何よりクラブ紹介での樋川先生の発言、「とにかく五人そろえば近畿大会につれってやる」これが心を動かされた理由でしょうか。中学の時は、はっきり言って科学部だったので運動部とは無縁の人間だった。科学部は中学校に入学したときに現在中学校の校長になられている辰堀先生が新設されたクラブで一年生の私一人と三年生五人と言うものだった三年の引退後は私一人になったが、別に不安もなかったので一人で活動と言えるものではなかったがなんだかんだやっていた。その後また一人また一人と部員が増え始め18人まで増えた。この頃からパソコンの使い方を教えてもらい今のホームーページ開設にいたっている。だから空手道部入部と言うのは私の人生でとても大きな出来事であった。入部した時には一年の男子が五人、三年は男子二人の女子一人だったが三年の男子のうち一人は数えるほども見ていない俗に言う幽霊部員ですね。初会合で日曜に強化練習会で大阪学芸に行くから行ける人は行くようにとのこと、結局いったのは私とバウの二人だった。学芸での後景はまさに修羅場だった。正直二人は空手道部に入ったことを深く後悔した。先輩は上段をもらってフラフラになってるし、みんな鼻血をだして試合をしてるんですよ!!それも一人や二人の問題じゃーなかった。その日二人はどうやってクラブを辞めるかについて真剣に考えながら帰った。そしてついに練習が始まったのだ。最初は基本・打ち込みなどの練習だったが今では考えられないがとても難しいことだった。それに何処かぎこちない体操服で、体操服で四股立ち…非常にみっともないです。そのころバウの渾名はバウではなくピン球と言われていた。当時バウは練習もそこそこに横で練習している卓球部から飛んでくるピン球に神経を集中し回収しては投げ返すこともなく体操服に潜めていた。体操服の袖を広げるとピン球が転がるなんてことは珍しくもなかった。先輩である坂本さんからは「やる気あるん!?」などとあきれ気味に言われていたが即答だった。「ない!!」当時は何処で笑いをとるか、とにかく1秒でも長く休憩を取ることに人生をかけていたと言っても過言ではない。どうして笑いかと言うとそのたびに練習が中断することになるそれが狙いだった。このころから相変わらずしょうもないことで爆笑していた。何日目からか形(サイファー・サンチン)の練習もするようになった。理解力のない一年に坂本さんはよく呆れていた。そして一ヶ月が過ぎ初めての昇級試験この頃は電車で行っていた。初めての昇級試験は緊張の連続だった。そしてこの日の組手試合が私にとって最初で最後のものとなった。その後、目の違和感から網膜剥離が発覚し急遽入院が決まった。ようやく練習にも慣れてきたときの出来事だった。このことで初めての大会になるはずであった総体にはでられなかった。

 

・入院・

 

入院は中間テストが終わってすぐであった。しかしこのままだといずれ失明するとのことで近畿大学医学部付属病院に入院する以外になかった。確かに初めての入院と言うことで期待と楽しみのようなものがあった。手術は入院してから何日かしてからの水曜であった。執刀は網膜を専門にやられている松本助教授と言うこともあり不安はそれほどでもなかった。その後、松本助教授には六回にわたり執刀してもらうことになるのだが…。一週間目は確かに苦痛はあったが時間になれば必ずご飯が出てくるしいくら寝ていても怒られることもないし。でもご飯はやはり病院食なので野菜重視の薄味。肉は週に二回ぐらい。麺類が週に一回、炊き込みご飯などは週に数回。最初の入院は一ヶ月ほど入院したが同じメニューが出てくることは稀であった。このことでかなりの薄味になりレストランやファーストフード店などで出てくる食べ物が辛く感じて仕方ないようになった。それに茄子にピーマンにレーズンパンを克服した。今までも食べることは出来たがあまり好きでは無かったけど病院のご飯のおいしいのなんのって正直ご飯が一日の楽しみでしたからね。それと晩ご飯が五時からだったので退院後はお腹が減って仕方なかったです。それに他の人のご飯は少ない(糖尿病の人は別として)のに私のはお茶碗のふたが浮くぐらい山盛りにはいっているんです。でも食べるのがマナーだからふりかけを持ち込んで食べてたら大分後になってわかったことなんやけど、どうやら看護師さんがいっぱい食べらなあかんと言うことで知らない間に大盛りにしてくれるように言ってくれてあったようで。道理で多いはずだわ。そして手術当日、九時に手術室へ。手術室は非常に寒いです。特に寝台が確かにグリーンのシート一枚で素っ裸と言うのもあるのですが、そして真上にはテレビでよく見かける丸いライトが!!体に電極がつけられピコンピコンとモニターに心拍でしょうか波打ってます。手には五分おきに自動的に計測する血圧計がつけられもう片方の手には点滴がつながれました。私は恐怖よりも興味津々、手術室は中に待機室があり更に奥に手術室がいくつもあるとのことでした。私の部屋には手術台が二つあり同時進行でやることもあるそうです。スタッフは助教授・主治医・全身麻酔だったので麻酔科の医師・看護師が五人ほどでした。そして75病棟のカニさん15歳、体温がいくつで血圧がいくつ網膜剥離です。って一人の看護師さんが言って、何時何分始めます。みたいなことを言って全身麻酔へ!!マスクを付けられると次第にまぶたが重くなってきて……気が付くとカニさんってみんなが呼んでるんですよ。でも、はっ!?感じで体がぐたーって重いし眼も重い声も出そうにも出ない。少ししてやっと手術したんやと気づいて、「もう終わった!?」って聞いたんですよ、そしたらカニさん起きましたー。って一人の人が言って、先生が来て「もう終わったから楽にしてよ」って言われて。ほっとしてたら「血を採りますね」って言われて「はい」とかいったら足の付け根のところで取られて「えっ…」って感じであせってしましました。それから少しして病棟の看護師さんが迎えに来てくれてベットで帰るんですけど温いのなんのって、「えらい長かたなぁー」って言われて「えっ!?」と思ったらもう四時前でした。どうやら手術自体は1時間そこそこだったらしいのですが麻酔がさめなくて…。それから物凄いだるさと吐き気がして飲食の許可がでても食べられそうになくて、でも少しでも何かを胃に入れないとあかんって言われて。しかもこんな日の昼ご飯に限って天丼…その後アイスを買って来てもらって食べたんやけどおいしいのなんのって、それからは手術後は恒例の儀式となりました。夜の八時頃には随分ましになり晩ご飯をレンジで暖めて持ってきてもらって食べました。その日の夜に手術の際にトイレに行けないのでカテーテルを入れたわけですがこれを抜いてもらうことの痛いのなんのってもう表現しきれないです。激痛でした。翌日からは安静期間でトイレ以外に行けないし病棟以外は車椅子で連れってもらわないと行けないし苦痛でしたね。これまた車椅子が曲者で入院した機会に耳鼻科・皮膚科も暇つぶしとまで言うと言い過ぎですが受診していたので車椅子で外来までつれていってもらったのですが結構車椅子は怖いです。視線が低いのでスピード感があります。一度小さい女の子が飛び出してきてしかも女の子がこけて、危なく衝突ってこともあり私は乗っているだけなのでどうしようもなくて焦ったこともありましたね。それにこの年で車椅子にのるのは恥ずかしくて仕方なかったです。その後もう一度もう片目の手術をしました。このときは二回目だったのでなれたものでした。退院一週間前になって一番あせったのは勉強でした数週間まったく勉強してなかったので担任の先生にたのんでしてもらったノートのコピーもどっつさりたまってました。それからベットの上で勉強を始めました。その時たまたま婦長さんが来て病棟の会議室を使わしてあげるように看護師に指示してくれて日によっては夜中の12時すぎまで使わしてくれました。正直、患者がこんなことをしてもいいのか!?って思ったこともあったのですが、看護師みんなそろって寝てたら勉強は!?って言うんですよね。それでも退院の日はきて病室の中には本当にお世話になった人がいて私より数日前に入院した人で同じ網膜剥離と糖尿病のひとでした。最近、孫が出来たという方で年輩のかただったんですけどベットが隣で「困ったことがあったらなんでもいって」「親がわりとでも思ってくれたらいいから」って言ってくれて物凄く心の支えになってもらいました。結局退院するときには最初からいたのは私とその人だけでした、帰るときにエレベーターの前で握手をして別れました。この一ヶ月ほどの間にであった人ははかりしれません。入院っていうのも結構いいものです、みんなで雑談をしたりお見舞いの品をみんなで分けて食べたりといい経験でした。でも私が入院したのは眼科病棟だったのでほとんどがおじいさんで若いのは看護師と看護学生ぐらいでした。

 

・退院・

 

学校に復帰したのはテストの一週間前で気づいたときにはテストでした。テストの結果が意外なことにほとんどが平均点以上で…普段以上で…。普段の自分は一体…。それから少ししてクラブにも復帰したのですが、みんなが自分より先に行っているのではないかと思い夏休み中も練習に励みましたね。ちょうどその年の剛柔会の全国大会が和歌山ので行われ補助員をやらせてもらったわけですが、その時はじめて見る形もありスーパーリンペイ・クルルンファには魅了されました。その後、手術をしたこともあり水晶体(レンズ)が濁り一時は0,03まで視力が落ち8月の末に眼内レンズを入れる手術をするために入院しました。俗に白内障などと呼ばれ高齢者に多く別に珍しい手術ではないです。

 

・入院・

 

看護師もみんな顔を知ってるからなれたもので冗談を交わしながら部屋に向かい二度目の入院生活が始まった。実はこの入院では六週間にわたり入院することになる。本来は10日の予定であった急げば五日でも退院が可能なものであったが念のためにと言うことで10日の予定での入院であった。今回の入院では前回以上に多くの人と出会った。しかもみんなかなりの強者であった。まぁーこのことは後々。部屋の人はみんな元気で…。看護師もまだまだ若い人が多くて、まさにドラマのナースのお仕事まではいかないもののそれに近い日々が展開された。たまたま部屋の人がみんな個性が強い人ばっかりで常に笑いがあったんです。消灯後も電気は消さないカーテンは閉めないおまけにうるさい。あまりにうるさいので注意されたこともありました。また逆に消灯前に電気を消して寝てびっくりさせてみたりと…主犯格は現在も現役で働かれているというヤクザのTさん。もう結構ご年輩のかたです。でも物凄くいい方で口癖が「嬉しいわー」「ありがたいわー」この二つで一日に何回も言われるんです。退院が決まった時には一日中言われていました。この人のおかげで私もみんなと仲良くなることが出来ました。最初の頃はご飯が出てくるたびに「ありがたいわー」と言う発言にとても疑問と言うのか何か違和感を感じていたのですが、話を聞くと過去には警察・他の組の人間に命を狙われ生きた心地がしなかったときもあったそです。このことから今生きているご飯を食べられる、そういった当たり前のことがとてもありがたいとのことでした。このことで私自身物凄く勉強させられました。たまたま伊都高校拳法部の顧問している国語の先生のおじさんにあたると言う方もいて、この人もまたなかなかの強者でよくみんなで梨やリンゴをむいて集まって食べたりしていたのですが、その人は糖尿があるから本来食べてはいけないんですよ。じゃーある日むき終わって食べようとしたら病棟なかでもっとも怖い看護師さんがいて、みんな血の気が引いたと言うのでしょうか固まりました。それからよく見回りをされるようになったんですよ。確かに命がかかってますからね。Tさんも糖尿がありよく「なんでこんなに血糖値高いんや!この機械おかしいんとちゃうか?」と言って適当な数値を看護師さんに言ってましたね。それに毎日Tさんは窓からハトに朝食のパンをあげるんですよ。本当は細菌媒介につながるからいけないですよ。でも毎日のようにみんなであげてて。ハトも賢いから時間になったらよって来るんですよ。一度面倒臭いから食パン一切れ丸ごと投げたら警戒して食べなくて掃除に来たときにバレるといって騒いだこともありました。ある日の消灯前に小学校一年生ぐらいの男の子がTさんを追いかけ回して背中の「絵」を見してって騒いでいるんです。「絵」=彫り物ですね。これにはTさんもまいって「そんなんない」「子供の見るもんじゃない」とか言って看護師さんに助けを求めて看護師さんも男の子に「なんの絵あるん?」って聞いたら「ドラえもん」と言って。みんな爆笑ですよね。でもTさんは真剣だから「さっさと寝れ」「明日、明日」言っても、男の子は「眠くないし」って言い返すんですよね。まさに怖いもの知らず天真爛漫です。結局、看護師さんに連行されていきましたが。私も実際に背中を見せてもらった訳ではないので本当にドラえもんなのかどかは定かではありませんが太股には椿らしい花が彫られていました。Tさんは昔の過ちなどと言っていました。そして楽しいうちに手術も終わり退院の日も決まったのですが予想もしない退院の延期…再剥離していることが判明し再手術が決定しました。そのことでTさんは私が退院出来ないことを知り自分が退院が決まっていることをあまり口にしないで気を使ってくれました。Tさんが退院してからも意志は受け継がれ相変わらずにぎやかでした。それから四度目の手術で眼にガスを入れる手術を行いガスがぬけるまで下向きの生活を余儀なくされた。「下向き」これは苦痛の他の何者でもなかった。寝るときも当然下向きだ、これほど長時間におよび苦痛と感じたのはこれが初めてだった。五日目ぐらいから肩が肩こりでパンパンになってきた。手術後なのでお風呂には入れない。二週間目でようやくガスがぬけ二週間ぶりにお風呂に入る。眼科病棟は七階なのでとても眺めがいい。夜景を見ながら入るお風呂は最高だった。そして頭を自分で洗うと眼に水が入るので専用の部屋で散髪屋の椅子のようなものに仰向けになり洗ってもらう。シャンプーを付けても泡がでない…。さすがに二週間洗わないと汚れも半端ではないようです。退院の日も決まり再びあせったのが勉強だった。

 

・退院・

 

気が付くとまたすぐテストだった。今回は友達に頼み授業をカセットテープに撮ってもらい病室で聞いて勉強した。やはりノートだけでなくテープだと授業の雰囲気がわかるのでとてもよかった。今も20本近くカセットが残っていて処分しようにもできなくて大切に保存している。将来、同窓会か何かで聞いてみたら面白いかもしれない。そんなわけでテストも終わりクラブに復帰したら一年は三人、三年は引退と言うわけで三人でむなしくすみのほうで円陣ではなく三角形で突き蹴りの練習をした。その後、豚が仲間に加わることとなるのだが。三人は新人戦に向けて練習した。新人戦は勝浦だった。この時も車で行った十津川で吊り橋を渡り熊野本宮を参拝し那智の滝にいった。ホテルに着き部屋に行くと知らない人がいた辻さんだった。我々三人は翌日この人に凄さを目の当たりにするのだった。形・組手ともに賞状を手にしていた。辻さんは夢の中でも形をしていた、しかも気合いも寝ているのに出していた。三人は驚きのあまり何も言えなかった。その後、夜中に猿がおかしくなりサンチンをしながらトイレに行っていた。これは空手部では有名な話である。三人の成績は悲惨なものであった。年が明け豚も本格的に練習に加わり本格的な指導がはじまった。それから強化練習会にも多々行くようになった。

 

・新学年・

 

気が付くと桜が咲き二年になっていた。私にとってこの道のり非常に長かった、年が明けた時点ですでに私の留年が決まっていると行って過言ではなかった。そりゃ何を言っても出席日数の半分を休んだら留年ですよね。でも奇跡的に条件付きで進級することができました。私のために三時間も会議をしたとか。会議当日もクラブがあり終わってから家でバウと遊んでいたら電話で担任の先生が今から自宅に行きますとのこと、バウは慌てて帰っていった。結局オーバーした分を二年で補講で補うと言うことで全教科の単位を落としたままの驚異の進級となった。二年になってからは六時間授業を受けてから7・8時間目に授業をしてもらい補講に専念した。教科によっては先生とマンーツーマンでみっちり1時間勉強しなければならなかった。結局補講が全て終わったのは期限とされていた進級判定会議の一週間前だった。空手道部も新入部員が入り先輩となっていた。この頃から空手に目覚め練習に専念した。ホームページもこのころから本格的に作り始めた。しかし入院のせいか体が非常に固くなり蹴り・前屈には非常に難儀した。体力も急激に落ちた。でも空手が好きだったしクラブが終わってからのみんなで話したりする時間が好きで頑張っていました。補講のこともあり気づけば夏休みでした。夏休みもほとんどの日がクラブでしたね。もうイヤになるくらい空手一色でした。今から考えるとよくやったなと思います。でも練習が終わってからみんなでアイスを買いに行くんですよ。それがやっぱり楽しくて…。合宿もありました。道衣でプールにも入りました。樋川先生・猿が剛柔会の全国大会で長崎に行ってる時にはスイカをくり抜きスイカマンなんてのもしました(詳しくは秘蔵写真参考)。いろいろやりました。この頃は先生の悪口だけで1時間は軽くしゃべれました。←大暴露ですね。今では考えられませんが、成長でしょうかね(笑)夏休みは夏の大会で終わり、この頃から組手を出来ないことにたいして葛藤のようなものがあり苦悩しました。普段の組手練習はもちろんやります。でも組手試合は避けてきました。網膜剥離のことからもそれが賢明でしたがやはり納得はいかなかったですね。でも仮にやってなにかあったら自分だけでなく相手にも迷惑をかけますからね。その時から形で何かかたちのある物を残せればと思い頑張りましたが結局未だに何も残せていませんが得た物は多いですね。今から考えるとその考えからして当時まだまだ色んな意味で未熟だったんだと思います。 待ちに待った二年目の勝浦での新人戦。詳しくは日記を読んでもらえればよくわかると思います。団体組手では近畿大会が決定しましたが、個人形は納得のいくものが出来ませんでした。ただ練習が足りなかったんです。あと何より自信ですね、自分で自分の形に自信が無かったことですね。しかし団体形で近畿大会が決まりその後、全空連初段も会得しマネージャー猫も練習に参加するようになりました。

 

・初段の会得・

 

初段の会得これが自分にとって大きな心の変化のきっかけでした。自分の黒帯の重さと言うのでしょうか。私は初段試験では組手が出来ないので約束組手を全力でやりました。そして会得した初段。初めて黒帯を巻いたとき自分の中で大きな心の変化があり、こんなことではいけないと言うのがあって、今までは何処かで練習をやらされている・やってやっていると言うのがあったように思う。でも黒帯を巻いてからはもっと練習をしないといけないと自然と思うようになり誰かを目標にしたり入賞ではなく人生の「道」として自分を見つめるようになった。そのころから自分にとっての敵と言うか比べる対象が自分自身へと変化していった。『少しでもいい今日の自分をこえていく』このことが自分にとって「道」として永遠の目標となった。近畿大会、これもまた日記を書いてあるので是非とも読んで欲しい。やはり団体形での自分の形はぎこちなかった。それはわかっていたでもどうすればいいのかわからずひたすら練習した。

 

・三年・

 

ひたすら総体に向けて練習した。三年なってからは空手道教室にも積極的に参加するようになった。初段として初段だけのことを教えられるようになりたい。これが大きな理由だった。今までは小学生とはいえ自分より級が上の人がいるのに指揮をとらないといけないこもありそれが嫌っだった。春には念願の剛柔会の初段にも合格しより自信となった。やはり空手道教室で小学生相手に教えるようになり逆に教えられることも多かった。やっぱり教えるからには自分が出来ないと話にならないから練習するというのもあったし人に注意・指導をすることで自分の悪いところが見えてきた。今まで疑問にも思わなかったことが急に気になるようになった。形の練習もより注意して練習するようになった。それから時間を見つけては初心に戻りただサンチンの練習を心がけた。総体の直前までひたすらサンチンをした。そしてある答えが導きだされた。形に迫力がないのは別として何故手足がバラバラになるのかと言うことだった。それはもっとも基本的それ以上のことであった。それは『呼吸』であった呼吸が技と全くと言うほどシンクロしていないことに気づいた。それから呼吸を意識してゆっくりなペースで練習するようにした。するとビックリするほどピタッと技が決まるようになった。これは形に限ったことではなかった約束組手にも変化が現れた突きに入るときのスピードが以前以上に速くなった。そして総体…結果は悲惨なものであったが前回よりは成長していたし自分の中では納得のいくものだった。ただ決勝形に練習してきたスーパーリンペーが出来なかったことが何よりの無念であった。

 

・引退・

 

大会が終わりクラブとしては自分の中で一つの区切りとして引退し一人の空手愛好家としてよりいっそう練習に励む決意をした。二年の末からは書道部にも入部し三年の春からは空手の傍ら全国大会に向け作品造りに専念した。書道というものはとても形と似ていると思うのは私だけであろうか。書道の払い・はね・点と言うのは形で言う突き蹴りと言った技であって最後に書く名前は形で言う最後のおさめにあたいすように思う。そして何より似ていると思うのが書道も書き始め最後に名前を書いて初めて『作品』となる、形も始めて最後におさめてはじめて一つの『形』となるこのあたりがとても共通していると思う。そして全国高等学校総合文化祭では文化連盟賞をもらうことができた。総体も終わり少しして剛柔会全国大会の出場の話があり断る理由はなかった。ただ気がかりは受験のことだった。それからは夏休みは予備校の夏期講習の合間をみて練習した。大会は8月に名古屋で行われた。しかもあの台風が来た日に、試合の当日の朝一人のんきに暴風の中を傘をさしてあるく豚。一瞬の出来事であった。歩きはじめて数秒後に見事に傘はこうもり傘になりぼろぼろに…。そんなこともあり会場に。なんとコートにはマットがあるではないか…。かなりの誤算でした。それでも自分の納得のいくものが出来ました。その日の晩に大会に参加しなかった猿にイタズラメールを送ったのだがこれがまた間抜けな話でたまたま一緒になった可愛い女の子が猿の画像を見てメールをしたいっていうからアドレスを教えてもいいかって言うことをやったんやけどまんまと引っかかって色々と名古屋に来ていない猫とも手を組んで偽装工作(雑誌に載っているプリクラを写したのを送ってもらい更にメールに添付して猿に送るなど)をしたらさらにその気になっちゃってそれから猿はこの世にいるはずもない「みなみちゃん」からのメールをひたすら待ち続けたのであった。未だにこのことはしらない…。ちなみに「みなみ」とは当時再放送されていた高校野球を描いたあのアニメからです。

 

・受験・

 

全国大会も終わり受験勉強に専念しようと思ったものの夏期合宿に無性に行きたくなり急遽前日に行くことを決定し先生に無理を言って行きました。全日程に参加するのは無理だったので保護者の方にお世話になり途中で帰ってきて夏期講習にむかいました。行きの電車の眠いのなんのって少し贅沢して特急に乗ったら貸切状態で…。特急券500円で難波まで貸切で45分 はと言うのは実にお得でした。それからは火曜と金曜は空手道教室に通いそれ以外の日は勉強の日々を過ごしましたが推薦で不合格これで楽しいお正月はなくなりました。大晦日ラジオで紅白を聞きながら勉強。一日はお休みで二日から再び勉強。そして17日(成人の日に)前期試験にまたしても不合格。それから10日間は学校のタームテストの勉強。でもちゃっかり後輩の近畿大会には見に行ってきました。その日はあの雪の日です。その日、高野口は真っ白だった。電車の時間ぎりぎりででた私はもう最悪でした走るに走れないから小走りで駅にむかいました。付いたときには雪だるまのようになってました。電車も少し徐行運転になり心配していましたが京都はさっぱり雪がありませんでした。まさに期待はずれです。雪の平安神宮の庭園もいいなぁーと思っていたのですが残念です。その後、徹底的に勉強しました多い日で一日15時間少なくても10時間は勉強しました。さすがに徹夜とかはしていませんね。看護学校なので面接もあるし自分の健康管理も出来ないとなると論外ですから。でも空手道教室にはきっちりいきました。逆に行くほうが効率があがるんですよ。行く分も勉強しないと思って勉強するし体を動かすことで肩こりもとれますしね。

 

・卒業・

 

2月28日に最後のチャンスとなる後期試験を受け、3月1日に卒業しました。ざっと書いてみましたがこんなところです。まだ今日(3月5日)の時点ではまだ受験の結果はわかりません。発表は明日です。長々と私にとって空手とはと言うことで書いてきましたが私にとって空手とはなんなんでしょうかね(笑)人生!?趣味!?でしょうかね。最初のころはまさか三年間も続けるとは思いもしなかったですね。でも今から考えると青春の全てを空手に費やしたとでも言っても間違いではないかもしれません。でもただ空手が好きだったからと言うのではなくて空手があって同じ時間を共有する仲間がいたこと、それが三年間続けてきた大きな理由だと思います。もう結構前になるんですがみんなで「なんで空手をやってるんやろ!?」みたいな話をしたこともあるんですがこれと言う答えは出ないんですよね。そういうものなのかもしれませんね、ただなんとなく集まって何かをする。そんなたわいないことが意味もなく楽しい。高校というのはそんな時期なのかもしれません。これもまた不思議な話なんですけど正直みんな昔は樋川先生のことを嫌ったんですよね。←大暴露!!でも今になるとそんなことは無いんですよね。なんで嫌ったのか?なぜそんなにも嫌だったのか?一体いつから嫌じゃなくなったのか?今日ではみんないい先生だと思っているし今では笑い話です。不思議なものです。それだけみんな成長したということでしょうか。春の大会が終わって引退してからみんな疎遠になっていくというか。みんなそろうこともなくなったんですよね。だから夏休みに花火をしたんですよね。これは二年の時にもみんなでやって盛り上がったんですよ。でも今回は三年だけでやろうやと言うことで5000円分の花火を買い込んで紀ノ川の河川敷でやりました。明るいころからやり始めて暗くなった頃にはもうほとんど残ってないんですよね。でも物凄く楽しくてまた集まって何かやろうということになって鍋をすることになったんですよ。でも、みんなと言うよりも私が受験で忙しくて。結局、今頃になちゃいました。でもそれでもやろうと言うことでまた15日にやろうと思っています。四月になると本当にみんなそれぞれ自分の道を歩くことになる。でもこの花火と鍋はこの先もずっと続けていければと思っています。私がこの空手道部で得たものそれは猿・犬・豚・猫の掛け替えのない愉快な仲間だと思います。今まで本当にありがとう。

 

・あとがき・

 

これで私がどのような三年間を送ったのか、よくわかってもらえたのではないでしょうか?正直楽しいことばかりだったわけではないです。でも空手道部に入ったことに後悔はないです。これからも空手道は続けていくつもりですし。後輩として妹も空手道部で頑張ってくれています。最近になりようやく試合で勝ったなどという話も聞くようにようになりました。出来る限り先輩として応援してあげたいと思ってますし。空手道部の繁栄!?少しでも部員が増えることを祈ってホームページも更新を続けていこうと思ってます。応援してくれた方々この場をかりてありがとう。

 

前列の左から猫・猿(主将)・豚・蟹・犬(バウ)

3月1日 卒業を記念し部室前にて

 

見事に三年生の顔は太陽の光で真っ白に…

編集したものの…これが限界でした。