巨人軍歴史
昭和9年
沢村栄治
日本に職業野球が到来するちょっと前、日米野球第10戦が行われた。惜しくも0−1で全日本軍が敗れたが全米軍にインパクトを与えた。それは、先発の沢村栄治が9奪三振、被安打5という好投を見せたからだ。あのベーブ・ルース(三番打者)を三振にしとめて、四番打者のルー・ゲーリックは、三球三振でしとめた。第9回目の日米野球まで全米軍は、圧勝の9連勝。だがその連勝も17歳の少年に危うく止められるところだった。
初の職業野球
日本初の職業野球チームが結成された。その名も「株式会社大日本東京野球倶楽部」。チームには、沢村などの全日本軍メンバーを中心に19名集まった。この結成されたチームが戦う相手は、アメリカの野球チームだった。「10勝もできればいいだろう」と言いながら大日本東京野球倶楽部は、アメリカへと発った。
昭和10年
勝率6割8部8厘
3ヶ月で110戦行った大日本東京野球倶楽部は、75勝34敗1分という成績を残して日本に帰国した。その後大日本東京野球倶楽部は、「東京ジャイアンツ」と命名された。
昭和11年
職業野球初リーグ(秋季)優勝
巨人軍は、1勝1敗で年度優勝決定戦の第三戦を迎えた。相手は、タイガース。この時点から巨人ータイガース戦は、とてもシビアになって今という時代まで続いてる。結局巨人が勝って優勝を決めた。沢村栄治は、最多勝を獲得した。
昭和12年
春季リーグも優勝
二年目となる職業野球も巨人軍がタイガース(二位)を-0.5差で逃げ、優勝した。最多勝と防御率一位だった沢村栄治にMVP代一号が受賞された。
後楽園スタジアム開場
ついに完成した後楽園スタジアムの開式記念に紅白戦が行われた。ホームラン第一号は、一回でいきなり出た。水原茂がはなった。
昭和14年
スタルヒン42勝
沢村栄治が戦争へ行ってて、巨人軍を支えた投手がスタルヒンである。シーズン中、全試合の3分の2に出場して、防御率1.73、そして42勝15敗という驚異的な記録を残した。その年巨人が戦った試合数は、たったの96試合。(今の日本は毎年約135試合行います)
昭和15年
除隊になって帰ってきた沢村
二年ほど軍隊生活を送ってようやく除隊された沢村栄治は、巨人軍に帰ってきた。フォームも全然崩れてなく、除隊後4試合目で自身3回目の無安打無得点(ノーヒットノーラン)をタイガース相手に決めた。さすがにショックを受けたタイガースは、投捕間を縮めた打撃練習に励んだほどだ。沢村が入隊した後、背番号14は、「とめ番号」(永久欠番)として、扱われた。
昭和18年
野球用語が日本語化
戦争が激しくなって野球連盟が野球用語で使ってる英語を中止させた。すべての野球用語は、日本語化された。ワンストライクは「よし一本」、ツーストライクは「よし二本」、三振は「そこまで!」、ボールは「一つ」、ヒットは「よし!」、ファウルは「だめ!」、セーフも「よし!」、アウトは「ひけ!」、ボークは「反則」、タイムは「停止」、ホームインは「生還」などなど色々。
藤本英雄の活躍
連続無失点記録62回の大活躍