ちょっとした話
ファンタジー論
と、大々的に名前を付けてみたが、別段たいしたことでもないので、嫌な人は読んでいただかなくてもいい。
まず断っておかなければいけないのは、僕が今からする話は、大部分の人にとっては大変不快なものになるだろうということである。
そして同時に、おそらく最近のファンタジー小説作家の多くを、そして彼らの作品を否定する結果にもなるだろう。
中傷ととられても、妬みから書くような文章だと思われても仕方ない。
しかし勘違いだけはして欲しくない。
それは、この文章は決して僕のかってな想像だけで書いたものではなく、ましてや実体験を伴わないものでもないということだ。
もしこれを読む気があるのなら、これだけは覚えておいていただきたい。
僕もここにつらつらと述べるようなことをして『挫折し、崩壊した』人間だということだ。
では始めましょうか。はっきりいってつまらないと思いますが。
ファンタジー小説というジャンルがある。
一つ定義しておかねばならないのは、ここでいう単純な『ファンタジー小説』は、富士見ファンタジア等から発行されているようなファンタジー小説をさすということだ。
そして『西洋ファンタジー』と表記されるものは、『ファンタジー小説』の、あるいは元になったかもしれない古典的ファンタジーである。いわゆる指輪物語であるとか、そういった部類のもの、あるいは―――厳密には西洋では無論ないのだが―――マハーバーラタやラーマーヤナ、もしくはアラビアンナイトなども含めてもよいことにする。
ファンタジー小説は、西洋ファンタジーの影響を少なからず受けているのは自明の理だろう。
ここ数年で、ファンタジー小説は異常なまでの発展を遂げてきた。ファンタジー小説のきっかけとなったといっても過言ではないTTRPG(テーブルトーク式のロールプレイングゲーム)を基礎に、さまざまに細分化されたそれらは、もはやファンタジーなどという十把一絡げ的なジャンル区分では言い表せなくなってきている。
さて、実際に書店に足を運ぶとよく分かると思うが、近頃のファンタジー小説は大まかにいくつかのパターンに区分される。
純粋な、西洋ファンタジーの真上に位置するようなタイプ。たとえばスレイヤーズなどがそうであろうか。
また、独特な世界観で以って話を展開していくタイプ。魔術師オーフェンがこれにあたる。
伝奇的な雰囲気が魅力のもの。ザンヤルマの剣士などに見られる。
そして、『人間』をテーマにしたタイプ。すなわち、スクラップド・プリンセスなどである。
僕が問題にしようとしているのは、おおむね一番最後のパターンである。
つまり、ファンタジー小説におけるヒューマニズムや哲学的要素の必要性という観点から話をしていきたいのである。
人間とは何か、自分は何のために存在するのかといった問いが、見直されつつある。これは純粋に哲学的世界の問題であるはずだが、混迷を極める現代社会においてこれほど哲学的でありながら我々の心に逼迫して響く言葉も珍しいであろう。
現在の我々の社会には、さまざまな思想思念が『渦巻いている』といっても過言ではない。ある物事に対してさまざまな意見が飛び交い、決して一足飛びにまとまるということをしない。必ず多種多様な意見が発生し、そのなかの類似した多数派の意見が採用される。またあるいはもっとも現実的な回答が求められたり、またあるいは考える必要の無い簡潔で説得力のある信仰が取りざたされるかもしれない。ともかく、高度な情報技術と発達したメディア、そして煩雑に入り組み、常に変動する世界情勢の下で、個人の立つべき足場がひどくぐらつきを覚えているのは、おそらく万人の知るところであろう。たとえ自覚しようとしまいと、である。
ともかく、そうした自己存在、自己価値観の揺らぎは、さまざまな年代層に広がりつつある。中でも顕著なのが、思春期の少年少女や、そういった年齢を少し超え、一個人としての自我が確立したばかりの諸君の間で広がる不安感だ。そういった年代の諸君の多くは、おそらく将来に大きな不安をもっていることであろう。僕自身、先のことを本格的に考え出したときからこの不安はずっと付きまとっている。つまり、自分の今選ぼうとしている道は絶対安全なのだろうか。もしくは、いったい自分がどの道に進めばいいのだろうか。厳密にいえば、結局絶対的な安全というのはどの道に進んでも得られるものではなく、自分のするべきことが終わり、もう思い残すことの無いような、完全に道楽にのめりこむことができるような状況になって初めて絶対的な意味での安全を手に入れることができるのだろうが、今僕がいいたいこととは完全に乖離しているからこの程度でこの問題について追及するのは控えておこう。
ともかく、今、この時代に、人間としてのあり方は大きく見直されており、またそうするべきである。
さて、そういった風潮は、さまざまな方面へと影響を及ぼしているらしい。純文学においても、また評論的な文章においても、『人とはなんなのか』というテーマはいつにおいてもある種つき物である。
しかし、僕が一番驚いたのは、そういった哲学的な問題が、ファンタジー小説の世界にまで滲み出しているということなのだ。
人間を扱ったファンタジー小説は果たして面白いのか、これはどうだっていいことだ。なぜなら、それは各シリーズの売上を見ていけばすぐに判明するからだ。言ってしまえば、そういった内容のファンタジー小説は、今売れに売れている。書店ではフェアが開催されるし、その小説を掲載する雑誌は大きく後押ししている。これはつまり、そういった小説が面白いからであろうし、また実際に面白いという話をよく耳にする。個人的な趣向の話をしても仕方が無い。
しかし、問題にされるべきなのは、そういったスタイルの小説が、ファンタジー小説としての存在を許されるのか、ということなのだ。
結果からいうと、断じてあるべきではない。
ファンタジー小説は、言ってみれば完全な娯楽であるべきなのである。そこに学術を持ち込むのは、砂場で城を作って遊ぶためにダンプカーを用いるようなものである。娯楽としての価値を失ってしまうのだ。勘違いして欲しくないのは、ファンタジー小説を面白くするために哲学的要素を盛り込むことが、「大げさである」といっているのではない。「本末転倒である」といっているのである。ダンプを使って砂場で城を作れば、おそらくその城は完成する前に崩れ去るだろう。娯楽の場に学芸を持ち込めば、とたんにその小説は娯楽ではなくなってしまう。
「人間とは?」「人のありようとは?」「神とは?」「世界とは?」
こういったテーマ性で書かれたファンタジー小説は、すでに、ファンタジーたる存在意義を自らして消させしむる結果に陥っているのである。こうした物語は、一つの創造物としての存在価値は無限にあるが、ファンタジー、すなわち娯楽小説としては完全に自己崩壊しているのである。
西洋ファンタジーにおいて、または古典派ファンタジーにおいて、その面白みは、余計なことを考えることなく、勇者たちの活躍を自分の物にすることができるという点なのであった。つまり、非現実ゆえに、そしてそういった非現実性が庶民一般のあこがれとなれるからこそ、ファンタジーとは面白いのである。登場人物に感情移入できるのである。ファンタジーの登場人物は、たとえば勇者であり、魅力的なヒロインであり、また人のいい脇役であった。そういう、「憎まれる要素」がほぼゼロに等しいからこそ、すべての人々が平等に彼らの冒険を目で追い、心で感じ取ることができる。単純明快な勧善懲悪式の物語は、人の心に残りやすいのだ。
だが、哲学的ファンタジー小説はどうだろうか。主人公はどこか生活に嫌気のさした、くたびれた男であったり、兄弟愛に疑問を抱き、崩壊に恐れをなす青年や少女たちであったりと、ともかく普通の人間なら目を背けたくなるような陰鬱さが漂っている。
間違ってはならないのが、そういうスタンスの小説が間違っているといっているわけではないということだ。
何度もいうが、そのスタンスは、一編の小説としてはおそらくかなり高く評価できるだろう。しかし、ファンタジーであってはならないのだ。
人間の本性的な、どろどろしたエゴイズムや、極端に怖気を誘うような性的描写は、自然主義的私小説の素材にはもってこいであろう。読者は確かにそういった人間のどろどろした本性をさらけ出すことを求めている。しかし、ファンタジーという素材、勧善懲悪を基礎におくべき舞台において、エゴや性、極端な話、人間的な行動そのものですら、前面に出てはいけない。ファンタジーとは娯楽であり、娯楽にヒューマニズムや人の本性の入り込む余地は無いのだ。
もっというならば、僕の考えるところにおいては、いわゆる文学『小説』として、自然主義とはあってはならないものなのだ。人間の本能的なものとして、自分はあまり見たくないという考え方が脳裏には常にある。ナルシストは自分を見たがるし、見て欲しがるだろうが、それは自分の『本性』を何かほかのもので塗り固めた、その表面を見たがり、見せたがっているだけなのだ。つまり仮面を見たがっているのである。
しかし、小説という文学のスタンスにおいて、僕はその仮面の部分が比較的重要視されてもいいのではないかと思う。というのも、その仮面の表面となる部分は、だいたいどの人間がその仮面の創造主であろうと、似通ってしまうからだ。それは、倫理的な教育、つまり情操教育が現代ではおおむね一貫されているからなのだ。つまり、一貫性をもった(似非)ヒューマニズムが現代人の心の中には常に存在しているのである。それはたとえば「人を大事に」とか「愛とは大事なものだ」などといったことである。しかし、それはあくまで仮面に過ぎない。かぶるのと同じくらい、取れるのも簡単なのだ。本物の顔の表面と一体化することは無い。なぜなら、人の心の中核をなすのは所詮自己中心的な主義主張そのものであるからだ。それは、人ひとりひとりが自覚しているかどうかは別として、絶対に知っているものなのだ。つまり、あえて明文化する必要があるのどうか非常に疑わしいということなのである。少なくとも、小説、ことにファンタジーとして文章に表す必要性はない。
人格の中心的な核、あるいは他人との距離感をつかむための軸としての役割を持つ『エゴ』は、決して他人にさらけ出してはならないのだ。それが、たとえ万人に共通する『集合的エゴ』だとしても、である。それは、少なくともファンタジー小説としての、もっと大まかに言うならば娯楽小説として処理できる範疇を超越してしまっているといえるのである。
人間、世界、そして神、そういったある種の象徴的テーゼを処理するのは哲学であり、ファンタジーではない。ファンタジーにおいて重要なのは、神とは考えるものではなく、そこに超然と存在しているものでなければならず、人間も世界も、またそれと同じ方法論でのみ存在を許されるのである。それらの本質を把握することを中核に添えたファンタジーは、ファンタジー小説ではなく、創造物としての哲学書以外の何物でもないのである。