三月二十五日
日常と非日常の境界線は、果たしてどこにあるのだろうか。
こうした問いかけに対して、私は首をひねらざるを得ない。
何故?
簡単なことではないか、その境とは、それまで経験したことのない、衝撃的な体験をする瞬間だ。
と、人は答えるだろう。
だが・・・
果たしてそれは正しいのか。
いやそもそも、非日常とは、一体なんだというのか。
事故か。
事件か。
戦争か。
災害か。
たしかにそれらは非日常である。
しかしだ!
非日常とは、そんな単純なものだろうか。
上にあげたような特殊な状況を、非日常と呼ぶのは間違いではない。
いやむしろかなり的を射た答えだ。
しかし、非日常とはそれだけではない。
日常にあらざること、つまり、昨日、いや、たった一瞬間前まで正しいと思っていた価値観、そういったものが崩れ去ること。
それが非日常ではないか。
すなわち、ついさっきまで存在していたオブジェクト(これは具象、抽象を問わない)が目の前から消滅してしまった状況、それは非日常的状況になってしまうのだ。
具体的な例を挙げてみよう。
ある女の子は、大変気に入っているクマの縫いぐるみを持っている。それは小さい頃に両親に買ってもらったもので、高校生活最後の日まで、それを抱いて眠るほど、彼女はその縫いぐるみが気に入っていた。
しかし、ある日のこと、彼女の母親が、目が取れ、あちこちほつれて汚くなった縫いぐるみを棄ててしまった。女の子はその現場を、たまたま遊びに出ていて見ていなかった。
ところが、帰ってくるとお気に入りの縫いぐるみが忽然と消えてしまっていた。この瞬間から、彼女の非日常は始まる。
女の子は一種の、軽い恐慌状態に陥る。あぁ、大事な大事なクマさんをなくしてしまった。お母さん、棄てちゃったのね、あぁ・・・
女の子は(泣きはしないものの)大変悲しむ。
或いは、女の子は数日間悲しみ続けるかもしれない。
だが、いつしかこの、『縫いぐるみのない生活』が当たり前になってくる。クマのことを考えない日がやってくる。
そうなった瞬間、彼女の非日常――縫いぐるみのない状況――は、日常へと回帰する。
そう、非日常は一時的なものだ。そして日常は、その非日常の連鎖によって成り立っている。
いわゆる『日常』とよばれているものの中に、無数の非日常が介在していることに、気づいている人はそれほど多くないような気がする。或いは、こんな妙なことを考える私自身、多少異常をきたしているのかもしれない。しかし、それは確かなことなのである。
何も大事なものに限ったことではないではないか。トイレットペーパーがきれていることも、歯磨き粉がなくなることも、日常的にはありがちなことであるが、それらは確かに非日常なのである。
だからこそ、日常と非日常の区別はつけがたいのである。
私も、ついこの間、大いなる挫折を味わった。
大学受験に失敗したという大きな挫折だ。
しかし、その後でも、私の日常は変わらない。一日たったら、浪人生であるという衝撃的な事実が、いままで高校生であったことと同じような感覚で、私の脳に染み付いてしまった。漠然とした不安はあるものの、これからの身の振りようを考え終われば、どうというほどのものではない。
ここでも、非日常から日常への回帰が見られる。
結局のところ、非日常とは次の日常へのつなぎの部分でしかなく、非日常を悲観するということは、次の日常へと進む勇気がない、言ってみれば、今の非日常に甘んじ、悲劇に主人公を演じて周りから心配されて、ちやほやされたいという腐りきった性根の表れなのである。
現状を悲観するな。次になすべきことを考えよ!
目の前に迫る現実を乗り越えるのは、常に進歩を続ける人類の、当然の義務なのだ。
とどのつまり、浪人しても悲観せず、なにくそとか思いながら来年は見事に、汚名返上をしてくれるわということです。
ちょっとシリアスに書く日記もいいんではないかとか思ったりして。
でも自分にはこういう文章は似合いませんねぇ。
次からは普通モードにもどしていきまッしょ(笑)