八月二十二日
約一ヵ月半ぶりの更新。
今日、金曜ロードショウで「火垂るの墓」をやっていた。
予備校の世界史の時間、先生が話していたのを思い出して、自室のテレビをつけて、何気に見ていた。
正直な話、あの手の、いわゆる「お涙頂戴」的な話は僕は好かない。
わざとらしく、胸が悪くなるからだ。だから、この「火垂るの墓」も、いつも敬遠していた。
今日は気分が違ったのだろう、珍しく「見てみるか」と思った。
残念ながら、予備校からかえってくる時間の都合で前半はまるまる見過ごしてしまった。
だから、主人公の母親が死ぬシーンなどは見ていない。記憶の片隅にあるのは、衝撃的なオープニングのシーン。
「九月二十一日、僕は死んだ」というやつである。ずいぶん前に見たのをうっすらと覚えているだけだ。
まあそれはともかく。
後半だけ見ても、色々考えさせられる映画だと思う。
こんなことを言うと偉そうなのかもしれないが、最も感動的なシーンは、節子がなくなるシーンでも、
ましてやそのあとの、節子の幻影のシーンでもないような気がする。
おそらく多くの人が気づくだろうし、また、映画評論家などは一発で見抜いて見せるのかもしれないが、
この映画に何かこめられているとすれば、それは最後のシーン以外のほかでもなかろう。
かく言う自分も、この映画を最後まで見たことはなかったから、今日気まぐれを起こして見なかったら永遠に気がつかなかったかもしれないし、また今日見たのも、そのラストのシーンを自分の目で確認せんがためでもあった。というのも、そのシーンのメッセージ性自体、世界史の先生がおっしゃって、初めて知ったからだ。
そのシーンは、追憶を終えて、彼岸へと旅立とうとする主人公の眼下に、高度文明社会・・・十五年前の三宮が広がるというシーンだった。そのシーンを幕切れとして、映画は終了する。
気づくだろう、このシーンに込められたメッセージに。
そう、今現在我々が生きている文化、文明の下敷きとなっているのは、数多くの犠牲である。
ヒロシマしかり、ナガサキしかり、特攻隊しかり、ひめゆり隊しかり、そして節子と清太のような、幼い子供たちしかり・・・数え上げればきりの無い、無数の犠牲である。
彼らの犠牲が、今この文明の礎となっているというのは果たして誤っているだろうか。
しかし、その犠牲に目を向けようともしない人たちがいる。この国では戦争が起こらなかったと、本気で信じている人もいる。正しい知識をもたない者も。戦争反対のアニメ映画を見せられたときであった。小学生たちが、アメリカは日本に酷いことをして、沢山人を死なせた、平和は大事だと思った、なんていう作文を書く横で、僕は書いてやった。兵隊を引き連れて歩く馬上の将校のはげ頭が面白かった、他はたいして感動しなかった、と。その映画には、「火垂るの墓」が持つような重大なメッセージ性が皆無だったからだ。B29が焼夷弾をポコポコ落として、町が一つ焼ける、その次はヒロシマに原爆が落ち、お化けみたいな人間がふらふらと町を彷徨している・・・そんな映画ばかり。後に続くものがないとでも言うのだろうか。ともかく、そんな子供だましでは感想文なぞ書けやしない。そして、その作文を提出したら、案の定、怒られた。まあこれはつまらない余談かもしれないが、成長してから改めて考えると、われながらなかなか上手い皮肉だとは思う。当時はそんなこと思いもしなかっただろうが。ともかく、教育者たる教師でさえ、「ニッポン被害者論」を生徒に押し付けたくてたまらないのだろう。正しい歴史は、歪曲される運命にあるのかもしれない。太平洋戦争という忌まわしい記憶を風化させたくない気持ちはおそらく彼らとて同じだろう。しかし、そのためならばどんな手段を講じてもかまわないというわけではない。僕には、百万人の人間が焼き尽くされる映画よりも、たった二人の少年少女が見た、美しい未来の夜景のほうがよっぽど深く胸をえぐる。映画を見て涙を流したのは何年ぶりだろう。
しかし・・・
しかしである。
その美しいはずの夜景が、幻影となってそろそろ久しいといってもいいんではなかろうか。十五年前に通用したかもしれないあのエンディングは、今では通用しない。この現在という世界の足元に太平洋戦争という記憶が、そしてその戦争で犠牲になっていったあまたの人間の魂が、眠っているといわれても、もはやそのような精神を感じる余裕などはカケラも無い。我々の身の回りには、憂きことが多すぎる。イラク問題、北朝鮮問題・・・国内に目を向けても、ある意味異常とも思えるような犯罪がひしめき合っている。平成版「内憂外患」である。故人を嘆き、或いはたたえる時間は我々に与えられない。安全神話などというものはとうのむかしに滅んでいるのだから。
だが、だからこそ、あのエンディングは別の意味を持ってくるのかもしれない。この「内憂外患」の世の中に対して、十五年前の人間が放ったフックだったなら・・・
あまりにも利きすぎた皮肉ではなかろうか。
結局何がいいたいかというと、柄にも無く「火垂るの墓」を見て感動したってこと。