県教育委員会認可通信教育
月刊数学Ua教科通信 第2号:デカンショ
オイラの贈り物 2001年5月27日発行
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フランスの詩人ポール・ヴァレリーの言葉に『数学は精神の運動であり、踊りに似たものである。』というのがあるそうです。
「そうか、お盆にヤグラのまわりでみんながやっているのは、数学だったのか。俺もスーリングに行く前に、ステップでも習っていこうか。でも遠足で行った修善寺虹の郷の石段でふうふう言ってるくらいだから無理かな?」
−そんなくだらんことを考える暇があったら、早くレポート添削して返せ!−というお叱りの声がみなさんから返ってきそうですが、まもなくテスト解禁の6月、今月もがんばっていきましょう。
◎数学者のことば第二回:デカルトの巻
「われ思う、故に、われあり」
みなさんは、デカルトという人をご存じでしょうか。
知らない人も多いのではないかと思いますが、実はみなさんすでに彼に会っているともいえるのです。数学UaのレポートNO.1からNO.3までは平面図形ですが、これは解析幾何というデカルトが創った数学の分野の一部なのです。(裏注1)
◎エライヤッチャ、ヨイヨイ!
昔、デカンショ節という歌があった。
ある時テレビを見ていたら、昔、旧制高校生だったオジサンたちが出てきて、昔、旧制高校の制服だった シャツと羽織(はおり)と袴(はかま)を着て
「デカルト、カント、
ショーペンハウエル、
エライヤッチャ、ヨイヨイ! |
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デカンショ節
デカンショ、デカンショで
半年暮らす。ヨイヨイ。
あとの半年しゃ、寝て暮らす。
ヨーイヨーイ、デッカンショ。
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デカンショ、デカンショで半年暮らす。 ヨイヨイ。」
と歌って踊っていた。ちなみにカントやショーペンハウエルはドイツの哲学者でカントは数学が好きだった。(裏注2)
昔の旧制高校生はデカルト、カント、ショーペンハウエルの本を(分かっても分からなくても)読んでいれば半年暮らせたわけだ。
たから、デカルトはエライ(偉い)ヤッチャなのである。
◎朝寝が大好きで〜
ルネ・デカルトは、1596年3月31日、フランス中部の町ラ・エイで生まれた。(今では町の名もデカルトとなった。) 母はデカルトの生まれた翌年亡くなり、ルネは乳母に育てられた。病弱だったので父は学校にやるのを遅らせた。10才になってイエズス会の主催する、ラ・フレーシュ学院に入学した。この学校はデカルトにとって住み心地の良いところだった。学院長がデカルトの遠い親戚であったためか、体の弱いデカルトに「朝は気分が良くなるまでいつまでも寝ていても良い。午前中の授業には出なくても良いよ。」と言ってくれたので、デカルトはいつも朝寝坊していた。毎日10時間以上眠った。いつも昼の11時頃起きた。
朝ベッドの中でウトウトしていると、壁にハエがはっている。それを見て、ハエの位置を座標で表すことを思いついた、という伝説があるくらいだ。
こうして、朝寝の習慣はデカルトの生涯続く。晩年の数ヶ月を除いては...。
18才で優秀な成績で学院を卒業し、ボアティエ大学に入学、父の意思で法学を勉強するが、父の希望する法官にはならなかった。
◎旅ゆけば〜
大学を終わってもデカルトは、自分の学んだ学問に満足できなかった。数学は好きだったが、それに比べてスコラ哲学などの学問は、根拠が余りにもアイマイすぎると思った。そこで、彼は≪世間という大いなる書物≫を読もうと旅に出ることにした。(≪ ≫の中の言葉は、彼の名著『方法序説』の言葉。このあとも同じ。)
まずパリに行く。次にオランダに行って軍隊に入り無給の将校になる。死んだ母からばく大な遺産を受け継いだ彼は、お金のために働く必要はなかったのだ。軍隊でも相変わらず朝寝坊を続け、彼が手柄を挙げたという話は、ついぞ聞かなかった。このころオランダ人の数学者ペークマンと知り合い、ますます数学に関心を持つ。
あるとき、船頭を雇い、島から舟で帰ろうとした。デカルトとその従者を、金持ち商人のボンボンと思いこんだ船頭達は、こいつらをやっつけ金を奪って海に投げ込もうと相談した。どうせ地元の言葉は分かるまいと、平気で話し合った。所が、世間という書物を読んでいたデカルトには彼等の言葉はよく分かった。すぐに剣を抜いて船頭達をこらしめ、無事に大陸に渡った。
またあるときパリで、憎からずに想っていた婦人と歩いていると、ある男が言い寄ってきて彼女を侮辱したので、剣を抜くやたちまち相手の剣をたたき落とした。そして「レデイの前でおまえを切り倒すのは忍びない」と言って逃がしたという。三銃士に出てくるダルタニアンみたいだ。カッコイイというかキザというべきか。
また、ドイツへ行って王の戴冠式を見たり、ローマへ行って協会の儀式を見物したり、お祭り騒ぎが大好きだった。
◎夢であいましょう〜『デカルトの夢』
1619年1月10日日、デカルトは3つの夢を見た。
最初の夢は、強風の中、母校ラ・フレーシュの教会へ向かう途中友人に会い挨拶しようと体をひねると、激しい風にあおられ教会の壁にたたきつけられる。その後中庭から「メロンを持ってきてくれ」という声を聞く。
次の夢は、稲妻が落ちたような音を聞き、デカルトは恐怖に打ちのめされる。部屋は無数の閃光につつまれる。
最後の夢は、机の上に辞書と詩集が置かれているのに気づく。「いかに生活の道をたどるべきか?」で始まる詩を朗読している。
この3つの夢を見た彼は、自分の天命を確信する。
合理的人間の始祖デカルトの回心が、非合理な出来事で起こったというのは、皮肉だ。
◎君子危うきに近寄らず
長い間研究を続けたデカルトは、それを大著『宇宙:ル・モンド』を書き上げた。それを出版しようとした矢先、ショッキングな知らせを受けた。ガリレイの宗教裁判である。ガリレオが『天文対話』でコペルニクスの地動説を肯定したのがローマ法王の逆鱗に触れたのだ。老齢で失明寸前のガリレオは有罪とされ、牢獄につながれた。
こういう場合に人の取る態度はふたつある。
ひとつは、「義を見てせざるは勇なきなり」と自分も本を出版して、ガリレオにエールを送る。もうひとつは「君子危うきに近寄らず」。常識人デカルトは後者を選んだ。(裏注3)
彼は『宇宙』の出版をやめた。
所がデカルトのこの本のことは、メルセンヌを初め、彼の学問仲間(裏注4)ですでに知れわたっていた。あの本はどうなったという声が次第に大きくなった。そこで彼は、『宇宙』の中の無難な部分を選んで、それに『まえがき』をつけて出版することにした。
それが「理性を正しく導き、諸学問における真理を探究するための方法についての序説、屈折光学、気象学、幾何学」という長たらしい題名の本である。
ふつうまえがきといえば2,3ページぐらいのものだ。所がこの『まえがき』は異常に長い。岩波文庫にして約100ページもある。あんまり長いので、後にこの『まえがき』だけが単独に本となった。それが『方法序説』である。
デカルトも長いのをデカルトも気にしたのだろう、この本を6章に分けてある。その第4章の初めの方に次の言葉が出てくる。
≪我思う、故に、我あり≫
◎≪我思う、故に、我あり≫
前に、デカルトは、自分の学んだ学問に満足できなかった、と書いた。
実際学校で習ったキリスト教の教義などは、「こうなってるんだ」と押しつけるばかりで、なぜそうなのか、とか、どんな推論でそうなったか等の、彼の疑問を満足させてくれない。
そこでデカルトは、少しでも疑問に思うものをどんどん切り捨てていった。数々のキリスト教の教義も、哲学の教えも、A定食も、ついでに数学の論証も間違えてるかも知れないと。
すると最後に、そんな風に疑っている自分が残った。どんなに他のものが真でなくっても、今それらを疑っている、考えている自分自身が存在することは、間違いない。これが≪我思う、故に、我あり≫ラテン語で=コギト、エルゴ、スムだ。(裏注5)
ちょうど、数学の公理のように、絶対正しい真理だ。
◎女に弱いのが玉にキズ
デカルトの名声はますます高まっていった。スウェーデンのクリスティーナ女王がデカルトに学問を教わりたいと望んだ。
初めは乗り気ではなかったデカルトも、何度も誘いを受け、ついには大軍艦がデカルトの住むオランダまで2度も、デカルトを迎えに来るに及んで、ついにスゥエーデンに行くことにした。それに相手は、美しい20才の女王だ。1649年10月初めだった。
女王は歓迎してくれた。しかし最初に彼に与えられた仕事は妙なものだった。バレーの台本書きだった。「???」の内に何とか書き上げると、次はスウェーデンアカーデミー設立を準備を命ぜられた。学問の方はどうなったの?
クリスティーナ女王はだだの若い女性ではなかった。スーパー・タフ・ガールだった。10時間以上馬に乗り続けても平気だった。朝早く起き、夜遅くまで働いた。その女王が、1月になってようやくデカルトに学問を教わる気になった。
ところが、朝の5時から始めるので来いという。北国スゥエーデンの1月といえば、昼間でもほとんど暗い。それを朝5時とは!! そのためには、朝の4時には家から馬車に乗って出発しなければ!! そのためには朝の3時には起きなければ!!
それまでのデカルトは、毎日昼の11時頃まで寝ていた。フランスやオランダの暖房の効いた部屋で。それがこの国では暖房さえあまり効かない。53才にもなって、こんな目にあうとは!!! デカルトにとって死ぬような苦しみだった。
実際、まもなく肺炎になり、2月11日の早朝亡くなった。享年53才。
◎≪我思う、故に、我あり≫その後
ここまで来ると、何かデカルトは女に甘いばっかりに北国で死んでしまった馬鹿なおじさんと思うかも知れない。しかしやはりデカルトはエライヤッチャなのだ。
彼の、≪我思う、故に、我あり≫は、結局人間を支配するものは、人間の理性だということになる。人間は人間の主人公だ、というデカルト的人間観は、ずっと人類共通のものだった。
ここで、だった、と言ったのは、今はそうではないからである。
精神分析を創設したフロイトは、人間には意識(理性)以外にその何倍もの無意識がある、ことを示した。ちょうど氷山の水面の上の部分が意識で、水面下の部分(無意識)はその4、5倍もあって、人間はその無意識にも支配されている、というのだ。
だから私たちは今、
「デカルト、カント、ショーペンハウエル、それにフロイト。エライヤッチャ、ヨイヨイ!」と歌わなければならない?!
(これでデカルトの回を終わります。次回はパスカルの予定です。)
注1)解析幾何というデカルトが創った数学
もちろんデカルトたった一人で解析幾何が出来たわけではない。中山だってたった一人ではゴールできない。奧と藤田がサイドを走り、名波がスルーパスを送り、高原がディフェンスを引きつけるおかげで、中山もゴールゲットできるのだ。
解析幾何も同じ。点を座標で表すことはガリレオが始めた。デカルトが解析幾何の大枠を作り、フェルマーやパスカルは円錐曲線(円、楕円、双曲線、放物線)の解析幾何を研究した。
注2)カントは数学が好きだった。
私はあるときカントの『純粋理性批判』を文庫本で3ページ読み、即眠ってしまった。そのくらいすごい哲学者カントは、ユーグリツド幾何を愛好し、その美しい論理構成をモデルとして彼の哲学を作ったという。数学の帝王ガウスは、カントを大変尊敬していた。ガウスは非ユーグリツド幾何を発見したが、カントを傷つけることをおそれて、発表しなかった。
そうこうするうち、ロシアのロバチェフスキー、ヤーノッシュ・ボヤイそしてリーマンが非ユーグリツド幾何を発見し発表した。ヤーノッシュ・ボヤイの父ファルカシュは、ガウスの親友である。しかし、ロバチェフスキーとボヤイの非ユーグリツド幾何は同じもので、ロバチェフスキーの方が発表が早かったので、栄誉はすべて彼の方に行ってしまった。
ファルカシュとヤーノッシュのボヤイ親子は、「もっと早く発表すれば良かった!」とボヤイた。
注3)常識人デカルト
デカルトは『方法序説』第3章で、次の格率(行動の基準)をあげている。
「真理を発見するまでは、世間の常識に従って行動すること。」
たとえば、究極の料理を求めていても、それを見つけるまで何も食べないというわけにはいかない。理想の料理に出会うまでは、A定食を食べなさい、ということ。
注4)メルセンヌを初め、彼の学問仲間
お祭りが好きなくせに、人嫌いなデカルトは、オランダに住んだときに住所を隠して、唯一メルセンヌ神父だけに知らせておいた。手紙もすべて彼を通じて送った。メルセンヌは、巨大素数メルセンヌ数でも知られるが、修道院の自室をサロンにして文人や科学者を集めたことで知られている。。そこにはパスカル、デザルグ、ホッブスなど様々な知者が出入りした。後のフランス・アカデミーのもととなった。
注5)我思う、故に、我あり
≪我思う、故に、我あり≫は、ラテン語で=コギト、
エルゴ、スム=cogito ergo sumという。
cogito(私は)考える ergoだから sum(私は)存在する、だ。
私(上田)の場合、我食う、故に、我あり、かも。
オイラの贈り物へのお便り
Aさん:昨年の第12号教科通信について。
・ガロアは数学(算数)を始めたばかりなのにとても偉く感動してしまい ました。
・最終号について・・・ピタゴラスの数の求め方(m,nの一方が奇数で他 方が偶数でm>nのとき、X=m2−n2,Y=2mn,Z=m2+n2 とすると、X,Y,Zはピタゴラスの数、つまり X2+Y2=Z2)は、 mとnに色々代入してやってみました。面白く感じました。
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