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近江一国からなる滋賀県は本州のほぼ中央、若狭湾と伊勢湾が湾入する地峡部に位置している。県の面積の約六分の一を占める琵琶湖を中央に配し、比叡・比良・伊吹・鈴鹿の霊峰に囲まれる。
畿内と東国、西日本と東日本の接点に位置する近江は、古来から交通の要衝であった。古代には東海道・東山道・北陸道が国内を通過し、それぞれの国境付近に鈴鹿・不破・愛発(あらち)の三関(さんげん)が設けられた。近世には東海道・中山道の他、湖西に西近江路、湖北に北国街道が通じていた。
ミクロに見た場合は、宇治橋・淀橋と並んで三大名橋と呼ばれてきた勢多(瀬田)橋から草津市、栗田郡栗東町にかけての地域が交通の結節点として重要な役割を担ってきたことを指摘することが出来る。近世には東海道と中山道が合流する草津宿が活況を呈し、現在では国道一号・八号の分岐点、名神高速道路の栗東インターチェンジがあり、JR草津駅は琵琶湖線と草津線の乗換駅として賑わいを見せている。
また伊吹山南麓の地峡部には東海道・山陽新幹線、名神高速道路、国道二一号などの幹線が通じているが、冬季は「関ヶ原の吹き出し」現象で大雪に見舞われ、交通に支障を来すことが少なくない。湖西では比良山地から颪(おろし)が吹き下ろす。三月下旬の颪は「比良八荒(講)」と呼ばれ、これが荒れじまうと湖国に本格的な春が訪れる。
水の町大津は全て湖の畔である。
天智天皇六年(六六七)の三月、「都を近江に遷し、号して志賀の大津京」、いわゆる「近江大津京遷都」が行われた。
天智天皇はこの大津京で近江令、庚午年籍を制定し、法治国家への基礎を築いたが、皇位継承を巡って天皇の弟の大海人皇子と息子の大友皇子が瀬田川を挟んで戦い、瀬田橋を押さえた大海人皇子が政権を握った壬申の乱(六七二年)に因り、都は僅か五年で姿を消した。
この近江遷都について、その直接の原因は未だ不明である。大和朝廷が栄え、天智天皇は大化改新後の内政や朝鮮出兵で多事だった筈で、柿本人麻呂も「万葉集」の中で、「いかさまにおもほしめせか」と疑問を投げ掛けている。なぜ都が大津でなければならなかったのか、考えられる要因の一つとして大津が日本列島のほぼ中央部に位置していた事が挙げられるが、今一つ説得力に乏しい。天智天皇が水の臭いに誘われたとは考えられないだろうか?(ちなみに『日本書紀』には既に遷都前年の冬、京都(みやこ)の鼠が近江に向かって移動したという近江遷都の予兆を示す記事がある)
都が奈良に移ってからは、近江の歴史は一時衰えたが、それでも朝廷との関わりは深かった。奈良の都は田上(たなかみ)山(大津市)の木材を運んで造られた。奈良時代の延暦七年(七八八)、伝教大師最澄が比叡山(大津市)に天台宗総本山の延暦寺を開き、その弟子の円珍が園城寺(三井寺)を再興すると、天台文化は全国各地に広がり、平安時代以降中世に至るまで、延暦寺は鎮護国家の本山としてその隆盛を極めた。
壬申の乱の戦場となった瀬田川は、琵琶湖唯一の水路で、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に注ぐ。川は自然の造った関所であり、橋は東国からの侵攻を防ぎ、京の都を守る砦であった。そのような地理的条件のため、壬申の乱後もしばしば天下を巡る攻防の舞台となった。権力奪還を狙って兵を挙げた天平宝字八年(七六四)の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱、寿永三年(一一八四)、木曽義仲が平知盛を破り、平家西国落ちの因となった前の寿永の戦い、翌三年、源範頼と木曽義仲軍の今井兼平が戦い、義仲が敗死した後の寿永の戦い、承久三年(一二二一)、政権の回復を目指す後白河法皇方の山田重忠と鎌倉幕府の北条時房が戦い、鎌倉側の大勝となり、源氏後の北条氏の地位を固めた承久の変、建武三年(一三三六)、後醍醐天皇方の千種忠顕と足利直義が戦い、天皇軍が大勝して「建武の中興」が成った建武の戦い──などである。
瀬田橋は唐様の模様があったので、鎌倉時代以降「唐橋(からばし)」と呼ばれた。
そして中世から戦国の乱世。瀬田川を制する者は天下を制す。武田信玄が「瀬田橋に我が風林火山の旗を立てよ」と遺言した事に象徴される様に、近江の歴史は一変した。血で血を洗う戦国の桧舞台と化した。
信長の近江侵攻に因り、近江は乱世の渦に呑み込まれた。信長・家康連合軍が浅井・朝倉と戦った元亀元年(一五七〇)の姉川の合戦、浅井氏が滅亡した天正元年(一五七三)の小谷城攻略、その間に挟まった元亀二年の比叡山焼き討ち。この焼き討ちは前代未聞で、山上山下が信長によって徹底的に破壊され、延暦寺の僧から奉仕する男女子供まで、数千人の命が奪われた。この三年間、近江は兵火に見舞われ続け、歴史の転換期となった。
比叡山の焼き討ちは、絶対権力を誇った聖域の崩壊であり、権力の交代を告げるものだった。
こうして、近江の近世は、信長の安土築城で始まる。天正四年(一五七六)から三年掛かりで琵琶湖の北東に築かれたこの空前絶後の名城は、日本最初の五層七重の天守閣を持っていた。瓦に金箔を置くなど、その豪華さは宣教師に依って遠くヨーロッパまで伝わったが、天正一〇年(一五八二)に起こった本能寺の変の二週間後、明智勢の攻撃に遭い炎上、完成以来僅か三年で姿を消した。
信長は、比叡山焼き討ち後、明智光秀に命じて坂本城(大津市)を造らせた。比叡山を監視するのが狙いだったが、安土城に次ぐ名城で、その美観ぶりが後の社寺建築まで影響し、桃山文化の基礎となった。しかしこれも本能寺の変の一三日後、光秀の敗報を聞いた光秀の従兄弟で城主の明智光春によって火を放たれた。その際、光秀の妻子も、光春の妻とともに光春に刺殺された。光春も自刃して果てた。
本能寺で信長を討った光秀は、織田氏本拠の安土城を落とそうと急いだが、 早く瀬田橋が織田側に焼き払われ、二日間の足止めを食った。この二日間が光秀の天下取りを幻のものとした。
本能寺の変で信長が倒れ、近江は再び戦乱の時代に入る。天下をかけた跡目相続争いで、羽柴秀吉と柴田勝家が戦った天正一一年(一五八三)の賤ヶ岳の合戦、徳川家康と石田三成が戦った慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦、三成の居城・佐和山城の落城などである。
(この章まだ続く)