4
私がいない間も大津の町は変化し続けていた。西武百貨店(創始者は当然近江商人。あのスカイブルーは琵琶湖の水の色)の隣りにPARCOができた。近代的なホテルも増えた。市制百年を迎えて浜大津港に巨大なオブジェ風の噴水が造られた。夜になるとライトアップされて赤や青に光った。オペラハウスまで建てられた。
あの頃はこのプリンスホテルさえ無かった。湖岸には万引きの稼ぎ場だった西武百貨店と、できたばかりのマクドナルドと、湖に半島状に突き出た膳所城跡公園しか無かった。中学は唐橋へ向かう途中の瀬田川沿いにあった。そこはかつて粟津野と呼ばれた所で、『日本書紀』は壬申の乱の瀬田攻防戦について、次のように描写している。
「旗幟(きし)粟津野を蔽(おお)い、塵埃天に漲(みなぎ)りその後が見えぬほどで、鉦鼓の声数里の外に響き渡り、大弓を列(つら)ねて乱発し矢の下ること雨の如し」
私は毎朝、水辺の校舎を目指して風力強き湖岸を歩いた。風で髪がぐちゃぐちゃに乱れた。湖岸道路にはよく車に引かれた猫の死骸が落ちていた。湖に面した岩場には魚の死骸が打ち上げられていた。水と死骸の臭いが混ざり合った生々しい臭気は、以外とあっさりしていて、粘っこくなかった。
その日、つまり悲しいかな、またもや不運にも万引で捕まり、その他諸々のこともあって掛け軸や賞状の並ぶ厳かな校長室でみっちりと絞られた明くる日も、私は相変わらずゲームをしていた。いつも通り、学校帰りに仲間数人と、駄菓子屋を増築して作られた小さなゲームセンターに寄ったのだった。そこは大きな木箱の中に数台の30円ゲーム機が無造作に置かれているといった風情であった。私はその中の一つに熱中していた。朧気にしか覚えてないのだがTギャラガ?UだとかTムーン・クレスタ?Uだとか何かそんな名前の、シューティング・ゲームのようなものだったと思う。TインベーダーUの時代は数年前に終わっていた。TギャラクシアンUももう古かった。とにかく私は他の仲間同様、目の前のゲームに熱中していたのだった。大きな木箱のようなゲーム部屋内にはこれといった会話もなく、カチャカチャ、カチャカチャと、ゲームを操作する生気の無い音だけが響いていた。私の座っているすぐ横に閉ざされたままの小さな不透明のガラス窓があった。部屋の窓はそれだけだった。窓からは微かな光が差し込んでいた。その窓を境にして、薄暗いゲーム部屋の中と外の明るい通学路とは光の量ばかりでなく、時間の流れ方までもが明らかに違っていた。空気の重みも違っていた。石油ストーブの焚かれた部屋の空気は水分を多く含んでいて不健康な重さがあり、時間の流れも異様に澱んでいて息苦しいくらいで、それらは私たちの精神を人知れず蝕んでゆくのだった。
どれくらいの時間が流れたのだろう? 私たちは相変わらずゲームに熱中していた。脇目も振らず、思考不能の肉塊となって。肉塊は時間を感じない。肉塊となった私たちは何に熱くなっていたのだろう? 確かに、私たちの前には一つの世界があった。それは現実とは切り放された世界だった。現実の一部であるにも関わらず、現実感の無い一つの世界、一人の人間に所有される一つの世界・・・。ハンドルを操作し、ボタンを叩いて敵を打ち落とす。すでに音ではなくなった音。カチャカチャ、カチャカチャ・・・。そのうち目がシカシカし始める。瞬きの回数が増える。腕がだるい。首根っこが固まってきた感じもする。そこで初めて身体が疲れていることに気付く。心も疲れている。心が現実を渇望し始める。現実らしい現実に引き戻される。目覚めさせられた私は切りのいいところでゲームを中断し、身体を反転させて仲間の奮闘、いや陶酔を、黙って見守っている。部屋が暗くなってきたことに気付き、薄汚れた蛍光灯から垂れ下がっているビニールの紐に手を伸ばす。辛うじて灯が灯る。ゲーム部屋内はもう夜だ。そろそろ親がカリカリし始める時間かと思うと体全体が陰鬱に支配される。しかし外はまだ明るい。小窓が薄青いからわかる。時間感覚が狂わされていたのだ。私は安堵し、再びコインを挿入する。敵の戦闘機が向かって来る。迎撃する。私の全意識は異次元を映す青黒い画面に向かう。私が粘液性の熱い渦に完全に身を投じてしまう寸前、窓の外、乾いた足音とともに女性の話し声が近づいて来る。私はその声に思い当たった。私は立ち上がった。窓を開け放ち、身を乗り出し、大声で叫んだ。
「ブス! アホ! いっぺん死んでこい!」
私はすぐに窓を閉め、何事も無かったようにゲームの続きを始めた。すると、ダダダダと荒々しい足音が近づいて来たと思うが早いか、二人の女子中学生がゲーム部屋に乗り込んで来て、特に興奮して息を弾ませている方の女が、駄菓子屋の小太りのおっちゃんが怪訝そうにこちらを覗き込んでいることなど気にも留めず、丸っこい顔を真っ赤にして身体を硬直させ、キイキイ声で喚き出した。
「何やお前! いちびんなー!」
一つ年上のマツモト先輩は童顔たれ目中肉中背の少女で、襟足だけ伸ばしたサーファー風ショートカットの分け目の毛が垂直にぴんぴん立っていた。それに対して、その頃の私は伸ばしっぱなしの髪でしばしばくっきりと分け目を作ってしまったので、マツモト先輩はそんな私を見つけると決まって「あ、ワケワケや!」「ワケワケがいるで〜」などと騒いでからかうのだった。「先輩」と言うのは以前同じ体操部に所属していたからである。私は中学に入学するとカッコつけの目的で体操部に入部した。当時中二だったマツモト先輩はその学年のホープで、青地に赤や黄の線が斜めに入ったきらきら光るレオタードで身を包み、バック転やバック宙などを軽々とこなしていた。入部したての何もできなかった私にとって、マツモト先輩は手の届かない存在だった。けれど時間が経つに従い、私たちの精神的な距離は縮まっていった。どういうわけか新入部員の中でマツモト先輩に一番気に入られたのは私だった。私たちは暇があるとその辺に散らばっている体操用具をぶつけ合って遊んだ。もちろん当たっても怪我をしないものを選んで。
顧問の矢野チンはマツモト先輩には特に厳しかった。それだけ期待もしていたのだろう。マツモト先輩は演技に失敗しては平均台に陰部を強打し、矢野チンに怒られてめそめそ泣いていた。なのに部を引退してからは長いスカートに黒いストッキング、短く詰めたブレザー、脇ポケットにピンクの櫛といった当時の不良スタイルを着こなして威張っていた。つまり「いちびって」いた。「いちびる」というのは「カッコをつける」と「調子に乗る」と「嬉しがる」を足し合わせたくらいの意味であり、「いきがる」よりも侮蔑的な言葉である(これは小学生の時、幼馴染みのシゲルに教えてもらった言葉で、初めは何のことかさっぱりわからなかったのだが、シゲルがクラスメイトを例に挙げて丁寧に説明してくれたので、ようやく理解できた言葉だった。私に初めてエロ本を見せたのもこのシゲルだった。彼は中学に入ってランキング中位のヤンキーになった)
そんなマツモト先輩はいつもにやにやしたこれもショートカットのちびっこい友達を引き連れて下校し、とっくに幽霊部員になっている私を見つけては昔と同じようにちょっかいを出してきた。私はというとマツモト先輩にからかわれた日の夜は必ず彼女のレオタード姿を思い浮かべ、いろんな格好に変形させて秘かにアレのおかずにしていたのだった。
駄菓子屋に戻る。
「誰がアホやて?!」
「お前に決まってるやろ!」
「アホはお前や! アホ! ワケワケのくせにいちびんな!」
「お前もワケワケやろ! アホ!」
「ワケワケはお前やろ! このアホ! カス! 死んでしまえ!」
「お前こそ死ね!」
「死ぬのはお前や!」
喚きたいだけ喚くとマツモト先輩はぷりぷりしながらゲーム部屋を出て行った。甘い香りがゲーム部屋に残されていた。私はそれだけで満足だった。青函トンネルが貫通し、世古が東京マラソンで、青木がハワイアンオープンで優勝した中学二年の冬だった。それから少しして、私は長い髪をバッサリと切り落とした。
四月になると桜が咲いて私たちは進級した。徳島池田が夏春連覇を成し遂げた春だった。マツモト先輩はもう中学には来なかった。
5
15年前、中学三年の春、私は佳子と同じクラスになった。
以前から彼女の存在は知っていたがそのときの私にとっては、数カ月前のことだったが、私の知り合いで、脱色した髪をライオンのたてがみのように風になびかせて歩く長身のヤンキー少女りえちゃん(ランキング2位)と話をしながら下校している途中の彼女に、すれ違いざまにちらっと一瞥されたことだけが、彼女についての最も明らかな記憶だったような気がする。
そのとき私は、そのヤンキー少女と下らない内容の言葉を一言くらい交わし、それと同時に隣にいる、どこかで見たことのある少女について何かを考えたのかも知れなかったが、今となっては全く思い出せない。真実は長い年月の向こうに忘れ去られてしまった。
しかし、まだ学校の校舎も見えるその通学路には、「しらゆき姫」「かわいい悪魔」などの風俗店が立ち並んでいて、その中の一つで店名は忘れてしまったのぞき部屋の隣りに、ひからびた枯れ葉の如き小気味いいたたずまいを見せていた古くて地味な靴屋が、彼女がこの世に生まれ落ちてから14年の間、家族と共に生きてきた場所であったことは確かであり、今でもその靴屋は、風俗店の看板が時の経つにつれて次々に変えられていったにもかかわらず、あの頃と同じ場所に建っている。
進級に伴うクラス替えから日も浅く、新しいクラスメートにまだあまり馴染めていなかった頃、ボタンの取れて汚れっぱなしの詰め襟を着た幼馴染みのカケフ君(ドラえもん体型)がスカートめくりを始めた。
手櫛の歯を折って、スカートを引っかけやすいように工夫された、くさび状の兵器がその遊びに使われた。やられた少女は怒ったふりをして犯人を、気の収まるまで追いかけた。
大人と子供の間で揺れ動く少年少女たちの、少しばかりの悪意を含む刺激的な悪戯、いつもその標的になっていたやんちゃな女生徒たちのグループに、紺のブレザーで小振りな胸を隠し、少しカールさせた黒髪がもうすぐ肩に掛かりそうな佳子がいた。
ある放課後、男女三、四人ずつの仲良し連中が、大人になりかけた少年少女の放つ青い光をまき散らせながら、その遊びに興じていたが、人見知りしがちだった私にとって彼らは眩しすぎ、私は手をこまねいてその狂詩曲を見ていた。誰かが餌食になったばかりのようで、嬌声が飛び交い、廊下は戦場と化していた。
私は彼らの外側にいた。私は自分がその遊びに参加する資格を得ていないことを知っていた。
にやけたとりまきたちの中で、佳子とカケフ君が大声で楽しそうにやり合っていた。佳子が今にも掴みかかろうかという勢いのきいきい声で叫ぶと、背の低いカケフ君も負けじと声を張り上げた。
「今隠したもん出しいな」
「なんも隠してへんわ〜」
「嘘つかんとき〜、今後ろ隠したやんか」
「何ゆうてんねん、なんも無いやろ、あほか!」
「何があほよ、早よ出しっちゅうてんにゃんか!」
佳子はカケフ君の腕をつかみ、彼の大事な秘密兵器を無理矢理取り上げ、それを彼の眼前に示すと同時にふくれっ面で彼を睨みつけ、そして突然
「何よこれ! さっき無いってゆうたやんか!」
と叫んで意気威々と彼に掴みかかり、逃げようとする尻を蹴っ飛ばして喜び、かろうじて転倒を逃れたカケフ君も一層興奮した様子で、大声で、
「何しょんねんこいつ! 暴力女や、暴力女やぁ〜」
と喚き散らし、再び逃げようとして足を滑らせ(彼はその瞬間だけ目を見開いて真剣さをアピールしたが、丁度きき手が身体の後ろにあってガードが間に合わず、哀れにも顔面から落ちていき)、今度こそ小柄な体で廊下に転がった。鈍い衝撃音を伴った彼の突然の素っ頓狂な転倒は余りにもはなへなとしていて、とりまきたちは大いに笑い(ときには腹を抱えて)、喜んだ。
佳子は、だらりと下げた右手に例の兵器を握りしめたまま(左手もだらりと下がっていた)、埃まみれになってしまったおかしな少年の屍(痛みをこらえて静止している)の前に毅然と立ちはだかり、相手を見下すような意地の悪い眼差しでその少年を見つめ、口元には冷笑の影をさり気なく、人ごとのように漂わせていた。
私はこの騒動の間、許されるものならば、佳子の激しく動作する成熟し始めた尻を、後ろにこっそりと忍び寄って掴み上げてやりたいと願望しながら、紺のひだ入りスカートが揺らめき、その内部から放散される健康的な色気に無抵抗に従属する、黄味がかった肌色のいやらしい、第二次性徴にまみれた下半身の露出部分を見ていた。適度に肉の付いたとのこ色の脹ら脛は、スカートが活発な動作で翻る度にちらりちらりと露になる、自分のもののようにごつごつしていない、曲表面の滑らかな膝小僧より上の、熱気がこもって、汗が溢れ出るくらいに蒸し暑くなっているに違いない暗闇の奥に隠された、自然界の法則の前ではあまりにも無力なそれら露出部以上に思春期の少年の興味をそそる、凝視し、揉みしだき、こじ開けたいと思わせられる部分の、豊饒な肉感と温度、まろやかな舌触り、にじみ出る体液を想像させ、私にある衝動を与えた。
下駄箱付近から佳子の声。私は斜め後ろから見ている。
「うそばっかりつくからそうゆう事になんにゃわ、いい加減にしときや〜」
「うっさいんじゃ、ボケ!」
カケフ君、意識を回復して佳子を睨む。佳子静から動へ。
「何よ!」
「うっさいっちゅうてんにゃ!」
カケフ君、立ち上がって思いっきり唾を飛ばす。佳子尻を揺らす。
「うるさない!これは私が預かっとく!あんたらも何喜んでんのよ、早よ帰り!」
佳子は、大きな卵顔に愛嬌と神秘を交錯させて、その大きな口を開け、カケフ君や他の少年たちに向かって、そうじゃなくその先にある何か宿命的なものに向かって言葉を発し、*主に顔と口の大きいことで愛嬌を感じさせたが、唇は薄かった。どこまでも黒く、大きな瞳は、その色と機能以上のものを内包して、物事の向こう側にあるものを見据えているようだった。
ある一瞬、佳子は何もしない私に取るに足らぬほどの興味を覚えたのだろうか、彼女の視線が私をかすめ、それはあの時、初めて目が合ったときのように、そして私の心は目に見えない何かに捕らえられ、彼女は窓ガラス越しに日の暮れてきた運動場の方を見ていて、次の瞬間、私は彼女の背後に近づき、クリーニングしたばかりのスカートを勢い良くまくり上げ、彼女の下半身はあっけなく観衆の意地の悪い視線に曝された。露になった佳子の下半身のなめらかな生肌が二つに割れている尻の曲面に沿って鮮やかなプリムローズ・イエローの体液に湿った下着が肌にぴったりくっついてその割れ目を明らかにしていた。尻は蒸れて熱っぽかった。
私はこの時初めて佳子のパンティーとそれを通して認められる尻の線を見た。その場の雰囲気が変なものに変わっていくのを見た。幾つもの澱んだ視線が一斉に私に向けられ、私は止めてしまった時の流れの前で立ち尽くし、どうしてお前がそんなことをするのかと、皆に無言で責められ、冷たい廊下の陰気な静寂の中に一人放り出された。誰も助けてはくれなかった。頼りない微笑みでその場をなんとか凌ごうとしていた私の、詰め襟を小綺麗に着込んだ全身を、佳子は振り返り、言葉を発することなく冷ややかに眺めた。私は興奮していた。
私はこの時初めて佳子の軽蔑の眼差しを甘んじて受けたが、このようないたぶりをその後何度も彼女に味あわされることになるのだ。またこの小さな事件からどうやって私が立ち直ったのかは、私自身よく覚えていない。と言うよりも、30近いこの歳になっても女性に見つめられると泣き出したくなってしまう私は、この小事件から未だ立ち直れていないのかも知れない。またこの日以後しばらく、深夜の密やかな食卓には、マツモト先輩のレオタード姿と佳子の湿ったイエローな尻とが交互に並ぶこととなった。
その日の夕方、私とカケフ君は何事も無かったように二人してチャリンコで逢坂の峠を越え、京都の山科へ赴いた。それぞれお気に入りのカッターナイフを携え、いや・・忍ばせて。カケフ君のカッターナイフは押し出し式の、どこにでもあるごく一般的な型のものだったが、私のものは同じ押し出し式ではありながら、それよりも一回り大きい業務用のものだった。カケフ君よりもいいものを手に入れたくて、西武百貨店で万引きしたのだった。
私たちはチャリンコをいつもの広場に止め、あらゆるものを切り刻みながら颯爽と街を徘徊した。進軍したと言ってもいい。道端の雑草にとどまらず、民家の表札や店の看板など、目に付いたものに片っ端からカッターナイフを振り上げ、二人して交互に襲いかかった。離れた土地では近所のおばさんに親や学校に告げ口される心配も無かった。逃げればいいだけだったからだ。
私たちの目的はカッターナイフの切れ味を競うことだった。目標物に思い通りの切れ目を入れることができたとき、私たちは共に歓喜し、吹き出した。中でもざっくり切り込まれた飲み屋の提灯に至っては、この世にこれ以上まぬけな物体など存在するはずがないと私たちに思い込ませるに十分な迫力を備えていた。ただしこの提灯などの場合、上下を完全に分断してしまっては意味が無く、それはただ興ざめなだけであり、中途半端に切り込んで瀕死の状態で放置しておくことこそがおかしみを誘うのだった。どれだけ「死にかけ」の感じを出せるか、これも私たちが常に競っていたことだった。そういうわけなので、中学の教室のカーテンがそば屋の暖簾よろしく無残に切り刻まれて本来の役割を失ってしまったのも、もちろん私たちの仕業なのだった。
私たちは時の経つのも忘れてこの無邪気な遊びに熱中していた。ふと気が付くとすっかり日が暮れていた。さすがの私たちも疲れを隠せなかった。どちらからともなく、
「そろそろ帰ろか」
「そやな」
と弱音を吐いた。私たちは逃げるようにチャリンコに飛び乗り、鼻水を垂らしながらペダルを踏み下ろして坂を登り、無数の自動車のヘッドライトやエンジン音と混ざり合いながら、再び逢坂の峠を越えて何事も無かったように各々の家路に着いた。暗闇を走る私たちは意気揚々たる冒険者であり、成し遂げた者であり、戦勝者の如き勇敢さをも手に入れた英雄、それに近い者だった。
カケフ君にはヤンキーの友達が多く、いつでもヤンキー化が可能な立場であったが、根がいい人間なのでその方面に進もうとはしなかった。私はそんな彼が好きだった。
ところで私たちがこの日何気なく通過していた「逢坂」の峠は大化の頃、孝徳天皇の時代に関がもうけられ、それは後に鈴鹿・不破と並ぶ三関の一つとされた。そこに祀られていた坂の神はまた境の神でもあり、同時に山の神、関の神、道祖神でもあった。峠の上で二つの坂道が合うことからきた「逢坂」という名称から、恋しい人に逢う坂であると同時に、逢うことを妨げる神聖な場所とされた。近江と山城を隔てる重要な地点でもあり、瀬田橋と並ぶ交通・軍事的要衝で、『保元物語』や『平家物語』、『太平記』などの軍記物には、これらの近辺が必ずといっていいほど登場する。『蜻蛉日記』『源氏物語』『更級日記』等においても倦むことなく往還されている。
逢坂を越えて湖岸の平野部に出ようとする辺りには、かつて関寺(世喜寺)という寺があった。『栄華物語』によると、釈迦如来以前に現れたといわれる過去七仏(かこしちぶつ)の内の一つ迦葉仏(かしょうぶつ)が牛となってその寺に出現したとの噂が広まったとき、人々は先を争って来たりてかの牛を拝む騒ぎとなったそうである。参拝者の中には今をときめく入道大相国(だいしょうこく)藤原道長夫妻や、右大臣藤原実資(ふじわらのさねすけ)の姿もあった。また、平安前期の代表的歌人「六歌仙」の一人である小野小町が、晩年は落ちぶれてこの関寺辺りに隠れ住んだという伝説があり、「関寺小町」はそのことを題材にした能である。
「関は逢坂」と書かれた『枕草子』には、「ゆくすえ遥かなるもの」として、逢坂を越えて旅に出る旅人の姿が記されている。逢坂山を詠んだ歌は数知れない。
中臣宅守が狭野弟上娘子(さぬのおとがみのおとめ)との恋が露顕して越前へ流される途中に詠んだ歌
吾妹子(わぎもご)に逢坂山を越えて来て泣きつゝをれど逢ふよしもなし (万葉集)
『枕草子』の贈答歌
夜をこめて鳥のそら音ははかるとも世に逢坂(あふさか)の関はゆるさじ 清少納言
返し
逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かずともあけて待つとか 藤原行成
百人一首の三条右大臣(藤原定方)の歌
名にしおはば逢坂山のさねかづら人にしられでくるよしもがな (後撰集)
百人一首の蝉丸の歌(「会人定離(えしゃじょうり)」という仏教の無常感を表している)
これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関 (後撰集)
次の日もカケフ君はスカートめくりをやめなかった。私は相変わらずもじもじしていて、佳子と話すことはできなかった。
「逢坂山うちこえて、勢多の唐橋、駒もとどろと踏みならし・・」(平家物語)
「駒もとどろと踏み鳴らす、勢多の長橋打渡り・・」(太平記)
平安当時、和歌では「長橋」と歌われていた勢多(瀬田)橋であったが、『今昔物語集』ではこの橋には鬼の出没する暗い話題がつきまとった。『更級日記』の上京記、伝承の竹芝男(たけしばのおとこ)は、異界に繋がる魔の境界であるこの橋を、一間ばかり壊してから飛び越えた。
前中納言(大江)匡房(まさ)の歌。
堀河院の御時百首の歌奉けるに
真木の板も苔むす計なりにけり幾世へぬらむ瀬田の長橋 (新古今集)
俵籐太が勢田橋に現れた湖中の龍神に頼まれ、三上山の百足を退治したことも『今昔物語集』などに見られるが、中でも有名なのが御伽草子『俵籐太物語』である。それは三上山の百足退治とそれに関係して龍宮の釣鐘が三井寺へ寄進された話と、関東で朝廷に氾濫を企てた平将門を藤原秀郷(田原籐太)が平貞盛と共に討ち取った話との二部により構成されていて、今も橋の畔には龍王宮秀郷社や秀郷の遺品を伝える雲住寺がある。
現在の瀬田の唐橋は大正十三年製であるが、大小三十四本の擬宝珠を付けた朱色の欄干が瀬田川の水に影を落としている様は、とてもこれがコンクリートの橋であるとは思えない落ち着いた風情である。しかし実際は金属の塊が、橋の上を、排気ガスを吐きながら、高速度で行き交っているのだ。
佳子とともに瀬田の唐橋を渡ったのは後にも先にも一度きり、これ以上無い五月晴れに恵まれた郊外学習で、田上方面へ出掛けたときだけだった。橋を渡る間、私はずっと佳子のすぐ後ろを歩いていた。佳子は上着を脱いで肩に掛けていた。クラスの中心人物らしく、晴れやかに、堂々と。そして私は、変態性癖予備軍の私は、そんな佳子の白く眩しく光るブラウス、それを通してうっすら透けて見える近くにあって遥かなもの、肌に細くぴっちりめり込んだブラジャーの線から目が離せなかった。ブラジャーは後ろにホックのある、ふつうの白いブラジャーだった、けれど、いろんな想像をふくらませるには、それだけで十分だった。そんな佳子の後ろ姿は頼もしくもあり、また何となく滑稽でもあった。それらは先天的に備えられた生物特有の雰囲気であったに違いなかった。そんな佳子は時折後ろを振り返り、うっとりとした気分で歩いている私を見た。その瞬間、私は半袖ブラウスの袖の奥、処理されたすべすべの脇とさらにもっと奥のブラジャーの前部分を目にした。驚異的な一瞬の出来事・・・そんなとき、私はうろたえて視線が泳ぎ、佳子は呆れ、軽蔑した。佳子は歌い出した。
「行きはよいよい帰りは恐いぃ〜♪」
私は全く意味がわからなかった。
目的地は緑溢れる公園だった。広場があった。私は佳子からできるだけ離れて遊んでいたつもりだったが、ふと振り返ると、そこには紛れもなく、砂埃にまみれた私を指差し、友人とともにあざ笑っている佳子がいた。
橋から靴屋へは、湖岸道路から薄暗い路地に入り、京阪電車の駅の方へ上がるとすぐだったが、そんなことは私の人生と何の関係も無かった。またよく考えてみれば、佳子と橋を渡ったのは一度きりではなかった。帰りも佳子と一緒だったはずなのだから。ただ夕方は冷え込んだので、佳子の尻にくっ付いて歩くメリットは減少し、おかげで私は何も思い出せない。
そのうち季節は暖かくなって、私たちは一斉に上着を脱ぎ捨てた。