原爆について



1.原爆投下

8月9日は長崎原爆の日です。昭和20年(1945)、アメリカ軍は6日の広島に
続いて長崎に第二の原爆を投下しました。午前11時2分のことです。
広島に原爆を落とした飛行機はエノラ・ゲイですが、長崎に原爆を落としたの はボックス・カーというB29です。
エノラ・ゲイと同様早朝テニアン島を出 発し、当初第一目標の小倉上空に達しますが、天候が悪かったため投下を断念、
目標を急遽第二目標の長崎に変更しました。そして長崎でも市の中心部には投 下できず、
少し北部の浦上地区、松山町上空9600mから投下。高度500mで炸裂 した原爆は
わずか0.2秒後には半径200mもの火球を作ります。この火球の表面 温度は太陽の表面温度並の8000度にも達しました。
広島でもそうですが、長崎でもみんな、すぐそばを爆撃でやられたのだと思っ たようです。
ところが、どうもすごく広い範囲がやられているので驚きます。
そして、数日後今度は「今度の爆弾は直接やられてなくても、爆破された跡を 歩いただけでもやられてしまうらしい」という噂が立ちます。
その時 には既にそのようなことを知らない近所の町の人たちからなる
大勢の救援隊が 強い放射能の残る焼け跡を歩き回っていました。
彼らもまた放射能障害によっ て命を落とすことになります。
長崎・広島の原爆の犠牲者、各地の空襲でなくなった方々、
南方その他で玉砕 した人々・させられてしまった人々、
特攻などという無茶な戦い方をさせられ て亡くなった人達、各地の戦闘で亡くなった人達、
無意味な虐殺で命を落とし た人達、この戦争で亡くなった全ての人たちの冥福を祈ります。


2.原爆が広島に落とされた理由

終戦までに日本の主要都市は米軍の空襲でほとんど壊滅状態でした。
そのなかで、広島はまだ決定的な被害を受けていませんでした。
広島が原爆投下の目標に選ばれた理由は、次の2点。
都市の大きさや山に囲まれた地形が、原爆の破壊力を探るのに適していたため。
広島はまだ空襲を受けておらず、原爆の威力を確認しやすかった 広島には軍隊、軍事施設、
軍需工場が集中しており、それらがまだ破壊されずに残っていた


3.原爆投下予定地について

<1945(昭和20)年の米国の動き>
4月… 東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、
呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保の17地域が目標として選ばれる
5月… 京都、広島、新潟の3地域に目標が絞られる
6月… 京都が目標から外され、小倉、広島、新潟の3地域となる)
7月25日…広島、小倉、新潟、長崎に投下命令
   31日…広島が最優先目標に決定
8月 1日…新潟が目標から外される
    3日…8月6日を投下日にするとの最終命令。目標は広島、小倉、長崎
    6日…広島に原爆投下
    9日…長崎に原爆投下


4.原爆の子の像

広島と原爆について調べるとき、
「サダコ」という少女の名前がよく出てきます。
佐々木禎子(ささきさだこ)さん
2さいで被爆(ひばく)し、10年もたってから、
白血病(はっけつびょう)で 短い一生を終えた少女です。
世界中の人たちは、佐々木禎子さんを通して
戦争が子どもたちをどんなに苦しめるか、
原爆がどんなに子どもたちに
不幸をもたらすかを知りました。
そして、最期(さいご)まで生きる希望を持って
白血病とたたかったその姿(すがた)に 勇気づけられました。
サダコさんの同級生(どうきゅうせい)たちは、
募金(ぼきん)を集めて、像(ぞう)を作ろうという運動をはじめました。
みんなの訴(うった)えは、思いがけない反響(はんきょう)を
まきおこしました。全国の3000校をこえる学校から
「像の建設(けんせつ)に役立ててください」という手紙と募金が送られてきたのです。
 1957(昭和32)年1月、平和記念公園のなかに
「原爆の子の像」をたてることが正式に決まりました。
 像が完成したのは、佐々木禎子(ささきさだこ)さんが
亡(な)くなってから2年後、1958(昭和33)年のこどもの日です。
 サダコさんをはじめ、亡くなったこどもたちはかえってはこないけど、少なくとも、
「ふたたび、原爆によって子どもたちが犠牲(ぎせい)になることのないように」という
きもちが、像の前におかれた石の碑(ひ)にきざまれています。


5.未來が語る

俺たちはサダコさん=1000羽鶴ってイメージがありますね
確か病院で千羽の鶴が折れたら自分の病気が良くなると思い折ってたらしいです。
結局は全部折れずに亡くなってしまったんだけどね千羽に満たなかった折鶴は残りの鶴をクラスメートの人が折って完成したらしい。
今では、毎年像の前に沢山の千羽鶴が置かれるようになりました
いろんな学校の人達が来て置いていくそうです。
俺が中学の時に生徒会の委員長さんたちが広島に行ってきたらしいです
中学校の玄関にレポートが貼ってあったのが記憶にあります
小学校の時は毎年8月6日が登校日で体育館で戦争の話を聞いたり
教室でビデオを見たりしてた記憶がある。
あと夏休み帳に戦争の話が載っていて感想を書いた気がする
感想は書く事がパターン化してて。「戦争で死んだ人が可哀相だと思った」
「戦争のあるときに生まれなくてよかった」などね
今、戦争について書けって言われても似たような事書くと思う。
俺の知能は全然変わっておりませんね(笑)
でも、戦争は日本が歩んできた歴史の中でなくてはならないものだったんだね
やっぱり今も話し合いでは解決できないこともありますし…
戦争をすることによって学んだこともあると思います
今は平和条約?かな?なんかそんな感じのやつで二度と戦争はしないってコトなってますね。
そのことで今ももめてるみたいですね。自衛隊の派遣についてですね。
自衛隊は国を守るためにありますが、アメリカが危なくなったら助けに行くこともしないといけないはず…
確か戦後にそんな条約が交わされたと思うけど…違うかな?
えひめ丸のこともありましたけどね。アレが逆だったら日本はアメリカと今ごろ戦争になってたかもなぁ…
これくらいにしときましょうかね



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