問題:外国語を学ぶことで自分が得たもの

問題文が与えられている限り、まずそれをしっかり理解することが求められます。問題文が難しいという声もあったので、ここで少し説明します。

 

問題文の骨組

共通しうるものとしないもの(例:氷あずき)

自分の国の文化を外国の人々が共通理解を持つという妄想  ‐ いけばな、歌舞伎など

 

外国の社会と文化を理解するのに不可欠なもの

自己の社会・文化との共通項の発見 

 

共通項の種類

 

1.既存の共通項(既にこの世にある)→ やきめし

2.創造による共通項 → 経済・政治的協力、文化交流

    ↑

  留意点:普遍的な一元理念では相互理解できない。

 

(結論)

外国の文化・社会との相互理解には、超越的絶対的思考を押しつけることによって同一化を求めるのではなく、お互いの社会・文化に存在する可能な限りの近い共通項を発見しようとする努力が必要だ。

 

 

解説

 

 以上がこの問題文の要約です。この問題文が難しく見えるのは、やはり人類学または社会学における専門用語が使われていることでしょうか。ただ、述べている内容は、普段アメリカで生活していると日常に感じていることばかりです。社会学や人類学は、人が普段思っている当たり前のことをわざわざ難しい用語を並べて論じているだけです。これはアメリカでも日本でも世界中そう。自分の身の回りを扱う学問とはそんなものです。

 

 というわけで、この文章で筆者が述べたいことを簡単な言葉で書き換えてみます。

 

 この文章で雪の例が出ています。雪を見たことがない人に、雪とはどんなものか説明するのは非常に難しいと言えます。ただ、説明するとしたらどうやって説明しますか。例えば、雪が冷たいということを説明するのに、僕だったら、「雪は冷凍庫にある氷と同じくらい冷たい。」と説明します。なぜ僕は「氷」を持ち出して説明する必要があるのでしょうか。

 

 それは、「氷」が彼らと僕の共通認識だからです。彼らは雪が見たことはありませんが、冷凍庫の氷というものが冷たいということについて知っている。そして、僕も氷が冷たいということを知っている。つまり、僕も彼らも氷が冷たいということを知っている。これが僕と彼らの共通項だと発見したから、僕は氷を使って雪の冷たさについて説明したわけです。

 

 ただ、世の中のものについて全て世界中の人々に共通認識があるというわけではありません。氷の例について説明を加えましょう。

 

 北極圏に住んでいるイヌイットという人々を知っているでしょうか。多くはアメリカのアラスカ州やカナダの北部に住んでいる人々で、彼らが住んでいるのは1年のほとんどが氷に覆われているという極寒の大地です。彼らは氷とともに生活しています。そんな彼らにとって氷は身近なものであるはずです。僕達が普段感じている氷の冷たさと、彼らが感じている氷の冷たさの感覚にはかなりの差があると思います。もしかしたら、彼らに「氷は冷たい」と力説したところで、彼らは「いや、そんなことはないよ。氷の海におちて20分入っているほうがよっぽど冷たいよ。」と答えるかもしれません。この時、暑い地域の人々との間では共通項であった「氷」が、イヌイットの人達とではそうではなくなってしまうことになります。

 

 では、イヌイットの文化を理解するにはどうすればいいのでしょうか。彼らに「氷は冷たいんだ!」と押しつけ、彼らが「そうだ。」と納得したとしたら、「氷が冷たい」という両者の共通認識が成立したように見えます。しかし、彼らがいくら言葉の上では納得しようと、実は氷に対する体感温度というものは絶対に違っています。氷が冷蔵庫に入っているコーラより冷たいということはお互い理解できますが、氷がどれくらい冷たいかについては、世界中で認識が違うのです。

 

 しかし、結局「氷が冷たい」という共通認識を探す努力をしていると、イヌイットは「氷をそれほど冷たい」と思っていないということを学び、理解することができます。それは、彼らが極寒の地に住んでおり、氷の中で生活していることを知ったからです。「イヌイットは氷が冷たいと思っていない」ということを我々が理解し、イヌイットが「日本では氷が冷たいのか」と理解したことで、お互いについて理解した(相互理解)ということになるのです。

 

 これが本文の内容です。

 

 では、「外国語を学ぶことで自分が得たもの」はどういったものなんでしょうか。ポイントはある国で話されている言葉を学ぶことは、その国について知るということです。つまり、「『通じ合えるもの』を発見していく作業である」ということです。

 

 例はいろいろあります。例えば、英語に「sake」という表現があることは、日本酒は英語圏と日本語圏に共通のものとして存在しているということがわかります。また、日本では「牛」と人くくりに表せるものが、アメリカでは「cow, cattle, ox」など、何種類にも表現されていることがわかります。これは「牛」というものに対する日本とアメリカの需要度の違いです。

 

 他には、外国語自体が会話をする上での「共通項」になったり、日本でも「英語を学んでいる」という共通項のもとに、友達になったりすることがあります。

 

 他にもたくさんあるので、考えてみてください。その際、外国語が押しつける「同一化」について考えてみることも必要です。例をひとつだけ挙げておきます。

 

 今、英語は世界の共通語になろうとしています。19世紀にはイギリスが世界の覇権を握り、20世紀半ばにはアメリカがそれにとってかわりました。アメリカ経済をモデルとするグローバル化によって、世界の人々は英語を学び、国によっては英語を第2言語としているところもあります。「英語」という「共通項」が現れることによって、消えていくものがあります。それは、その土地独特の言語であり、それを基盤とした文化です。

 

 例えば、エルパソのメキシカンレストランで、朝食に卵を注文するとケチャップがでてきます。それは「メキシコ卵」という料理名であるにもかかわらず、アメリカの調味料であるケチャップがでてきます。メキシコの田舎のレストランに入ると、同じものを注文すると必ずサルサがでてきます。

 

昔、エルパソはスペインであり、メキシコでした。ところがアメリカ合衆国に組み入れられたことで、もともとは違う文化を持っていた人々が英語という「共通語」を受け入れ、「アメリカ文化」を受容したのです。その結果、「サルサがケチャップに変わった」(よく言われる表現)のです。

 

これを「文化の押しつけ」ととるのか、それとも「新しい文化の創造」ととるのか。問題文の筆者は「押しつけ」ととっているような気がします。

 

このようなことを考えた上で、もう一度論文を書いてみてください。必ず、自分の実体験を書くようにしよう。なぜなら、それが君達が海外生活で得た財産であり、アドバンテージだからです。

 

この説明を今、自分で読み返しましたが、少し複雑になった気がします。わからなければ、質問をしてください。まっています。