「きつねの嫁入り」



1.

 きつねの嫁入りって知ってる?

 うんそう、青空のくせに小生意気に雨が降ってくるあれね。太陽に雨粒が反射して結構きれいな現象だと思うんだけと、あたしは現在進行形で大嫌い。少なくとも傘なんて持ってない今現在はね。だって濡れるし! そしたら制服臭くなるし! 日曜に制服を洗濯しなきゃならないお母さんだって迷惑じゃない。
 生ぬるい風がさあっと吹き抜けたと思ったら、いきなり雨が降り始めた。長い坂道を半分あたりまで登ったあたしは、思わず空を見上げる。能天気に雲一つなく晴れている空だった。
「きつねの嫁入りかあ」
 ナイロン製の学生カバンを傘代わりに小走りで駆ける。荒い足音とカバンをたたく雨音がひどく耳についた。小さなころから空手を習っているので体力には自信がある。息も切らさずに家を――坂のてっぺんを目指してひたすらに駆けた。

 ――過ぎたことを言うのは信条に反するんだけど、今、あれに出会った今なら、なにもうオールオーケーだ。この時ほど家を目指さず坂を駆け下りておいたらよかったと思う瞬間はない。本当もう過ぎたことなんだけどね。

 あたしは足を緩めた。今まで誰ともすれ違わなかった田舎道に人影を発見したからだ。だって何となく気恥ずかしいじゃない、走っているところを見られるのって。
 まるで青い空へと続くように見える坂道のてっぺん付近に、それはいた。細い糸のような雨の向こうがわで、待ち伏せるように。
 この時のあたしの気持ちはなんと言うか、「こんな雨の中、なんで(たたず)んでるのこの人」だったりする。
 傘もささずに天気雨にうたれる人影は、あたしのように急ぐわけでもなく、はたまた諦めてなげやりに歩いているわけでもなく、手持ち無沙汰に立ち尽くしているのばかりだった。人影があたしより年下の、少年でもなく青年未満な年頃をした男の子だと分かったのはそれからすぐのこと。続いて見事な金色の髪を持っていることにも気が付いた。
 やあねえ、最近の若いのは。日本人で金髪が似合うのはかなり限定されるわよ。とりあえず美形じゃないとね、うん。
 余計なお世話もいいところな思考をめぐらしながら、あたしは人影の顔を盗み見る。ちょっと負けたような気分になった。何かくやしい。
 い、今はよくってもね歳とったらあんたハゲるわ、絶対。そう絶対。毛根がかわいそうだと思わないのかしら。というかもう手遅れね、おまえはもう死んでいるってなもんだわ。こんな若い時分から色抜いてちゃあ、地肌によくないんだから。
 分かってるわよ。こういうの負け惜しみって言うのよね。
 少年には、恐ろしく金髪が似合っていた。さぞ学校ではモテることだろうなと思う。
 はあ、帰ろう帰ろう。彼がブラウン管(え? 今じゃ液晶かプラズマだろう? うるさいわね)の向こうで活躍する日がやってきたら、その時はせいぜい友達に「この人、見たことある。いや、銀杏坂で!」と話題にしたらいい。
 再び小走りに駆け出そうとしたその時だった。

「知っているなら話がはやいな」

 言っとくけどこれ、あたしのセリフじゃないわよ。
 今あたしのそばにいるのは挙動不審の金髪美少年だけなわけで、つまり必然的にこれは彼のセリフになるわけだけど――なに、この脈絡のなさは。
 こちらをじっと見ている金髪美少年を、極彩色の水滴が彩っている。そうか……美形は自然現象まで味方につけるのか。
 空手を習い始めて二桁に突入して一年目、危険にはいいかげん(さと)い。
 なんと言うか、常識で測れる範囲以上に異質な雰囲気がだだ漏れている。……どうしよう。
 先生には技を使って災厄を叩く前に、危険を察知してそれを回避しなさいと教えられているし、あたしもそうだと思っている。けどこれほどそばに寄ってしまった今、背中を見せて脱兎としても無駄な気がする。とても。しかし家はこの一本道の先なのだ。
 ――いよいよやばくなったらみぞおちを蹴って、相手がひるんだ隙にご近所の家に助けを求める。
 一呼吸する間に決心して、金髪美少年との間に横たわるおよそ二十五メートルプールの半分の距離を縮めることにした。制服はさっきから水分を吸ってしまっていたし、体温で温まった生ぬるい雨水が体を伝う。これ以上やっかいなことになりませんようにと、あたしは少しだけ願った。


2.


「どうもお久しぶりです。こんにちは、いい天気ですね」

 できるだけ距離をとって横を通り過ぎようとしたあたしに、やっぱりこいつは話し掛けてきた。
 ふーん。何かイチャモンでもつけてくるのかと思っていたら、意外に礼儀正しい。……礼儀、正しい。馬鹿を言うものじゃないわね。いきなり人の腕をつかんでくるようなやつが、礼儀正しいわけがない。しかも何? このいかにも偶然久しぶりに知人に会ったような態度は。はじめましての間違いよ、間違いないわ。しかもしかも『いい天気ですね』? 雨降ってるんだぞ、雨。この水もしたたるいい女(自分で言ってりゃ世話ない)が目に入ってないんかい。

 あたしは無言でつかまれた腕をはずそうと左手を出した所で、それすらもつかまれた。ちょうど向かい合う形でお互いに手を両手を握りあっている形になる。これから“ロンド橋おちた”でも始めちゃいそうな状態。二人じゃ始められないけどね。
 まあ第三者がいたらいたで、携帯で警察呼んでもらうんだけどね。
 じゃなくて! そんな場合じゃなくて!! いや、マジで何なのこの子!
 空手をたしなんでる身として非常に恥ずかしいんだけど、今あたしは軽いパニックに(おちい)っている。何せ痴漢になんて生まれてこのかた初めて出会ったのだ。ビックリしなくてどうする。
 うん、そうだ。これは痴漢だ、痴漢。明日になったら学校で『痴漢が出たので注意してください』とか言われるんだ。『痴漢の身体的特徴は中学生くらいの男の子で、金髪をしています。皆、特に女の子、ひとりで帰らずに友達と帰るように』とか言われるんだ。
 金髪美少年の痴漢は、驚くほど可憐な仕草で小首を傾げてあたしを見つめている。思わずのけぞるあたしに小奇麗な顔が笑いかけた。それはもう、にっこりと。魂が抜けそうなほど超然と綺麗な笑顔だった。
「絶好の嫁入り日和(びより)になりました。さ、行きましょう」
 そうか……美形は声までとろけそうに美しいものなのか。
 (ほう)けたあたしは手を引かれるままに二、三歩歩いたところで唐突に恐怖感に襲われた。
 怖い。去年の夏に行った、人が脅かすお化け屋敷よりよほど怖い。
 どうしてかなんて知らない、心底手を放して欲しかった。あたしは意を決めてカバンによる一撃を加え、次に渾身の上段蹴りをあびせた。なにぶん精神不安定なので過剰防衛気味のそれだった。これにはさすがに相手も驚いたらしく、ぱっと身を引いた。――いや、引かれた。愕然とする。かすりもしなかったのだ。不意打ちの蹴りだぞ、卑怯者のやることなんだぞ。命中して当前の攻撃をいとも簡単にかわされた。何なのこの子! ほんと勘弁してよ。
「どうしました? あ、何か忘れ物でも?」
 や……、もうこれは走るしかないわな。だって意味わかんないし、わかりたくないし、こいつ蹴られかけて怒るわけでもなし、かといってビビるわけでもないしね! 関わりあいになりたくない。
 もう十分関わってるよ、とは言わない約束である。言っちゃ駄目!
 三十六計逃ぐるにしかず。逃げるが勝ちだわ。身を翻してあたしは脱兎の勢いで走り始める。落としたカバンなんか気にしてる場合じゃない。命は一つだ。

「あ、そっちじゃない。待って」
 五メートルほど坂を駆け下りたところで、今度は肩をつかまれる。……足音聞こえなかったんだけど。
「ああっもう! くそ、放し……! あんた何なのよ!!」
 全身をよじって、肩の拘束をはずそうとする。その体のどこにそんな力があるのかまるでピクリともしなかった。
「嫌だ。だって、どこかに行ってしまうでしょう。嫌ですよ、放しません」
「……」
 雨だれる前髪をくしゃりとした。あたしも半泣きである。今すぐ家に帰りたい、体中が冷えた。ぬれねずみだ。
「雪、自分で言ってたじゃないですか。きつねの嫁入りですよ」
「……?」
 きつねの嫁入りって天気雨のことでしょう。なんであたしの名前知ってるの。興信所の関係者か、労三法はどうした。
 よくよく見れば、痴漢はまるで濡れていなかった。髪も頬も、衣服さえも……! この世のものと思えないほど金の髪が綺麗だった。
「ああ、そういえば手順を踏んでなかったか……」
 ひらめいたと言わんばかりに無邪気に表情を明るくして、
「何か叶えてほしいこと、ありますか? 困っていることでもいいです」
 どんとボクに頼ってくださいと笑うそのガキに、あたしはプツンときた。人とは居直るものである。窮鼠猫を噛む(この間の小テストで出た)のだ、ははん。
 女子高生をなめるな。
「今、あんたに困ってる。手を離してそばに寄るな。あたしは寒いから家に帰る」
 あ、今の声ちょっと仕事中のお姉ちゃんに似てたな。
 すると何か一大事を聞いたように、こいつは目を見張った。
「そんな! 夫に向かってなんてことを言うんです!! 家に帰るのはまあいいですけど、その前のそばに寄らないなんて論外ですよ!! そんな新婚さんどこにもいません!」

 いよいよこのひとヤバイ薬をやってるんじゃないかとあたしは思い始めた。らりってるってやつだ。だってねえ、検討の余地もないほど言動がおかしい。
 この段になって少し、ほんの少しだけどあたしは落ち着きを取り戻しつつある。拳じゃかなわない、逃げるのもできない。そんな人間にできることなんて限られてくるってものだ。誰か人が通りかかるのを待って、大声を上げる。それも超音波ばりのやつ。
 坂道の両端が銀杏並木とコンクリート製の土手があるばかりなのが悔やまれる。民家は坂道を登りきらないとないのだ。つまり今、大声を上げても何の意味もないだけではなく、自分で自分の首を絞める結果となる。
 落ち着けあたし。ほら、冷静になって。何もできないんだからかえって焦る必要ないわ。だってどうしようもないんだから。当り障りのないこと言って、適当にあしらっておく。時間をかせごう。最悪の事態におちいったら…、ううん、それは今考えない。とにかくクールよ、理知的にね。