「きつねの嫁入り」
「あんた、名前は?」
とりあえず、この痴漢の個人情報を聞き出しまくってやろうとあたしは思った。日本警察をなめるなよ、今日は無理でもその内とっつかまえてやる。ええ、じっちゃんの名にかけて! 邦光じいちゃん、孫はご近所の平和のため懸命に働いているよ!
決意もあらたにしていると、痴漢はひどく意外そうだった。
「え? 言ってませんでしたか?」
言ってるもなにも初対面だ、知っているはずがない。よーし、いい傾向だ。名前の次は年齢いっとこう、近所ならそれで大抵のことはわかる。
「銀二ですよ。銀色の銀に二番目の二。銀二」
痴漢の目元が柔らかに緩んだ。
ええと、――犬? なにその犬っぽい名前。「銀二、フリスビーだよ〜。よーし良い子だなあ」……ほら違和感がない! ハスキーあたりにつけたい名前だわ。
「……本当に?」
「雪に嘘はつきません。本当です」
まあ、ラリってるなら正気の答えを期待するのもあれか。はい、次。次いこう。すでに意味が失われている気がしなくもないが次いこう。
「いくつ?」
「年齢ですか、変わったこと聞きますね。ええとちょっと待ってください。正確な数値を思い出しますから」
ああ、やばいやばい。何か電波出てるわ。まったくティーンエイジャー何ぬかしてるんだよ。秒速で答えろ秒速で。まだお誕生日が嬉しくて仕方ない年齢でしょうに。
あたしと同じ精神状態のお姉ちゃんなら、確実にこう言うに違いないと確信する。
「はい、大丈夫です、多分……。間違ってたらすみません。今年でボクは三百七十二歳になります、……なると思います。それで、他には何が聞きたいですか?」
痴漢のひたすらに凪いだ誠実な声音。動揺も、苛立ちも、なんにもない。
空白で、うららかな春の日差しのような声。
あたしは再び怖くなってきた。
さっきはわけがわからなくて怖かったけど、今は逆に状況が整理がついてきたせいで怖かった。足が震える。
このすまなそうかつ照れた表情が、いっちゃてる人間に見える?
この丁寧かつ紳士的な言葉づかいをやばい人間が使える?
本当に?
嘘ついているように見えるの?
からかわれている? だめだ、理由がない。
あたしは初めて、真っ向から痴漢の――銀二と名乗る金髪美少年の顔を見据えた。破顔一笑に付して、至極楽しげな笑みが返ってくる。
「その目が好きなんです。絶対に君しかいないと思った」
銀二は濡れて束になったあたしの髪を掬う。稽古の邪魔になるから短めのそれはくくれるほどない。くんっと引かれる。頭皮に痛みが走って暴れてみたが、例のごとく意味をなさなかった。耳元で声が続く。
「空手っていうんですよね。――1ヶ月前くらいだったかな、試合であなたが相手を睨みつける眼差しはほとんど反則でした。だってほんともう、ボク、一発でクラっときちゃいましたから」
傘もささずにいるのに乾いている、軽く薄手のハーフコートで包み込まれて、思い出すように笑んだこいつは髪に口付けた。と思う、よく分からない。それよりも今はその思い当たる事実に足が竦んでいる。一月前、空手の都大会があったのは紛れもない事実だった。それにあたしは出場していた。事実だ。
「ずっとこの時を待っていたんです。こんなに時が経つのを遅くじれたことはない。なかなかこの天気にはならなくて――」
最後のほうの言葉は耳に入らなかった。天気雨、きつねの嫁入り。きつね、狐。
確実に投げよこされた、情報のピースがはまりつつある。危険だ、危険。これはあたしの常識にあまる事態だ。白濁する記憶の奥から甦ろうとするそれは、忘れたままにした方がいい。そう思った次の瞬間、ぼんやりと発光する狐の映像が脳裏に焼きついた。
……ああ、思い出した。狐だ。
あの都大会が終った帰り道であたしは変わったものを見たのだ、そう――狐、を。
翌朝、応援に来てくれた友達に言うと「北海道じゃあるまいし、いるわけないじゃん」と笑い飛ばしてくれたが、しばらく不思議な気分がしたものだった。銀みを帯びた金色の毛皮をした狐。夜目にもほのかに光を放つようなその姿は、ちょんとおすわりのポーズで尾を振り夜の闇に溶けていった。
銀二の髪色は……?
ぞくりと背筋が凍った。
「あんた……狐……」
「はい、狐ですよ」
銀二はあたしの首に張り付いていた顔を離し、肩に両手を置いたままこちらを覗きこむ。つぶやきでしかないそれに、まるで呼びかけに応えるように。
あわをくって周囲を見渡した。誰もいない。誰も通らない。こいつと出会ってからどれだけ時間が経った? 小学生やちびっこどもが自転車に乗って、坂道をくだっていかないのはなぜ?
車の一台さえ通らない。人っ子独りいない。
いつのまに雨があがったのだろう、どうして風が吹かないのだろう。
うろたえるあたしにはどんな妙案も浮かばなかった。
「さて、願いごとはありますか? どんなことでもお望みのままに」
身動きがままならない。どうすればいい?
ここから逃げ出すにはどうすればいい。
銀二はあたしの額に唇をよせる。やわらかく口付けてそのままやはり耳元でささやいた。
――その代わり。
「……その代わり、ボクに、あなたをください。――ボクの妻に」
狐はわらう。
「これが――きつねの嫁入りです。わかりましたか?」
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