「ないものねだり」
まるで白い壁に切り取られたように、四角く紺碧の空が目に映りこんだ。
そこから降り注ぐ白い光りは私たちにはまぶしくて、思わず目を細めてしまうほどだった。――五月のことだった。
「今日はずいぶんお天気だねぇ」
ぽかぽかとした暖かい陽射しと空の色が綺麗なことが嬉しくて、咲はニコニコと向かいのベッドに座っている絵里に話し掛けた。
「うん、まぶしいよなぁ」
――それに答えたのは絵里ではなかったけども。
隣にいた祐樹が幼ないながらも顔をしかめて、ブラインドをいじりながら応じた。くすくすと笑いながら絵里もうんと頷いた。
「ほら見て。この辺りにも桜が咲く頃なんだって。春だね」
テレビに映し出されている満開の桜は咲の好きなピンク色で、きらきらとして、とても綺麗だと思った。あの下に立ってみるとどんな気分がするのかしら、と咲はしばらく想像力をたくましくする。きっと、空気までピンク色しているんだわ。と、結論を出した所でニュースキャスターは見事な発音で一週間の天気を伝え終えてしまった。桜の映像はぷつりと切れて、次はニュースのコーナーらしい。
何となく名残惜しい。
それでごちゃごちゃと紙くずが散乱している小さなテーブルに、ぺたんと腕を置き、顎を置いた。調節されたブラインドの隙間からは否応もなしに、浮き立つような花の香りが流れ込んでいる。春の香りだと思った。
ところは小児病等。整然と並んだ無機質なベッドの処々方々に、色鮮やかな紙細工や生活必需品がアクセントを付けていて、いかにも子供らしさを醸し出している。
キティちゃんの枕カバー、ピンクのカップに含まれている同色の歯ブラシ、学校の友達―― 一日も行けなかったけど、にもらった折り鶴、元気になってね、のカード。
清潔な白のシーツが敷かれたベッドの上は、今や子供たちにとって恰好の遊び場と化していた。午後の検診が始まる前の、ほんのひと時。彼らは自由に過ごすことができる。一員はいつも通り――咲、絵里、祐樹、奈菜、翔の全部で五人きりだった。
皆この病棟で知り合った友達だ。それぞれ何処かしら患っていて、その何処かしらは一生彼らが背負っていくものである。また、誰一人として教えられていないけれど、全員が薄々と気づいていることがあった。何処かしらのどれもが、命に関わることなんだよ、と。
この世に生を受けて、まだ十年に満たない者ばかりの集団である。
突っ伏してしまった咲に、奈菜が名案を思いついたらしい。大きな動作で手を打った。
「あのね、退院したら先生に連れて行ってもらうの? どう?」
「どこに?」
小首を傾げて翔が聞いた。目的格が省略されるのは、奈菜によくある性質の一つである。
そして、退院したらどこそこへ行くのだと計画を立てるのも五人にとってあまりにお馴染みで、本日の遊びの時間もどうやら計画を練ることになるらしい。
「さっちゃん桜好きでしょ? 桜見にいくの」
全員が先ほどの映像に心揺り動かされていたようで、わぁと喜色を満面に湛えた。この中に誰一人として、生の桜の花を見たことがある者はいない。院内に桜がなかった、のではなく、患者の目に付く場所に植えられていなかったせいである。桜の花は時勢を如実に現して人生の終わりが見えている人間に優しくない、という配慮の元だ。言うまでもなく、五人が病院から出たことなど数えるほどである。
咲はがばりと身体を起こした。打って変わって瞳は生き生きとしたものに変化している。
「いいねえ、それ」
でしょでしょ、と奈菜は得意満面に笑って、必用になりそうな物を指折り数え始めた。
「お弁当でしょ、お菓子と、それから何がいるかなぁ」
「コーラだよ、やっぱ。炭酸って飲んでみたい」
祐樹が言った。とても祐樹らしいと咲は思った。
「僕はジャンパーもかなぁ。きっと風が強いから」
一員の中で一番小さいのがこの翔で、彼にとって病気でない自分というものがいつも想像を越えるらしい。
「翔君何言ってるの。退院した後なんだから翔君、ジャンパーなんていらないわよ」
「いらないの?」
絵里の言うことに、翔は不思議そうにかしげた。
「だって、退院したらみんな元気よ。どこも病気じゃないんだから」
風なんて平気よ、と言ってから絵里は笑う。ちなみに一番の年長者が彼女である。
歳といえば、上から絵里、咲、祐樹、奈菜、翔の順になったが、これを――年齢は全員一として、入院歴にシフトすると翔、絵里、奈菜、咲、祐樹の順となる。翔は生まれてから病院から出たことがなんと、一度しかないのだ。
「なら、ジャンパーいいや。動きにくいし」
至極真面目な顔をして翔が言ったので、咲は何だかおかしくなって笑った。
つられるように皆が笑い始めると、そこへ医師の吉田がにこやかに笑んだ顔で白衣を翻しながら顔を出した。彼の飄々とした態度は、ここにいる全ての子供のお気に入りで、いつも無精ひげをはやしたままの吉田を子供らは“熊先生”と呼んで親しんだ。
「そうだな、ジャンパーは動きにくいぞ」
どっかりと手ごろな椅子を引き寄せて吉田が座ると、車座が一層活気付くのがいつものパターンである。きゃあきゃあとはしゃぎながら膝によじ登ろうとする奈菜を、吉田はひょいと膝の上に座らせてやった。
「で、今度は俺をどこに連れて行くつもりだ?」
「あのね、桜を見に行くの。ね、さっちゃん!」
膝の上で上機嫌の奈菜が、頭一つ分高いところにある吉田の顔を覗き込みながら言った。
「うん、さっきテレビで見たの。この辺りにも桜咲いてるって」
咲はのけぞるようにテレビに視線をやる。
咲は今、布団から脚を抜いてベッドに腰掛ける状態になっている。しかし椅子にするには余りに大きかったので、宙に浮いて余った足をプラプラといかにも子供らしく揺すっている。―――いや、揺すっていた。
「へぇ、やっとここらも暖かくなるか。夜勤で凍えなくてすむなぁ」
本当に嬉しそうに言う吉田に祐樹が、熊先生だもんなと茶々と入れた。熊が冬眠して春目覚めることを暗に指しているのだ。
「おいおい、本当に寒いんだぞ。特に二月の半ばなんてな…」
しかし吉田の穏やかな冗談は咲のごく小さな声によって掻き消された。その声は決して泣きそうなわけでも、消え入りそうなわけでもなくて。不意に言葉として滑り落ちた感じではあるが、実にしっかりとしたものだった。
「どうしてまだ使えるからだがあるのに死ぬの?」
まさに“今日のごはんはなに?”と訊ねるような口ぶり。吉田は押し黙るしかなかった。
「どうしたの?さっちゃん」
いち早く察した翔が咲に尋ねた。
「だって誰かが自殺したんだって、ニュースで言ってるよ」
絵里は咲の言わんとすることを理解した。ああ、これ以上ないくらい名案だ。
「そのからだ、私たちで分けることが出来ればちょうどいいのにねぇ」
いらないのならくれればいい。内臓も、血液も、網膜も、細かい所まで。
「私は心臓貰うから、絵里ちゃんは血で――」
「そしたらみんな治るね」
吉田の膝の上に乗った奈菜が、凄いというふうに目を見張って弾んだ声で言った。
「桜を見にいけるし、学校にもいけるなぁ」
祐樹も咲と同じく、“おいしいものでも食べたいなぁ”とでも言うような口ぶりで、ごく当たり前のことを望んだ。それができればどんなに気持ちになるんだろう。想像は膨らむ。
そして咲は訊ねた、熊先生に。
「人はどうしてリサイクルが出来ないの?」
病院では何でも大切にしましょうと教えられたし、ゴミは極力減らすように努力されている。幼すぎた彼等は自殺者の事情とか心情とかを何もかもほったらかしで、その人を全くの物として見ていた。パズルのピースのように同じなら嵌めかえ可能なものだと。
「それはなあ、咲――」
言葉を選びながら、しかし感づかれないように吉田はおおらかに答えはじめた。これまで彼は医師として多くの不治の病を持つ子供らに出会った。おおむねその全てが一様に生きるために必死で――些細なことでも嬉しくなれるし、その分人に優しくしようと思え、また感謝できるような子供達だったのだ。それを良く知りすぎていた彼は、無邪気すぎる人体分割相談に何も言えなかった。しかし、答えなければなるまい。大人として。
吉田は重たい口を開いた――。
物語はそこで終っている。
雑誌の片隅に掲載されたその文字の羅列を読み終えた紗江子は、ぽいと巨大なテーブルの上へ置いた。
「馬鹿じゃないの」
ぽつり、呟いた。
本日晴天なり。
どこかへふらりと出かけたくなるような天気で、やはり紗江子はふらりと一駅離れた図書館へ向かった。それが土日ならなんの問題もなかったのだが、今日は平日。更に良くないことに紗江子は義務教育を受ける身分であった。午前中にここにいるのはいささか場違いである。早い話、彼女は登校拒否暦半年であった。
ふんだ。義務教育なんて親の義務だもん。こんなにいい天気なのにあんな所行ってられますかってーの。心のなかでごちて、あの忌々しい雑誌に目をやる。
「あんたちの甘ったれた空間の中でだけの常識で、世の中測らないで欲しいわ」
命の心配だけをしてればいい、誰も彼もが甘やかしてくれるのだろう。世間のいやらしさ、様々なジレンマ、ウンザリすることばかりだが目に付く。あんた何て綺麗な世界しかしらないくせに! 盛大に悪口を言い散らし終わると何となくしょぼくれた気分になった。
――一生懸命生きてない人間なんていないわよ。一生懸命生きるから、できないことがあると辛いんじゃない。年が若くったって、健康だって、病気患ってたってそれは一緒でしょう。
紗江子の左腕には多数の一条傷が残っている。いわゆるリストカットと呼ばれるものだ。
そんなふてくされた紗江子に、声をかける初老の女がいた。
「――隣いいですか?」
図書館は大学に近いこともあって、静かにごった返している。無言で横にある椅子から手荷物を取り上げてからどうぞ、と言った。
「ありがとう」
あくまでも穏やかに、のほほんとした空気をかもし出した女はゆったりと腰を降ろした。
手に持っていた数冊の内の一冊を本を開いて、眼鏡をかける。そしてまたのほほんとした空気で呟いたのだった。
「……やはり無くなると、惜しい物ねぇ」
じっと知らず知らずの内に見つめていたのことに気づいて、紗江子はハッとした。何をしてるんだろう、恥ずかしい。
「あなたは目がいいのね。――羨ましいわ」
ほら、と眼鏡を指しながら老女は笑んだ。なるほど、視力のことを言っていたのか。
「私もあなたくらいの時は随分違ったのだけど…。歳には勝てないわ」
おかげで読み物がすっかり辛くなってしまって。と、これまた呟くように言ってから、老女は紗江子の目をじっと見かえした。
「でもね、やり直しはできないけど。始めることはできるのよ」
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