「よわきもの」



 窓際の後ろから二番目の席に座る彼女は言わば、高嶺たかねの花と言っていいと思う。
 彼女の性格を現したような真っ直ぐでこしのあるつややかな黒髪はいつ見ても見事で、このクラスの女子の九割がそれに憧れているのを僕は知っている。
 僕はそんな彼女に好意を寄せている一人である。

「じゃあ、安藤あんどうさん。次の英文読んで訳して」
 高校の英語の授業ともなるとその場でぱっと訳してみろ、と言われてもできないことが多い。しかし予習をしておくというのも中々面倒なもので、おそらくクラスの半数は予習なんかしていないに違いない。僕もその一味だ。
 僕はひそかに、窓際から二番目の席に座る安藤さんを盗み見る。
 安藤さんはどこ吹く風と言わんばかりに涼しげな表情かおをして、最小限の動作で席を立ち上がると顔にかかる彼女の黒髪をうっとうしそうに耳にかけた。そんな仕草すらにさまになるのはさすがだ。
「Amelia Earhart was thirty−eight,and probably――」
 彼女の発音はいやみがなく、とてもうまい。よどみなく英文を読んでいく安藤さんのアルトの声を聞くたびに、もしかしたら帰国子女なのかもしれないなと一人僕は思う。
 僕は溜息をついた。
 僕と彼女ではどう考えてもつりあわないではないか。
 さらりと着こなした白のブラウス。くたりと着こんだ白のシャツ。
 シワのないスカート。わずかにすそのほころんだズボン。
 黒い髪。茶色い髪。
 あげればきりがない。こんなにも違うのだと。
 僕は溜息をついた。
 彼女は完璧なのだ。
 完全無敵の難攻不落の鉄壁の城。かたや素朴な木造建築二階建て、三十五年ローンだ。
 いつまでも見つめていても仕方がないので、僕は視線を教科書に戻した。

 安藤さんのアルトの声が、静かな教室にその日はよく響いた。


 黒髪の彼女は物静かな人だが、物語の登場人物のように教室の片隅で一人本を読んだりするような人ではない。
 女の子にはよくあるグループというものにやはり属しており、まるで大人が子供に属しているような奇妙な異質さをかもし出している。それが安藤さんだ。
 安藤さんが数人の女の子の輪に加わり、ひかえめに笑ったり冗談を言ったりしている姿はいつ見ても僕には女子高生に見えない。彼女はどこまで落ち着いていて、アルトの声も、涼やかな目元も、たなびくこしのある黒髪も、どこまでも大人のように僕の眼には映った。
 ――彼女の眼に、僕はどのように映っているのだろう。
 いつもどこか遠くを見ているような、未来のことさえ見えていそうな彼女の視線を思い出すと、僕はなぜか不安になった。
 ――彼女の眼は、何を見ているんだろう。
 ふいに過ぎった考えに、安藤さんの視線の先を辿たどってみることにする。
 僕はその新事実に驚愕する。
 安藤さんはお喋りの輪の中で、輪を形成する女の子を誰一人として見ていなかった。彼女の視線は窓に、いやそのもっと奥にある空へ向かっていた。安藤さんは空を見ていたのだ。
 こんな曇り空の日に。
 曇天どんてんそらからは今にも雨粒が落ちてきそうで、観賞には値しない。
 雨が降りそうなのを気にしているのかなと思ったけど、すぐにその考えは打ち消した。なぜなら彼女は安藤さんなのだ。彼女なら今朝の天気予報を見て傘くらい必ず用意しているはずだった。
 僕は仲間に呼びかけられるのに生返事を返して、彼女のように空へと視線をやる。僕には灰色の低く垂れ込めた雲しか見つけることはできなかった。
「やべー。俺、傘持ってきてねーわ」
 仲間の一人が言った言葉は、僕の心を少し上昇させた。理由はわからない。


 放課後にはとうとう雨が降り始めた。
 薄暗い教室でいつものように仲間と喋り、たわいもないことで笑いあった。下校時刻三十分間前に高校を後にする、これもいつものことだ。
 駅前で仲間と別れて、ここから僕は一人電車で帰宅する。
 今日も昨日とそっくりな一日が終ろうとしていた。

 傘を持っていない僕は駅構内に駆け込もうとして、足を止めた。止めざるを得なかった。視線の先に焼き付いて離れない、彼女だとひと目でわかる安藤さんの姿を僕は発見していた。
 どうやら今日は昨日とは違う一日になるらしいと心が弾む。
 再び歩き始めたものの、自然進める足が遅くなる。話し掛ける勇気はない。
 僕から二十歩先にある街灯の下で、安藤さんはベージュの傘をさしてぼんやりと立ちつくしていた。顔はちょうど傘に隠れて見えなかったが、あの形のいい指先は間違いなく彼女のものだった。
 彼女の私服姿を見るのはこれが初めてだったが、やっぱり趣味がいいなと思う。オリーヴ色のパンツスタイルにオフホワイトのニット、ジャケットはデニムだ。
 突然、安藤さんの顔をさえぎるベージュ色の傘がひるがえった。彼女の表情かおを隠すものはもう何もなかった。

 今度こそ、僕は心底驚愕する。
 安藤さんはいつもの涼しげな表情をしていなかった。どんな大人にも見えなかった。

 彼女は、たった一人――、泣いていたのである。

 顔をふせているので僕の存在に気づいていないのだろうが、涙がとめどなく頬を伝っていく。
 その様子を僕は息を呑んだまま見つめ続けた。
 ひどく気分が高揚していた。
 きっと、他の誰もこんな彼女を見たことがないだろう。
 いつも毅然と姿勢を伸ばし、涼やかな目元を薄く和らげる。声はどこまでもよく通ってアルトに響く。
 それが安藤さんだった。
 クラスのやつらはきっと、こんな彼女の様子など想像もできやしないに違いない。僕だって、たった五分前までできやしなかったのだ。
 僕はだんだん後ろめたくなって、すぐにその場を離れた。
 何か見てはいけないものを見てしまったような気さえした。
 彼女が泣いていた事実は、僕に強い衝撃を与えそしてなぜか僕を得意な気分にさせた。彼女と秘密を共有しているような、そんな不思議な高揚感は家に帰っても消えることはなく、ざわざわと僕を落ち着かなくさせ続けた。


 翌日、僕はいつもと違う衝動をかかえたまま登校した。
 安藤さんと会ったらどうしよう。そればかりを考えて登校した。結局答えは出せないまま、教室に足を踏み入れる。
 心臓が一つ大きく鳴り、見渡してみたが安藤さんの姿はまだ教室になかった。
 一息ついて席についた、心臓は慢性的に音をつむぎ続けている。
 ――どうしよう。安藤さん、昨日はどうしたんだろう。
 思考は尽きない。
 僕は定期的に入り口を確認した。しかし彼女の姿を確認できることはなく、とうとう彼女はホームルームの時間までにその姿を現さなかった。
 担任教師が意外そうに「安藤さん休みなの?」と、前列の女の子(安藤さんの友達だ)に聞いていたのが印象的だった。そう、安藤さんに遅刻という文字はありえない。
 僕は担任と安藤さんの友達のやりとりに注目した。
 女の子は担任の言葉を聞くとびっくりしたように目を見開き、窓際の後ろから二番目を確認する。その後担任に向き直り、首をかしげながらしりつぼみに答えた。
「昨日は、あたしが貸したCDを返すから持って来るって言ってたんですけど。……どうしたのかな」
 なるほど。彼女は普段、約束をたがえたりしないのだろう。だから安藤さんの友達にとって彼女が今日来ていないことが以外なのに違いない。
「そう、電話をしてみるわ」
 やがて担任は眉を上げ、若干首をひねりながら教室を去っていった。
 一時間目の授業のチャイムが鳴る。
 やはり安藤さんの姿は教室のどこにもなかった。

 僕は授業が始まっても、昨日の彼女が頭をちらついて勉強どころではなくなってしまった。
 そしてそれを思い出すたびに気分は高揚する。

 僕だけの彼女とのつながりのような気がして。
 彼女の秘密を知ってしまったような気がして。

 思い切って、話し掛けてみようかな。どうしたの? 何かあったの? 漫画のように紳士的に。
 僕は苦笑する。
 今度、機会があったら、話し掛けてみよう。
 決めて小さく頷いた。

 次の時間も、その次の時間も、窓際の後ろから二番目の席はぽっかりと空いたままだった。安藤さんは姿を現さない。
 休みか、という思考は僕の気分を下降させる。それは期待していたことが駄目になったような、そんな気分と似ていた。
 ――せっかく話し掛けてみようと思ったのになあ。
 小さく誰ともなく八つ当たりした僕は、心のどこかに安藤さんの泣き顔を止めたまま、その日をいつも通りに過ごすことになった。
 教室はいつになく騒がしかった。


 放課後になると、僕はもう今日は真っ直ぐ家に帰ることしか考えていなかった。
 明日提出の数学の課題がまだ終っていないことに、五時間目思い出したのだ。正確に言うと、仲間によって思い出さされた、である。
 成績につけるぞとの脅し言葉つきで大量に出された課題は、明日一時間目の数学の授業が始まると同時に回収されてしまうだろう。明日、写させてもらうには時間がたりない。
 僕は時計を見た。
 いつもは終礼のチャイムが鳴ると同時にやってくるような担任が、今日に限って遅い。
 イライラと机に指を打ち付けて、不平をもらす。仲間もそれに相槌を打った。
 学校から開放されることに浮き足だつクラスメイトたちのやかましい教室に、廊下からあわただしい足音が聞こえた。明るい性格の担任のことだ。「ごめーん、遅くなって」などと言いながら入ってくるのだろうと僕は予想した。
 予想は外れた。
 教室に入って来たのは担任だった。
 担任は、無言のまま蒼白のおもてをしている。視線をさ迷わせ、まるで何かに怯えているようだった。
 教室が徐々に静かになる。
 誰しもが担任の異常に気がついた時も、やはり担任は無言で教卓を視界に入れていた。
「先生、どうしたの?」
 教室のどこからか声がし、担任はのろのろと顔を上げる。そして静かに言葉を発した。
「みんな、とりあえず席についてもらえるかな。……このクラスには伝えて置きたいことがあります」
 クラスメイトは各々困惑したようだったが、やがて席を立っていたものは自分の席に落ち着いた。教室を見渡してそれを確認すると、担任は一点を見つめたまま話し始めた。
 僕にはその一点がどこなのかすぐにわかった。安藤さんの席だ。
 昨日の泣き顔が、僕の脳裏にいくどとなく過ぎる。
「今日、安藤さんが学校に来ていなかったのは、みんな知っていますね」
 やはり担任は安藤さんの話を始めた。担任は額を押さえる。顔色は悪いままだった。
 僕は静かに、しかし存在を主張するように波打つ心臓の音を――動悸を、感じた。
「ああ、どうしよう。ちょっと私も混乱していて。今から言うことを、まだ他のクラスに言わないで欲しいんだけど」
 教室が再びざわめき始める。
 担任は注意することなく唇を何度かふるわせ、その、言葉を、つむぎだした。
「――安藤さんが、亡くなりました」
 一瞬静まり返った教室は、せきを切りおとしたかのように騒然とした。
 僕は思考が真っ白になった。
 何も考えられないまま心臓ははちきれんばかりに、どくどくと波打っている。体中の血液が逆流するような、それでいて全身の血の気が下がるような、何とも言えないどうしようもない状態になる。

「どうして――、どうして。先生、え、なんで? どうしてなの?」
 言葉を忘れてしまったような女生徒の質問は、絶えず教室のいたるところから聞こえた。僕もそのどうしようもない事実の顛末を知りたい一人だった。どうしようもない事実から逃れる唯一の希望にすがって。
 担任はさきほど以上に苦い表情をつくる。
「……自殺、だそうです」
 言い聞かすような言葉の後、今度こそ、誰一人として口を開くことはなく、五分もしないうちに、そこかしこからすすり泣きが耳に入った。
 僕は吐き気のような動悸に襲われていた。
 熱を持った思考が、息を呑んだ固まってしまった身体からだが、昨日の彼女の涙を思い出させた。
 担任が放った言葉は、僕を打ちのめしていた。
 かつてない後悔が怒涛の勢いで僕を飲みこみ、さいなんでいった。

 何が僕だけの彼女とのつながりだ。彼女の秘密を知ってしまったような気がしただ。何という愚かさ、愚鈍さなのだろう。
 五分前の自分をこれ以上ないほど恥じ、僕は僕自身をのろう。
 そして何よりも、昨日の自分を、彼女に出会って何もしなかった僕自身を憎んだ。

 昨日僕が話し掛けていれば、何か違っていたかもしれない。
 変わっていたかもしれないのに。
 ――彼女は死なずに済んでいたかもしれないのに、今も生きていたかもしれないのに。
 後悔はとめどなく僕を苛み、僕は得体の知れない何かを恐れた。
 彼女をこの手で殺したような錯覚を僕は起こしていたのだった。
 そしてそれを他者に知られることが、ひどく恐ろしいことのように思われた。
 僕は必死になって動揺を悟られまい、と息を殺してその場をやり過ごす。
 墓場まで持っていく秘密ができたと思った瞬間であった。

 そのとき、弱かった彼女を思いやる余裕は、弱い僕には逆さに振っても出てこなかった。



 それから幾日か流れた。
 日々は大変騒がしく流れていった。彼女の机の上には毎日のように花が手向けられたし、僕は何事もなかったように振舞う。
 誰もが安藤さんの自殺を不思議がり、死を惜しんだ。理由がわからない、と。
 僕の心はようやく落ち着きを取り戻す傾向をうかがい始めていたところだった。事が起きて、最初の夜はそれこそとても寝られたものではなかったが、昨夜はようやく朝まで眠ることができたのだ。僕は人間の慣れというものに驚く。
 窓際の後ろから二番目に目をやる。花があふれていた。僕らの仲間全員で、小遣いを出し合って手向けた花もそこにある。
 今夜は安藤さんのお葬式だった。
 クラスメイトだった僕らはほとんどが参加予定である。僕も、その一人だ。
 彼女の自殺を知った当日にはとても行けなかっただろうが、数日たった今は行かなくてはならないと僕は考えている。

 ――最後に見た彼女のことを僕は、彼女の両親に話すべきなのだ。

 それはさながら、自首をする犯人のような心境だった。土壇場でどうなるかわからないけど心にそっと決心する。
 若造である僕はただ、隠しているのが辛かったのかもしれなかった。全て吐き出したほうがましだと思っているのかもしれない。
 しかしそれでも、隠すより打ち明けるほうがずっといい。
 そんなことを考えながら、僕は授業が終るのを待った。

 告別式の会場には、いつもの涼しげな表情に笑みを浮かべた女子高生には見えない安藤さんの写真があった。
 それは完璧な微笑だった。――完璧な。
 僕はそれをようよう見つめ、かすかな違和感を覚えた。
 安藤さんの泣き顔が何度もリフレインする。僕はいたたまれなくなったが、それで違和感の正体をつかむことができた。
 彼女の微笑は、ツクリモノなのだ。
 ほほえんでいるわけではなく、ほほえむふりをしているだけなのだと僕はようやく気がついたのだった。
 彼女は完璧な「安藤さん」という演技をしていただけだったのだ。少なくともこの写真の安藤さんはそんな印象を受ける。
 僕は息をつく。
 どうして、と何度目かわからないつぶやきをもらした。

 許しを乞うように深く頭を下げてから、僕はお焼香を上げた。心の中で何度も“あの時話し掛けて上げられなくてごめん”と懺悔し手を合わせる。
 どうか、許して下さい。
 最後にそう祈って、僕は退去した。心は思ったほど晴れなかった。
 その後ご両親のあいさつやクラスメイトの言葉など色々あったのだが、僕はそれらすべてを上の空で聞いた。一通り済んだら僕は、僕の罪状を告白しなくてはならないのだ。
 緊張のあまりのどが渇いていくようであった。
 喪主である彼女の父親が頭を下げたところで、いよいよ出棺の合図であるクラクションが会場に響いた。誰もが悲痛な面持ちで、泣き声がそこかしこから聞こえる。
 僕は身体の震えを感じた。今や会場すべてが僕を責めるたてているように錯覚し、胸をしくしくと苛んでいた。
 こんなにも愛されていた彼女をうばったのは、僕なのだと。
 一人二人とその場を後にしていくなか、僕は息を呑んで立ちつくしていた。あの日と同じ、とめどない後悔が押し寄せていた。
 やはり、駄目だ。
 言えるわけがない。打ち明けたところで、もうどうしようもないのだ。彼女は帰ってこない。どんなに許しを乞うても、あの放課後に時は戻らないのだ。彼女に一声かけてあげることはできないのだ。
 『そんなに頑張らなくてもいいんだよ』と。たった一言。
 あの日彼女は、完璧を演じることに疲れていたに違いなかった、もう自分をどうしたらいいのかわからなくて、混乱して、混乱したすえに選んだのが今の状況だったのだろうと僕は思う。
 あの完璧な微笑をたたえる安藤さんの写真を見て、そして言葉半分に聞いていたクラスメイトや両親の言葉を聞いて僕はわかってしまった。
 誰もが彼女の完璧さをたたえて、誰もがそんな彼女が死んだことを、惜しんだ。そうすることを疑っていなかった。
 安藤さんは、決して完全無欠の難攻不落の鉄壁の城などではなかったのに。
 ああ、どうして僕は。どうして僕は。
 あの時、彼女に話し掛けられなかったのだろう。
 彼女が完璧ではないと、見抜けなかったのだろう。気づいてあげられなかったのだろう。
 あの邂逅は彼女にとって、唯一の救援信号だったに違いなかったのに!
 僕は顔を隠すように会場を後にしようとした。気がつけば人はすでにまばらで、僕のように立ち尽くしている人物はどこにもいなかった。

 そんな時だ、僕を呼ぶ声が聞こえたのは。
 呼びとめたのは中年の女性で、――安藤さんの母親だと名乗った。僕は心臓をつかまれたように驚いたが、同時に一種の運命のようなものを感じた。
 これは、彼女が僕にくれたチャンスなのだ。

「ごめんなさいね、時間をとらせてもらって」
 安藤さんの母親はやつれた表情に、本当にかすかな笑みを義務的に作って僕に椅子を勧めた。
「いえ、気にしないでください。……僕も、話があったので」
 安藤さんの母親は小さく首をかしげたが話を続けた。
「担任の先生に聞いたのよ。佐伯さえきくんの名前が出てきたのはいいものの、それがだれだかわからなかったから」
 喪服の懐に手をいれ、一枚のメモ用紙を彼女の母親はとりだした。
「これ、京子があなたに当てた手紙。……手紙とは言っても、走り書きで――」
 言葉をつまらせた安藤夫人はみるみるうちに涙を浮かべ、口元を押さえた。
 しかし僕はそれに気づかう余裕もなく、差し出されたメモ用紙を凝視していた。呼び止められた時点でこんな展開は予想してが、本当に手紙が出てくるとは思わなかったのだ。
「あのこが……、飛び降りたとき握りしめていたのよ。あのこの最後の言葉なんでしょうけど、私たちには意味がわからなくて」
 あなたにはわかるのかしら、とふるえる手で「手紙」を手渡される。
 僕は放心し、はずみで受け取ってしまったが、それはあまりにも重い一枚の紙だった。安藤さんの母親のすがるように見つめる視線の圧力に負けて、僕はゆっくりと四つ折りにされているそれを開く。
 メモ用紙は彼女が握りっていた証拠のように無数の皺が寄っており、あの日降っていた雨に濡れたのか乾いた紙は少し波うっていた。僕は判決をくだされる罪人のように、そこに書かれた文字に目を通しはじめた。
 僕は往生際悪く――文字の意味を捉えるよりも先に、全体の文字を観賞した。そこに書かれた文字は、いつもの涼やかな彼女の印象からは大きくずれた、うわずり、動揺した色がありありとうかがえる表記であった。


 佐伯君が今、目の前を通ったのには驚きました。
 どうぞ今見たことは気にしないでください。
 佐伯君が気に病むことは何もないから。
 それだけは書いておかないと死んでも死にきれない。

 私は、あなたのことがうらやましい。


 「手紙」は手帳の一ページをちぎりとったような物に、たったそれだけだった。
 しかしそれで僕には十分だった。
 十分すぎた。
 あの時、安藤さんは僕の存在に気づいていたのだ。
 例えようもなく心にしみる言葉だった。彼女のいたわりと、たった一行の本音。
 そこで僕は初めて、熱いものが喉をせり上げ涙となってこぼれた。どうしようもなく悲しかった。つらかった。だって本当にどうしようもない。
 彼女が死んだことが悲しかった。
 許されてもまだ、安藤さんを助けられなかった自分が情けなかった。そしてつらかった。
 僕は子供のように声をあげて泣き、「手紙」を握りしめる。さまざまな胸にわだかまっていたものが溶け出すように、次から次へと涙となってもれ出した。
 そして僕は、彼女の両親に言うべき言葉をもうどこにも見つけられないのだった。
 彼女は完璧ではない自分を恐れて、死んだ。
 それを今ここで告白するのは安藤さんにたいしてしのびないにもほどがあったし、僕の罪状は彼女によってすでに許されている。しかも話したところで今さらどうにもならないのだ。そこにようやくに気がついた。
 だから、僕はこう言った。
「安藤さんはほど、やさしい女の子はいません。――この手紙の意味は、安藤さんが最後までやさしい人だったということです」

 安藤夫人は、やはりよくわかっていないようだった。