咲くことの許されなかった花

 

第一章〜恋の終焉〜  

静岡県、御殿場市。梅雨の気だるそうな暗灰色の雲の下を、一組の男女が談笑しながら歩いていた。白いワイシャツに黒のズボンを身に纏った長身の男は、黒髪を風に靡かせながら、隣にいる女の話に慣れなさそうな微笑みで答えている。やや理知的な顔立ちをしているが、男の微笑い方から、彼が決して表情豊かな人間でないことは容易に推察できる。そして彼の所持品は、上に着ているワイシャツ以外、全て深い黒色をしていた。革靴も、腕時計も、バックも、彼の持つ全ての物が、黒く鋭い光を放っていた。一方、隣にいる女は、ピンク色のポロシャツと紺色のスカートを纏い、苦悩を知らなさそうな魅力ある笑顔で男との会話を続けていた。しかし、少女らしい清廉なショートヘアと短めのスカート、そしてルーズソックス等が、彼女が箱入り娘でないことを証明していた。端から見ると恋人同士、しかしそれを肯定できない雰囲気を醸し出しているのは何故であろうか。

この高校生の二人は、やがて駅へ辿り着こうとしていた。

「そう言えばさ、高崎君」

少女―山本実希―が不意に話題を変えた。

「高崎君ってよく映画見る?」

「い、いや…あんま見ないなぁ」

少年―高崎正明―はある種の興奮を抑え込みながら言った。

「そうなの? 何か面白い映画があったら教えてくれない?…てかさ、映画ってデートとかで行きたいよね」

「あっ、俺も思う。行きたいよな」

「高崎君は誰か一緒に映画行きたい人いるの?」

「えっ………!」

実希の言葉に、正明の思考回路は一瞬切断された。

「い、一緒に行きたい人……?」

「うん。あっ、嫌なら言わなくていいよ。ゴメン」

少女らしい妥協案に、果たして正明は乗らなかった。

「いるよ、勿論。誰だと思う?」

そして正明は、ぎこちなく笑った。

「うーん、誰だろ……?」

「山本だよ」

「えっ……?」

二人の時間が凍った。

「えっ……わ、私? えっ…ちょっ………、本当で?」

突然の予期せぬ告白に、実希は狼狽した。

「………こんな時に嘘なんか言えねえよ。俺が好きなのは山本なんだから。去年はただ可愛い級友としか見れてなかった。だけど二年になってから急に……」

「そう…だったんだ……」

彼女はひとつ吐息すると、合わせられかけた視線をわざと外した。

「アリガト。嬉しいよ。………でも、ね、私…。私……好きな人いるんだ」

「えっ!」

「高校入ってから、一番最初に好きになった人なんだけど、諦められなくて……だから………」

沈黙が辺りを支配した。

「………俺」

うつむいた正明は、ようやく声を絞り出した。とにかく、もうここにはいたくなかった。

「………他に寄る所あるから、先帰るな。じゃあな」

「あ、う、うん。バイバイ」

正明は実希に背を向けると、速足でその場を去っていった。振り返ることなど、しなかった。

 

 

 

第二章〜絶望の果て〜  

 

あの日から、既に一週間が経過していた。高崎正明は、かつての冷めた表情で単身帰路を歩いていた。感情を忘れてしまったことの、半ば諦めるような無表情。彼の瞳は、何かを映し出しているのか否か、疑いたくなるようだった。

(……何で…だよ)

正明はその虚ろな視線を夕空に向けた。

(俺の……俺の何が悪かったんだ?)

正明は考え込んだ。そして追憶する。あの一瞬の出来事―――。素直に想いを伝えた、あの言葉―――。どうしてあの時だったんだろうか?かつて描いたストーリーに反した突然の展開に、正明はただただ呆然とするのみだった。

(あん時告ってなきゃ……今だって、一緒に帰ってた筈なのに……。告ってなきゃ……)

分かりきった事実に、正明は無駄な自嘲で答えた。

「……………」

彼は視線を時計に移し、嘆息した。丁度今の時間に、片想いの少女は学校を出る。そのタイミングを計って一緒に帰っていた七日前の出来事を、白昼夢の如く追憶しながら、今彼女が何処にいて、誰に想いを馳せているのか、正明は思案とそして絶望の底に沈み漂っていた。

 

ほぼ同時刻。学校の正門をくぐった一人の少女も、腕時計を見ながら嘆息していた。時刻は午後五時十分。一週間前までは、この時刻に学校を出ると、必ずと言っていいほど一人の少年と出会っていた。

(もう一週間かぁ………)

少女―山本実希―は駅に向かって歩き始めた。

(やっぱ高崎君のこと、友達としか見れてないんだよね、私……)

心なしか感傷的になる。

(男の子で親友、って言ったら高崎君が一番近かったんだけど……。てか、やっぱ好きとスキって違うよね)

何時の間にか高崎正明と一緒に帰るようになったこの数ヶ月間を回顧し、実希は自然と切ない微笑みを漏らした。

(………何か上手く表せないね……。高崎君もスキだけど、私が本当に好きなのは……奥村君だよ……ね?)

去年の秋に初めて見てから抱き始めた淡い感情を向け続けている筈の中背で茶髪の少年の顔を空に描く。

(奥村君だよ……。奥村君なんだよ、好きなのは……。……なのに……)

実希は絵を消した。

(……何でまだ高崎君のこと、考えてるんだろ……?あの時からずっと見ないから?失恋が辛いことだって知ってるから?それとも………)

実希は遂に頭を振った。

「……分かんないよ…」

そしてひとり呟いていた。

 

“バタン”帰宅した山本実希は、制服のままベッドに倒れ込んだ。

(………何でだろ……この感じ……。何か昔、友達と喧嘩した時みたいな……違うような……)

何時か昔の苦い記憶と今を対比する。

(……ってことは…友達じゃいられなくなったから?高崎君と友達でいられなくなったからこんな感じなの?)

実希は起き上がった。

(じゃあ言ってみよっか。また今までの友達みたいな関係になりたい、って。そうすればこの感じもなくなって、なくなって奥村君に……)

実希のこの思考が、やがて彼女を悲劇へと誘うことになるなど、未だ誰もが皆、思うことではなかった。

 

 

 

第三章〜薄幸の仮面〜  

 

 眼の前に山本実希がいる。じっと彼女は、高崎正明を見つめている。しかし、何故であろうか、彼女の表情は哀しげだ。何で――正明がそう問いかけようとしたその刹那、少女は既にそこにいなかった。切ない残り香が風にのって、そして消えた。

――――「………!」高崎正明は眼を覚ました。

(……何だ、夢か…。何か嫌な夢だったな…。山本があんな表情するなんて…。)

正明は苦々しい記憶と共に未だ淡い感情を抱き続けていることを思い出した。

(……簡単に冷めないよな、今回ばかりは。……てか日曜だからって寝過ぎたかな?)

時計は既に正午を回っていた。正明はTシャツにジーパンという軽装に着替えた。

(山本も無理なこと言うよな……元通り友達っぽい関係でいたいだなんて……。OKした俺も俺か……)

正明は口元を歪ませて嘲笑った。

(何で無理だってはっきり言えないんだ…俺は……。友達ってやつは恋愛話も相談されるわけで、下手したらのろけ話も聞かせれるわけだ。のろけ話聞かせれて、良かったね、なんて平然として言えるほで器が大きい人間じゃないしな。所詮、俺は小物だ)

正明は生徒手帳に挟んだ山本実希の写真を取り出した。春先の学校行事で友人に頼み込んで撮ってもらった唯一の彼女の写真。

(残しておいても仕方ないか…。………サヨナラ、だな……)

ライターの炎によって燃やされた写真だったそれは、開け放たれた窓の外で踊る風にのり、舞い散った。正明は煙草に火をつけ、それを静かに見つめていた。

 

午後八時過ぎ、山本実希の携帯電話にメールが届いた。実希の親友、野本加奈からだった。

「……………?」

加奈からのメールは、実希を驚愕させるに充分の内容であった。

(へ〜、加奈も好きな人いるんだ。誰なんだろ……? あれ、もうひとつメールきてる)

実希は親友からのメールを閉じ、新たに届いたそれを開いた。

『やっぱり友達無理だ。やめようよ』

高崎正明からのものだった。実希は即座に返信した。

『……そっか、やっぱ無理だよね。ゴメンね、無理なこと言って』

『俺が無理って言ったのは、俺自身の精神的な問題でもあるんだけど、何時までも友達みたいなくだらない枷にはまってると俺も山本も前に進めないじゃん? 正直、俺が昔山本と一緒に帰ってたのは、伝えたい気持ちがあったからであって、もしそれがなかったらただの級友で終わってたと思うし。誰かは知らないけど山本は好きな男と付き合う。俺は新しく好きになれる女の子を探す。これでいいじゃん? お互いが目標に向かっていけば、それでいいじゃん。……だから、もう別々に生きていこう』

実希には返す言葉がなかった。

 

 

 

第四章〜恋の終焉、再び〜  

 

もしもし、加奈?」

数日後、山本実希は親友の野本加奈に電話をかけた。

「実希? どうしたの?」

「ん……ちょっとね……。私さ……今から奥村君に告ろうと思ってるんだけど」

「本当で! 告るの?」

「うん。このままじゃ何も変わらないし……。」

「本当で…頑張って」

「アリガト。加奈はまだ告らないの? ってか誰なの? 好きな人って」

「まだ教えてあげなーい。去年実希と同じクラスだった人の誰かだよ」

「えー、気になるよー。誰?」

「そのうちね、そのうち」

「教えてくれたっていいのに……。てかさ加奈、私時々思うんだけどさ、っつーか最近はいつもなんだけど、『恋』の正体って何だと思う?」

「えっ?」

「ドキドキして、ポカポカして、時々目茶苦茶になっちゃう……怖い嬉しさを持つこの感情……」

「……難しいね、それ。何だろ……改めて考えると」

「これから考えていこうと思うからさ、加奈も何か思いついたら教えてね」

「うん、分かった」

「………じゃ、私そろそろ……」

「あっ、うん。頑張ってね」

「アリガト。じゃあね」

「うん、バイバーイ」

実希は電話を切り、気分を落ち着かせるために飲みかけのレモンティーで口を湿らせた。そして携帯電話を再び手にする。それに登録してある電話番号のうちのひとつをディスプレイに映し出し、ひとつ吐息してから通話ボタンを押した。

“トゥルルル、トゥルルル”

冷徹な筈の呼び出し音が、慌ただしく聞こえた。

「山本? どうした?」

電話の向こうの声は、いつもよりやや懐疑的な、それでも常に実希の心をときめかせていた、奥村栄明のものだった。

「あっ……奥村君。ゴ、ゴメンね、こんな時間に電話したりして」

「いや全然いいけど……でかまだ九時だし。んで、どうしたの?」

「あっ、うん……、あの……」

実希の胸の鼓動は、これ以上ないまでに高まっていた。苦しい――――。何時の間にか少女の可憐な白い頬は、丁度熟した苺のように朱に染まっていた。

「あっ……奥村君は……、奥村君はどんな女の子が……好き?」

「えっ?」

言われたことの意外さ故か、電話の向こうの栄明の声が驚いているように聞こえた。

「別にこれってのはないけど……、一緒にいると安心できる人かな。それがどうかしたのか?」

「わ、私は……、私はどう?」

「えっ、どうって?」

「その……奥村君の彼女になりたいの。だって……好きだから」

「………………………」

沈黙が訪れた。それは、実希には非常に長く感じられた。実際にはほんの数呼吸だった筈のその沈黙が、少女の胸の鼓動の音を増幅させていた。

「……俺」

耳の側に聞こえる声に、実希は身をこわばらせた。

「俺……、今付き合ってる女いるんだ」

「!」

実希は即座に電話を切った。

 

 

 

第五章〜空白の時の中で〜

 

その週の日曜日。既に時計の針は正午を回っているのにも関わらず、山本実希はベッドの中にいた。昨夜のあの瞬間、片想いの少年が少女に告げた、冷たい言葉が耳から離れない。

(……俺、今付き合ってる人いるんだ、か……。……最低だよ……私も奥村君も)

声にならない想いが、言葉にならない想いが、涙となって実希の頬を伝う。

(……でも、私、本当に好きだったのかなあ、奥村君のこと。本気だった? 見せかけだけの恋じゃなかったよね? 奥村君以外の人じゃ、満たされなかったよね?)

今まで思いもよらなかったことが、昨夜の彼女なら即座に答えられるような疑問が、全てに失望した少女の脳裏をかすめる。

(……まさか、ね……)

実希は寂しく微笑った。クローゼットの中にある新しく買った洋服は、着られる機会が近くはないだろう。机の引き出しの中にある映画の割り引き券は、忘れられるだろう。初めて買った化粧道具も、哀しい輝きをした銀のペンダントも、行く先を失った捨て猫のように、やるせなく立ち尽くしていた。

 

それとほぼ同時刻。高崎正明は、親友・三村隆之と共に地元の御殿場にあるとある湖にいた。いや、それは池といった方が正しいのかもしれない。黒いシャツにジーパン、サングラスをかけて煙草を吸っている正明とは対照的に、学校に行くためだったのか、隆之は白いワイシャツに黒の学生ズボンといった身なりをしていた。正明よりやや背の低い隆之は、寝ぼけた表情をよくしているが、はっきりとした顔立ちの持ち主だ。又、視力が低いため学校では眼鏡をかけているのだが、今は外している。

「………森崎にはもう男がいるのか……」

「うん……、彼氏が他の男とメールするな、って言うからあんま俺とメールしたくないんだって」

奇しくも正明が失恋したその日に、隆之もまた去年の級友であった森崎明希への想いが一方通行でしかないことを思い知らされていた。

「やっぱここ静かだな……」

正明は、池をぐるりと囲む土手に立ち、その水面を見つめた。吹きつける風が、正明達の悲愴感を煽っていた。この池は、近年騒音等が問題視される御殿場市内において、一、二を争う静けさを持つ自然の場所であった。尤も、あまり知られていないために訪れる人が少ない、ということもあるだろう。遠くで小鳥のさえずりと、何も知らない誰かの無邪気な笑い声がかすかに聞こえた。初夏の日差しが水面に反射して眩しい。その眩しさに舌打ちしながら、正明は池の見えない方の斜面に寝転んだ。隆之もそれに倣う。

「山本の好きな人って誰なんだよ……。……隆之、吸うか?」

正明は煙草を親友に勧めた。

「いや、俺はいいよ」

「そうか。……隆之、これからどうする?」

正明は深く煙を吐いた。

「俺か?……俺はもう諦めるよ。森崎はもうアイツの彼氏のいいなりになってる、っつーことは相当惚れてるんだと思うから」

「諦めるのか……」

「諦めるしかないじゃん。元々俺なんかには無理だったんだよ。それにこれ以上好きでい続けたって迷惑になるだけじゃんか。俺……森崎のこと本気だったから………、だから諦める。もう俺が森崎と付き合える可能性はないからね」

隆之は冷めた表情で吐き捨てた。

「ま、うちのクラスで新しく好きな娘を見つけるよ。……正明はどうするの?」

「俺は………」

正明は複雑な表情を見せた。

「……多分、無理だろうな、俺には。理屈では分かってる筈なのに、感情が邪魔なんだよ。だから、今はまだ何も言えないね。……っつーか、色々考えることすらできないよ」

そう言ったきり、正明は口をつぐんだ。彼の親友もまた、多くは語らなかった。だが、隆之が絶望の希望を、正明が空虚の希望を抱いていることは、互いに良く分かっていた。雲ひとつない快晴の空が、妙に腹立たしかった。

 

 

 

第六章〜なくしたふたつの宝物〜  

 

何もない夢から眼を覚ます。梅雨時には珍しい、明るい朝日がカーテンの隙間から入り込んでいた。眼を覚ました高崎正明はベットを抜け出し、ひとつ深いため息を吐く。カーテンを開けると、広がる青い空が眩しい。今日もまた、虚無に満ちた一日が始まるのだ。

“バタン”家を出て、学校までの道を自転車で進む。ペダルをこぎながら、高崎正明の思考は既に別のところにあった。

(山本が俺のこと好きじゃないって、他の男が好きだってことはもう知ってる。俺の思惑とは完全に逆だよな……。あれだけ願った夢は、もう崩れ落ちて……瓦礫の園でも出来てるな、最早。夢と希望が崩れ去った跡に俺はいるんだ。山本への叶わぬ想いを抱いた俺が……。……何で、何で俺、あんな女を好きになったんだ? あんな、何人も男乗り換えてそうな女に……。去年のクラスで何度か視線が重なっただけで、アイツが俺のこと好きだなんて思い込んで、彼女にできるだなんて思い込んで……。馬鹿か? 俺は。自己過信もいいところだよ、全く。自己紹介できそうだな。特技は自己過信で、ちょっと女子と視線合ったからってその人が自分に好意を持ってるなんて思い込む、堕落の徒輩にも満たない男です、みたいにな。笑えねえけど、嘲笑えるな、これ。……こんな俺に生きる価値なんかあんのかよ。存在自体、他人の迷惑になってるよな、完全に。……生きる価値、ないじゃん。怖くなきゃ……死にてえよ)

気が付くと、学校は目前にせまっていた。

所定の位置に自転車を止め、教室へ急ぐ。その時、ふとポケットに手を突っ込んだ高崎正明は違和感を覚えた。

(………携帯がない……?)

普段ズボンの左ポケットに入っている筈の、朝、家を出る前にそこに入れた筈の正明の携帯電話がないのである。即ち、彼は通学途中の何処かに携帯電話を落としてしまったのである。

(最悪………。今月呪われてるんか……?)

途方に暮れた高崎正明は、学校が終わったあと即座に電話会社に連絡を入れ、彼の携帯電話の全てのサービスを止めてもらった。その後近所の交番に行き、そこで正明の紛失届けが受理された。

翌日、高崎正明は自分の携帯電話の番号、及びメールアドレスを知っている級友や友人にこのことを告げた。彼らは皆一様に苦笑いした。片想い中の山本実希には直接喋る勇気は未だなく、又心の傷が癒えておらず、二人の共通の友人である野本加奈にそれを伝えるように頼んだ。加奈は実希の親友で、昨年よく彼女のクラスに遊びにきていたのだが、その時に正明と知り合ったのだった。一方、一人だけ正明が携帯電話を無くしたことを苦笑いできなかった人間がいた。彼の級友の一人、横山美幸だ。正明は当初、胸に抱いた想いをどうするか、去年から同じクラスの佐藤真由に相談しようと考えていた。しかし、それに異を唱えたのは、正明の友人の一人、福田幸一であった。彼が相談するように勧めたのは、横山美幸だった。果たして、正明は幸一の忠告を受け入れ、美幸を信じた。だが結果として、それは思わぬ形で裏切られた。美幸の恋人、石井祐二が彼女からそれを聞き、彼の周りの人間に言いふらしたのである。又、美幸は正明から送られてきた愚痴めいたメールを完全に無視し、何時しか見えない氷の壁が二人の間に出来上がっていたのだった。

こうして、高崎正明は通信手段をひとつ失った。

 

 

 

第七章〜きっかけの擦れ違い〜  

 

 

高崎正明はこの日、山本実希への想いを破裂させてから丁度二週間が経つこの日、校舎内を親友の三村隆之と共に歩いていた。今は昼休み。校舎の南側にある食堂への渡り廊下に設置してあるジュースの自動販売機に赴くために、正明は隆之と談笑しながら歩いていた。

「今度リリースされた朝倉一登の新曲、あれ気に入ったよ」

「本当で? どんなの?」

他愛もない談笑が続く。

「かなり激しいバラードになってるよ、あれは」

「激しいバラード? 何それ?」

隆之が疑問を投げかけたその時、正明の思考は既に別のところにあった。彼の視線は、反対側からこちらに向かって歩いてくる二人の少女のうち、左側の彼女に向けられていた。正明は気付いていなかったが、彼の表情は何か汚れた物を見る現代人のそれに似ていた。そして失望と憎悪、更に哀しみの交わる表情であった。そんな正明の表情に、擦れ違う二人の少女―山本実希と野本加奈―が気付かない筈がなかった。

「いいって言ったらいいんだよ!」

視線が重なったその刹那、正明は突如怒鳴った。込み上げてくる感情に、耐え切れなかった。そして自分の意志とは別に、そうせざるを得なかった。彼の視界の脇に写った実希は、ただただ寂しそうな、そして苦しそうな表情をしていた。もう昔には戻れない――――。二人が抱いた思いだった。

自動販売機に到着した高崎正明の表情は最早虚ろであった。傍らの親友、三村隆之は彼の心を理解し、口をつぐんだ。

(もう駄目だ………。元には、戻れない。全てが………終わった)

どうしようもない感情に、正明は思わず自動販売機に拳を叩き付け、天を仰いだ。雑踏のざわめきが、ひどく腹立たしかった。

教室に戻った山本実希と野本加奈も無言であった。実希の瞳がうっすら潤っているのは、加奈しか知る筈がなかった。食堂で買ったパンに手を付けず、ひたすら無言だった実希はやがて何事かを呟いた。加奈の表情を見て、再び一言。しばらくして加奈は席を立った。彼女の苦しそうな表情には、誰も気付きはしなかった。去っていく親友の背中を、実希はまともに見ることができまかった。

 

その日の深夜、山本実希は眠れぬ夜を過ごしていた。時計の針は既に午前一時を指している。実希はベットの中にいた。

(………もう嫌われちゃったね………大好きな人、傷付けちゃった。………最低だね、私。…………でも私、誰を信じて生きていけばいいの? ……人に好かれないってことがこんなに辛いなんて、思わなかったよ。でも……こんな私じゃ誰も好きになってくれないよね。自己中だし。……寂しいよ。誰でもいい……嘘でもいい……、どんなのでもいいから好きだよって……誰かに好かれたいよ……)

実希には、頬を伝う涙を拭う気力すらなかった。

(何もかもが………嫌だよ……)

 

 

第八章〜忘れな草〜  

 

七月のとある日のことだった。普段なら既に一限目の授業が始まっている筈のこの時間であるが、私立桜ヶ丘学園高校の全校生徒は体育館に集められていた。臨時の全校集会である。殆どの生徒が、未だ一限目だ全校集会になったことで授業時間が減り、運が良かったとしか思っていなかった。

やがて全校集会が始まり、校長が壇上に上がる。続いていたざわめきが終わる。ここまでは何一つ、普段と変わらなかった。

「皆さん、おはようございます」

全校生徒の前に立つ校長の声が、心なしか弱く聞こえた。

「……既に知っている諸君もいると思いますが、昨晩の深夜二時頃、二年一組の山本実希さんが、自宅のマンションから飛び降り自殺を図り、亡くなりました」

信じ難い事実に、辺りは無声のざわめきに包まれた。

「遺書には、自分がもう嫌になった、何もかもが嫌になった、と書かれていたそうです。山本さんのご冥福をお祈りし、全員で一分間の黙祷を捧げます。一同、黙祷!」

そして、辺りは沈黙に包まれた。

丁度その時、一台の自転車が猛スピードで学校の敷地内に入ってきた。

(ヤバイッ! 完全に遅刻だよ!)

高崎正明はMDウォークマンで音楽を大音量で聴きながら慌てて校舎の中に入っていった。下駄箱で靴を脱ぎ、正面に見える階段を駆け上がる。三階に着くと、左に二度折れ教室目指して疾走した。

「……………?」

その途中で正明はようやく奇妙なことに気付いた。どの教室にも、誰もいないのである。勿論、自分の教室にも。

「………? 今日休みだったか……?」

正明は独りごちた。とりあえず自分の教室の席に座り、親友の三村隆之に送ろうとメールを打ち始めた。

数分後、嫌なざわめきと共に級友が教室に戻ってきた。普段見せるほどの笑顔は皆ない。中には眼を赤くした少女もいる。

「……………?」

正明が訝しがっていると、三村隆之が彼の側にやってきた。

「正明……、訃報だ」

「訃報だと?」

慌てて周りを見回す。

「……? 全員いるじゃん?」

「うちのクラスじゃない。けど、正明には関係ある人だよ。その人ってのは……。山本……山本実希だよ」

「なっ……山本が……? 山本が……死んだ?」

正明は思わず立ち上がった。

「昨日の夜、自殺したんだって……マンションから飛び降りて……」

「何で……? 何でだよ……山本が……嘘だろ……、何で……なあ隆之、嘘だよな? だって、俺、まだアイツのこと……なのに……だからなのか……? 何で……何でだよ……。嘘だろ………?」

刹那正明はどっと椅子に座り込んだ。

「嘘だろ……何で……山本が……?」

虚ろに、幾度となく繰り返して呟いた。そんな親友を、隆之はどうすることもできなかった。

 

数日後の放課後、高崎正明は職員室に呼び出された。そこで正明は意外な人物と会わされた。故山本実希の母、山本京子である。彼女は自殺した娘の部屋から正明宛ての一通の手紙を発見し、それを彼に届けるために学校まで足を運んだのだった。更に彼女は、娘から正明のことを幾度か聞いており、生前は世話になったと言って、去っていった。

帰宅した高崎正明は、受け取った手紙の封をそっと切った。茶色の封筒も中には、水色の便箋と腕時計が入っており、そして仄かな香りがした。

『高崎くんと一緒に、和田峠に行きたかった』

水色の便箋には、震える細い文字でそう書かれていた。正明はそれを何度か読み返すと、次に入ってた腕時計を見た。

(これ………山本の?)

記憶の中の彼女が蘇る。

(そうだよ、山本のだよ……これ。一緒に帰ってた時、確かこれしてたよな……)

ベルトの部分には、『Forgetmenot』の文字が記されており、アナログ式の時計の針は未だに時を刻んでいた。金色の淵ぐらいしか目立つ箇所のない、清楚な作りが人気のブランド『Forgetmenot』の時計。山本実希もこの清楚さを気に入っていたのであろうか。

(『Forgetmenot』か……。……忘れるわけないじゃん、絶対に……)

正明はそっと時計を抱き締め、そして泣いた。

 

 

 

第九章〜自殺の理由〜  

 

―――風の強い、どんよりとした曇り空の日だった。放課後、図書室で調べごとをしていたために普段より一時間ほど校舎を出るのが遅れた高崎正明は、偶然校門の所で一緒になった山本実希と歩いていた。偶然といっても、この日で一体何度目であっただろうか。それは既に半ば習慣と化していた。そしてこの日も、今までのように他愛のない談笑をしながら、駅までの道を歩いていた。

「そいや高崎君、……高崎君にこんなこと聞いていいのか分からないんだけどさ……」

それまでの談笑の雰囲気を変えたのは、山本実希だった。実希はやや真面目な、だが少女らしいはにかみの表情を高崎正明に向けた。

「高崎君ってさ……、女の子好きになったことってある?」

「えっ?」

唐突な質問に、正明は驚愕した。

「あることはあるさ……俺だって男だし。……で?」

正明は激しい動揺を押さえつけながら続きを促した。

「高崎君さ、『恋』って何だと思う?」

実希は再び問い掛けた。

「えっ……『恋』? ……何だろ? 冷めた感じに考えるんだったら、単なる幻想かも。肯定的なら……何だ? 悪い、上手く言えねえや。強いて言うなら、自分を磨くチャンスみたいなもんじゃん? 山本はどう思ってるの?」

正明は逆に問い掛けた。

「私もね、よく分かんないんだ……何かドキドキして、嬉しくなって……。でも私、『恋』の正体は分からないけど、ひとつだけ思うことあるんだ。何か、人は『恋』する為に生きてる、って感じなんだけど。別の言い方すると、どんな人でも生きる為には誰かを好きになるか誰かに好かれなきゃいけない、みたいな?私的には何よりも『恋』が大切で、だから私は『恋』する為に生きてる、って感じだし、ぶっちゃけこの学校入りたいって思ったのは、私の片想いの人もここ入りたいって言ってたからだし。その人は受験ミスって別の私立の方に入っちゃったけどね」

「………何か凄いね。好きな人の為に生き方決めるなんて」

正明は思わず息を呑んだ。

「でも自分の『恋』ばかり追い求めて、他人を傷付けたくはないよ。それが本当に好きな人なら尚更にね。……変かな? こんなに『恋』を大切に思うなんて」

「い、いや、凄いと思うよ、本当で。俺なんか『恋』をそんな風に考えてなかったし。っつーか、何の為に生きてるのかすら分からないような男だから」

正明は、実希の隠された感情の一部を知り、改めてその想いが強まっていることを胸のうちに強く確かめていた。

「ん? どうしたの?」

そして彼女は、無邪気な笑顔を見せていてくれた。

 

―――「ふぁ……」ワンパターンな目覚し時計の悲鳴に、高崎正明は眼を覚ました。

(………懐かしい夢だったな。いつだったか一緒に帰ってた時に言われたんだったな、あれを。てかもう朝か。早く準備しないとな)

土曜日の早朝にも関わらず、彼はベッドを抜け出した。

(確か俺の記憶だと………上谷中だったよな…アイツの母校って)

正明はかすかに残る、彼女の自己紹介の記憶を思い起こした。

(小山町の上谷中からきた、山本実希ですって、言ってたよな……)

約二時間後、高崎正明は御殿場市を離れすぐ北に位置する小山町にある、町立上谷中学校にいた。尤も、勿論校舎の中に入れる筈もなく、それや校庭等を金網の外から見つめていた。昨夜から降り続いていた雨は小雨に変わり、校舎や、校庭にある鉄棒、そして正明の中に咲いた一輪の忘れな草をしっとりと濡らしていた。

(ここが山本がいた場所か……。ちょっと田舎っぽいけど、いい所じゃん。結局俺は山本のこと、ちょっとしか知ることできなかったけど………、ここには、俺が全然知らないアイツがいるんだよな……。笑ったり、騒いだり、怒ったり、恋したり、泣いたり……。……知りたかった、山本の色んなコト…全部。でも……でももう無理だ…山本はもういない………。いないんだよ、もう……)

熱く込み上げてくる感情が、とめどなく流れ出した。

 

 

第十章〜少女のホンネ〜  

 

特急列車などを乗り継いで、高崎正明が長野県松本市に着いたのは、上谷中学校を後にしてから六時間後のことだった。既に陽は高く昇っている。松本市から更にバスで移動し、和田村に入った。

『和田峠』高崎正明は、そう書かれている看板の前に佇んでいた。

(ここが、山本が俺と一緒に行きたいって言ってくれた場所……)

和田峠は、日本国内で黒曜石が発見された場所のひとつであるが、それ以外にはスキー場と豊かな自然しかない、心安らぐ所であった。過疎化の影響を受けているのか、人影も交通量も、御殿場市のそれに比べて大分少なかった。

(大体何で山本はこんな所に……? 何かあるのか、ここに?)

ふと足元を見やると、そこには空色をした忘れな草が、微風に靡きながら咲いていた。

「……忘れな草、か。絶対忘れないよ。なあ山本、俺ここに来たよ。山本が来たがってた場所に来たよ。見てる? 俺……何時でもここに来るよ。山本が何でここに来たがってたのか分からないけど……、俺まだ山本のこと……好きだから」

自然と正明はしゃがみこんで忘れな草に語り掛けていた。何か決して叶わぬものを祈るような、悲愴の表情で。そんな彼の後ろに、一人の少女が立ちすくんでいることを、正明は未だ気が付いていなかった。

「……そっか。……まだ実希のコト、好きなんだ………、高崎君は」

諦めが混ざった少女の震えるか細い声に、正明は漸く振り返った。

「あっ! ……の、野本さん……」

そこに佇んでいたのは、故山本実希の親友、野本加奈だった。

「な、何で? 何でここに?」

「……ただの偶然なんだよ」

加奈はわずかに微笑った。

「ここ、実希が生まれた所なんだよ」

「そうだったんだ……。……山本と仲良かったじゃん、野本さんって。……アイツの自殺の理由、聞いちゃっていいかな……?」

正明の問い掛けに、加奈はふっと微笑んで、彼の足元の忘れな草を一本摘み取った。

「……その前に教えて」

そしてそれを正明の鼻先に近付けると、加奈はじっと彼を見つめた。

「……何でこれ、見つめてたの……?」

「………………」

正明は少女の手からそっと忘れな草を自分の手に移した。そして視線を、加奈からそれに移す。

「……山本から俺宛てに、遺書があったんだ。その中に、アイツの腕時計が入っててさ。『Forgetmenot』の。日本名は、忘れな草。友達から偶然聞いたんだけど、忘れな草の花言葉は……『私を忘れないで』……多分聞いてたから分かると思うけど……」

「聞きたくないよ!」

突如加奈は怒鳴った。

「聞きたくない……」

加奈はうなだれて呟き、正明は口をつぐんだ。

「……いいな、実希は。いつも皆に好かれるのは実希ばっか。私なんか上辺だけの好意しか貰えないのに……」

「野本さん………」

「あっ、そっか。実希が自殺した理由、話さなきゃね。実希はね……実希は高崎君に嫌われたって思ったから………高崎君に嫌われて自分が嫌になったから……自殺、しちゃったんだよ……」

「俺が? 俺が山本を嫌った? んなこと……嘘だ! ありえないよ!」

「私のせいだよ……」

加奈がポツリと言った。震える声は最早潤んでいた。

「野本さんのせい?」

「うん……。この前高崎君が携帯無くした時、このこと実希にも言えって言ったじゃん?……あの時……あの時私、実希にヒドイこと、言っちゃったんだよ」

彼女は袖で溜まりかけた涙を拭った。

「……高崎君が、実希のこともう嫌いだから、存在さえ忘れたいから、もうメールも電話もするな、って………」

「えっ? な、何で? 何でそんなこと……」

正明には理解できなかった。

「私、実希の感情知ってたんだ。高崎君に告られた後、実希は奥村君に告ったんだけど、もう奥村君には彼女いて……。その後よく実希ね、“あの時フッちゃったけど、私、やっぱ高崎君のことが………”ってよく言ってたんだよ………。もし実希がそれを高崎君に言っちゃったら……言っちゃったら絶対実希と付き合うって言うでしょ? ……そんなの嫌だった。絶対認めたくなかった。……本当は私だって……高崎君のこと好きなんだから……」

「えっ………?」

正明には、返す言葉を考えることが出来なかった。辺りを沈黙が支配した。やがてその沈黙を破るように、加奈が呟いた。

「………こんなになるなんて思ってなかった。実希にフラれて落ち込んでる高崎君を慰めてあげられればな、ぐらいにしか思ってなかった。親友……っつーか人間として、失格だよね………」

その声には後悔でもなく、自嘲でもなく、悲傷の寂しさのみが溢れ出ていた。

「……………………」

正明は、やはり言葉を発することが出来なかった。何時の間にか和田峠一帯に降り始めていた漆黒の雨が、悲愴の想いに暮れる二人を濡らしていた。忘れな草は、それを何時までもじっと見つめていた。

 

 

                    咲くことの許されなかった花 完

 

 

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