TOSS新居浜 西原真樹
mkawabat@ehime-net.ed.jp
100の発問を作ることによって、次のようなことが見えてきた。
1 話者である子規が、自身に死期が迫っていることを実感した上で、自らのことを「佛」 と呼ぶ。そのことで、俳句の必要条件である滑稽と、今まさに死のうとしている自分を客観視するという究極の客観性が盛り込まれ、辞世の句として完成度の高い作品となっていること。
2 話者である子規が、生に対する未練を捨て去っているとする解釈と、未練を残しているという解釈が両立している点がこの句の大きな着眼点であるということ。つまり 「糸瓜咲て」の部分と話者の状態を対比的に見るか、類似的に見るかによって解釈が大きく変わるということ。
3 糸瓜は単に観賞用だけでなく、糸瓜の茎からせき止めの薬を取るためや、病床に直射日光が当たらないようにする日よけのために植えられたという。その糸瓜がみずみずしく咲いているそのわきに「佛」になろうとする自分を配するという、絶妙な取り合わせが工夫されていること。
上の三点について、生徒たちに気付かせる授業を展開したいと考えた。