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01 煙突の底から

 彼は真っ黒な、ひじもつかえるような狭い空間で、すすの匂いをかいでいた。腰からは命綱が伸びていて、頭上の小さな丸い出口へ続いていた。そこは煙突の中だった。煙突はこの町で一番高く大きいもので、今その奥深く、一番底に近い部分に男はいた。
 自分の手も見えない暗闇の中で、ピンポン玉くらいの空を見上げていた。
「おわったー」
 と彼は叫んだ。
 自分の声が煙突中にやかましく響いた。
 言いながら、足をつっぱらせて煙突の壁へ押し当て、命綱をたぐりながら登っていく。上では同じ作業服の男が待っていた。
 煙突から出て、日の光にあたると、思ったとおり手も足も真っ黒にすすがついていた。
「ご苦労さん。おうし、降りるぞ」
 中年の男が煙突のふちにつかまり、風にふかれながら言った。そこからは山に囲まれた盆地の町が一望できた。
 風がびょうびょうと煙突の上のふたりをなぶった。声がかすれた。
「乱馬おまえ、高い所を怖がらないから、見てるこっちが危なっかしい」
「そうすか」
 乱馬は煙突の、20センチほどのふちに、2本の足で直立していた。中年男が先になって、煙突の側面に生えているはしごを伝い降りはじめた。乱馬にとってのろい速度だったが、時々、止まって片手をぶらぶら揺らしながら景色をながめた。町は緑が多く、他にも煙突が何本も見えた。温泉の町だ。
 下では軽トラックが待っていた。
 乱馬は煙突から降り立った。乱馬は背が高く、それに見合った体つきをしている。髪はややうっとうしい前髪の他は首の後ろで三つあみにしてたらしていた。日焼けした顔は、今はうっすらとすすをかぶっていた。ポケットがたくさんついた、頑丈な灰色の作業服を着ていた。左肩とひじと背中は墨につけたみたいに黒かった。左胸の刺繍には「いぬい工務店」とある。
 同僚の運転する軽トラは10分とたたないところで止まった。工務店へ帰って来た。
 乱馬から順におりて、荷台の命綱と掃除用具のすすを拭き、倉庫へ片付けはじめた。工務店は二階建てになっていて、2階が事務所で、1階が駐車場と工具置き場だ。
 チャリチャリと自転車のベルの音がして、乱馬はちょっとそちらを見た。
 制服姿の女の子が1階の駐車場へ入ってきて自転車を停めた。少女は制カバンをかごから取り出し、早足で乱馬たち作業員のほうへ寄った。
「ただいま! みなさん、いま仕事終り?」
「そうだよ。おかえり」 と中年男が答えた。
「早くない? サボってるんじゃないわよね」
「かなわねえな、ナッちゃんには」
 少女はそのまま通り過ぎて、若い、小鹿のような動作で奥へ消えた。この駐車場の向こうにはいぬい工務店の会社とは仕切られた、乾家の自宅がある。
 乱馬は彼女の後姿を少し見ていた。
 それから、2階へ行って乾社長に今日の仕事の報告をした。乾さんは頭髪の薄い、とても真面目な人だ。さっきの少女とはあまり似ていない。しばらく明日に届く工具の話をした。
 乱馬は
「お疲れさんしたー」
 と軽く会釈し、後ろ手で事務所のドアを閉めた。タオルで顔を拭きながら狭い階段を降りて行った。1階はうすぐらかった。
 なつめがトラックにもたれてうつむきかげんに立っていた。濃紺の制服から着替え、トレーナーに桃色のスカートをはいて、足元はつっかけだった。
「なっちゃん」
 乱馬は声をかけた。
 乾なつめは今気付いたという風に、急に顔をあげて、「乱馬さん!」 と言った。
「お疲れさま。お母さんが、夕飯のおかず多くできそうだから、乱馬さんに持っていきなさいって」
 乱馬はなつめの、肩までまっすぐ伸びた髪に目がいっていた。なつめの髪は針をつるしたみたいにカツンとまっすぐで、卵形の頭の形がよくわかった。肌がきめこまやかで、立ち姿が映える娘だった。
 なつめの近くによると、乱馬は、耳をすませる癖がついていた。
「ありがたいな。で、おかずは?」
「いまお母さんが作ってる。なんかの煮物。あとで乱馬さんのとこに持っていくわ」
「とりに来ようか」
「いいわ。私ひまだから持っていきます」
「そうか。すまねえな」
 なつめはつっかけを鳴らしながら、
「じゃあ、あとでいきますね」
 と母屋の方へ去った。
 乱馬もいぬい工務店を出た。家に帰ったらビールを飲もうと思っていたが、なつめがおかずを届けに来るまではよすことにした。乱馬は向かいの社員用アパートに向かいながら、タオルを軽く振り回した。
 今日は運のいい日だ。早く仕事を終えたし、なつめの声が聞けた。
 あの娘の声。あんな声はなかなかない。
 鉄の階段を昇り、ポケットから鍵を出して、自分の部屋をあけた。表札にはマジックで「早乙女」とある。ドアは重くさびかけていた。木造で、畳も古く狭かったが、乱馬には十分だった。
 電気をつけた。部屋の空気はこもっていた。朝食べたものがそのままになっていた。布団も引きっぱなしだ。
 玄関を開けるとすぐ中が見えるので、なつめが来る前に少しは片付けないといけない。
 空気を入れ替えようと窓へよった。
 と、そこに、人影があった。
 泥棒? と乱馬は思った。
 とっさに踏ん張って拳を構えた。乱馬は高校まで武術をやっていた。
「おい、そこの! 誰だ!」
 と言うと、
「おれだ」
 と返って来た。乱馬は窓を開けた。
 良牙だった。植木鉢を置くための、数十センチの窓のでっぱりに、良牙はしゃがんでいた。
「とりあえず入れてくれ」
 そう言いながら、良牙はのそのそ窓から入って来た。大きな荷物を背負っていた。
「良牙…! なんだよいきなり!」
「おまえの家を訪ねようと思ったら、ちょっと道に迷ってな。ここ、お前の家に間違いないな?」
「人ん家のベランダを訪ねてくんな。コソ泥かと思ったぜ」
 乱馬は窓を網戸にした。朝食の食器を流しへ入れ、布団を隅に寄せた。
 良牙が突っ立っていたので座布団を投げてやった。
「座ってろよ。何もねえけど、茶くらい出すぜ」
 最後に良牙と会ったのはいつだったろう。思い出そうとしたが無理だった。たぶん、4年くらい前だ。1年まえこの部屋に入ったとき、住所くらい知らせておこうと思って良牙に葉書を出したんだった。それをたよりに来たんだろう。
 あいにく、緑茶なんて買ってない。コーヒーもない。客なんて来ないから本当に何もなかった。棚には食パンだけだ。
 まあいいか。良牙だし。
 乱馬は手と顔を洗い、コップに麦茶を注いで持っていった。
 良牙は落ち着かない様子だった。乱馬も久しぶりすぎて、間が持たない気がしたので、テレビをつけた。
 乱馬は言った。
「にしても、何だその荷物。修行の旅かなんかか」
 うわべは何でもないように言ったが、違和感がかなりある、と乱馬は感じた。
「いや。この近くに用事があってな。おれはいつ着けるかわからないから、野宿の準備をしたらこうなった」
 ではまだ、方向音痴は健在らしい。
 良牙は自分の大きなリュックのポケットをさぐっていた。乱馬はすすだらけの自分の服が自室を汚さないよう気をつけながら座っていた。良牙は上質紙でできた封筒を差し出した。乱馬が受け取り、封を見ると「寿」とあった。
「実は、来年の春結婚することになった。一応、お前にも来てもらおうと思って」
「へえ、そりゃあ…」
 では良牙は幸せをつかんだのだ。おめでとう、と言わなければならない。「めでたいな」
 全然めでたいとは思えない気持ちで、乱馬は祝いの言葉を述べた。
「あかりさんの実家の関係で、式場がこっちなんだ。おれの足じゃ予定通りの到着は難しいから早めに東京を出た」
「ちょっと早すぎねえか」
「ちょうどいい。一冬こっちで過ごす」
 良牙は一拍おいて、芯から心配している人の口調で、
「乱馬はその後どうだ」
 と訊いた。
「ぼちぼちやってるぜ。今は働いてる。鳶の真似事してる」
「そうか」
 良牙は麦茶を手にしながら、少し部屋になじんだ様子で、
「元気そうでよかった」とテレビのあたりに目をやった。
「いつまでもヘコんでねえよ。お前には世話んなったし、いつか礼もしたいと思ってる」 乱馬は言った。
「いいよ別に。おれはそんなつもりじゃなかった」
 乱馬は立って行って、冷蔵庫からビールを出した。
「良牙も飲むか?」
「もらおう」
 乱馬はビールを一気に半分まで飲んだ。飲んではじめて、高校時代の友人を前に、なつかしい気持ちになれた。
「良牙が結婚すんのか…」
「するさ」
「そーか、そーか」 乱馬は少し大げさにうなずいた。
「お前、おっさんみたいだぞ」 と良牙が言った。
「あかりちゃん大事にして、幸せになれよ」
 乱馬は少しビールの缶を持ち上げて、乾杯の動作をした。しかし、心の中では良牙と自分の間に大きな隔たりを感じていた。老人が若者を祝福するときの、乾いた気持ちだった。自分が二度とつかむことのない幸せを、良牙は手にした。不幸くらべでは誰にも負けなかった良牙が。
 そのせいだろうか、良牙は高校時代よりも落ち着いて見えた。
 高校時代の知り合いが今どうしているか、乱馬は尋ねた。良牙は訊かれたことだけきちんと答えた。乱馬は東京を出て以来、昔の友人では良牙にしか連絡をとっていなかった。
 話が天道家のことに及ぶと、良牙はいっそう慎重に話した。かすみさんも、なびきも元気でやっているようだ。かすみさんも結婚が決まったらしい。
「乱馬、三回忌に来なかっただろう」
 良牙はこちらをうかがうように言った。乱馬は決まりが悪かった。もう取り乱したりはしない。
「ああ。その時期忙しくてよ」
 静かだった気分がわずかに波立った。それを表には出さなかった。
「一回忌にも顔出さなかったんだ、七回忌くらい出ろよ」
「うん」
「それからもうひとつ渡すものがある…」
 良牙はリュックの口をあけ、大きな茶封筒を取り出した。乱馬は受け取った。分厚い手ごたえだった。中をのぞくと、写真や書類のようだった。
「遅くなって悪かったが、お前が全然仏前に来ないから渡せなくて困ってたんだ。お前も落ち着いたみたいだし、渡すよう ことずかった。お前宛の手紙と写真だ。写真はいらないなら天道家に返せ」
 と良牙が言った。
 乱馬は封筒からひとつかみ取り出して写真を見ていた。あかねだ。なびきがポラロイドで撮ったものだ。不意にとったのだろう、振り向きざまのものや、視線がカメラを向いていないものが多かった。乱馬はそれを何枚も繰った。20枚ほどあった。
 写真の中のあかねは若く、みずみずしかった。そうだ。あかねってこんなだった。この短い髪と首の感じ。時々夢に出てくるあかねより、ずっと子供っぽさが目に付いた。おれが年をとったからだ。こんな風に普通の女の子だった。
 懐かしさで目がくらむようだった。
 他は、自分宛ての手紙だった。差出人は「天道あかね」となっている。あかね直筆の手紙だ! 乱馬はそれを大きな茶封筒にまとめて入れた。
「すまねえな、わざわざ」
「じゃあ、おれはそろそろ行く」
 良牙はリュックを閉めると、立って玄関へ行った。
「近所にいるから、また時々来るかもしれん」と言って、良牙は帰って行った。
 良牙が出て行くと、乱馬は素早い動作で部屋に戻り、茶封筒から手紙を出した。そのとき膝を擦り、すすが畳を汚したが、気にしなかった。
 あわてて手紙を破ったりしないよう、光にすかして中身の位置を確かめてから封を切った。手が震えた。とても落ち着いてはいられなかった。
 2枚の便箋を広げると、丁寧な女の字が目の前に広がった。


乱馬へ

 元気にやっていますか?
 乱馬がこれを読んでいるということは、私はもういないのでしょう。お別れを言いたくはないけれど、言わずに行くのはもっと嫌なので、手紙にしました。
 病気になって治らないかもしれないとわかったときは、もっとあなたに対して素直になっていれば、喧嘩をしていた時間も仲良くしていればと何度悔やんだかわかりません。でも今は違います。今では、ああしているのが一番私たちらしかったと思っています。乱馬もそうでしょう?

 二度目に倒れて体力がなくなってから、私は私がいなくなったあとのことをよく考えます。(こんなことを言うと気弱になるなって怒られそう)
 「天道あかねがいなくなった」という穴が空いても、水が低いところへ流れ込むみたいに、時間が私を埋めるでしょう。残った人のことを思うと、早く、早く、そうなってほしい。
 でも同時に忘れられたくない!
 私が確かに生きていたという証が、爪あとが、とてもとても欲しい。
 お母さんもこんな気持ちで亡くなったのかな。

 私がいなくなったら私の部屋はどうなるんだろう? しばらくはそのままだろうけど、いつかは片付けるでしょう。机やベッドは隅に寄せておくか、捨てるか。本やCDはなびきお姉ちゃんに好きにしてもらって、教科書は捨てる。机の中の日記帳は、捨ててもいいけど、かすみお姉ちゃんか乱馬にもらってほしい。
 かすみお姉ちゃんならずっと大事にしてくれる。乱馬に見せるのはとても恥ずかしいけれど、私が毎日何を考えていたかわかると思う。

 もし病気が治ったらあれもしようとか、私がいなくなったらこうなるだろうとか、昔のこととか、考えて疲れてしまうことが多い。考えたってなるようにしかならないし、私は精一杯今を過ごすだけ。それでも考えずにはいられない。
 病気や不運を悔やみたくはありません。時間がもったいないから。
 でも一番心配なのは、乱馬、あなたのこと。

 乱馬は便箋を2枚目に繰った。

 私がいなくても高校を卒業してください。
 家のことは気にせず、乱馬の好きに生きてください。無差別格闘早乙女流を極めて、うんと強くなってください。
 私がいなくてもちゃんとやっていけるわよね? 乱馬は強いもの。
 良牙くんと修行をしたり、シャンプーに追いかけられたり、いつも通り負けず嫌いのあなたでいてほしい。大丈夫。全部うまくいくわ。
 好きな人ができても、たまには私のことを思い出して。でもやっぱりすぐに忘れて欲しい。乱馬に好きな人が出来てほしいけど、あんまり今はそのことを考えたくない。
 どうして乱馬に気持ちを伝えておかなかったんだろう。
 いま乱馬が病室に来て、全部打ち明けて、「死にたくない」って泣いたら少しは楽になるかしら?
 でも、いいわ。やめとく。最近の乱馬やさしいから、意地悪しないでいってあげる。でも本当に気、使いすぎよ。気味悪いくらい。

 結局料理が上手にならなかった。でも食べてくれてありがとう。ごめんね。いろいろ全部ありがとう。
 まだたくさん書きたいことがあるけど、もうすぐ消灯の時間です。

 乱馬と会えてよかった。とても楽しかった。
 毎日が嵐みたいで時間が経つのも忘れるくらい。ずっとそうしていたかったけど、そうもいかないみたい。

 追伸
 私がいなくなってすぐシャンプーか右京とくっついたら化けて出てやる。 


あかね

つづく

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