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02 あかねのこと

「ああ…」
 乱馬はつぶやいた。手紙を何度も読み返した。
 5年前ごしに届いたあかねの言葉に胸が痛んだ。乱馬はそれに少し安心した。
 あかねを失って最初の頃は、始終刺すような痛みを胸に感じたものだ。痛みは精神的なものにとどまらず、実際に心臓が痛んだ。それが最近思い出しても痛みはなくなって、確かに悲しいのだが、昔ほど涙を流さなくなった。
 それがいいことなのか悪いことなのかわからなかった。ただ今はあかねにすまないと思った。
 乱馬はいったん立って、台所の流しの下から日本酒を持ってきた。それを手酌で飲んだ。飲みすぎると明日の仕事に差し支えるが、そんなことには構っていられなかった。
 乱馬は手紙の内容に答えているうち、気持ちがあのころへ戻っていくのを感じた。
 この手紙を書いたとき、あかねは16才の終りごろだった。死ぬときこんなことを考えていたのか。おれはあかねよりずっと子供だった。周りのことも、あかねがいなくなったあとのことも、怖くて考えられなかった。
 あかねが病気になった最初の頃は軽く考えていた。それが入院になって、あかねがけだるそうに眠る時期が続いて、乱馬は焦った。病室には行きたいが、皆がいると調子が狂った。乱馬は誰もいないとき、着替えを持ってきたとか、珍しい菓子を買ったとか、理由をつけてはあかねを訪ねた。
 あかねは調子よさそうに話していたが、見舞いが長くなると憎まれ口が鈍ってきて、顔色が真っ白になってくる。
 自分の有り余る生命力をわけてやりたかった。乱馬に出来るのは励ますことだけだった。「すぐに治る」と「欲しいもん無いか」が口癖になった。
 いよいよ最期の日数まで教えられたとき、乱馬には冗談みたいに思えた。あかねが? 死ぬ? 確かにあかねは痩せたが、そこまで弱っているようには見えなかった。
 だが、いま思うと、あかねは知っていたのかもしれない。




「あかね。起きてていいのか?」
 あかねは病室で半分体を起こし、窓の外を見ていた。カーテンが内側に向かってなびいていた。
「なんか食うか。リンゴ剥いてやろうか」と乱馬は言った。
 あかねは振り返った。
「いらない。そこにあるやつ持って帰って。そんなにあっても腐っちゃうから」
「菓子もか?」
「うん」
「食えよ。お前の好きなやつあるだろ」
「あんまり美味しくないの。熱で味がわからない」
 乱馬はパイプ椅子を引き出して座った。あかねの病室は個室で、友達が多いから見舞いも多かった。ルービックキューブや漫画、チョコレート、花束なんかが届けられた。
 乱馬はベッドの横でルービックキューブを廻していた。組み立てる気はなくて、手持ち無沙汰をごまかすためにひねっているだけだった。乱馬は、身体の調子はどうだとか、来てくれてありがとうとかいう、いかにも見舞いという雰囲気が嫌いだった。そういうのは最初の数分ですっとばして、家や学校にいるみたいに振舞うのがなんとなくいいと思っていた。
 あかねが横になった。もう疲れてしまったのだろうか?
 あかねは目をつぶっていた。やっぱり疲れたんだ。乱馬はあかねを凝視していた。
「あかね」
 乱馬は小さくささやいた。「おれもう帰ろうか」
「いい」
「そうか。いないほうが寝れるんじゃないか」
「いて」
 あかねが起きている時間は日に日に短くなっていく。悪口も言い返さない。言い返さない相手に喧嘩をふっかけるのは、ひどく後味が悪いので、やめてしまった。
 乱馬はもう、漫画もチョコレートも、病室にあるルービックキューブ以外の物は制覇していた。しばらくルービックキューブを握っていたが、どうしても一面以上はそろえられなかった。キューブを置いた。ベッドのしわを見つめていると、けだるい、病院の午後の雰囲気に飲まれていく。病院の白い壁も、きつい消毒液の匂いも忘れてしまいそうだ。
 あかねが不治の病だなんて、悪い夢みたいだ。目が覚めたらいつもどおり元気に戻っている。瓦だって何枚も割る。格闘大好き女子高生に戻っている。乱馬の馬鹿! って怒ったりする。
 ベッドの中であかねの足が動いて、乱馬は我に帰った。あかねが起きてこちらを見ていた。
 考えていたことを見られた気がして、乱馬はとりつくろった。
「今年の夏、旅行いかなかったよな。早雲おじさんが、温泉行きたいって言ってたぜ」
「そう」
「おれも卓球してえ。勝負するか?」
 乱馬は笑いかけた。
「温泉に行くなら今すぐ行きたいわ。病気もよくなると思うの」 あかねが言った。
「そりゃ無理だ。治ってからだ」
「今すぐがいいのに」
「つまらねえのは分かるけど、我慢しろよ」
 あかねはのろのろと布団をかぶった。
 乱馬はあかねが二度と温泉旅行なんて行くことが出来ないのを知っていた。
 乱馬はうつむいた。自分の手と膝のあたりを見つめた。
「なあ、おもうんだけど。お前の血の病気。呪泉洞で水分が蒸発して、人形みたいになったことと何か関係があるんじゃないか。あれのせいで血が減ったんじゃねえか」
「違うわ」 あかねは即答した。「原因がわからないのに勝手に決めないで」
 強い口調だった。
 勢いに押されて、乱馬は「そうか」と口ごもった。
「呪泉洞で」 と乱馬は言った。「呪泉洞で言いかけたこと。おれ、まだ言ってないことがあるんだ」
 そのときが来たら、乱馬は自分があがってしまってうまくいかないかもしれない、と思っていた。だが不思議と照れはなかった。
 あかねは布団から顔を出して、起きながら、
「なに? …やっぱりやめて。言わないで」
 と言った。
「なんでだよ。言わせろよ」
「やめて。退院したら聞くから」
 乱馬はベッドの上のあかねの手を握ろうとした。あかねは手をひっこめた。乱馬の手は堅いシーツをなでた。
「治ったら聞くわ。今は駄目。退院したら聞くから」
 あかねの目はいつもより大きく見えた。どこか臆病だった。
 なぜあかねが拒絶したのか、今となっては分からない。おれに遠慮したのかもしれないし、願掛けのようなものをしていたかもしれない。今までの関係が崩れるのが怖かったのかもしれない。
 とにかく、乱馬の告白は拒否された。そして4日後、昏睡状態になり、あかねは急逝した。
 葬式はかすみさんがしっかり仕切っていた。なびきは棺桶にすがって泣いた。早雲も一人で泣いていたようだ。乱馬にはまだ嘘っぱちのように感じられた。通夜のとき、棺桶の顔のところについた小さな窓を開けて、手をつっこもうとしたら、おやじに羽交い締めにして止められた。
 その後のことはあまり覚えていない。かすみさんにまかせきりじゃなくて、自分も何か片付けを手伝わなくてはと思った。思っただけで、乱馬はぼんやりしていた。何も考えられなかった。
 乱馬は天道家を出た。山に入って、ひとりでいると、ようやくあかねが死んだのだと思えた。
 一時期はひどかった。全てにおいて無気力、無関心。飯を食わずにいたら8キロ痩せた。良牙がやってきた。何を言ったかは覚えていない。おれを力づけようとしたんだろう。おさえつけられ、無理やり口に食い物をねじこまれたのを覚えている。
 乱馬は東京へ戻らなかった。旅先で一度、偶然か、追いかけてきたのか、右京に会った。
「うちはいつでも待ってるで」
 と右京は言った。
 悲しそうだった。だが、右京を見ても何の感情も抱かなかった。乱馬は貝のように固く自分を閉じていた。




 それから5年経った。
 高校を卒業しなかった。武道もやめた。
 道端で突然勝負を挑まれたり、変な奴につけねらわれることはなくなった。思うのだが、あれは自分の気力やお祭り騒ぎの空気が呼びよせるもので、あかねの死と共に魔法は解けてしまったのだ。
 あかねを忘れるのが供養になるのか、ずっと覚えているのがいいのか、乱馬には判断がつかなかった。一日一日やりすごすので精一杯だ。どこにも行けない。動けない。
 酒を飲んでも陽気な音楽をかけても、どうにもごまかしきれないどんずまりのときがある。今がそうだ。
 もっとおれに出来ることがあったはずだ。どうして死ぬ前にちゃんと愛してやらなかった。(おれは幼なすぎた。)呪泉郷で、あと一日、数時間、早く行動していれば病にかからなかったかもしれない。おれと会わなければ今も元気でいたかもしれない。
 そこは社員用アパートでも、テレビの前でも、酔いの中でもなかった。明日の予定も、足の下の畳も、すべて消えて無くなった。今も昔も無い。乱馬は独りだった。虚無のただなかにいた。前はあかねがいて、今はそうじゃない。5年前から乱馬はずっとそこにいた。
 そのとき、ノック音がした。乱馬は気付かなかった。乱馬を呼ぶ声がした。
「乱馬さん。乱馬さん! いないの?」
 乱馬は立った。そのとき、まともに歩けないので、予想外に酔ってしまったことに気付いた。テレビのリモコンを踏んだ。
「乱馬さん」
 日は暮れていた。乱馬は勢いよく玄関を開けた。
 視界がブワブワした。なつめだ。
「なっちゃん」
 と乱馬は言った。自分で立つことはできず、ドアノブにもたれかかったた。ドアがきしんだ。
 視界の白いものがなつめの顔だ。
「持ってきました。お豆と肉を煮たやつだって…」
 なつめは皿を差し出したが、乱馬がぐらついたので、変だと気付いた。
「乱馬さん、お酒飲んでるの」
「なつめ。おまえの声」
 乱馬が手を伸ばした。なつめは後退した。
「おまえの声。いい声だな。言われたことないか」
 少しおびえた様子で、なつめは、
「ないです」
「いい声だ。本当に。昔の知り合いに、すごく似てる。初めて聞いたときすげえ…本当に…」
 なつめは地面に皿を置いた。
「ここに置いときますね。それじゃっ」
 アパートの階段をがんがん鳴らしてなつめは降りていった。


(*ε*)
つづく

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