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03 なつめのこと

 朝起きると、昨日の作業服のままだった。身を起こすと軽い頭痛がした。横に見知らぬ皿があって、3分の2ほど食べちらかしてあった。ひどいかわきに襲われて水道の水をじかに飲んだ。
 部屋は散らかっていた。布団は隅に追いやられ、一升瓶やビールの缶がちらばっていた。時間が二日酔いを治してくれると信じ、乱馬は着替えはじめた。
 いつもの朝とどこか違っていた。頭痛以外にも何か違う。何だ?
 乱馬は珍しく自分の体調と精神状態を探った。身体は冷えていてだるいが、気分はよかった。穏やかで、癒されているといってもよかった。昔の夢でも見たのかもしれない。残念ながら夢は思い出せなかった。
 乱馬は食べさしの煮物の皿を見た。それではじめて、昨夜なつめがおかずを届けに来てくれたのだと気付いた。
 皿を洗って出勤した。いつもより15分早かった。
 軽トラックの脇で乾夫人に会ったので、「昨日のおすそわけうまかったっす」と挨拶した。
 なつめはどちらかというと、乾さんの奥さんの方に似ている。
 事務所で仕事を確認し、皆が出勤してくるのを待って、今日の仕事先へ出発した。ビルの排気口の修理をした。午後になると頭痛もやみ、いつもの調子が戻った。汗を拭く暇もないくらい忙しいとき、乱馬は、そのままずっと機械のように作業していたいと思う。
 軽トラックが事務所へ戻ったのは7時ごろだった。
 乱馬はアパートへ帰った。今日こそ風呂に入ろうと思った。服を脱いで、洗濯機をまわし、どす黒く汚れていく渦を見ていた。よく働いた証拠だ。働いている間は余計なことを考えなかった。
 乱馬は風呂に入ってさっぱりした。おさげを編みなおした。
 今日は珍しく気分のいい日だったから、買出しに行く気になった。乾社長やなつめに会わないよう、乱馬は静かにアパートを出た。特になつめに会うと心乱されそうな気がした。昨夜、なつめが訪ねてきたとき、自分は泣いていたかもしれない。
 洗剤と食料を買った。疲れたがとてもいい日だった。こんな日は月に一度もないかもしれない。




 だが、いい日は続かなかった。
 また夜の恐ろしい日々が続いた。
 数日後、乱馬はたまたま いぬい工務店で留守番をしていた。新しい機材が来るとかで、現場の人間でないと納品を確認できなかった。乱馬は駐車場の入り口に座っていた。太陽が乱馬の作業服と、道を白く照らしていた。その分濃く影を落としていた。
「乱馬さん! ただいま」
 声がして、乱馬は顔をあげた。
 自転車に乗ったなつめが乱馬の前を通り過ぎて、奥で自転車を停めた。制服で、学校帰りのようだった。
「お帰り。早いな」
 乱馬は言った。
「今日は授業が短い日なんです。乱馬さんは? 仕事終り?」
 なつめは片足でガシャンと自転車のストッパーをかけた。
「いや、機械の納品待ってんだ。暇だよ」
「へえ。がんばって」
 なつめは奥の自宅へ駆けていった。
 10分ほどして、私服に着替えたなつめが奥から出てきた。
「乱馬さん、暇なのよね」
 なつめはドライバーを握っていた。
「いまいい? あとでもいいけど、簡単な大工仕事お願いしたいんです」
「いいよ、今で。何」
 乱馬は立った。ふたりは奥の、乾家の自宅へ行った。納品の車が来たら音でわかるはずだった。乱馬は乾家の近くへ寄るのは初めてだった。現代風の、壁が綺麗な一戸建てだった。
 玄関の前に白い板が数枚転がっていた。横に大工道具入れが置いてある。
「組み立て本棚買ったんだけど、お父さんがいつまで経っても組み立ててくれないの。自分でやったらどうにもならなくなっちゃって」
「社長は忙しい人だからな。どれ」
 乱馬はしゃがんだ。本棚は本体の枠の部分と、引き出しの部分に分けて組み立てるようだが、なつめが組み立てようとした引き出し部はネジの廻し方が悪くゆがんでいた。
「やってやるよ。2、30分で出来ると思う」
 乱馬はドライバーを受け取った。なつめの歪めた部分を解体し、膝で板を固定し、ネジを締めていく。仕事でも似たようなことをやるから軽いものだった。
 不意になつめが後ろから、しゃがんでいる乱馬の肩に手を置いた。
「すごーい。器用なのねえ」
 柔らかい丸みのある声。乱馬は肩に置かれた手に意識を集中させた。
「当たり前だ。わけねえよ」
 身体が熱くなった。肩のなつめの手が、あかねの手だと錯覚した。乱馬はそれを訂正しなかった。背中の女の子はあかねなんだという嘘は、非常に魅力的だった。
「お前、案外不器用なんだな」
 と乱馬は言った。
「そうかしら。そうかな」
 あかねは少し考えて、「そんなことないですよ。この本棚難しいですよ」
「まあ、女には難しいか」
 乱馬は手早く美しく本棚を作る様子を見せたかった。だが、ずっとこうしていたかった。肩から手が外されないように、上半身をあまり動かさなかった。あかねは乱馬の肩に手をおきながら、乱馬の作業するさまに感心して見入っていた。
 外枠を組み立て、直角が歪んでいないか確かめた。引き出しをひとつはめてみた。少しも隙間はなかった。残りの引き出しを、芸術品でも創るみたいに丁寧に組み立てた。ドライバーを直角にネジに当て、最後のネジを締めた。終わってしまった。
 埃を払い、値札のシールをはがした。
「よっしゃ出来た」
 立ち上がり、振り返ると、そこにはもうあかねはいなかった。
「ありがとう! 助かりました」
 となつめは軽く頭を下げた。
「家ん中へ運ぼうか」
「いいです。あとでお母さんと運びます」
「そうか」
 仕事場の方から低い大型車のエンジン音が聞こえた。納品の車が来たようだ。
 乱馬はなつめに別れを言って、仕事場へ駆けて行った。




 乱馬は外の仕事から帰って、仕事の報告をし、事務所で乾社長と話していた。その夜社長は奥さんを連れて出かけると言っていた。
 コーヒーと煙草の匂いが立ち込めた事務所はもう戸締りの準備をはじめていた。事務員がブラインドを降ろした。
「じゃあ、なっちゃんはひとりですか」
 思わず乱馬は尋ねた。
「ああ、留守番だ」
 と乾社長は答えた。乱馬も戸締りを手伝って、真っ暗な1階の駐車場へ降りていくと、社長の奥さんが社長を待っていた。奥さんはよそ行きのスーツを着て、髪を小奇麗にまとめていた。
「あなた、行きましょうか」
 奥さんは言った。車道に社長の車が出してあった。
 社長は運転席に乗り込んだ。
 奥さんが、
「早乙女さん、家が無用心にならないように見ていてね。夜遅くなると思うから」 と言った。
「わかりました」
 乱馬は答えた。奥さんは助手席に乗り込んで、車は出発した。乱馬は見送った。
 事務員も帰って いぬい工務店にいるのは乱馬だけになった。乱馬は家へ帰り、楽なシャツに着替えると、また家を出た。いぬい工務店の駐車場を突っ切って、乾家の自宅へ来た。
 チャイムを押した。しばらくして、インターホンが通じた。
「はい」
 とあの声がした。
「早乙女です。なっちゃん」乱馬は言った。「今日、お父さんとお母さんでかけてるんだよな。飯どうしてる?」
「まだです。これから作ろうかなって」
「もう作ってる?」
「いえ、まだ」
「よかったら、食べに出ないか」
 インターホンが切れた。数秒して玄関のドアが開いた。なつめは玄関の靴を踏んで、身を乗り出していた。
「本当に? いいんですか?」
「なっちゃんがよかったら」
「やった! すぐ用意してきますね」
 乱馬は玄関で、なつめの支度を待った。奥でなつめの動く物音がした。
 なつめはカーディガンに、細身のズボンをはいて出てきた。乱馬はスカートだろうと思っていたので変な感じがした。
 跳ねるような動作でなつめは乱馬の隣に来て、玄関の鍵をかけた。
「ありがとうございます。やった、何にしようかな」
 なつめが鍵をバッグにしまった。
「言っとくけどファミレスだぞ」
 と乱馬は言って、歩き始めた。
 すっかり夜だった。歩いて10分くらいの国道沿いにファミレスはあった。深夜の国道は、ヘッドライトが近づいてはテールランプが尾を引いていく、光のカーブが出来ていた。車が一番近くを通るときだけタイヤが道路を摩擦する乾いた音がした。乱馬はなつめに歩調を合わせた。
 ファミレスはすいていた。乱馬となつめは道路側の禁煙席へ座った。机も椅子もゆったりしている。
 乱馬はメニューを眺めるなつめを見ていた。勢いで声をかけたらOKされてしまった。自分に女を食事へ誘うような気力があったことに驚いていた。かなり思い切ったことをした。
 なつめは手早く決めた。
「ミラノ風ドリア。あと、かぼちゃスープとアスパラサラダ。デザートは後でいいわ」
 乱馬も適当に選んで、店員を呼んで注文した。
 店員が行ってから、乱馬は、
「ここよく来るのか」と訊いた。
「うん、ここゆったりしてていいですよね。この間ここで友達と試験勉強してたんです。あそこの席」
 となつめは指差した。
 そういえばなつめは高校生だった。
 なつめは、
「ここのかぼちゃスープって、家で作るのと味がちがうんですよ。何が入ってるんだろ」
 乱馬は、
「料理できんの?」と言った。
 なつめは笑った。
「失礼ですね。お菓子作るのとか得意なんですよ」
「そうか」 予想とは違っていた。「最近の若い子はそういうのしないかと思って。今日も晩メシ困ってるんじゃないかと思って、誘った」
「ひどい」
 ミラノ風ドリアを筆頭に、料理が運ばれてきた。ふたりは食べ始めた。
「若い子って言っても、乱馬さんと私そんなに年違わないんじゃないですか。あれ? いくつなんですか?」
「いくつに見える」
 乱馬はフォークを手の中でまわした。
「ええー…24?」
「はずれ。みそじ」
「ええっ!?」
「嘘。21」
 なつめとちゃんと話をするのは初めてだった。多少無理をしていたが、楽しいと思えた。
「乱馬さん、冗談も言うんですね。渋い人だと思ってた」
「しぶい…?」
 そんなことを言われたことはなかった。
「だって、最初挨拶してもすっごく暗かったし、笑ってるところみたことなかった」
 おれは愛想がないんだ、と乱馬は言った。
 食べている間、乱馬はときどきなつめを見ていた。どこからこの声が出るのかと思った。骨格が同じだと同じ声が出るんだろうか。でも、なつめはあかねよりも全体の線がとがっている。あかねは全体的に丸くて顔立ちも可愛らしい感じだったが、目の前の少女はほっそりしていて、大人っぽい顔立ちをしている。
 乱馬がビールを頼むと、なつめが言った。
「飲んで大丈夫ですか? 酔っ払いません?」
「ビールじゃ酔わねえよ」
「泣き上戸ですか」
 乱馬は、なつめがアパートを訪ねてきたときのことを言っているのだと気付いた。
「泣かねえよ。あんときはちょっと飲みすぎてて…。変なこと言ったか?」
「いえ、別に。私の声がどうとか」
「ふうん。なっちゃん、今高校何年生だっけ」
 乱馬は話をそらした。しばらくビールを飲みながらなつめの学校の話を聞いた。中学の修学旅行が海外だったとか、学校では何が流行っているとか、若い話を聞いた。乱馬は耳をすませていた。ファミレス内は変な外国の音楽がかかっていたが、わりあい静かで、なつめの声はよく聞こえた。
 勘定を済ませて、ファミレスを出た。なつめを送ってアパートへ帰り、電気をつけ、洗濯機をまわした。明日の朝食の準備をした。テレビのリモコンを探していた。その刹那、唐突に罪悪感に襲われた。
 あかねを裏切っているのだと思った。
 なつめにも悪いことをした。なつめといる間、楽しかった。まだその余韻がある。女の子と話したあとの、軽い緊張と胸のざわめく感じが残っている。それは高校以来の感覚だった。
 あかねにすまないと思った。
 乱馬はおもむろに一升瓶を出してきた。また夜が来る。


(半オリジナルと化してる罠)
つづく

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