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04 迷子のこと

 良牙はボンヌ図法よりもメルカトル図法よりもはるかに歪みかけ離れた、不思議の国のアリス並みの唐突な地理を持つ、現実の道を歩いていた。
 バンダナ男はまだ大きな荷物を背負い、あかりの実家を目指して旅を続けていた。土産の賞味期限が切れてしまう。いや、そんなことより、食料がない。もう3日食べていない。土産を食べるしかないだろうか。家や道があるので人里だと分かるが、どうしても食べ物屋に行き当たらない。
 すると、コンクリートジャングルとはこのことだったのか。
「良牙? オイ」
 呼び止められて、良牙は振り返った。スーパーマーケットの袋をさげた乱馬がいた。
「乱馬! ということはここは乱馬の家!?」
「スーパーの前だよ」
「スーパーか!?」
「だよ」
 良牙はスーパーへ飛び込もうと駆け出した。が、乱馬に襟首をつかまえられた。
「そっちじゃねえって。どうした。何か買いたいのか」
「食べ物を…」
 乱馬は袋から肉マンを取り出し良牙に与えた。良牙は道端でも構わず食べ始めた。
「おめー、あんまりうろうろしてると結婚式までに迷子になるぜ」
「あかりちゃんの実家が見つからないんだ! 地図だと確かにこの辺なんだが」
 肉マンで口のはたを汚しながら、良牙はリュックから地図を出した。
 乱馬は地図を広げた。
「これ隣町の地図じゃねえか。良牙、来春までに着けるのか」
「たどりついてみせるっ」
 良牙はこぶしを握った。
「今日休日で暇だから送ってってやろうか」と乱馬が言った。
「本当か!?」 良牙は身を乗り出した。「お前、いつからそんないい奴になったんだ!?」
「おれは元からいい奴でい」
 乱馬と良牙は歩き始めた。
「買ったもんをおれの家に置いて、それからバスで行くからな」
 乱馬は言った。
 良牙は、ここから一歩も動くなと3回念を押されて、乱馬のアパートの下で待っていた。乱馬は買い物袋を置きに行った。
 良牙は乱馬が元気になったと思った。この間会ったときはまだ、影を無理に押し込めているような印象を受けたが、今日は明るく茶目っ気のある昔の乱馬だった。
 良牙の後ろで工務店から自転車に乗った女の子が出てきた。良牙はそれを視界の隅で感じていた。
 乱馬が部屋を閉め、アパートの階段を降りてきた。
 後ろの少女が大きな声を出した。
「乱馬さぁん! こんにちは」
 良牙はかなり驚いて女を見た。女は乱馬に向かって手を振った。階段の上から、乱馬もちょっと手をあげてそれに答えた。女は良牙に気付いて会釈した。
「出かけるんですか? 私もです。それじゃ」
 女は自転車で去った。乱馬が階段から降りてきた。
「行くか」と乱馬が言った。
「乱馬、あの子の声」 良牙は言った。「あの女の声、なんだ。あかねさんにそっくりじゃないか」
「ああ」
 乱馬は歩き始めた。
「誰なんだ」
「おれのつとめてる会社の、社長の娘だ」
 乱馬は曇った声で答えた。
「それだけか」
「それだけだ」
 良牙はしばらく考えていた。バス停へ来た。
「乱馬、くだらないことはするなよ」
「何だよ。何が」
 乱馬は不機嫌だった。
「いや、お前も子供じゃないんだから分かってるだろ。あの子の声もただの偶然だよな。あかねさんの代わりなんて…。どういうことかわかるだろう?」
 バスに乗り込んだ。乱馬は黙っていた。
 良牙は、自分の考えすぎかもしれないと思い、それ以上は言わなかった。バスのエンジン音がうるさすぎたせいもある。取り越し苦労だったら、乱馬にずいぶん無礼なことを言ったことになる。
 それからバスを降り、雲竜あかりの祖父の話をしたので、あかねの声を持った少女のことはうやむやになってしまった。
 乱馬はちゃんと良牙を送り届けてくれた。ブタ相撲部屋の入り口で良牙は乱馬にあがっていくようすすめたが、乱馬は断った。猛々しいブタ力士たちの、つんざくようなブギギギ! フゴゴゴ! という雄叫びが敷地内から響いていた。武道をしていたころの乱馬なら少しは相撲を見る気になったかもしれない。
 乱馬が角を曲がって見えなくなるまで、良牙は、その後ろ姿を見ていた。




 乱馬はバス停でバスを待った。だが2分待っただけで膝に置いた手の指をトントンと動かし、立ち上がった。歩いて帰ろう。乱馬は大きな車道沿いの道路を歩き出した。トラックや乗用車が乱馬を追い越して行った。乱馬は舌打ちした。
 良牙が憎かった。良牙にわかってたまるか。家族か恋人か、子供をなくしたことのある人間しか、この気持ちはわからない。死別を経験した人間しかわからない。友達づらして立ち直れだなんて、よくも言えたものだ。
 ガードレールを蹴りつけるとにぶい音がした。足の形にへこんでいた。
 良牙が心から自分を心配しているのは知っている。だが、それだけだ。うるさい。良牙は結婚するし、武道もある。しっかりしろとか頑張れとか、良牙の口から…。何に対して頑張れって。どこへ向かって。
 良牙とおれの間には決定的な次元のズレがある。おれにはそれが見えて、良牙には見えない。だからあんなことが言えるんだ。
 くだらないことはするな、だって?
「どこがくだらねえ!」
 がんっとまた別のガードレールを蹴ると、今度は紙細工みたいに完全に折れ曲がり、車道へ突き出た。金属の裂け目からペンキの中の色がのぞいた。
 乱馬は目もくれずに歩き続けた。
 あの子と会っている間だけ、全部忘れられる。麻酔みたいに辛いことや痛みを和らげ、楽しい美しい時間をくれる。たとえあとで独りのとき、普段の何倍もの絶望を味わったとしても。
 しばらくすると痙攣的に、発作的に、声を聞きたくなる。いてもたってもいられなくて、乱馬は工務店とアパートにはさまれた道路で待ち伏せをする。少し挨拶するだけでもいい。あかねの声で「乱馬さん」と呼ばれて、あかねと話すみたいになつめと話す。それだけでいい。それでしばらく幸せだ。
 乱馬はアパートの近くまで帰ってきた。いぬい工務店の看板が見えた。近づいて行くと、なつめがアパートの階段の近くで立っていた。
「なつめ」
 と乱馬は言った。
 なつめは少し笑いながら乱馬が近くへ寄るのを待っていた。気持ちを切り替えないといけない、と乱馬は思った。
「乱馬さん、これあげる」
 何か差し出した。ちょうど片手を軽くまるめたくらいの大きさの包みだった。口をリボンで縛ってある。
「友達と一緒にクッキー作ったの。美味しいですよ」
 乱馬は受け取った。
 手を差し出し受け取りながら、何も感じなかった。乱馬は他人の好意を受けつけられない精神状態だった。
 最近、なつめはまつげを長く見せる化粧をして会いにくるようになった。犬が飼い主に会うときのように、見えないしっぽを振っているみたいだった。
 乱馬は黙っていた。いけない。いつもの鬱病が出てきた。人といるのが辛い。
「どうしたの? 乱馬さん」
 なつめは乱馬をうかがった。
―――財布にあかねの写真をいれたまま、なつめに会っているのはなんのためだ?
 気持ちがガンガン沈んでどうにもならなくなるまえに、この場をやりすごさなければ。乱馬は無理矢理礼を言った。
「ありがとう。あとで食べるよ」
 乱馬はちょっと目をつぶって耳をすませた。
「どうしたの。お腹痛いの?」
 とあかねが気遣った。まぶたを閉じればそこにいるのはあかねだった。目を開けた。
「いや。ちょっと用事があるから、もう行く。これありがとうな」
 乱馬はクッキーをちょっとあげて礼を言い、アパートの階段をあがっていった。
 部屋に入って電気をつけた。テレビの前になつめのクッキーを置いた。乱馬は引きっぱなしの布団にうつぶせに寝転がってじっとしていた。
 16のとき、あかねのクッキーをもらうと、乱馬はまずくて食えないと言った。ぐだぐだ文句をつけてあかねを泣かせた。あのときちゃんと受け取って、嬉しいよありがとう、と言っておけばこんなことにはならなかった。嬉しいのを嬉しいと言わなかったから、今、悲しいときに嬉しいふりをする羽目になる。
 乱馬は布団の匂いを嗅ぎ、右手は枕をつかんでいた。
 じっと目をつぶっていた。左手のそばにはなつめのクッキーがあった。




 針金の先に金ダワシがついた、チムニーボールという掃除用具がある。乱馬は銭湯の屋根に登り、煙突にそれをつっこみ、汚れをそぎおとしていた。中の汚れは石みたいに固まっていて、清掃に2、3日はかかるだろうと言われていたが、乱馬は昔鍛えた腕力を利用して力任せに汚れを落とした。おかげでその日一日だけでその煙突は終わった。
 下の軽トラックのところへ戻ると、同僚が、
「お前、腕の力すげえなぁ」
 と褒めた。
 軽トラックで いぬい工務店へ帰りながら、乱馬は右腕に軽い疲労を感じていた。
 並みの人間よりは力はあるが今は特別鍛えているわけではないから、明日は筋肉痛だろう。高校のころよくやったように、屋根から屋根へ飛び移って近道することはもうできないかもしれない。乱馬は窓から入ってくる風にふかれながら、一番疲れている上腕二頭筋のあたりをさすった。
 トラックは工務店の入り口の段差で一度バウンドし、駐車場へ入った。
 乱馬は掃除用具の汚れをおとし片付けた。日はちょうど夕日だった。駐車場の奥の、乾家の自宅に面したところに、なつめが立っているのが見えた。乱馬は気付いたが仕事中なので行くわけにはいかなかった。
 同僚たちはなつめが乱馬を待っていることに気付いたようだ。
「なっちゃんにモテモテじゃねえか」 と乱馬をこづいた。
 もちろんそれは冗談半分のひやかしだった。
 乱馬は2階の事務所でいつものように仕事の報告をした。同僚と一緒に階下に降りようとすると、社長が乱馬を呼び止めた。
 事務所の一角をついたてで仕切って応接用のソファが置いてあるところに座るよう言われた。乱馬は落ち着かない気持ちで座った。そこに腰掛けたのは最初に面接と契約をしたとき以来だった。
 社長が向こうで何か事務員の女性と話していた。やがてついたての間から社長がやって来て、乱馬の向かいに座った。テーブルの中央にはガラスの灰皿が置いてあった。社長が書類を広げ、一息ついて、乱馬を見た。
「ご苦労さん。早乙女、どうだ、仕事は最近」
 乱馬は社長の真意をはかりかねて、
「はぁ、まぁ、ぼちぼち」
「最近煙突の仕事増えて来てるの知ってるか。この町は煙突が多いし、大口でとったらいい仕事になる」
 社長は書類をいじった。
「どうだ早乙女、今の準社員から正社員にならないか。よう仕事してくれるし真面目だから、うちはそういう人間を増やさんといかん。半年ごとに契約更新せんでもよくなる。保険もちゃんといいようになる」
 乱馬は社長の勢いに押されて、はぁ、とつぶやいた。
 東京を出てから乱馬は金が無くなるとアルバイトをして、また旅に出るという生活を続けていた。ちゃんとアパートを借りたのはここが初めてで、仕事も半年と今までで最長だ。
「どうだ。正社員になってくれるか」
 社長は一枚の書類を乱馬のほうへすすめた。乱馬はそれを見た。ノートくらいの紙に表があって、上部に「雇用契約書」とあった。
「他のところはあとで決めるから、ここの下のところに名前を書いてくれたらいい」
「ちょ、ちょっと待ってください。ちょっと…」
 社長は少し変な顔をした。
「出来れば明日印鑑を持って来てほしい。いや、これ、持って帰って書いてきてくれ」
 紙を持たされて、乱馬は事務所を出た。
 階段を降りながら、「どうすっかな」とつぶやいた。乱馬は今の仕事はそろそろ潮時だと思っていた。旅に出る時期だった。ひとところにとどまるのは性に合わないし、今まではとどまる理由もなかった。だがよく仕事が出来ると褒めてくれて、必要とされるのはいい気持ちだ。乱馬は紙を綺麗にたたんで胸ポケットへ入れた。
 駐車場へ降りてすぐ横のところになつめはいた。
 なつめは乱馬を見あげてすぐ、
「乱馬さん。ねえ、今から乱馬さんの家行ってもいい」
 と訊いた。
 乱馬はちょっと面食らって、
「なんで」
「ギョーザ作ったの! 乱馬さん、あたしの料理はきっと美味しくないっていうけど、1回も食べたことないじゃない! 今日料理の腕前を証明しようと思って。今から焼きに行ったげる」
 そのやる気にあふれた笑顔と話しぶりを見て、乱馬は、若けーなぁ…と心でつぶやいた。
「うん、まあ、ありがたいけど、今こんな汚れてるから…。30分あとで来てくれるか」
「わかりました」
 なつめは自宅へ帰りながら、ときどき振り返って手を振った。




つづく

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