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05 どこへ

 着替えて布団をたたみ、ゴミを片付け、なつめを待ちながら乱馬は雇用契約書を眺めた。サインしない理由は特に見つからなかった。きっと自分はこれにサインするだろう。契約書は部屋の隅に寄せておいた。
 だいぶ片付いたが殺風景だった。乱馬は初めてそれを気にした。もともと雨風をしのげればいいと思って借りた部屋だから、精神的に潤いのあるものは何もなかった。茶の葉もない。女を呼ぶような部屋じゃない。
 部屋の空気を入れ替えながら、座布団をたたいていると、
「こんにちは」
 と玄関から声がした。乱馬はドアを開けた。
 なつめが平たい皿を両手で持って立っていた。皿の上には餃子があって、ラップがかかっていた。
「おう。あがれよ」
 乱馬はなつめを通した。
 なつめは慣れない様子で部屋を見回していた。
「狭いだろ。悪いな」
 乱馬は言った。
「ううん。…すぐに晩御飯でいい? 台所貸してください」
 なつめは流しのところへ立って行った。
 乱馬はその後姿を見ていた。部屋を借りたときはそこに女が立つなんて考えもしなかった。
 なつめはフライパンを出して餃子をいためはじめた。ぱちぱちと爆ぜるような音がした。
 乱馬は心配で、時々なつめの手元をのぞいた。
「皿割るなよ」とか、「ラー油と醤油の違いわかるか?」と言っていると、なつめが、
「馬鹿にしてんのっ!?」
 と怒った。啖呵を切るとき声の裏返り方があかねそのもので、乱馬は驚き半分でどきどきした。
 大人しく待つことにしてテレビをつけた。
 誰かに食事を作ってもらうなんていつ以来だろう。嬉しかった。たとえまずくたって美味しいと言おう。かなりヤバい味でも美味しいと言える自信がある。乱馬はその昔、瓶いっぱいのソースを一気飲みした男である。
「乱馬さん、ご飯炊けてる?」
 なつめが言った。
「炊けてる。茶碗はそっちの棚。あ、なつめはどうする?」
「あたし家で食べて来たからいい」
 なつめが焼き餃子を運んで来た。部屋の真ん中に出したテーブルの上へ置いた。餃子は平らなフライパンの面に沿って焼きめが着いていた。赤に近いきつね色の焦げめで、2個つぶれているほかは、美味しそうだった。なつめがご飯と、インスタントの味噌汁を運んで来た。
「いただきます」
 酢とラー油にひたして餃子をほおばると、カリカリした皮の下から熱い肉汁が流れ出し、危うく火傷するところだった。にんにくが効いててうまい。
「ねえ、美味しい?」
 となつめが訊いた。
「うん、うまい」 と乱馬は白いご飯をほおばった。食べるのに一段落つくと麦茶を飲んだ。
「めちゃめちゃうまい。びっくりした。売り物みたいだ」
 なつめが嬉しそうに笑った。
「そこまでいかないですよ。餃子の作り方、自己流だもん」
 なつめは恥ずかしそうに笑った。乱馬は味噌汁をすすり、御飯を食べ続けた。なつめは乱馬の横に並んですわり、乱馬と反対側に足を曲げて横座りしていた。テレビはバラエティ番組が流れ、ニュースが終り、中国のカンフー映画が始まった。
 なつめを何時に帰すかぼんやり考えながら、カンフー映画を眺めていた。人間がふっとんだシーンで、乱馬は「実際はこんな飛び方はしない」と思ったが黙って観ていた。もう食事は終わっていた。
 テレビの後ろにはあかねの写真と手紙が隠してある。
 なつめは時々、派手なシーンで「あ」と声を出した。
 殺伐とした部屋に女がいるのはいいものだ。こうやってたまに女のことを気にしたり、誰かと一緒にいたりすることを続ければ、おれは健康になるだろう。乱馬はまだ21だった。
 だがなつめが帰ったあと、あかねを想ってひどく後悔することはわかっていた。乱馬はつかの間の安らぎを味わいながら、同時にやるのなら早くしてくれというような、処刑を待つ囚人の気持ちで数時間後の自分を感じた。
 忘れよう。そんなことは考えないでいよう。懐かしい声が聞けて、女が食事を作ってくれる。今はそれだけを味わっていよう。
「食器ながしに運んでいい?」
 と尋ねるなつめに、「おお」と乱馬は答えた。
 映画が佳境にさしかかり、なつめの帰宅が意識されるころ、なつめはあまり話さなくなった。乱馬はもっと声をきかせてくれればいいのに、と思った。
 相変わらずふたりは並んで座ってテレビを観ていたが、ふいになつめがもぞもぞと動き乱馬に近づいた。
「乱馬さん」 となつめは言った。「あたし、乱馬さんが好きです。…好き」
 うん、と乱馬はつぶやいた。
「付き合ってください」
 なつめは言った。
 乱馬はテレビのほうを見ていたが、ボリュームを下げたみたいに内容はどこかへすっとんで行った。
 急に隣の少女が女として強く意識された。
 これは告白というやつだ。女のほうから。
 今乱馬は、表面上平静をよそおっているが、心拍は倍の早さになっている。許婚を亡くしてから乱馬は恋なんてしなかった。別にあかねに操をたてているわけじゃない、したくなかったからしなかった。
 乱馬はそっと後ろからなつめの肩に腕をまわし、引き寄せた。なつめは尻を浮かせて乱馬に寄り添い、もたれた。なつめの頭のまろい重みを感じながら乱馬は、場合によってはなつめのほうが恋愛経験があるかもしれない、と思った。
 なつめを好きかどうかわからない。嫌いじゃない。美人だしいい子だ。付き合ったあとで好きになることもあるらしい。
 だが、今まで乱馬が夢中に求めたのはこの娘の「声」だ。
 それを聞くともう無条件で嬉しくなるやら切ないやら、何だってしたくなる。でもそれはあかねの声だ。なつめの個性じゃない。
 乱馬はとても迷っていた。心を楽にしてくれる、もうひとおしが欲しかった。
「なあなつめ。おれのこと乱馬って呼んでくれないか。”さん”付けやめて、呼び捨てで」
「うん」
 となつめは言った。
 乱馬はときどきなつめといるときするように、目をつむった。まぶたの裏に赤や緑の図形がまばらに浮かび、消えた。
 そうやって、今どこで何をしているのかを遠ざけて、白紙の気持ちを作る。乱馬は待った。
 不意にあかねが言った。
「乱馬」
 乱馬にはあかねが見えた。せきとめられていたものがどっと溢れ出て、あたたかい感じが乱馬を包んだ。乱馬のまぶたの裏には、5年前の日常が非常な鮮やかさでよみがえった。
 抱き寄せている女の肩、その確かな質感はあかねだったし、あかねは水色の制服を着ていた。たまに見せる照れたような表情をしていた。乱馬はチャイナ服を好んで着て、自分が世界で一番強いと思っていた。気の合う仲間と毎日喧嘩をしていた。行く先々には得体の知れないものが待ち構えていて、ギャグをまじえながら乱馬を取り巻いた。いつもそばにあかねがいた。
 この感じを逃したくない。2度と失いたくない。
「呼び捨てって変な感じ」
 腕の中のあかねが少し動いた。「乱馬さん?」
 乱馬は目をあけた。そこは自分の部屋だった。
 自分で思い出にひたると必ず最後は後悔の苦い味で終わる。だがこの子の声を聞いていると、思い出すのではなくまるで全部ここにあるみたいだ。
 この子が毎日そばにいてくれれば、と乱馬は思った。なつめがそばにいて、「乱馬」と呼んでくれれば、毎日この感じが味わえる。毎日あのころのような気持ちがする。もう寂しいことはないだろう。
 おれは格闘もやめてただの男になってしまったが、できるようになったこともある。今の自分ならどんな料理も食べられるし、一緒にいられて嬉しいよと毎日言うこともできる。あのころはそれが出来なかった。言ったら恥ずかしくて死んでしまうと思っていた。ただの言葉なのに。
 子供すぎて愛してやれなかったあかねの分まで、なつめを大切にできる。あかねへの罪滅ぼしにはならない。なつめを大切にして自己満足できるのは自分だけだ。そこに嘘があっても、あかねの声をあきらめられない。あかねの生きた声がそこにあって、話し、笑い、中身があかねでなくても。亡霊をなつめに重ねてもおれは。あきらめられない。
 乱馬は決めた。
「…なぁ。お前、髪切ったらきっと似合うぜ」
 と乱馬はささやいた。
「え、そう? 切ったことないけど。髪質がぺたんとしてるから、似合わないんじゃないかな」
「きっと似合う」
「短いほうが好き?」
「うん」
「じゃあ、一度切ってみようかな」
 乱馬となつめはそのまま恋人同士のようにしばらく身を寄せ合っていた。なつめは乱馬があぐらをかいている膝に手をのせていた。温かかった。女の髪の匂いがした。なつめはくすくす笑って、乱馬のおさげに手を伸ばした。
「乱馬さんはおさげね。弁髪なの?」
「弁髪なんてよく知ってるな」
 おさげは昔の名残でしているだけだった。
「中学のとき修学旅行で中国に行ったの。弁髪って中国のちょんまげみたいなものじゃない? もう今じゃやってる人あまりみなかったわ。私、買い物したかったのに行ってみたらすごい山奥でね、青海省っていう、奥地のほう」
 乱馬はその地名に聞き覚えがあった。懐かしい響きだ。だが、なつめの口からそんな言葉が出るとは思わなかった。乱馬が最後に中国へ行ったのは、男溺泉をとりに行ったときだ。
「随分マイナーなとこ行ったんだな」
「そうなの。で、なんとか山脈っていうすごい山奥に皆で登ってね。私一人迷っちゃったときは死ぬかと思った。たくさん泉が湧いてるところに出て、変な泉でたくさん竹みたいなのがさしてあって、私喉が渇いててその水を飲んだの」
 嫌な予感がした。乱馬は黙ってその先を待ち受けた。
「飲んだら喉がおかしくなって、私、声が変わっちゃった。どうやっても元に戻らないの。今でも別の人の声みたいって思うわ。結局皆には合流できたんだけど、あとで調べたらそこ、呪泉郷っていうんだって。ひとつひとつの泉に呪われた伝説があって、私の飲んだ泉はねえ、けっこう最近溺れた、若い日本人女性の…」
 茜溺泉、と乱馬は思った。
「茜溺泉っていう泉。私、その女の人の声になったみたい」
 乱馬は力が抜けてなつめの肩から手を落とした。放心しかけながら、ため息とも深呼吸ともつかない息が口から漏れた。そういうことだったのか。なんだ。納得する自分を他人事のように別の自分が見ていた。
 なんだおれは、と乱馬は思った。なんだ。おれはなにをしてるんだ。なつめを好きになりかけていた。なつめがあかねの声を持ってるからだ。
 例えば彼女を茜溺泉につけて、すっかりあかねにしてしまったらどうだろう。そしてあかねにしてやれなかったことを全部なつめにしてやる。おれのそばにはあかねの姿をしたなつめがいて、あかねがいるみたいにおれは振舞う。
 最悪だ。ひどい趣味だ。猿か犬にあかねの名前をつけ、それを相手にするほうがまだましだ。おれは何だ。髪を切らせ、あかねの代わりをなつめにさせて何になるだろう? 何にもならなかった。自分のなぐさめになる他は。
 おれのオナニーに彼女を付き合わせるわけにはいかなかった。
 失望があたりへ染みわたり、急に全てが見えてきた。乱馬は冷えた目で今を見回した。16才の自分はもういなかった。あるのは21才の自分と、あかねに似た女、テレビ、自分の部屋だった。
「乱馬さん?」
 と少女が尋ねた。
「ごめん」
 乱馬は離れた。「なっちゃん、おれ、なっちゃんとは付き合えない」
「なんで?」
「ごめん」
「どうして? だって、私なにか…」
「ごめん。おれが全部悪いんだ。他に好きなひとがいるんだ。なっちゃんはその女に似てたんだ」
「……」
 少女はうつむいた。
「帰ってくれ」
 乱馬は言った。
 なつめは素早い縮こまった動作で玄関へ駆けていき、靴をはいて出た。乱馬はアパートの階段を駆け下りていく足音を聞いていた。少女は泣いていたろうか。わからない。明日、なつめが置いていった皿を返さないといけない。乱馬はテレビの音量を1づつ下げていき、ゼロにしてしばらくCMを眺め、切った。
 リモコンをテレビの前へ置き、流し台へ立って行った。少し低い流し台で皿を洗った。なつめが持ってきた皿も洗った。自分の皿は拭いて片付け、なつめの皿は明日持って出やすい棚へ置いた。
 同じ棚の下の段にあった部屋の鍵を持った。ポケットの中の鍵の硬さを確かめながら玄関へ行き、自分の靴を履いていた。ふと思い出して靴を脱ぎ、部屋へ引き返して、部屋の隅の紙を拾った。乾社長がくれた契約書だ。乱馬はたたんだままの紙の上部を両手の指で持ち、縦にふたつに裂いた。ビィィィィィ。甲高い音だった。ごみ箱へ捨てた。
 電気はつけたままで部屋を出、乾工務店を横目に、乱馬はポケットに手を入れて歩き出した。
 これでいい。
 死んだ女を愛するななんて誰もおれに言う権利はない。会えるのなら今を全部投げ出してもいいと思う。でももう嘘をつくのはやめよう。あかねがまだ生きているみたいに思い込んで自分をなぐさめるのはやめよう。あかねはまだ乱馬の中で輝きを失わない。だが、もう乱馬を惑わす生々しい幻ではなかった。女神のように乱馬に高く君臨する女ではなく、遠い、楽しかった思い出にたたずむ、初恋のひとだった。
 ひとつ区切りがついた。遠ざかっていた。全部それでよかった。寂しいのはすぐ慣れる。
 乱馬は夜の国道沿いを歩き、県境まで来て空が白むと、西向きのわき道へそれた。しばらくすると朝日がまともに背中へ照りつけた。




おわり
(らんま1/2が終わり犬夜叉が始まってもらんまの代わりにはならんかったな、という気持ちを込めて)

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