Vol. 13(2000/07/W1)


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日本史/世界史の基礎知識

2000年07月第1週号 (Vol. 13)

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■今週の過去の出来事■

07月03日(月)
1549年:フランシスコ・ザビエル,鹿児島に来着する.
1883年:F.カフカ(作家)生まれる.
1608年:フランス人による北アメリカ,ケベックの建設が始まる.

07月04日(火)
1776年:アメリカの独立宣言が発せられる.
1899年:東京の新橋にビヤホール第一号が開店する.

07月05日(水)
1886年:東京電燈会社による電燈事業が開始される.
1936年:陸軍軍法会議で2・26事件の判決が下され,17名に死刑が言い渡される.

07月06日(木)
1912年:第5回オリンピック大会に日本が初参加する.
1962年:世界体操選手権大会で,日本の男子団体が初優勝する.

07月07日(金)
1783年:浅間山大噴火で,死者2万人余りに達する.
1839年:J.ロックフェラー(米,石油王)生まれる.
1887年:M.シャガール(仏,画家)生まれる.
1944年:サイパン島の日本軍が全滅する.

07月08日(土)
1582年:秀吉が始めての検地を山城国で実施する.
1815年:ナポレオンの百日天下が終り,ルイ18世がパリに戻る.

07月09日(日)
1881年:日本で最初の生命保険会社,明治生命が開業する.
1922年:森鴎外(作家)没する.

〜〜〜〜〜〜〜◆今週のコラム◆〜〜〜〜〜〜〜
<外交官小野妹子が隋に出発する>

推古15年(607年)【7月3日】小野妹子は隋に向けて出発した.
遣唐使は14回派遣されているが,遣隋使のほうは日本の文献に記されている記録では,推古朝に3回だけである.そのうち2回も正使として隋に渡ったのが小野妹子であり,当時のトップ外交官といってよいだろう.

もっとも,最初に渡ったときの「日出ヅル処ノ天子,書ヲ日没スル処ノ天子ニ・・・」で始まる国書を見て,隋の皇帝・煬帝は不快感を示したといわれている.翌年4月に帰朝した妹子も蛮夷あつかいされた答書を,帰国の途中で百済人に奪われたといって提出しなかったという.妹子の外交官としての立場もつらいものがあったにちがいない.
当時の日本は中国の文化や学問をとり入れるのに必死で,2回目は学生・学問僧を引き連れての航海だった.

中国の文化を吸収し,明治維新後は西洋の文化をも吸収した日本は,そろそろ本物の独自文化を創造する時期にきている.宗教ひとつ取ってみても,仏教が日本の風土になじむようになるのに数百年の歳月を必要とした.日本人の個性が磨かれるのは,歴史の長い営みからすれば,むしろこれからなのである.

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★今週のまとめ(日本史編)★
「テーマ:武家政治の成立と発展(1)平氏の滅亡と鎌倉幕府」

1.平氏の滅亡

平氏の一族中心の政治に貴族や寺院,武士たちが反感をいだくようになる.

1180年:以仁王・源頼政ら挙兵するが平氏の大軍に敗れる.

さらに源義仲,源頼朝らも挙兵,義経らが平氏を攻める.
1183年:平氏の都落ち,義仲の入京
1184年:一の谷の戦→ 屋島の戦
1185年:壇ノ浦の戦で平氏滅亡

2.鎌倉幕府

1192年:源頼朝が征夷大将軍となる
(以後,約700年間の武家政治の始まり)

鎌倉幕府のしくみ
 侍所 :軍事・警察
 政所 :政治一般
 問注所:裁判

守護・地頭の設置
 平氏の残党,頼朝と不和となった義経の追捕

 守護:国ごとに設置(国内の警備)
 「大犯三箇条」
 (京都・朝廷を警備する大番催促と謀反人・殺害人などの取り締まりを行う)

 地頭:荘園・公領に設置(土地の管理と年貢の取り立て)

 御家人:鎌倉殿(頼朝)と主従関係を結んだ武士→ 守護・地頭に任命

公武の二重政治

 朝廷:国司を通しての政治
 幕府:守護・地頭を通しての政治

源氏の滅亡

1199年:頼朝死亡,以後政治の実権は北条氏に移る
 源氏は2代頼家,3代実朝の約30年で滅亡する.


〜〜〜〜〜〜〜◆今週のワンポイント・レクチャー◆〜〜〜〜〜〜〜
<悲劇の英雄・源義経?>

自分は鎌倉から一歩も動かず,弟の義経に平氏討伐を行わせ,後に義経追討を発した頼朝は非情の将軍,それに対して義経は悲劇の英雄のように語り継がれてきたが,頼朝と義経の対立は2つの背景をぬきにして理解することはできないだろう.ひとつは武家政治の産みの苦しみから生じた悲劇であったということ.あとひとつは公武の二重政治が生み出した悲劇であったということである.

武家政治を確立させるためには,頼朝は何よりも主従関係を第一に考えた.兄弟同族を優先させた勝手な振る舞いは,平氏滅亡の教訓からして避けなければならず,義経も御家人のひとりとして扱わざるをえなかったのである.さらに頼朝は,御家人が京都の朝廷や公家に近づくことを危険と感じていた.

義経は後白河法皇から「左衛門尉検非違使」に任ぜられた.頼朝の承認なしに与えられたこの地位は,いわば法皇の巧みな策動といえる.頼朝と義経は,時代の大きな変化の当事者でありながら,その大きな流れにのみ込まれていった犠牲者でもあったといえる.

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■練習問題にチャレンジ■

【問題】次の表の(−−−)に適当な語を記入しなさい.

1185年:(−1−)で平氏滅亡.
1189年:奥州の(−2−)を討って全国を統一.
1183年:源頼朝の東国支配権を(−3−)法皇が承認.
(−4−)年:御家人を守護・地頭に任命する権利を獲得.
1192年:源頼朝が(−5−)大将軍となる.
侍所:長官は(−6−)
(−7−)(後に政所と改称):長官は大江広元
問注所:長官は下級貴族の(−8−)


【正解】
1.壇ノ浦 2.藤原泰衡 3.後白河 4.1185
5.征夷  6.和田義盛 7.公文所 8.三善康信


以上で今週は終わりにします.
来週は「世界史編」をお送りする予定です.
お楽しみに.

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Vol. 14(2000/07/W2)


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日本史/世界史の基礎知識

2000年07月第2週号 (Vol. 14)

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★今週のまとめ(世界史編)★
「テーマ:ヨーロッパ世界の発展(1)絶対王政」

近代のヨーロッパ世界の推移

 15〜16世紀:近代化への芽ばえ(ルネサンス・宗教改革)
 16〜17世紀:絶対主義の政治(国王の専制政治=絶対王政)
  絶対主義は中世から近代への過渡期に出現,封建社会の最終段階
  近代初頭の政治形態
   ↓
 17〜19世紀:近代市民社会の形成・発展(市民革命・産業革命)

絶対主義の政治

 背景:都市・商工業の発展
      ↓
 封建社会を支えていた諸侯の勢力が弱まる
 (重税による農民の逃亡・一揆,領主支配が生産・流通の妨げとなる)
      ↓
 国王による統一 → 商工業の発展をうながす
 国王は大商人と結んで,諸侯をおさえ中央集権の政治を実現させる.
      ↓
 国王に直属の常備軍の設置,国王の命ずる官僚組織の設置
 国王の専制政治⇒ 王権神授説

重商主義の経済

 絶対主義を経済的に支える基盤
 商業の発展⇒ 貨幣経済の普及
 大商人を保護⇒ 金・銀の採掘・貯蔵
  ↓
 工業をおこし,貿易をすすめる
  ↓
 輸入品の関税を引き上げ,輸出品の税を軽減⇒ 差額を利益とする

イギリスの絶対主義

 16世紀後半:エリザベス1世

  中央集権政治を強化
  カトリック教徒を屈服させ,国教を確立(国王が聖職者を任免)
  スペインの無敵艦隊を破る
  アメリカ・インドへの海外進出が盛んになる
  1600年:東インド会社を設立

フランスの絶対主義

 17世紀後半:ルイ14世「朕は国家なり」「太陽王」

  財務長官コルベールによる重商主義政策の実施
  アメリカ・アジアへの海外進出
  1664年:東インド会社を設立
  バロック式のヴェルサイユ宮殿(1万人収容可能)の完成
   ↓
  ヨーロッパの政治・外交の中心

華やかな宮廷生活・宮廷文化

 フランス
  コルネーユ,ラシーヌ,モリエール(劇作家)

 イギリス
  シェークスピア:「ハムレット」「オセロ」「マクベス」「リア王」
  ミルトン:「失楽園」
  デフォー:「ロビンソン漂流記」
  スウィフト:「ガリバー旅行記」


〜〜〜〜〜〜〜◆今週のワンポイント・レクチャー◆〜〜〜〜〜〜〜
<イギリスとアイルランド>

16世紀後半のエリザベス1世の時代,イギリスはフランス・スペインとならんでヨーロッパの大国となった.しかし王室の根城となったのは,イングランドやウェールズであり,北のスコットランドや西のアイルランドは,その従属下におかれて差別をうけた.

12世紀以来,イギリス王室はアイルランドの征服につとめてきたが,エリザベス1世は20万エーカー以上の土地を没収してイギリスの貴族や貿易商人に与えた.さらにジェームズ1世は,300万エーカーを分配し,1605年にはカトリックの布教が禁止された.またアイルランドにおける工業の発展を制限する法律が出された.

清教徒革命後も,この方針はひきつがれ,クロンウェルらは兵士たちにアイルランドの土地を与える約束をした.クロンウェルはアイルランドに出兵し,占領した土地から住民を追い出し,逃げ残ったものを奴隷として海外に売り,ゲリラを餓死させるため穀物や耕地を焼き払った.このためアイルランドの人口は半減したという.

その後もアイルランドは,イギリス資本主義の植民地として莫大な資本と労働力を提供することになった.イギリスに対するアイルランド人の敵意は今日でも尾を引いており,その対立は歴史的に根の深いものがあるのである.

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■練習問題にチャレンジ■

【問題】次の文は,ヨーロッパの16〜17世紀について述べたものです.(−−−)に当てはまることばを書き入れなさい.

ヨーロッパでは16世紀の後半から17世紀の後半にかけて,封建社会の最後の段階が現われた.この段階では,国王は諸侯をおさえ,大商人と結んで国内を統一し,その権力を支えるため,強大な(−1−)と官僚をもった専制的な政治を行った.この政治を(−2−)という.国王は,これらの費用をまかなうため,(−3−)という経済政策をとり,また国王の権力を示すために(−4−)説が振りかざされた.この段階の絶頂を示したのが,イギリスでは女王(−5−)の時代であり,フランスでは(−6−)の時代であった.


【正解】
1.軍隊 2.絶対主義 3.重商主義 4.王権神授説 
5.エリザベス1世 6.ルイ14世


以上で今週は終わりにします.
来週は「日本史編」をお送りする予定です.
お楽しみに.

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Vol. 15(2000/07/W3)


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日本史/世界史の基礎知識

2000年07月第3週号 (Vol. 15)

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★今週のまとめ(日本史編)★
「テーマ:武家政治の成立と発展(2)北条氏の政治と承久の乱」

1.北条氏の政治

執権政治:京都から名ばかりの将軍を迎え,執権として政権を握る.
     北条一族が幕府の要職を独占する.

承久の乱
 背景:源氏の滅亡,守護の諸国支配,地頭の荘園侵略
    朝廷・貴族に不安がつのる.

後鳥羽上皇の討幕計画

1221年:執権北条義時の追討の院宣を全国に発し,挙兵する.
     ↓
 幕府側の勝利に終わる.

 反乱の計画者を処罰
  後鳥羽上皇→ 隠岐に流罪
  順徳上皇→ 佐渡に流罪
  土御門(つちみかど)上皇→ 土佐に流罪

  院の近臣・武士の領地を没収 ⇒ 朝廷・貴族の勢力が衰える
   ↓
 幕府側のてがらのあった武士を地頭に任命する⇒ 執権政治の確立
 畿内・西国の公領・荘園にも支配権が及ぶようになる.
   ↓
 朝廷と幕府の二重政治から,鎌倉幕府が全国政権として確立する.

六波羅探題の設置

 北条氏の世襲
 京都の警備,朝廷の監視
 三河以西の西日本の武士を統制

御成敗式目(貞永式目)の制定

 執権北条泰時のとき
 武士の訴訟を裁く,武士政治をかためる
 武士がつくった最初の法律,51か条から成る
 頼朝以来の武士のしきたり
 守護・地頭などの心得,主従関係・領地相続など

評定衆の設置

 2代将軍のとき以来の合議制を制度化
 北条一族を中心に,有力な御家人や公家などで構成
 以後,鎌倉幕府の最高決議機関となる.


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〜〜〜〜〜〜〜◆今週のワンポイント・レクチャー◆〜〜〜〜〜〜

<承久の乱>

鎌倉幕府の節目となる事件は「承久の乱」と後でとり上げる「元寇」の2つ.前者は,源氏滅亡後の幕府の存亡にかかわる事件であり,後者はその後の幕府の衰退を促がす事件となった.

鎌倉幕府が成立した後も,京都では院政が行われていた.京都では後白河法皇の死後は,源頼朝に親しかった九条兼実が摂政・関白となって京都政権を主導していたが,その後は反鎌倉の立場にたつ後鳥羽上皇が実権を握った.荘園に侵入してくる地頭への反発から上皇の反鎌倉の態度はさらに強まり,実朝の死をきっかけに,執権北条義時の追討を全国に発し,鎌倉幕府打倒の戦いを開始した.

しかし,戦いは上皇の期待に反し,京都側についたのは院の武士をはじめ,ほとんどが京都にいる武士だけで,畿内の大社寺の僧兵たちはこれにくみしなかった.いっぽう幕府側は,政子の大演説で御家人の一致団結に成功し,北条義時はその子泰時を大将として大軍を京都に向けた.幕府軍は,木曽川・宇治川の京都防衛線を突破し,鎌倉出陣以来20日あまりで京都を制圧したのである.

後鳥羽上皇は,乱の責任は院の武士にあるとし,以後は鎌倉幕府の意向に従うと申し出たが,聞き入れられず隠岐に流され,さらに乱に参加した院の近臣や武士たちの荘園・領地3000余か所も没収され,乱の鎮圧に戦功のあった関東の御家人たちをその没収地の地頭とした.このときの御家人たちを,1185年以来の地頭(本補地頭)と区別して新補地頭という.


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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜◆今週のコラム◆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<北条政子の一生一代の大演説>

承久の乱は,鎌倉幕府にとっては危急存亡のときであり,一歩誤れば幕府の倒壊はさけられなっかった.

頼朝の妻,北条政子は頼朝の死後出家して尼となったが,2代将軍頼家を補佐して「尼将軍」とよばれた.北条氏追討の院宣が発せられたことを知った政子は,庭を埋めつくした武士たちに向かって逡巡と説いた.

政子の演説は,居並ぶ御家人たちに,幕府ができる前までの武士のみじめな暮らし振りから始まったという.国では国司に,荘園では領家にこき使われ,そのうえ朝廷や院の警備のために3年もの奉仕が要求されていた.その頃の苦しい生活に較べたら幕府が御家人たちに与えた利益ははかりしれない.いま幕府が敗れれば,かつての苦しい生活にふたたび陥ることは必定である.

政子の訴えは御家人たちの胸に深く食い入った.武士たちは,彼ら自身の生活防衛と,頼朝以来の主従関係,武士相互の連帯感という精神的な「武器」を与えられたのである.そして彼らは,続々と京都へと出陣していったという.


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以上で今週は終わりにします.
来週は「世界史編」をお送りする予定です.
お楽しみに.

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Vol. 16(2000/07/W4)


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日本史/世界史の基礎知識

2000年07月第4週号 (Vol. 16)

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★今週のまとめ(世界史編)★
「テーマ:ヨーロッパ世界の発展(2)市民革命」

市民革命の背景

 絶対主義への反発
  絶対主義 → 貴族・大商人(商業資本家)を特別に保護する政策
  産業の発達→ 新興の商工業者(中流市民)の成長
         農民や民衆の支持を集める

 自由を求める市民革命
  市民(産業資本家)を中心とした革命 ⇒ 民主主義への道

イギリスの市民革命

 17世紀初頭
  チャールズ1世:議会を開かずに重税をかける→議会と対立
  ↓
1628年:「権利請願」を可決

 議会の権利を国王に認めさせる.
 しかし国王はこれを無視し重税をかける.
 さらに国教(ローマ教会から分離したイングランド教会)を強制する.
  ↓
 商工業者や地主たちは政治・経済の自由を主張
 国教に反対する清教徒(ピューリタン)
  ↓
1642年:清教徒革命

 クロンウェルが軍を指揮し国王軍を破る.
 議会側の勝利→ 国王の処刑・上院と王政を廃止し共和政を実施

1653年:クロンウェルは議会を解散し独裁政治を行う.
  ↓
1660年:王政復古

 クロンウェルの死後,政治の安定を求める声が強まる.
 フランス亡命中のチャールズ2世を国王として迎える.
 次いで王位についたジェームズ2世は専制政治を強める.
  ↓
1688年:名誉革命

 議会は国王を追放,オランダからウィリアム3世を迎える.
  ↓
1689年:「権利章典」を可決

 税金・徴兵・軍事的支出などについては議会が決定権をもつ.
 国王の権利を制限 ⇒ イギリスの絶対主義の終り

議会政治のおこり

 18世紀:イギリスの議会政治
 政党内閣が議会に対して責任をもつ政治

 国王は「君臨すれども統治せず」


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〜〜〜〜〜〜〜◆今週のワンポイント・レクチャー◆〜〜〜〜〜〜

<名誉革命>

クロンウェルの死後,イギリスの共和政はくずれた.1660年,チャールズ2世が即位して王政復古が行われた.貴族制度と国教会が復活されるなど,反動的な動きが大きくなり,清教徒革命の成果はしだいにつみとられて,ふたたび絶対主義王政がつくられようとした.1685年,チャールズ2世が没し,弟のヨーク公がジェームズ2世として王位につくと,旧教政策がすすめられ,議会の反対をおしきって王の直轄する常備軍の増強をはかるなど,専制政治復活の危険が大きくなった.

イギリス国民は王に愛想をつかした.1688年,議会はオランダのウィリアムに招請状を送ったので,ウィリアムはイギリスに上陸し,ジェームズ2世はフランスに逃れた.1689年,議会はジェームズ2世の廃位を決定し,ウィリアムとメアリー(ジェームズ2世の長女)を王として迎えた.これは血を見ずに行われたので,イギリス人は名誉革命とよんでいるが,国民の参加はなく,いわば支配階級の政争,無血クーデターの一種といえる.ただし,その後のイギリスの議会政治をうみだす大きな礎となったことは確かだ.

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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜◆今週のコラム◆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<議会政治のおこり>

王政復古後のイギリスの議会に,しだいに,地主・貴族・大商人を中心にして国教の擁護を唱えたトーリー党と,産業市民層を中心にして議会主義・王権制限を唱えたホイッグ党がおこった.18世紀はじめには,議会で優勢を占めた政党が,内閣をつくって政治を行うようになった.

やがて,国王は内閣に出なくなり,内閣が下院の信任によって組織する責任内閣制度が整っていった.しかし,この議会政治はまだ多分に地主や貴族の勢力の強いものであった.上院は,貴族と国教会の監督で構成され,下院(ふつう議会といわれるのはこの下院を指す)は,各州から選ばれる2名ずつの議員で構成されていた.

いまだ大多数の国民には選挙権はなく,議員を選挙する資格のある者は相当の財産をもつものに限られ,投票は秘密でなく,しばしば投票権をめぐって買収が行われていたそうだ.本場イギリスの議会政治も,はじめの頃は民主主義とは名ばかりの政治だったのだ.日本の政治レベルは,いまだにその段階にとどまっているといえるかもしれない.

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以上で今週は終わりにします.
来週は「日本史編」をお送りする予定です.
お楽しみに.

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