Vol. 17(2000/09)


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日本史/世界史の基礎知識

2000年09月 (Vol. 17)

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★今週のまとめ(日本史編)★
「テーマ:武家政治の成立と発展(3)鎌倉時代の文化−1」

1.鎌倉時代の文化の特色

 貴族文化の伝統と武家文化の成長
 仏教の新しい動きと中国の宋文化の影響
 鎌倉文化はこれら4つの面が組み入れられていくところに特徴がある.

2.新しい仏教

新しい宗派のおこり

 あいつぐ戦乱と末法思想のひろがり
 世のはかなさと不安感・無力感が人々の心をとらえる
 従来の仏教は難解 → わかりやすい仏教信仰を求める

浄土宗・浄土真宗・時宗

 法然:浄土宗(阿弥陀仏にすがって「念仏」を唱える)

  念仏:「南無阿弥陀仏」→ 浄土への救いを求める(浄土信仰)
  ||
  |↓
  |親鸞:浄土真宗(他力本願:阿弥陀仏の力にすがる)
  |   『教行信証』を著わす.
  ↓
  一遍:時宗(欲望と執着をすて,ただ念仏に心をまかせる)

日蓮宗

 日蓮:日蓮宗(法華宗)
    法華経の功徳を説く:「南無妙法蓮華経」
    『立正安国論』を著わす.

臨済宗・曹洞宗

 中国の宋から禅宗を伝える(栄西:臨済宗,道元:曹洞宗)
 坐禅による修行を重視

 武士の気風に合い,武士のあいだに広まる.

 臨済宗 → 鎌倉幕府の保護を受ける
  鎌倉に建長寺(北条時頼),円覚寺(北条時宗)を建立

 道元:越前の土豪の招きに応じて永平寺を開く.
    『正法眼蔵』を著わす.


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〜〜〜〜〜〜〜◆今週のワンポイント・レクチャー◆〜〜〜〜〜〜

<鎌倉仏教のおこり>

平安中期以来の「末法思想」(キリスト教でいう「終末論」)は,政治の混乱・戦乱・風水害・飢餓の連続でますます受け入れられていくようになり,貴族ばかりでなく,武士・庶民にまで人生の「無常」(常でない→全ては変化・衰退していく)の自覚をうながすようになった.

また一方では,戦乱の連続で,常に生死の戦場にある武士には,人を殺さなければ生き残れないことから,生きることは人を殺すことという罪の自覚が生じてきた.こうした人生の無常感と罪の自覚が,宗教に救いを求める傾向を助長したといえる.

そのようなときに,山奥に庵を結んだり,市井に隠れて修行する聖(ひじり)・上人(聖人)とよばれる人々が現われ,念仏三昧や法華読踊をしたり,坐禅を行ったりして,旧仏教にみられない純粋な信仰が,民衆へ大きな感化をおよぼしたのである.

鎌倉新仏教はこのような時代状況のなかで形成され,やがて念仏・法華・坐禅の3教団が成立することになる.


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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜◆今週のコラム◆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<悪人正機>

親鸞は,常陸(茨城県)稲田に居を定め,常陸・下野(栃木県)・下総(千葉県)などに布教し,かなりの信者を得た.信者には土民といわれた農民や,名主や商工業者や幕府に仕える武士もいたようだ.

親鸞が最も強調したことは,自分たちは末世の人間であり,悪人であるということだった.彼は,仏教で禁止されている殺生をしなければ生きていけない武士や猟師や漁師,安いものを高く売らなければ暮らしが成り立たない商人などの心に,深い理解を示したのである.

これまで彼らは,自分の行為を罪深いものと思い,救われないと考えていたのに対し,親鸞は,生きていくためにそういった罪を犯すことは生前から決まっていたことであり,むしろ自分を悪人と自覚すれば,弥陀の教えを正しく信ずることができるのだと説いた.

それは「善人なおもて往生をとぐ,いわんや悪人をや」という有名な彼の言葉に端的に示されている.


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以上で今週は終わりにします.
次回は「世界史編」をお送りする予定です.
お楽しみに.

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Vol. 18(2000/10)


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日本史/世界史の基礎知識

2000年10月 (Vol. 18)

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★今週のまとめ(世界史編)★
「テーマ:ヨーロッパ世界の発展(3)アメリカ合衆国の成立」

イギリス人の殖民
 17世紀始めに北アメリカの東海岸に殖民

清教徒の移住
 政治・信仰の自由を求める清教徒→ 植民地開拓の中心
 メイフラワー号(1620年)

18世紀中ごろ:13州の植民地
 農業開拓と商工業の発展
 自由・独立の精神→ 民主的社会の建設

イギリス本国の圧迫
 本国の政策:植民地の自治を認める,しかし本国の利益を守る.
 (植民地は本国への原料供給地,本国製品の市場.)
   ↓
 植民地の商工業を制限
 植民地から輸入された商品に輸入税
 植民地に重税(印紙法・砂糖条例)
   ↓
1773年:ボストン茶会事件

1775〜83年:独立戦争
 イギリス本国の圧迫→ 13州の団結
 ワシントンを総司令官とする独立戦争の始まり

1776年:独立宣言
 ジェファーソンらが起草(自由・平等の理想を宣言)

1783年:アメリカ合衆国の成立
 独立軍は当初苦戦するが,フランス・スペイン・ロシアが支持する.
   ↓
 イギリス本国の承認→ アメリカ合衆国が成立
 初代大統領:ワシントン
 三権分立:立法・行政・司法の分権
 連邦共和制:各州の自治を尊重

 しかし,南部の奴隷制はそのまま残る.


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〜〜〜〜〜〜〜◆今週のワンポイント・レクチャー◆〜〜〜〜〜〜

<独立戦争>

1774年9月,13の植民地の代表がフィラデルフィアで大陸会議を開き,本国政府の課税に対して植民地の自治を求めた.しかし,本国の回答は反逆に対する非難と,一層の弾圧政策であった.このため,本国軍隊の暴力に対抗して,武力によって独立を獲得しようとする方針を決定した.こうして1775年,ボストン郊外で起こった武力衝突を契機に独立戦争がはじまった.1776年,植民地軍は独立の理由と理想を明らかにした独立宣言を発表した.

植民地軍は,武器・食料も不足し,訓練も十分でないため苦戦を続けたが,ヨーロッパの自由を愛する人々の支持をうけ,後のフランス革命で活躍したラファイエットや,社会主義者サン・シモン,ポーランドの革命運動指導者のコシェーシコらは,義勇兵を率いて植民地軍を助けた.また,ロシア・プロイセン・デンマーク・スウェーデン・ポーランドは,イギリスが中立国の船を圧迫したことに対抗して,独立軍を支持した.

植民地は,多くの国際的支援を背景にゲリラ戦術を用い,1781年ついにイギリス軍を破った.そして1783年,パリで平和条約を結び,イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めたのである.

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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜◆今週のコラム◆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<ボストン茶会事件>

イギリス本国は,財政難を打開するために,さまざまな方法で植民地からの収奪を続けた.1765年「印紙条例」を発し,新聞・文書・パンフレットにまで印紙税をかけた.植民地では,議会に代表を送れないのに課税されることはないと反対した.本国は印紙税を撤廃するかわりに,東インド会社に植民地の茶の専売権をあたえた.これは植民地の茶商人に打撃をあたえるだけでなく,他の商品にも及ぼされるであろうと植民地の人々の憤激をかい,反英感情がいっきに広まった.

1773年12月,東インド会社の船が茶を積んでボストン港に入った.ボストンはつねに本国の植民地圧迫政策に対して,抵抗の先頭に立っていた.ボストン市民は大会を開いて,茶の陸揚げをあくまでも阻止すると決議した.しかし茶の陸揚げを強行しようとしたため,「自由の息子たち」という反英運動を続ける団体の若者たちが,インディアンに変装してイギリス船に近づき,茶箱を海中に投げ込んだ.これは,イギリス本国に対する植民地アメリカの最初の実力行使による反抗であった.

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以上で今週は終わりにします.
次回は「日本史編」をお送りする予定です.
お楽しみに.

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Vol. 19(2000/11)


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日本史/世界史の基礎知識

2000年11月 (Vol. 19)

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★今週のまとめ(日本史編)★
「テーマ:武家政治の成立と発展(4)鎌倉時代の文化−2」

1.鎌倉時代の文学と美術

 平安時代の文学:宮廷・貴族の生活を描いた優雅な物語文学
      美術:抒情的で唯美的な作品が中心

 鎌倉時代の文学:武士を主人公とする勇猛果敢な軍記物など
      美術:写実的で力強い作品が作られるようになる

2.和歌と軍記物

和歌:伝統的な貴族の文化

 後鳥羽上皇は宮中に和歌所を設置
 1205年:『新古今和歌集』(藤原定家らが編纂)
      現実に背を向け,技巧的で無常感がただよう美しさ.

軍記物:勇ましい合戦の様子を描く
 人間の運命のはかなさなど悲劇的な要素も含まれている.

 『平家物語』:平氏の盛衰,平清盛や源義仲・義経などを描く
 (『保元物語』『平治物語』『源平盛衰記』など)

 軍記物は琵琶法師によって語り継がれ,広く普及する.

歴史書と随筆

 『愚管抄』:僧慈円 (仏教の立場からの歴史の理論)
 『方丈記』:鴨長明 (人間の運命のはかなさの記録)
 『徒然草』:吉田兼好(仏教思想を背景とした随筆)


3.鎌倉美術

建築:宋から新たな建築様式が伝わる

 天竺様:巨大な木組みの美しさ→ 東大寺南大門
 唐 様:勾配の強い屋根と簡素な美しさ→ 円覚寺舎利殿

彫刻:写実的で力強い作品

 運慶と快慶の合作「東大寺南大門金剛力士像」

絵画:

 絵巻物の全盛:戦乱の物語や名僧の伝記などが描かれる
 似絵:肖像画も多く描かれるようになる


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〜〜〜〜〜〜〜◆今週のワンポイント・レクチャー◆〜〜〜〜〜〜

<軍記物と随筆>

鎌倉時代には,武士の中央への登場を反映して,合戦を主題とした物語(軍記物)が数多く著わされた.そこには,主君や一族のために死をも恐れずに手柄を立てようとする働き,荒々しい行動などが,平安時代の文学には見られない新しい人間像が描かれると共に,戦争のもつ運命の悲哀が人々の心を打った.

保元の乱・平治の乱を主題として,源為朝や源義朝を悲劇の主人公とした『保元物語』『平治物語』が出された.また,源平の合戦や平氏の盛衰を描いた『平家物語』『源平盛衰記』が著わされたのもこのころである.

ことに『平家物語』は,富士川の合戦から壇ノ浦の合戦にいたる源平の戦記を中心にしながら,戦争にともなう男女の悲運や神仏の罰の恐ろしさなどが描かれ,仏教的な無常感が貫かれており,その流麗な文章は,琵琶法師によって広く各地に伝えられた.

いっぽう,貴族の伝統的な文化を受けつぎながら,京都の世俗を避け,山中に隠住して世相を描いた随筆も著わされた.その代表作に『方丈記』『徒然草』がある.

『方丈記』は1212年,鴨長明によるもので,人間の運命は流れ行く水の泡のようにはかないものであるという書き出しで始まり,戦乱・地震・火災・飢饉などの災いの記録をつらね,最後には京都の山中のこの草庵(方丈)も安心できないという無常感を著わしたものである.

『徒然草』は吉田兼好の著で,仏教思想を背景としながらも,平安の王朝の世にあこがれながら,現実の武士的人間像にも共鳴するという矛盾と柔軟さをもった自由さで,人生や社会を描いた随筆で,1330年ころに成立したといわれている.


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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜◆今週のコラム◆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<鎌倉の大仏>

鎌倉の大仏は,東大寺の大仏とは異なり,阿弥陀如来の像である.大仏は1243年に最初は木造として完成したが,やがて1252年に現在の形に改鋳された.もとは大仏殿があったが,室町時代に倒れたまま,その後は露座になった.高さ11メートル余のこの大仏は,鎌倉時代の彫刻の代表作でもある.

このような大仏が建立されるためには,武士たちの大きな援助が必要だったであろう.浄土宗の開祖である法然(源空)の信徒の中にはもともと武士が多かったが,後の弟子の然阿が鎌倉にくるにおよんで,東国の浄土宗は一気にさかんとなり,北条氏の一族の中にもしだいに浄土宗の教えに従うものが多くなった.鎌倉の大仏は,こうした東国に広まった浄土宗の信仰の記念碑でもあるのだ.


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以上で今週は終わりにします.
次回は「世界史編」をお送りする予定です.
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Vol. 20(2000/12)


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日本史/世界史の基礎知識

2000年12月 (Vol. 20)

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★今週のまとめ(世界史編)★
「テーマ:ヨーロッパ世界の発展(4)フランス革命」

フランス革命

絶対主義への不満

 18世紀:絶対主義が続く
 贅沢な宮廷生活と度重なる戦争→重税と経済統制
  ↓
 農民や市民の苦しみが増大

啓蒙思想

 絶対主義への批判
 モンテスキュー:『法の精神』三権分立を主張
 ルソー:『社会契約論』人民主権を強調

1789年:三部会の再開

 ルイ16世:財政危機の打開をはかろうとする
 フランスの議会(三部会):貴族・聖職者・市民と農民
 貴族と聖職者は人口の10%に過ぎないが,土地の70%をを支配していた.

フランス革命

 市民:自分たちが国民の代表→ 国民議会を開く
 1789年:バスチーユ牢獄を襲撃→ 市民や農民たちが立ち上がる

 人権宣言を発表:国民の自由・平等の権利,国民主権を明記

 革命後の政治
 王政の廃止→ 共和制,国王の処刑
 土地の解放,選挙法の改正など→ 急進的な改革が試みられる
  ↓
 外国の干渉,貴族の反動の動き→ 不安定な国内情勢が続く

ナポレオンの登場

 国内の安定化,外国の干渉を排除
 1804年:皇帝に即位
 軍事的な専制政治

 ナポレオン法典:近代法の基礎を築く
 道路・港湾の整備,商工業の発展をうながす
  ↓
 領土の拡大:外国遠征→ 近隣諸国・民族の抵抗

 1814年:ウィーン会議
 ナポレオンによる戦争と混乱の後始末
 革命前のヨーロッパに戻す→ 近代民主政治の後退


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〜〜〜〜〜〜〜◆今週のワンポイント・レクチャー◆〜〜〜〜〜〜

<ナポレオンの登場>

フランス革命は紆余曲折をきわめ,1795年には資本家階級が政権を握り,議会の推す5人の総裁によって行政権が執行される総裁政府が樹立された.このころ国内の物資は不足して物価は高騰し,右派と左派の反乱も相次ぎ,政情は不安定であった.

1796年には,総裁政府はオーストリアと開戦したが,このときナポレオンはイタリアを攻撃し,多くの財貨を略奪して総裁政府の財政難を救った.その後,イギリス・ロシア・オーストリアなどが対仏同盟を結んでフランスに迫った.ナポレオンは1799年,総裁政府を退けて3人の頭領からなる頭領政府を樹立し,その第1頭領となって全権を握り,共和制の名のもとに軍事的独裁政治を行い,ついに1804年に皇帝となった.

ナポレオンはフランス銀行を設立し,道路・港湾の整備を行い,商工業の発展に努めて,フランス資本主義の発展に貢献した.また「ナポレオン法典」を完成して近代法を体系づけた.さらに対外進出政策をとり,イギリスを除いてヨーロッパ大陸のほとんどを征服した.

しかし,フランス軍の占領下の各地で,ナポレオンの支配に対する民族的な抵抗がおこり,1812年,ロシアへの遠征に失敗して,翌年には反仏の連合軍に破れ,ついに没落したのである.

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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜◆今週のコラム◆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<バスチーユ牢獄の襲撃>

フランス革命の発端となったのが,民衆によるバスチーユ牢獄の襲撃だった.

パリの東部に石造りのバスチーユ牢獄が,町を見下ろすようにそびえている.1789年7月14日の早朝,多くの民衆が手に手に斧や刀や鉄砲など手当たりしだいの武器を取って城のような牢獄を取り囲んだ.パリ中の鐘が鳴り,人々は「バスチーユ」と叫んだ.1万,2万と民衆の数はしだいに増えていった.

「跳ね橋をおろせ」「大砲を引っ込めろ」と人々は声高に叫んだ.司令官ドローネは,国王の命令がない限りだめだと答えた.だれかが「大砲が要る」と叫び,人々は市役所から大砲を引っ張ってきた.酒屋の主人がこの大砲を撃った.

一人の大工がするすると石塀をよじ登り,牢獄への侵入に成功した.なかから跳ね橋が降ろされ,民衆はどっと牢獄の外庭になだれ込んだのである.内庭の門を守っていた兵士が白旗を立てた.ついにはパリの守備隊も攻撃に加わり,とうとうバスチーユは民衆に占領されたのである.

民衆や市民が政治を動かし,歴史を大きく変えるということが,近代のヨーロッパでは起こり,イギリス,フランス,ドイツへとその動きは波及していった.それは,民主主義というものが制度として確立し,精神として根付いていくための産みの苦しみを伴うものだったのだ.

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以上で今週は終わりにします.
次回は「日本史編」をお送りする予定です.
お楽しみに.

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