for BAND PEOPLE
風の中で
輝尾 雲夢
1.浪漫堂
町外れの国道沿いの十字路の一角にその建物はあった。少年はその建物のドアをやや緊張した面持ちで開けた。その建物の名前は「浪漫堂」といった。
少年の名は日高真人という。公立中学に通う三年生である。彼はごくごく普通の中学生である・・・ただ、唯一特殊な点があるとすれば彼が吹奏楽部に入っていたことだろうか。彼はその中学の吹奏楽部でクラリネットを吹いていた。
真人がドアを開けるとそこには彼がかつて経験したことのないような空間が広がっていた。赤レンガの壁に板張りの床、真ん中にすえられた古びたグランドピアノ。かつて流行ったという「ジャズ喫茶」を思わせる内装であった。事実、浪漫堂は 以前「ジャズ喫茶」なるものだったという。しかし今では学生に無償で開放されているただのスタジオで、真人もそれを目当てに来たのだった。
「すいません・・・。使っていいですか・・・・・」
真人は奥のカウンターにいる一人の男に声をかけた。それがこの浪漫堂のオーナー、藤原大二郎だ。藤原大二郎はこの町ではなかなかの名士で、親の遺産の賃貸マンションの家賃収入のみで生活している男だ。ちなみに独身である。
「ああ、かまわんよ。ただ、使うときはこの使用記録帳に名前を書いておくれよ」
「はい」
少し緊張しているらしくどこかぎこちない返事だ。
というのも、藤原大二郎は変質者だ、というのがこの町の常識だったからだ。この町の親は藤原大二郎のいるこの浪漫堂には近づくな、と教育していたし、真人の親もその例外ではなかった。だから浪漫堂を使う学生というのはよっぽどの音楽好きか、勇気のある人間に限られていた。
スタジオといっても、もとはただの喫茶店である浪漫堂は中学の教室の2倍程度の広さしかなかった。
浪漫堂の広さなどは気にせず、真人はさっそくケースからクラリネットを出して組み立てはじめた。そしてリードケースからリードを出して口にくわえようとしたとき、不意に彼はグランドピアノに誰か座っていることに気づいた。少年だ。自分と同い年ぐらいだろうか。結構かっこいい。しかしそれより彼が気になったのはその少年の目だった。まるで魚か何かのように死んでいるような目をしている。
「藤原啓太、私の甥・・・もっとも今は私の子だがな」
「えっ?」
少年の目に見入っていた真人を不意に藤原大二郎の声が突いた。
「啓太は五年前に両親を亡くしてね。今は私が面倒を見ているんだ」
「はぁ」
「君と同じ中学三年生だ。仲良くしてやってくれよ」
真人はあっけにとられたような気分にならずにはいられなかった。変態の藤原大二郎が両親を亡くした甥っ子の面倒を見ている・・・。それだけでも真人にとっては衝撃的な、一大センセーションを巻き起こすような出来事であった。
それにしても啓太のあの印象的な目・・・。病気のようにもみえた。しかしそれ以外の何か・・・何かはよくわからなかったがとにかく真人は啓太に不思議なものを感じた。それを「運命」と呼ぶことを知ったのは真人がもっと成長してからのことだった。
われに帰った真人は音出しを始めた。期末考査の休みを挟んでいるせいか、かなり吹奏感に違和感がある。ロングトーンをしながら真人はまた啓太のことを考えはじめた。同じ中学なんだろうか?だとすればなぜ会ったことがないんだろうか?やはり病気かなにかで来ていないのだろうか?しかし病気とはいえあんな目をする人間は見るのは初めてだった。そこまで考えると真人は啓太の方をちらりと見た。啓太は相変わらずどこを見るわけでもなくピアノの前に座っている。ピアノを弾くのだろうか?
と、ここで真人の考察は中断された。突然の来訪者によって。
「ちわーっす」
真人や啓太と同い年ぐらいの少年である。学校の制服だろうか、半袖のカッターシャツにネクタイをしている。
「おお、宍山君!」
藤原大二郎が立ち上がった。何だ?恋人か?
「紹介しておこう、日高君。わが町が誇るバイオリニスト、宍山誠司君だ」
「わが町が誇る・・・だなんて。ただプロのオケをバックにコンチェルトを一回 やったぐらいで、おおげさな」
「やったぐらいだって!?君、ばちがあたるよ」
謙遜のなかに少しだけ自慢の感情がはいっていることに真人は気づいた。
「こんにちは!」
藤原大二郎と同じ憤りを感じた真人は先制攻撃とばかりに吹奏楽部仕込みのあいさつをかましてやった。
「ああ、こんにちは。君はクラリネット吹きさんかい?よろしく」
とあっさりかわされてしまった。宍山誠司、おそるべし。
すっかり誠司にやり込められてしまった真人は再びロングトーンを始めた。心なしか、音がぶら下がっている。
誠司もまた基礎練習をしているようだった。ケースからバイオリンを出し、弓に松やにを塗り、適当にチューニングを始めた。それが終わると彼は音階を弾きはじめた。一番低い弦から、ひたすら長音階を、半音ずつさらっていく。それもかなりのスピードで。誰の何というコンチェルトかは知らないが、この腕前ならできないこともないだろう、と真人は思った。
誠司は真人の方をちらりと見た。先ほど真人がそうしたように。真人はロングトーンを終えて、タンギングを始めていた。真人は吹奏楽をする中学生の中ではごくごく平均的な技量の持ち主で、多少音程はずれていたが、悪い音でもなかった。誠司は短音階に突入していた。誠司は長音階よりも短音階の方が好きだった。悲しげで、はかなげな感触が好きだった。人の表を表現するのが長音階なら、人の裏を表現するのは短音階だ。彼はつねづねそう考えるようになっていた。
真人は一通りの基礎練習を終えて、曲を吹き始めた。そこにいた彼らが知っていたかどうかはわからないが、それは朝鮮民謡「アリラン」だった。吹奏楽の名曲と位置づけられる曲の中に「朝鮮民謡の主題による変奏曲」という曲がある。それは一ヶ月後にある吹奏楽コンクールで彼の吹奏楽部が演奏する曲だった。彼が吹いているのは冒頭のクラリネットによる主題のユニゾンである。
「もうそろそろ出てくれないかね、もう六時だよ」
藤原大二郎にそう言われるまで、真人も、誠司も、(啓太はどうか知らないが・・・)時間の経過には気づかなかった。そういえば窓から見える日はすっかり西の空へとスタンバイしている。真人は急いで片づけを始めた。真人のクラリネットはヤマハのスチューデントモデルで、木製のクラリネットの中でも最低の値段のものだった。一年生の秋に、親に頼み込んで買ってもらった、真人の宝物だった。真人はなれた手つきで楽器にスワブを通し、すばやく楽器を片づけた。
「じゃあ、お先に」
真人が浪漫堂を出ようとすると、誠司がバイオリンケースを抱えて、追いかけてきた。
「一緒に帰ろうぜ」
「・・・別にいいけど」
真人はしぶしぶ、といった感じでオーケーした。
「じゃ、おじさん、またね」
誠司は営業スマイルっぽく見える笑顔を藤原大二郎に振りまいた後、ピアノに座っている啓太に言った。
「じゃあな」
その声には少しだけ暖かみがあるような気がした。
浪漫堂を出ると、西にスタンバイ、とはいえ少し暑めの夏の日差しが二人をさしていた。
「見ない顔だけど、どこに住んでるの?」
会話の口火を切ったのは真人だった。
「東野台だけど」
誠司は短く、はっきりと言った。なんだ、しゃべりたくないのか?
「へえ、僕は西野台。でも東野中ってネクタイあったっけ?」
「僕は私学の藤堂中学に行ってるから・・・」
藤堂中学、という名を聞いて真人は驚いた。藤堂中学は県内トップの私立中学で、毎年神戸のN高校や東京のK高校に何人もの生徒を送り込んでいるのだという。その上にある藤堂高校も、京大、筑波は当たり前、というほどの進学校らしい。学校の定期テストでいつも平均点をうろうろしているような真人にとって、藤堂中学の生徒といえば「天上人」と呼んでもいいくらいだった。
「そ、そういえば藤原啓太・・・だったっけ?」
動揺を隠せない真人は必死に話をそらそうとした。
「ああ、あいつか?」
「どんなひとなの?」
「親を亡くしたショックかなんかで、精神病になっちまってな。言葉や音はちゃんとわかるんだが、めったにしゃべらねえな」
「へぇ・・・よく知ってるね」
真人は驚きの意味をこめてそう言った。
「まあ、浪漫堂には中一の頃からお世話になってるしな」
そこまで誠司が言うと、大きなショッピングセンターが見えた。二つの住宅街の造成を行った鉄道会社が経営している、新興住宅街によくあるスーパーだ。そして、ここから西野台と東野台に道が分かれている。
「じゃあ」
「うん、バイバイ、宍山君」
「誠司、でいいぜ。日高君」
「こちらこそ。真人でいいよ」
「じゃあな、真人」
「バイバイ、誠司」
そして、二人は別れた。西の空には太陽が最後の輝きを放たんとしていた。
一週間後の水曜日のこと、真人は浪漫堂をたずねた。水曜日は全クラブ休みと校則で決まっているため暇なのだ。これで来るのは五回目だった。ドアを開ける。誠司はもう来ていた。リムスキー・コルサコフの「熊蜂の飛行」という曲を熱心に練習している。有名なバイオリンの技巧曲である。
「よう、真人」
誠司が弓をおろしてから言った。
「ちわ」
短く真人は返事をして、さっそくクラリネットを出した。まだ四回しかあっていないというのに真人と誠司はすっかり意気投合していた。啓太は相変わらずだったが真人にとってはどうでもいいようなことだった。しかし誠司はそうではなかったようだ。
「おい、啓太、真人が来たんだからあいさつぐらいしろよ」
「・・・・・・・」
無言である。啓太は最初に会ったときと同じようにビー玉のように透き通った目でどこかを見つめるわけでもなくピアノに座っていた。しかしその目に光はなかった。まるで、人形のようだ。
「まったく・・・・・」
あきれ返ったのか、誠司はあきらめて再び「熊蜂の飛行」を弾きはじめた。誠司の演奏はなかなか上手だった。はじめから終わりまでひたすら技巧的なこの曲を誠司はいとも簡単に弾いていた。プロになれるんじゃないか、と真人は思った。
「誠司、うまいね」
「まだまだだよ」
真人の称賛の言葉を誠司はするりと受け流した。
「啓太のピアノの方がよっぽど上手だよ。聴きたいか?」
やっぱり啓太はピアノを弾くのか、真人は思ったが、それにしてもどんな演奏なんだろうか?とも思った。「葬送行進曲」なんか弾きだしたら本当に死んでしまいそうである。
「うん」
真人がそう短く言うと、誠司はピアノの方へと歩いていった。
「おい、啓太。なんかピアノで弾いてくれよ」
「ピアノ」という言葉を聞いたとたん、啓太の目の色が変わったように見えた。
「・・・・・・いいよ」
啓太の声だった。か細い声だったが、真人の耳にははっきりと聞こえた。
ターン、タカターン、タカタン、タカタン、タカタンタン・・・・・・・
演奏が始まった。ショパンの「華麗なる大円舞曲」だったが、真人も、誠司も、その曲の名前は知らなかった。二人とも自分の専門以外の曲にはあまり興味がないのだ(ちなみに真人は吹奏楽、誠司はバイオリン曲である)。
その演奏は驚くほどはずんだ音で、美しい宮廷のようすが目に浮かぶようであった。カンタービレ、エスプレッシーヴォといった感情記号が古いピアノからあふれて来る。かつては活躍したであろう、古いグランドピアノは久しぶりの名演奏にその体をじんじんと響かせている。流れ出るメロディーは浪漫堂いっぱいに広がり、今にもこの街を包み込むようだった。
誠司の言うことは本当だったんだ、と真人は思った。そして真人と誠司は流れる音楽の真ん中で笑顔を浮かべている啓太を見た。そう、啓太が笑っているのだ。その時二人は確信した。彼はいつも、このピアノとしゃべっていたのだ、と。
最後の音の残響が消えた瞬間、三人(真人と誠司と藤原大二郎)はそのピアニストに拍手を贈った。その拍手の中で啓太は再び笑った。
「・・・・・すごい」
真人は改めて、啓太の顔を見た。その時にはもうすっかりいつもの顔に戻っていた。
「いやぁ、久しぶりに聞いたよ、啓太のピアノ」
藤原大二郎は三人にお茶をだしながら言った。もうもうと湯気を立たせる緑茶だ。
「このクソ暑いのに、緑茶なんか出さないでよ」
誠司がそう非難したが、藤原大二郎は特に気にした様子もなくこう言った。
「ま、いいだろう。クーラーの中で緑茶ってのも」
藤原大二郎、誠司に負けず劣らず強力である。
「でも、啓太は学校行ってるの?見たことないけど」
真人が聞いた。そんな質問するかよ、という顔を誠司がしたが、真人の視界にはそんなものは入ってはいなかった。
「いや・・・学校には行っていない」
「なんでですか?」
「病気のせいだよ」
「でも、集団の中で生活した方が、将来的にも・・・」
誠司も興味をそそられたのか、話に入ってきた。
「精神病のような生徒は受け入れられないそうだ」
「・・・・・・・」
藤原大二郎は怒りをあらわにした。
「まったく!『籍は置いてやるから学校には来ないでくれ』だと!」
藤原大二郎はふぅ、と一息ついてからさらに言った。
「もっとも、啓太が学校に行ってもいじめの的になるのがおちだがな」
藤原大二郎はいくらかあきらめたような表情を見せた。
「さ、休憩終わり!おのおの練習に戻りたまえ」
たまえって・・・と二人は思ったが、取りあえず二人は自分の練習に戻った。
真人はクラリネットを吹きながらこう思った。
(僕だけが・・・平凡な人間なんだ・・・)
その言葉はじんわりといやな感触で彼のからだにしみわたった。アリランのメロディーが今日はとてつもなく悲しげに聞こえた。
そのあと、真人は一人で浪漫堂を出た。いつもより早足で、ひたすら待ちの中央へと向かった。
「おい!」
誠司が後ろから追いかけてきた。こんなのは二度目だ。でも、今の真人は尋常ではなかった。
「何を怒ってるんだ?」
「・・・・・・・」
真人は立ち止まって、うつむいた。
「・・・だんまり、か」
「・・・・・・僕だけが」
真人がつぶやいた。それも死にそうな声で。誠司にとってこんな真人を見るのはとても意外だった。
「・・・・僕だけが、普通の人間だ」
「? 何言ってるんだ?」
「誠司も、啓太も、みんなすごいけど・・・僕だけ普通だ」
なるほど。誠司は真人の言葉を理解した。こんな事を言われるのは初めてではない。その知能、その技術ゆえか、誠司はこんな事をよく言われた。
「すごいよね、誠司。尊敬しちゃうよ」
尊敬、と真人が言うのが聞こえた。そのとき、誠司の心の中で、引き延ばされていたゴムが切れるのがわかった。
「尊敬・・・・?」
誠司の異変に気づいた真人は泣きかけの顔を上げた。
鈍い音がした。自分の右手が真人の頬を打っているのが見えた。自分が何をしたかを把握した誠司は家に向かって走り出した。せっかく仲良くなれたのに。彼の腕にはバイオリンケースがしっかりと抱かれていた。誠司は心から自分を憎らしく思った。
そして残された真人はつぶやいた。
「・・・・どうして・・・・」
その思いは誠司も同じであったかもしれない。
その頃、啓太は再びピアノを弾いていた。曲は「華麗なる大円舞曲」。先ほどと同じようにピアノからは楽しそうな音があふれている。
「・・・・・・・・」
ふと、啓太は演奏の手を止めた。残響が夕日で染まった浪漫堂を柔らかく包んでいった。
「どうした?やめてしまうのか?」
カウンターで、湯飲み(さっき三人が飲んだもの)を洗いながら、藤原大二郎が言った。
「・・・・・父さん」
「・・・・・何だ?」
藤原大二郎は自分を父親と呼んだことに驚いたが、あえて、驚かない振りをして聞き返した。
「・・・誠司も、真人も、いい人だね」
「そうだな」
藤原大二郎はうれしかった。父としてくれたことに、ではない。ついにこの子も、友を見つけたんだな、ということにだ。
しかしその二人が分裂の危機にあることを、啓太も、藤原大二郎も、知る由もなかったのである。
その夜、誠司は一人、自分の部屋で落ち込んでいた。
(・・・・・また、やっちまったな・・・・)
くどいようだが誠司がこんな事を言われるのは初めてではなかった。しかし今までと唯一違ったのはそれが浪漫堂で出会った一人の少年によって言われた、という点であった。
誠司は藤堂中学でもトップクラスの成績で、みんなからは「天才宍山」と呼ばれ、尊敬され、そして拒絶されていた。少なくとも誠司はそう思っていた。いつも彼はこう言われた。
「宍山君は偉いなあ」
「誠司はすごいな、尊敬しちゃうよ」
「宍山がいると助かる」
それは誉め言葉のはずだった。しかし、その言葉はやがて誠司の心を虫食んでいった。
(俺は、尊敬されたくて生きてるんじゃない。好かれたい。そして、愛されたい) つねづね誠司はそう考えていた。
しかしそれは無理な話かもしれなかった。自分の性格を180度変えれる人間などどこにもいないのだから。性格というものはおそらく生活環境によって形成されるものであり、自分の意志によってどうなるものでもないからだ。
誠司はふとバイオリンのことを思い出した。中学受験のときも無理を言って続けていたバイオリン。彼がバイオリンを続けているわけも実はここにあった。
(勉強だけといわれたくなかった。ただそれだけだった)
そう、それだけだったのだ。音楽をしているとき誠司だって喜びを感じることがある。それは自分の新しい一面が形成されていくのがはっきりと分かるからだ。それが音楽の喜びの本質であるかどうかは誠司にも分からなかった。
浪漫堂は誠司にとって望ましい異空間だった。学歴とは無縁のこの世界が誠司は好きだった。そして、真人のことも。真人が自分をそういう目で見ていたとわかったとき、誠司は言いようもない悲しみに捉えられた。薄々感じはしていた。
自分が藤堂中学の名を口にしたとき真人が動揺したのがわかった。そしてあうたびに真人の自分を見る目つきが変わっていくのも見て取れた。まるで、普通の人たちのように。
(普通の人・・・・か)
誠司は真人の言葉を思いだした。
『・・・・僕だけが、普通の人間だ』
(真人は・・・何が言いたかったんだろう)
普通の人間であることはそんなに苦痛なのだろうか。確かに啓太はすごい。自分だって、やがて人とは違う特殊な人生を歩むことになるだろう。普通の人になりたいと思ったことは何度もある。しかし、それはあくまでも苦痛を求めているのではなく幸せを求めてのことだった。(当たり前か)
(・・・・・普通の人、違う人)
どこで分かれるんだろうな、それは。確かに誠司のクラスにも目立たないやつはいる。しかしそういうやつでも、体育祭が近づくと異様に活気付いたりして、クラスを引っ張ったりもする。
(・・・そもそも普通ってなんだろう)
新たな疑問がわいた。でもその答えは見つからなかった。平均点並みの成績で、通知簿もオール3の人間ならいっぱいいる。しかし、
(性格の普通ってなんだ?)
ますますわからなくなった。気分を変えようと、誠司は部屋の明かりを点けた。誠司は一人っ子で、親は医者と薬剤師だった。頭がいいのも当然といえば当然だった。両親は誠司が赤ん坊のときから共働きで、もっぱら祖母の手で育てられた。そして誠司が3歳になった頃、両親とも相談した上で、祖母は誠司にバイオリンを習わせはじめた。
(親に感謝はしている。こうして育ててもらっているのだから。でも、愛された ような気はしない)
「愛されたことのない人は人を愛せない」などというが果たして自分もそうなのだろうか?いや、愛されていることに自分が気づいていないだけかもしれない。誠司はそう思った。そう思いたかったのだろう。
(そもそも愛って何だろう?)
「愛」。テレビではいろいろ言われているが、この問いにはっきりと解答を出せるものは今、この世にはいない。
(・・・・・・・・)
だんだん悩みが複雑になってきた誠司はひとまず寝ることにした。
明日がいい日であるように、とぐしょぐしょになった枕に祈りながら。
翌朝の誠の気分も昨日の誠司のそれに同じであった。
「はぁ・・・・・」
今日何回目のため息だろうか。朝、顔を洗っても、朝食をとっても、授業を受けても、昨日からのもあもあした気分は決して変わることはなかった。
「はぁ・・・・・」
この間、およそ11秒。真人は朝からこの調子で、ずっと教室の窓から外を眺めていた。真人の教室からは中庭が見えた。中庭には新緑があふれんばかりのエネルギーを放っていた。
「はぁ・・・・・」
「ねぇ、どうしたの?」
隣で声がした。女の子の声だった。それが自分に向けられているものだと真人が知るのには少々の時間を要した。
「え?なに?」
真人が横を向いた。その少女の名前は関本諒子。なかなかの美人である。吹奏学部の副部長兼クラリネットパートのリーダー兼コンサートマスターというのが彼女の役職であった。真人のクラブの仲間である。もっとも、それ以上の関係だ、とまわりは思っていたが。
「元気ないけど具合悪いの?先生に言おうか?」
「いや。いいよ」
「そういえば、真人。浪漫堂に最近行ってるんだって?」
さすが女の子。情報が早い。
「うん・・・」
「バリサクのみっちゃんから聞いたんだけど、あそこに藤堂中の天才バイオリニ ストがよく来てるんでしょ」
「誠司のことかい?」
「えっ?」
「だから、宍山誠司、だよ」
「ふーん。そんな名前なんだ・・・」
おいおい名前も聞いてないのかよ、と真人は内心思ったが、諒子はそんなことには気づいてはいなかった。
「それはそうと、ほんとにからだ大丈夫?」
「・・・・・たぶんね」
「気をつけてよ。クラブだけじゃなくて、私にも、迷惑がかかるんだからね」
諒子が少し顔を赤らめた。明らかに「それ以上の関係」である。
「・・・・大丈夫だよ、諒子」
真人が優しい声で答えた。しかしその数秒後には、真人の顔は元の暗い顔に戻っていた。
その日のクラブのことである。その日は合奏の日で、もちろん内容はコンクールの曲である。
「では始めます。起立!礼!」
トランペットの部長の声が音楽室と、バスドラムにびぃぃんと響いた。
「よろしくお願いします!」
「はい、着席」
吹奏楽部の顧問、滝山先生は県の吹奏楽連盟の役員をするほどの実力者だった。真人の通う西野中は創立以来吹奏楽部が盛んで、かつては全国大会の常連校だったらしい。滝山先生はその三代目の顧問だった。しかし今では生徒減少のあおりを受けて、部員が30人をきってしまい、小編成部門に出ざるをえなくなってしまった。(真人の住んでいる県にはそういう規定があるらしい)
「では、始める。ひとまず一回通して前回の課題が出来ているか聞かせてもらう」 指揮棒が振り下ろされ、曲が始まった。「朝鮮民謡の主題による変奏曲」はクラリネットの静かなユニゾンで始まる。真人たちクラリネットの前回の課題はこの部分の完璧な音程あわせと、音楽表現だった。
真人は吹きながらまったく別のことを考えていた。
(・・・そういえば誠司、どうしたかな)
そう思った瞬間、自分の音が少し低めになったのが分かった。しかし、時既に遅し。
「こら!真人!」
滝山先生の罵声が飛んだ。
「演奏に集中しろ、真人。みんなもそうだぞ」
「はい!」
緊迫した合奏の雰囲気の中で、真人はますます重い気持ちになった。
「以上で今日の練習は終わり、明日はパートで今日言われたところをチェックす るように。土曜日は9時から練習。弁当もちで3時までする予定だ。では解散!」「ありがとうございました!」
いつものように真人がスワブを通そうとしたとき、滝山先生は彼にあとで職員室に来るように、と告げた。
「調子でも悪いのか?」
開口一番、滝山先生は真人にそう言った。
「いえ、別にそういう訳じゃないんですが・・・」
「嘘をつくな。音でわかる」
「音でわかる」は滝山先生の口癖だった。しかしそれはあながち嘘でもなく、何回かクラブ内のいざこざを合奏しただけで見抜いている。
「・・・実は、友達とけんかして・・・」
「クラブの仲間か?」
「いえ」
「さては、藤堂中学の宍山誠司君か?」
「え?なんで知っておられるんですか?」
「諒子から聞いたよ」
さすが女の子、口が早い。
「・・・ええ、そうです」
「お前らのけんかなんてたいしたことないだろうから、さっさと仲直りしろ。
諒子に迷惑をかけるな」
「?」
「あいつ、えらくお前のことを心配してたぞ。付き合ってるのか?」
「いえ、そういう訳じゃ・・・」
恋愛には鈍感な滝山先生でも真人の声色が変わったのがわかった。ああ、こいつらが気づいてないだけだ、と。
「・・・・・帰っていいぞ」
「失礼します」
廊下を歩きながら、真人は誠司のことを考えていた。
(仲直りしろって言われてもな・・・)
やっぱり会ってみないと駄目か。という考えがよぎった。とはいえ、どこで会えばいいのか。
(浪漫堂は会えないことの方が多いし、住所は浪漫堂で聞けばわかるけど、
親が厳しいらしいから、勉強しなきゃならないだろうし・・・)
さまざまな考えが浮かんだが、やがてそれが厳しいものであることが分かると、
音も立てずに消えていってしまった。
(やっぱり直接家に行った方が・・・)
とはいえ、普通の日に行くのは無理である。話が長引くのは目にみえている。
(藤堂中学は土曜もみっちし授業があるから・・・。でも、二時ごろには終わる って言ってたな。練習は3時までだから、それから行けば・・・)
「ねえ!」
突然後ろから声をかけられた真人は思わず体をびくっと震わせ、後ろを振り向いた。そこには吹奏楽部の仲間の田野崎がいた。担当はトロンボーンである。
「浪漫堂に行ってるってほんと?」
真人は思わず女子の情報網というものに感動してしまった。こんなに早くに噂がまわるとは。
「うん。まあね」
真人は軽く言葉を濁した。田野崎の声はやたら大きく、廊下に響いていた。
「浪漫堂にすごいかっこいい子いるでしょ?」
「宍山誠司のこと?」
「違うわよぉ。いつもピアノんとこに座ってる男の子よ」
ああ、啓太のことか。と真人は心のうちで思ったが、話が長引きそうなのでわざとこう言った。
「さあ、知らないな」
「そう、じゃ、ばいばい」
「ばいばい」
真人は田野崎が去った後、ふと思った。
(啓太も、意外と有名なのかな・・・)
土曜日、誠司は浪漫堂へ行った。もちろん授業が終わってからだが。バイオリンを取りに家に戻ったとき、親はもちろんいなかった。祖母がいたが、何も言わずに誠司は家を出た。
浪漫堂はいつものように外とは違う世界を創っていた。啓太はいつものようにピアノの前でじっとしていた。藤原大二郎は奥で仕事をしているのかカウンターにはいなかった。(浪漫堂の奥と二階は藤原大二郎と啓太の家だった)
「よお、啓太」
誠司はいつものように啓太に声をかけた。
「こんにちは、誠司」
明るい声だった。誠司は少し驚きこう言った。
「おお、やっと何か言うようになったか」
「・・・君と、真人のおかげだよ」
「えっ?」
「うんん、なんでもない」
誠司は特に気にもとめずにバイオリンの練習を始めた。家で弾くわけにも行かず、やはり浪漫堂は誠司にとってかけがえのないところだった。たとえ、真人がいてたとしても。
(やっぱ、真人にはあやまらなきゃな・・・)
あやまれば、なんとかなる。そんな気が誠司にはしていた。しかし、それがいざ本人の前で出来るかどうかは疑問だが。
「こんにちは・・・!」
真人だった。真人もまさか誠司が浪漫堂にいるとは思っていなかったので、もちろん焦っていた。
「せ、誠司・・・」
学校から直接来たのか、半袖カッター姿の真人は焦りをあらわにしていた。
「・・・・啓太、はずしてくれないか」
真人と誠司のただならぬ様子を悟ったのか、啓太は無言で返事をすると、奥の部屋へと消えていった。
「真人・・・・」
「・・・・誠司、話してくれないか、君の気持ちを」
「・・・・・・わかった」
とは言ったものの、誠司は焦っていた。何から言えばいいだろうか。自分がなぜ怒ったか言ったほうがいいだろうか。それとも今まで自分が思ってきたことを正直に言ったほうがいいだろうか。でも、真人はそれを理解してくれるだろうか。
「・・・・・・・・」
沈黙が続いた。真人も下を向いて何かを考えているような風だった。
(自分が今まで思ってきたこと・・・。自分は決して特別な人間じゃないという こと。強い人間でもないということ。尊敬なんかいらないということ。みんな から好かれたいという思い・・・・・)
今まで感じてきたさまざまな思いが誠司の心をよぎっていった。その中には言葉では表せられない複雑な思いもあった。
沈黙が続く。誠司はろくに考えもまとまっていなかったがとにかくなにか言おうと決意した。が、言葉が見つからない。
どれほどの時が立ったろうか。誠司はついに口を開いた。
「・・・僕は・・僕は、君の言うほどすごい人じゃない」
真人は黙って聞いていた。誠司はさらに続けた。
「・・・僕は尊敬なんかされたくないんだ。好かれるような人間になりたいんだ」 誠司の目はうるんでいた。
「真人ならわかってくれるんじゃないかと思ったけど・・・」
「・・・・・・・・」
「多くは望まない。ただ、人のなかにいたい」
「・・・・・・僕だって」
真人がつぶやいた。誠司は涙目の顔を上げた。
「僕にも悩みぐらいあるんだよ。こんな平凡な人間、生きててどうなるっていう んだ。だから僕は、クラリネットを・・・・」
『始めたんだ』という言葉がかすれた。涙が出てきたからだ。
「・・・俺は平凡な人間のほうがいい」
誠司が言った。
「・・・僕は誠司みたいな目立つ人のほうがいいな」
真人が言った。
「・・・・俺たちって、わがままだな」
「・・・・そうだね」
二人の顔に笑顔が戻った。二人が感じた「何か」・・・それは自分を変えたいという切実な思いかもしれない。
「『人はあらゆる動物の中でもっとも強欲な生き物である。人は決して自らに満 足することはない。ゆえに人は生きるのである。』」
「何?それ」
「・・・今適当に考えた格言」
「『人は個性の生き物』ってのも付け加えてよ」
「いいな、それ」
二人は笑った。腹を抱えて笑った。億からその声を聞きつけたのか、啓太がやってきた。
「あっ、啓太!」
真人が親しげに声をかけた。
「こんちは、真人」
啓太が光を取り戻したんだ、と真人は思った。
「啓太ぁ!洗濯物いれてきてくれんかぁ!」
奥で藤原大二郎の声がした。
「はぁい! じゃ、またあとで」
啓太が奥へと戻っていった。するとかわりに藤原大二郎が入ってきた。
「啓太、明るくなりましたね」
「ああ。君たちのおかげだよ」
「? 僕たちは別に何も・・・」
「よくわからんが、やっぱり友達がほしかったんだろうよ。快方に向かっていた 頃にちょうど真人君という新しい刺激があったからね。やっと、啓太も心を取 り戻してくれたか」
と藤原大二郎は親らしい嬉しそうな顔をした。
次の日曜日、誠司は早めに浪漫堂へ行こうとした。しかしそれを、たまたま仕事から帰ってきていた誠司の母がとがめた。
「誠司、あんた浪漫堂に出入りしているんだって?」
「それが?」
「それがじゃないわよ!!」
誠司の母はヒステリックな口調でまくしたてた。
「浪漫堂なんかに行って!私が病院でなんて言われるかわかってるの!?」
またか、と誠司は思った。誠司の母は社会的な欲が強かった。医者と結婚したのもそのため。姑に子どもの面倒を見させ、仕事を続けたのもそのため。誠司が藤堂中学に入れたのも母の力によるところが大きかった。
「母さんには関係ない」
誠司はあっさり言ってのけた。
「ふん!勝手にしなさい!!」
母はそのまま自分の部屋へと戻っていった。
そんな一幕を見ていたのか、台所から祖母がやってきた。
「ごめんなぁ、誠司ちゃん。うちの誠太郎がしっかりしとらんでな」
誠太郎とは誠司の父の名前である。
「いいよ、おばあちゃん。お父さんが悪いんじゃないから」
そうだ、父さんには関係ないんだ。誠司は心の中で思った。
(悪いのはあのオンナなんだから・・・)
その言葉は灰色のもやになって彼の心の中へと消えていった。
その頃真人は遅めの朝食をとっていた。
「お母さん、ジャムどこ?」
「え?冷蔵庫にない?」
「あったら聞かないって」
「・・・おかしいわねえ」
こちらはきわめて平和な家庭であった。
「真人、話があるんだけど・・・」
「何?」
真人がトーストをくわえながら言った。
「亮太ももう小五だし、家計も苦しいから、お母さんね、パートに行こうと思う の」
「どこに?」
「ショッピングセンターよ」
「へえ」
「どう思う?」
「どう思うって言われてもなぁ・・・何時から何時まで?」
「午前9時30分から午後2時まで。月曜から金曜まで」
「・・・まあいいんじゃない?近くだし。
亮太が帰ってくる頃には家にいるんだろ?」
「ええ、そうね。ありがとう」
誠司の家とは比較にならないほどの平和ぶりであった。
誠司が母親の尋問をふりきって家に出ると、太陽はすっかり朝日を卒業して、南への旅を進めていた。誠司の家は坂を登ったところにあり、東野台のなかでも大きいほうの家だった。浪漫堂へ行くため坂を下りながら、誠司は昨日のことを思い出していた。
(他人が見たらよくても、自分にとったらいやなことって多いんだろうな・・・) 誠司はもう一度空を見た。太陽はいつものように光り輝き、雲はぼんやりと歩いていた。遠くにみえる西野台の家々の屋根は太陽の光をすって、同じように光っている。
誠司が浪漫堂に入ると、啓太が笑顔で迎えた。
「おはよう」
「おう」
誠司はバイオリンを出して、さっそく練習を始めた。
啓太はそれを興味深そうに眺めている。
「それ、なんて曲?」
「ん? ああ、『ダニューブ河の漣』って言う、ワルツだよ」
「へぇ・・・・」
それにしてもよくしゃべるようになったなあ、と誠司は思った。いや、前がしゃべらなかっただけなのだが。誠司が知る前・・・つまり両親を失う前の啓太はおそらくこんな人間だったのだろう、と誠司は思い直し、そのままワルツを弾き続けた。
「ねぇ、誠司」
「なんだ?」
曲が終わった後、啓太が話しかけた。
「もっかい弾いてみて」
「なんでだ?」
誠司には啓太がなぜそんな事を言い出したのか、見当もつかなかった。
「・・・即効で、伴奏するから」
「えっ!そんなことできるのか?」
「・・・やってみる」
「・・お、おう」
誠司は再び「ダニューブ河の漣」を弾きはじめた。
すると、啓太が規則正しい三拍子のリズムで、ピアノを弾きはじめた。その和音はそのワルツにぴったりで、誠司はとても驚いたが、そのまま弾き続けた。
その弾きぶりに刺激されたのか誠司も先ほどよりも、メロディーに心をこめ始めた。深く強弱をつけ、ビブラートもより激しいものにして。するとその熱演ぶりに啓太も答えて単純なワルツのリズムにときに'遊び'をくわえてやる。ワルツは徐々に高まっていき、フィナーレを向かえる頃には二人の音楽はダニューブの雄大な流れをかき出していた。そしてクライマックス・・・!!!
汗だくになった誠司が言った。
「・・・やるじゃねえか」
「・・・・・まあね」
外には白い雲が太陽を背に輝いていた。
一方、真人は昼からクラブの練習をしていた。
「じゃあ第四変奏の頭から。ワン、ツゥ、スリィ、ワン、ツゥ、・・・」
真人の恋人(本人らは認めていないが)の諒子のリードのもと、クラリネットパートの練習は進められていた。彼らのパートは一、二、三年全員で四人。明らかに少ない人数である。しかし、一年生は諒子と真人の猛特訓の結果、今や、二年生と見分けのつかないほどの上達ぶりを見せていた。
「ああ、ダメダメ。そこぜんぜん指回ってないじゃない。もう一回」
諒子は大部分のクラリネット奏者の例に漏れず、なかなかの鬼コーチだった。
「入るぞ」
滝山先生が入ってきた。パートごとの出来をチェックするためである。
「頭を聞かせてもらおうか」
「はい」
冒頭のクラリネットのユニゾン・・・木曜日、真人が失敗したものである。しかし、木曜と今日では心理状態が違う。今日は三人(バスクラリネットが一人いるのでクラリネットは三本になる)の線がぴったりと合い、なおかつ何か心に響くものがあった。
「よし。いいぞ。そのまま練習を続けろ」
「はい」
「よくなったな。真人」
滝山先生はそう言うと、にやりと笑った。真人もつられて、照れ笑いをした。諒子はそんな真人の表情を見てほっとしたような顔をした。
そして、何もない平凡な一週間がすぎた。真人は部活で忙しく、日曜日の夕方に顔を出しただけだった。誠司は毎日浪漫堂に来て、啓太といろんな曲を合わせるようになった。それは彼が始めて経験する、合奏の楽しみだった。啓太はすっかり明るくなり、藤原大二郎と一緒に買い物に行くくらいになった。そして、夏休み三日目のある日、その日はちょうど真人のクラブが休みで、三人が浪漫堂に集まった日だった。
「久しぶりぃ」
真人が入ってきた。その日は私服だったが、ちゃんとクラリネットを持ってきていた。
「よお、真人」
誠司は珍しくめがねをかけて、何かの本をピアノの上に広げていた。もちろん啓太もそこにいた。啓太は嬉しそうな顔をして言った。
「こんにちは」
真人は啓太に笑顔を返すと誠司に話しかけた。
「どうしたの?目悪くなったの?」
「いや、俺は前から近眼だよ。コンタクトしてたんだ」
「で、今日はどうしたの?」
「ん?なくしちまったんだよ」
「へえ・・・」
会話が途切れたのを見計らって啓太がすかさず声をかけた
「そう言えば真人、こんな楽譜見つけたんだけど」
「なに?」
啓太に手渡された楽譜には「ピアノ、バイオリン、クラリネットのための'アイネ・クライネ・ナハトムジーク'第一楽章」と題がうってあった。
「これって、モーツァルトの?」
「そうだよ。吹けるかい?」
真人はクラリネットのパート譜を探し、自らの力量と相談してみた。「吹けないレベルでもない」・・・と結論づけた真人は二人のほうを見た。
「何とか、できそうだよ」
「そうか、じゃああわせてみるか。真人、早くクラリネット出してくれよ」
「おう」
真人はすばやくクラリネットを用意した。誠司と啓太は今か今かと待ち焦がれているような感じだった。
「できたよ」
真人が言うや否や、誠司がバイオリンを構えていった。
「じゃ、いくぞ」
「待って!」
すでに弓を振りかぶった誠司を真人がとめた。
「・・・チューニング。してないんだけど」
誠司は一瞬あっけに取られたような表情をした。しかしそれは次の瞬間笑い声に変わった。
「すまねえ、すまねえ。啓太、ラの音くれ」
「オッケー」
啓太も半分笑いながら、ラの音をたたいた。真人はさっさと音を合わせた。いつもシ-フラットの音であわせているせいか、多少の違和感があったが、さすがは元全国レベルの学校の吹奏楽部員だけあってその反応は速かった。
「おし!いくぜ」
どこで知ったのか誠司は弦楽四重奏団のように大きく体を上下させた。真人はそれを見るのは初めてだったが、なんとなくその呼吸が見て取れた。
そして、アンサンブルが始まる。元々弦のためにかかれた曲のため、クラリネットは息継ぎが苦しかったが何とか吹き続けた。ピアノも初見の楽譜のせいか、楽譜を食い入るように見つめていた。そしてバイオリンはそのアンサンブルをまとめる者として、楽譜を見ながらもちらちらとその二人の音楽家のほうを見ていた。音楽は古典派の堅実な形式のもと、順調に進んでいた。多少呆気に取られるようなところもあったが、おそらくそれは編曲上の無理というものだろう。『ダニューブ河の漣』ほどの華やかさはないが、アンサンブルは確実で、音楽の流れも悪くなかった。優雅さと荘厳さを残して、第一楽章は終わった。
「よかったね」
真人が息を荒くしながら言った。さすがに六分余り吹き詰めというのはこたえたのだろうか、真人の顔は真っ赤だった。
「ああ」
誠司も満足そうな風だった。
「やっぱりモーツァルトはいいね」
と言ったのは啓太。
「でも僕はラヴェルの方が好きだな」
啓太はそう言うと再びピアノに向かってラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」を弾き始めた。この曲はもとはピアノの曲だ。ラヴェルはそれをさらに管弦楽に編曲にしたのだ。
静かでさみしげな旋律と和声は真人と誠司の心をさわやかにさらっていった。すると、奥から藤原大二郎が出てきた。藤原大二郎もまた啓太の演奏に聞き惚れている者の一人であった。
真人は聴きながら、六月に読んだ「いちご同盟」という本を思い出した。冒頭で主人公が弾いているのは、確かこの曲だった。
(あの本のおかげで、生きることの意味が少しわかったような気がしたな・・・) 生きることの意味・・・人という生き物は一生でこの疑問を何回もつのだろうか。それはおのおのの心の中に在る物で、あえて著わす必要はない物かもしれない。もしかしたら、もともとないのかもしれない。しかし人は悩む。それが人という生き物なのだから。
「・・・真人?」
誠司がふぅっと真人を心の中から呼び覚ました。
「なに青春してんだよ」
「? いや、別に」
「まあいいけどな。おじさんがお茶飲まないかって言ってるけどどうする?」
「ああ、もらうよ」
「ふっ・・・変なやつだな」
その誠司の言葉の中にはもちろんいやみなど含まれてはいなかった。そこにあるのは親しみと喜び・・・そしてほんの少しの憧れ。
友情とはこういうものかもしれない、と誠司は思った。それは今まで自分を率直に表現できなかった少年のおおきな成長だったであろう。
次の日、浪漫堂は大変暇だった。もっとも最近の客は真人と啓太の二人に限られていたのだが。こんなことで藤原家の家計は大丈夫なのか?と思われる読者諸君もおられるだろうが、もともと藤原家の家計は家賃収入でまかなえていて、浪漫堂は(一代前からずっと)まったくの道楽なのだ。
啓太はいつものように新聞を取りに行き、朝ご飯を2人分作り、藤原大二郎を見送り、洗濯をして・・・と家事全般を任されていた。それはしゃべるようになってからというわけではなく、退院してからずっとそうなのである。別に藤原大二郎が働かせているわけでもなく、なんとなく啓太からやりだしたのである。その訳を最近聞くと、
「・・・引き取ってもらった上、迷惑かけてるのに、ただ飯食いってわけにはい かないでしょ」
とたいへん殊勝な答えが返ってきた。
啓太は家事以外の時はたいがい浪漫堂の前のピアノのところにいた。一応学校の勉強は通信教育を通じてやっていたので問題はなかった。真人と会う以前は必要な会話以外はまったく口を開かなかったのはご承知の通りである。そういえばなぜ啓太はいつもピアノのところに座っているのだろうか?
(・・・お母さんがそこにいるから)
啓太はいつもピアノに母親を感じていた。幼い頃から彼にピアノを教えたのは彼の母だった。
(優しかったお母さん。厳しかったお母さん。・・・・・・)
何で死んじゃったの?啓太のふとした疑問。あれ、なんでだったっけ・・・。病気?いや、そんなはずはない。お母さんは確か中学校の音楽の先生で、あの日も確か仕事に・・・。
あの日?
あの日とはいつだろう。僕が言葉を失った日。五年前。僕は10歳。小学4年生か5年生。ちょうど僕が友達の家から帰ってくると、お母さんが・・・。
「・・・・・・?」
さっぱりだった。そこからの記憶が曖昧・・というよりはないのだ。'あの'出来事が自分の人生を明らかに変えたのに。あれから啓太は言葉を失い、心を失った。そして5年間。啓太は少しずつ回復していき、誠司と真人という二人の少年のおかげで完全に治ったように見えた。しかしそれは、ただの虚像なのかもしれない。もっともそのことに気付くのはもう少し時間が経ってからの話だが。
コンクールを一週間後に控えたその日、真人の吹奏楽部にちょっとした事件が起こった。今までメンバーを引っ張ってきたペットの部長が夏風邪で倒れてしまったのだ。それもかなりの重病らしい。
滝山先生はそれでも合奏をするといったが、部員の動揺ぶりはすさまじいものだった。
「どうするの?部長大丈夫かな?」
ユーフォニウムの山本が諒子に言う。
「うん・・・電話では大丈夫って言ってたけど・・・」
いつもは冷静な諒子もこのときばかりは動揺していた。普段彼女がコンサートマスターとしてやってこれたのも部長によるところが大きかったからだ。運営面にはあまり口を出さない真人もこの事には驚いたのか、女子部員たちのところへ行って、その話に参加していた。
「大丈夫だよ。部長が風邪なんかに負けるわけないし」
クラブただ一人の男子、という使命感を感じたのか、真人は必死に他の部員を励まし続けていた。
と、そこに滝山先生が入ってきた。
「何だ、お前たち。早く準備をしなさい」
「でも部長が・・・」
「心配するな。部長だって休みたくて休んでるんじゃない。お前たちが動揺して どうする」
滝山先生も必死のようだった。真人にはそう感じられた。
「さ、始めるぞ」
「はい・・・」
そうして女子部員たちはそれぞれの席に戻った。
「起立、礼、着席」
諒子が代理で号令をかけた。その声はいつものようにバスドラムに響くわけでもなく、弱々しく宙へと霧散した。
「・・・・・・・。では第二変奏のソロ以外から」
「はい」
音がいつもとまったく違った。第二変奏は少し悲しい曲調なのだが、今日の演奏は悲しいというよりも、重苦しい感じだった。ソプラノサックス(本来はオーボエだが、人数が少ないのでそうしている)とトランペット(部長)がソロをとる第二変奏。滝山先生も部長不在を考慮したのか、トランペットがソロ以外休みの第二変奏を徹底的にしていた。しかし、合わない。いつもと別の団体のような演奏だった。
「・・・・・・・・・」
指揮棒をとめた滝山先生はしばらく考えて短くこう言った。
「やめだ。合奏にならん。あとは個人練習だ」
「・・・・・・はい」
滝山先生が音楽室を出ていった。
沈黙が部屋を支配していた。誰も練習しようとしなかった。それほど部長は吹奏楽部にとって大きな存在だったのだ。
「・・・・・大丈夫かな。部長」
誰かがそんな事を言った。誰が言ったか確かめる気にもなれなかった。
「・・・みんな、練習しよ」
諒子が言った。
「風邪が治って、みんなが下手になってたらなおさら部長、落ち込んじゃうよ」
「・・・・そうだね」
真人が相づちを打った。そして諒子と真人は練習を始めた。その音を聞いて、他の部員も練習を始めた。みんな、落ち込んだような音だったが、さっきの音とは少し違ったような気が真人にはした。言うなれば前の音は後ろ向きの音、今の音は前向きの音。少し落ち込んだ前向きの音たちは白い渦のようになって、部屋をおおいはじめた。それは願いだった。部員全員が部長の回復を願った。白い渦はやがて、澄んだ川の流れのようにきらきらと輝いていた。
その頃、誠司も学校にいた。クラブではない。学校の夏期特訓である。藤堂中学は確かに中学高校とつながっているが、進級はエスカレーターではなく、外部生といっしょに試験を受けなければならない。つまり、ふるいにかけられるのだ。とはいうものの、中学からの生徒がほんの少しだった、というわけにもいかないため、藤堂中学ではこうして夏期特訓を行うのだ。
「ねえ、宍山君」
斜め前の斉藤が話しかけてきた。誠司は藤堂中でもトップクラスの成績を持っていたため、尊敬の意をこめて、「宍山君」と君付けで呼ばれていた。もっとも、彼はそれを密かに嫌っていたのだが。
「数学の質問あるんだけど・・・」
またか、と誠司は思ったが顔には出さなかった。
「何だい?」
「この、3の@の問題」
「ああ、それ?それはね・・・・」
数学嫌いの読者がいると悪いのでここからの会話の内容は省略するが、とにかくその問題は中学生が解くような問題ではなく、普通の高校生でも難しいだろうと思われるレベルだった。しかし誠司はその問題の解説をよどみなく答えた。「ありがとう、助かったよ」
斉藤はそう言うと、また前をむいて、問題と格闘し始めた。
考えてみれば斉藤も気の毒な男だ、と誠司は思った。もうワンランク、いやツーランク、偏差値の低い学校を受けておけば、こんな惨めなことをしなくてすんだろうに、と。
誠司はわかっていた。自分がやはり偏差値にしかしがみつけない人間であることを。だがそれはもう、変えようのないことかもしれなかった。
‘あの女’のために努力して、誠司は藤堂中に入った。しかしそれに彼が気付いた時、偏差値と校内学力順位にしか信用を寄せれない自分がいたのだ。もう誠司は母親に完全に支配されていたのだ。それは今や、不動の真理となりつつあり、それを変えることは容易ではなかった。だから彼はバイオリンに熱中したのかもしれない。それが唯一自分を感じられる時だったのだから。
翌日、部長がかえってきた。部員たちは心配したが、部長は元気そうで、早速昨日の遅れを取り戻すべく練習を始めていた。
「よかったな」
楽器を組み立てながら真人は言った。
「うん。そうだね」
諒子が答えた。
その日の合奏は昨日とは比較にならないほど充実したものだった。
「うむ。今日のは悪くないな」
滝山先生も嬉しそうな顔をしていた。
練習のあとのミーティングで部長はあらためてこう言った。
「みんな、昨日は迷惑かけてごめんね」
「いいよ、気にしてない」
「今は部長のからだの方が心配だから・・・」
みんなの励ましの声を受けた後、部長は真人のほうを向いてこう言った。
「日高もありがとう。諒子をささえてくれて」
「えっ?」
「隠さなくてもいいよ。ねぇ?」
真人はみんなの顔を見た。みんなこっちを見てにやにやしている。諒子だけが恥ずかしそうに上目遣いで見ている。
「二人、付き合ってるんでしょ?」
真人と諒子の顔が一気に赤くなった。
「えっ、付き合ってるなんて、そんな・・・・・」
真人が弁解した。しかしみんなは信用しようとしない。
「・・・・・・真人」
側の諒子がぼそっと言った。明らかにいつもとは様子が違う。
「私ね、昨日わかったんだ」
「何を?」
「私、真人が好きなんだなあって・・・」
「な、なんで・・・・・」
みんなの前でも気にせず堂々と告白する諒子に真人は驚いた。
「私ね、昨日みんなに練習しようって言ったでしょ?その時、すごい不安だった んだ。でも、心の中で、真人ならついてきてくれるって思ったの。そしたら、 真人がね、真人が・・・・・・」
諒子が嬉しそうに涙を浮かべた。諒子の気持ちを汲み取ることができたのか、真人は諒子の肩を優しくつかんで、言った。
「・・・・・・諒子。僕もわかったような気がする。僕も・・・僕も、君のこと が好きだ。・・・・・・・ありがとう。気付かせてくれて」
「ヒュウウウウッ!」
まわりの部員たちがいっせいにはやし立てた。真人と諒子はそのまま硬直して、下を向いている。だが少年よ。恥ずかしがる必要はない。君はまた一歩、大人に近づいたのだから。
その日以来、部の結束が固まったような気が、真人はした。練習も大詰めに入り、緊張した日々が続いた。真人も塾に行っていたが、昼間の疲れがあってか、授業についていくのが精一杯だった。そんな7月も終わりに近づいた、ある日のこと。真人が部活から帰り、部屋でボーっとしていると、弟がやってきた。
「お兄ちゃん、ししやませいじって人から電話だよ」
「ん?わかった」
真人は一瞬びっくりした。そして、最近浪漫堂に行ってないな、と思った。それからどうやって誠司が自分の電話番号を知ることができたのか、不思議に思った。
「もしもし、真人ですが」
と真人が受話器を取りながら言うと、そこから、何やら懐かしいような声がしてきた。
「おう、真人。元気か?」
それはまさしく、誠司の声だった。
「うん。元気だよ。クラブと塾で大変だけど」
「そうか」
誠司は短く言った。
「でも、なんで僕んちの電話番号わかったの?」
「浪漫堂の通い帳に書いてあったのを見たんだよ。三日坊主だったけどな」
「はははっ。誠司も変わらないじゃないか」
と真人は苦笑しながら反論した。
「まあな」
誠司も苦笑したような声で答えた。
「で、そっちは?」
「まあ、何とかやってるよ。でな、真人・・・」
誠司の声が少し低くなった。
「俺、東京のバイオリンコンクールに出ることになった」
「東京?なんで?」
突然の話に、真人は驚いた。
「俺がついてる先生の推薦でね。やってみることにしたんだ」
「お母さんは?仲悪いんでしょ」
「そりゃもう、カンカンだよ。あんまりむかつくから、今は浪漫堂で生活してる んだ」
「それって、家出?」
「まあそんなとこだ」
誠司はさらっと言ってのけた。
「大丈夫なの?」
「旅費は先生持ちだから心配ないし、学校の夏期講座は盆明けまでないから、全 然問題ないよ。親が警察に通報するなんて絶対ないしね」
「そう」
「俺、試したいんだ。日本の中学生の中で、俺はどのくらいなのか」
「・・・・・・・」
誠司の決意に、真人は口のはさみようがなかった。
「たぶん、俺よりうまいやつはいると思う。それでも俺は、やるから」
「・・・・・がんばってね」
「・・・ありがとう。おまえも、がんばれよ」
誠司の声が少しかすれていた。
「うん。で、いつ行くの?」
「8/1が本番だから、その前の日には東京に行く。ごめんよ。聴きに行けなくて」「いいよ。誠司」
「ありがとう、じゃあ」
「うん」
ガチャッ・・・・・
電話を切って、真人が立ち上がると、すでに母親は帰っていた。
「だれから?」
「友達からだよ、学校の」
「そう」
会話が途切れると、母親は夕食の支度を始めた。
「ねえ、真人」
母親が冷蔵庫を開けながら言った。
「なに?」
「浪漫堂に行ってたんですって?」
「・・・・・・・まあ、ね」
やばいな、と真人は心の中で思った。しかし、母親の反応は真人の予想とは違っていた。
「・・・責任は自分で取るのよ。もう15なんだから」
それはいつになく厳しい母親の言葉だった。
「はい」
真人はなんだか、大人として認められたような気がした。
そして、8/1がやってきた。真人はその日、朝早くに学校へ向かった。最後の練習である。
誠司から電話がかかってきてからの数日間、真人はひたすらクラブに集中した。それに答えるかのように、練習の内容も次第に熱を帯びていた。そして今日。
(この日のために、今までがんばってきたんだ。泣いて、苦しんで、笑って、ク ラリネットを吹いてきたんだ)
だがそんな真人の熱い思いとは裏腹に、空はどんよりと曇っている。
「おはよう。真人」
玄関のところで諒子に会った。真人はいつものように笑顔で返事をした。
「おはよう」
「雨降らないといいけどね」
「ああ、台風?今日はまだ風だけだよ。たぶん」
靴を履き替え、階段を上りながら、諒子が言った。
「・・・・・大丈夫かな」
真人は笑顔でこうかえした。
「もちろん。あんなに練習したんだから」
「そうだね。部長も元気だし」
「ああ」
音楽室に来ると、大半の部員がもう既に、練習を始めていた。
「おはようございます!」
クラリネットの座席に来ると、二人の後輩があいさつをした。
「おはよう」
「おはよう。がんばろうね」
諒子がそう言うと二人の後輩は嬉しそうに返事をした。
「はい!」
最後の合奏は本当の調整のためだけに使われた。
「テンプルブロック!もっとだせ!」
「はい!」
「ティンパニー!もう少し落とせ!」
「はい!」
「ボーン!そこはもっと出してこい!」
「はい!」
最後の、熱のこもった合奏は部員の緊張を次第に高めていく。
「よし!以上!楽器を運べ!」
「はい!」
人数こそ少ないものの部員たちの動きはなかなかよく、あっという間に音楽室は空っぽになった。空っぽになった音楽室を見て、諒子が言った。
「・・・大丈夫、だよね」
真人はあきれたように言った。
「くどいなあ。大丈夫だよ」
「そうだよね」
諒子はにっこり笑って音楽室を出た。
「早く出て。みんな待ってるよ」
「おう」
音楽室の鍵をかけ、二人は階段を下っていた。
「・・・・・いよいよだな」
「うん」
すべてはこの日のために。その思いを二人はあらためてかみしめていた。
夏の日ざしが階段の窓から差し込んで、ほこりがきらきらと光っているのが見えた。
バスで20分ほどで隣町(県庁所在地になる)にある県立文化ホールについた。
真人たちは午後の出番だった。ついた時にはすでに午前中の学校の演奏は終了していた。
楽器をおろし、指定の控え場所に来ると、真人は呆然とした。たまたま、去年の控え場所と同じだったのだ。
「どうしたの?」
クラリネットのケースをいくつか抱えた諒子が真人に聞いた。
「・・・・・去年と同じ場所」
「そうね。・・・・・・あ、そうか。ここだったよね。
芝崎先輩が私たちにしゃべってくれたのって・・・」
そうだ。芝崎先輩はここで僕らに夢を託したのだ。
一年前、真人の部の結果は通称「ダメ金」と呼ばれるものだった。「ダメ金」とは金賞だが、地方大会にはいけないという大変中途半端な栄誉である。もっとも、それだけでもすばらしい栄誉だが。しかし、地方大会出場をねらっていた芝崎先輩はじめ、当時の三年生たちは大変くやしがり、その夢を今の三年生、つまり真人や諒子たちに託したのだ。
しばし去年の思い出に浸っていた二人を部長が起こした。
「諒ちゃん、日高。早くお弁当食べて」
「あ、はい」
弁当は部員で輪になって食べた。それは本番前の緊張を忘れさせてくれた一瞬だった。
弁当を食べおわると、すぐに準備に入った。裏口の前で楽器を固めて待った。
「がんばろうね」
諒子がクラリネットの後輩たちに言った。しかしその声も少し引きつっていた。真人は諒子の肩をぽんとたたき、にこっと笑った。
「大丈夫だよ」
やがて誘導の人が来て、真人たちをチューニングルームへと案内した。真人も少しずつ緊張していった。しかし、そんなそぶりは見せないでおこうと真人は努めた。
チューニングルームに入った。ドアが閉められると同時にチューニングが始められた。いつものように念入りにチューニングをして、軽く基礎練習をした。そして最後に一回だけ「朝鮮民謡の主題による変奏曲」を通した。
「よおし。いいぞ。あとは各自、手のひらに「人」って書いてなめとけ」
みんなが笑った。真人も緊張が少しほぐれたような気がした。
時間が来ると、舞台袖へ移動した。舞台袖での緊張など、体験したことのない人の想像をはるかに越えている。筆舌に堪えないとはこのことだ。前の団体の演奏が終わった。すばやく自分たちの準備をする。もうここからの意識は夢のようになっていて、真人にもわからない。そして、ライトがつく。真人たちの演奏がどんなものであったかは一言では表現しがたい。ただ言えるのは、第五変奏、つまりフィナーレの時、真人の目には涙がにじんでいたことだろうか。失敗の涙ではない。喜びか、感動か、どんな涙だったかはわからない。しかしその音楽が終わろうとしていた時、真人のなかにこんな気分が渦巻いた。
(もうすぐ終わってしまうんだ・・・・)
と。一年間、忘れることのなかった芝崎先輩の夢。一年間、歯を食いしばって練習してきた思い出。すべてはこの瞬間のために。走馬灯のように、一年間の思いが7分間で駆け抜けていった。それは悲しみだったのだろうか。
とりあえず、その演奏が終わり、拍手の中で、真人はもちろん諒子も、部長も、後輩たちも、皆が笑顔であったことをここに記しておく。
結果はどうだったのか。残念なことだが、昨年と同じ「ダメ金」だった。発表のあと、三年生はみんな、泣いていた。確かに金賞という名誉は手にできた。しかし、芝崎先輩をはじめとする先輩の思いをかなえることができなかったことはなによりも悔しかった。そして、彼らは託したのだ。次の世代に。そして、その思いは延々とつなげられ、継がれていくのだ。
「・・・・・・・」
帰りのバスの中で、三年生たちは落ち込んでいた。
「・・・・・・・悔しいね」
「うん」
活気のない受け答え。
「この事、一生覚えとこうね」
「ああ」
「・・・・・・・何年かたったら」
諒子が何か言おうとして言葉を詰まらせた。でも諒子は涙をぬぐって、はっきりと言った。
「同窓会したりして、仲良くやろうね」
「うん」
みんな悔しかった。真人も落ち込んでいた。先輩の望みを叶えられなかった。芝崎先輩は真人と同じように、男子一人でクラリネットを吹いていた先輩で、真人はいつもその先輩を尊敬していたからだ。
その日、塾はなかった。真人は家に帰ると、そのままに部屋にこもって、泣いた。こんなに悔しいと思ったのは初めてだった。
第2章 第3章 第4章