ユダヤ四千年

 

目次

  1. ユダヤ民族の黎明
  2.         (前1700−前1020)

  3. 王朝の興亡  
  4.         (前1020−前721)

  5. 民族の危機    
  6.         (前721−前166)

  7. つかの間の自由 
  8.         (前166−後132)

  9. 長き屈辱の時代 
  10.         (後132−後1434)

  11. 隔離の時ふたたび 

        (後1434−後1743)

第七章 ユダヤの力   

        (後1743−後1894)

  1. 水晶の長き夜
  2.         (後1894−後1945)

  3. ユダヤ人の世紀

        (後1945−)

 

 

 

 

 

 

 

   第一部  ユダヤ民族の黎明

 

 紀元前1700年ごろ、パレスチナのヨルダン川の支流を南に向かう数百人の一団があった。この地方にとって、こうした事は特に珍しい事ではなかっただろう。むしろ、日常の光景でしかないと思われる。その証拠を挙げるとすれば、この時代から4000年近くも経った今でもベドウィンと呼ばれる遊牧民族はこうした事を日々繰り返して生活しているからだ。

 彼らはやがてシケムという町にたどり着いた。だが彼らはその町の中には入ろうとしなかったであろう。なぜなら、彼らは町の住民の住民とは違う神を信仰していたからである。彼らは町のはずれに自分たちの住処を確保した。彼らの指導者は名をアブラハムと言った。これが、世に言うユダヤ人のカナン到着と言う事件で、旧約聖書には以下の記述が見出せる。

 テラ、カナンの地に往かんとて、その子アブラハムとその孫ロト及びアブラハムの嫁サライを引きつれ、ともにカルデア人のウルを出でしが、ハランに至りてそこに住めり。

テラはハランにて死せり。

 ここにヤハヴェ、アブラハムに言いたまいけるは、汝の国を出で、汝の親族に別れ、汝の父の家をはなれて、わが汝に示さんその地にいたれ。アブラハムすなわち、ヤハヴェのおのれに言いたまいしことにしたがいて出でたり。

 アブラハムその妻サライと、その弟の子ロト、及びその集めたる全ての持ち物と、ハランにて獲たる人々をたずさえて、カナンの地に往かんとて出で、ついにカナンの地にいたれり。アブラハムその地を通りて、シケムのところに及び…・(創世記、十一・十二章)

 彼らがどこから来たかという事については、諸説あるのだが、もっとも有力なのはシュメール人のウルであろうということだ。当時の情勢を鑑みれば、ハランへと北上を目指す一行は他にもあったであろう。なぜならこの時代、シュメール人は絶え間なき侵入に悩まされており、既に前1794年には名高いハンムラビ王が王位に就き、メソポタミアを統一していたからである。

 ハランに長くとどまり、ここを後も「一族の故郷」と宣言してハランの女性との結婚を強制しながらも、カナンの地に留まり続けたのは豊かな気候のゆえであろうか。それとも、絶え間なき侵入になおハランが見舞われていたか、ハムラビが圧制だったか、想像は膨らむばかりである。

 いずれにせよ、中年の統率力のあるリーダー格の男、アブラムに指導された半遊牧民の一団がカナンの地、シケムに着いたこたことは疑いのない事実であろう。彼らはシケムについてもなお、放牧の旅を行っていたとかんがえられる。

 やがてはヘブロンへと居を移し、ヘテ人から土地を買い取り、そこに定住した。当時の彼らは多神教であったのだが、やがてはカナン地方の神、エルを受け入れ、自分達の神とした。エルは天地創造の、至高的な性格を持ってはいたが、一神教ではなかった。つまり、世界初の真の一神教の成立にはモーゼの出現を待つしかなかった。

 アブラムの息子の名はイサク、孫はイエルサレムであり、そのイエルサレムの12人の息子達から今のイスラエル人十二支族と旧約では述べられてはいるが、今ではそのいずれもが元から支族であろうとおもわれる。聖書はこの十二支族全てがエジプトに移動したと述べられてはいるが、実際にはヨセフ族を中心とする一部が他の支族に圧迫されたか、もしくは食糧的事情かなにかでカナンをでて、ナイル川の三角洲地帯に移り住んだのであろう。当時はちょうど、異民族であるヒクソスが支配する時代であったので、異民族に対する扱いは良かったにちがいない。しかし、前1570年になってエジプト新王国が誕生すると、事情は180度異なってしまった。この事件を聖書ではこう書いている。

 ここにヨセフの事を知らざる新しき王、エジプトに起こりしが、彼その民に言いけるは、見よ、この民、イスラエルの子ら、またいくさの起こることあるときは、彼ら敵にくみしてわれらと戦い、ついに国より出で去らんと。すなわち監督を彼らの上に立て、彼らに重荷を負わせてこれを苦しむ。かれら王のために蔵の町、ピトムとラムセスとたてたり。

(出エジプト記・一章)

 強制労働の時代が始まった。強制労働は苛酷で、奴隷として奉仕させられた。そして、300年以上こうした時代は続くのである。ついに耐えられなくなった奴隷達は、エジプトから、父祖の地、カナンへの脱出を企てる。モーゼに率いられる出エジプトがここに行われるのである。

 モーゼの出エジプトは、旧約によるとラムセス2世の死後まもなく、すなわち前1230年ごろと考えるのが妥当であろうと思う。人数は五千人程度。有名な葦の海が割れたという話については、大噴火の影響で海面が大幅に引いたからと主張する学者もいる。また、岩地に杖を突き刺し、水を噴出させたと言う話も、実際にベドウインが今でも行っている

事である。つまり、ユダヤ教の伝説と言うのは、ノアの話にしろ、あながち嘘ではないのである。

 モーゼがどういう人物だったかという事について知る資料は殆ど残されていないが、旧約聖書によるとユダヤ人が迫害されたときに川に流された赤ん坊をエジプトの王女が可愛そうになって拾って育てたと記してあるが、恐らくこれは作り話であろうと思われる。

 統率者モーゼを権威付けする為の一説話であろう。実際はモーゼがエジプト人だったとる説が有力である。多分実際は、地方の長官の職に在ったモーゼがユダヤ人の結束力とその将来性とに見るべきものを見出し、彼らを扇動、統率して出エジプトが行われたのであろう。

 ところで出エジプトというのはエジプト側から見て、それほど重要な事件であったのだろうか。エジプト川の資料にはそれらしき記述を見出す事は出来ない。このころのエジプトでは多数の奴隷が始終逃亡していたという説がある。つまり、出エジプトのような奴隷逃亡事件というのはそんなに珍しい事ではなかった。だから、エジプト川の資料にはそうした記述が見出す事はできない、というのである。これはかなり辻褄の通った話であり、恐らく妥当であろう。その証拠として挙げられているのが以下の記述である。

 王よ。陛下が臣に与えたまう土地で、ハビルが反乱を起こしました。鎮圧に努めていますが、王よ、すべての兄弟が臣を捨て去った事をご承知おき戴きたく、彼らは臣にむかって、攻撃続行中であります。

 旧約聖書によるとイスラエルの子らは、モーゼにひきいられて葦の海(紅海)をわたり、砂漠を放浪し、ネボ山の山顛にたって、神に約束された土地、カナンを見下ろした。モーゼは神ヤハヴェに、この約束の地を示されただけで死に、そのあとをヨシュアがついだ。ヨシュアはイスラエルの子らをつれて山を下り、まずイェリコに攻め込んだ。

 ヤハヴェ、ヨシュアに言いたまいけるは、見よわれエリコおよびその王と大勇士とを汝の手にわたさん。汝らいくさびと、みな町をめぐりて、第七日目には、汝ら七たび町をめぐり、祭司らラッパをふきならすべし。ラッパの声汝らにきこゆるときは民みな大いに呼ばわり叫ぶべし。しかせばその町の石垣崩れおちん。(ヨシュア記、六章)

 後にユダヤ人と呼ばれる人達は、すべてがエジプトにいたわけではなく、カナンの地に多数残っていたはずだし、ヨセフ族のエジプト移住後も、逐次メソポタミア北部から、新氏族が南下してきたかもしれない。彼らの一部が、ハビルにくわわって、カナン諸都市の攻撃に加わった事も想定できるので、エリコを落としたのは、そういうほかの支族であったのかもしれない。カナンの地の民が統一され、聖書が編まれるまでの何百年かのあいだに、民族の記憶がいろいろに混ざり合うという事は、ありうる事だろう。

 四百年以上の歳月にわたって、分裂したままになっているこれらの諸部族を統合して、一つの民族としての自覚をあたえる為には、祖先を共通にしている事を強調する必要があったのだろうと思われる。そして、モーゼ以下、ユダヤの初期指導者達が全力を挙げて打ちこんだのは、まさにその事だったのである。彼らはエジプトのアトン信仰やバビロニア系の月神礼拝の宗教の影響下に、族長の神を全支族共通の大族長神に高める事に努力した。(洪水予測の為にエジプトでは太陽暦が、メソポタミアでは太陰暦が発達した。その影響で、エジプトの神はアトンつまり太陽神が、メソポタミアでは月神が中心的な神の役割を果たしていた。しかし、いずれも多神教の中の一つの神にすぎない。)

 族長神の唯一神化。このことこそが、モーゼの最大の功績であったに相違ないのである。部族を統一する為には、共通の過去、共通の運命を強調する事に重点がおかれるから、必然的に教えは歴史主義的になる。だから実は、天地創造にからまる伝説はメソポタミアの神話の借用にすぎず、ユダヤ教ではことさらこの事を強調しようとはしていない。大きく取り上げられるようになったのは、後世になってキリスト教徒の手によってである。

 族長は父だから、族長神もまた男性の、父性神である。これもまた、ユダヤ教の大きな特質の一つであって、男性神は農耕民族には通用の豊饒の神、母性神に対立する。原始的な民族では、農作物の豊饒と人間の生殖作用を同一視した事が知られている。喜劇発祥として有名なギリシアのディオニソス神の祭りがいい例である。

 バビロニア系の女神イシュタールや、その影響を受けたヴィーナスの起源とも言われるフェニキア系の女神アシュタルテはなおこの地において影響力を強く持っており、イスラエルの民も、カナンへの定着以後は、その影響に染まらないわけにはいかなかった。そして、父性の族長神ヤハヴェは当然この母性神と激突する。だから、古代ユダヤ教の歴史は、放牧民族の神ヤハヴェと農耕民族の異神との戦闘の歴史に尽きると言っても過言ではないのである。

 ではなぜ、放牧民族の神は父性神かつ唯一神になりえたのであろうか。それはイスラム教にも共通する事だが、彼らの住む環境にこそ見出す事が出来る。私には残念ながら経験がないのだが、砂漠の曠野に立ってみれば、そこには強烈に照り尽くす太陽と、灰色の大地とが延々と広がるのみである。そこで、神に似た姿などどこにも見出す事は出来ないのだ。このことから、似姿(イコン)を作る事を禁じた事も納得がいくように思える。

 モーゼはシナイの山中で、神に呼ばれ、民への要求の言葉を聞いた。イスラエルの子らは、その幸福とひきかえに、神のこれらの要求に従う事を求められる。神(エロヒム)は言った。

 われは汝の神ヤハヴェ、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出だせ者なり。汝わがまえに、われのほか、何物をも神とすべからず。汝おのれの為に、なんの偶像をも刻むべからず。また上は天にあるもの、下は地にあるもの、ならびに地の下、水の中にあるもの、なんの形をも作るべからず。

 われヤハヴェ、汝の神は嫉む神なれば、われを憎むものにむかいては、父の罪を子にむくいて三、四代に及ぼし、われを愛しわが誡めを守る者には、恩恵を施して千代にいたるなり。                          (出エジプト記・20章)

 注意深くここを読んでみると、この言葉は神と人との契約だと言う事に気がつく。宗教が契約に類似したものとしてあらわれるということは、歴史上後にも先にも類例を見ないことであろう。もちろん神は絶対かつ強大ではあるのだが。

 半遊牧民族として移動を続けてきたユダヤ人の祖先にとっては、部族間の契約は、生活上つねに重大な問題だった。彼ら新来者は、先住の諸民族と協定を結ばなければ、その土地に安心して住むことは出来ないし、同系の諸民族との同盟も必要なのである。同系部族は、移動してきた時期や、定着した場所によって、職業、性格をそれぞれ異にするから、契約条項もまたいろいろ複雑になってくる。また彼ら以後にも、カナンの土地には次々に新しい民族が入ってきたから、これら新来者との協定も行っておかなければならない。

 アブラハムがベルシェヴァの井戸をめぐって、新来のペシリテの隊長と誓約をかわしたという故事(これを名称の由来としてベルシェヴァとは七つの泉、または誓いの泉の意味である。)は、その間の事情を示す一例だろう。せまい土地に雑多な民族が雑居したということと、そのうえユダヤ人社会それ自体がもつ複雑さが、彼らのあいだに、契約の思想を発達させた。ヤハヴェ宗教の出発点にある契約の思想はここから導き出されるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シナイの山中で、ヤハヴェがモーゼを通じてイスラエルの民に要求した、後にモーゼの十戒として知られる事項は以下の通りである。

1.自分だけをうやまい、偶像を作らないこと

2.みだりにヤハヴェの名を口にしないこと

3.七日目には休むという安息日の掟を守ること

4.父母を敬すること

5.ひとを殺さないこと

6.姦淫してはならないこと

7.盗みを犯さないこと

8.隣人にたいして偽証を行わないこと

9.隣人の家をむさぼらないこと

10.隣人の妻、召使、家畜その他を奪わないこと

 イスラエルの民は、この砂漠の神、偶像をもたないヤハヴェと契約を結んだ。そして彼らの神が偶像をもたず、また偶像をつくることを禁じたことは、ユダヤ人諸部族を統率する上ではかり知れない利点をもっていただろう。偶像は、その土地の風俗、習慣、産業の性格を反映してさまざまな形をとるのと同じように、それぞれの土地の特色と結びつく。

 偶像を許せば、各部族は地域と結びついたそれぞれの像をきざみ、やがては勝手な宗教解釈を育てるにいたる。砂漠の神の抽象的、絶対的な性格は、地域差をこえて諸部族を統一するうえに役だったのである。なおこのことは、ユダヤ人諸部族の場合にかぎらない。ユダヤ教はのちにキリスト教という強力な分派を産み出し、キリスト教は全ローマ帝国を支配するが、カナンに生まれたこの宗教が、ヨーロッパという異質の土地に流れこむことができたのも、その抽象的性格に負うところが大きいのではないかと思う。

 しかしこうして樹立されたユダヤ人社会は、成立とともにただちに、大きな二つの試煉にさらされなければならなかった。一つは農耕民族の神、繁殖豊饒の神との闘争であり、いま一つは海からきた強力な民族、ぺリシテ人の侵入である。

 カナンに定着したユダヤ人たちは、当時既に農耕民族の仲間入りを果たしつつあり、したがって、他の農耕民族の神の影響を防ぐ事は不可能だった。特に、当事カナンで有力だったフェニキア系の神、バール神の影響は強力で、やがてはヤハヴェ信仰と混淆するまでにいたる。

 

 豊饒の観念と生殖とを同一視する原始民族は、春のよみがえりや豊作を祈って、酒を飲み、踊り狂い、神の前で男女乱交する。これはギリシャをはじめ、多くの農耕民族に共通のことであって、狂躁道(オルギア)の存在が、バール信仰とともに、ユダヤ人社会の内部に侵入してきたのであった。

 ユダヤ人の中でも、商人や職人は農耕神の支配をうけることが少ない。彼らは土地の神によって族長の神の地位が脅かされ、繁殖神の狂躁道と乱婚が、部族の倫理をかき乱すのを、我慢できないものに感じた。イスラエルの民がカナンに到着するとたちまち、この淫風に染まり、モーゼ以下指導者層が激怒したことを、聖書は告げている。

 イスラエルはシッテムにとどまりいけるが、その民モアブの女どもと淫を行うことをはじめたり…イスラエル、かくバール・ぺオル神につきければ、イスラエルに向かいて、ヤハヴェ怒りを発したまえり。ヤハヴェすなわち、モーゼに告げて言いたまわく。民の頭をことごとくつれてきたり、ヤハヴェのために、かのものどもを日に曝せ。しかせば、ヤハヴェの激しき怒り、イスラエルを離るるあらんと。         (民数記・25章)

 繁殖神の狂躁道は、相当に猛烈であり、特にアッシリア朝バビロンの性的紊乱は激しかった。したがってユダヤ人祭司層はバビロンを悪徳の都とし、いずれはヤハヴェの力により住民は殺戮しつくされるに違いないと説いた。その影響は当然聖書にも如実に見られる。

 旧約聖書は、そのバビロン的なもの、バールの農耕神への、ヤハヴェ宗教の戦いということもできる。旧約前半は、前9世紀のエリア、前8世紀のホセア、前7世紀のエレミア、イザヤ等の預言者のことばと活動を伝える。これらの預言者が、力をつくして行ったことは、バール宗教への闘争であり、ヤハヴェの義のみちにかえれ、と説くことなのである。

 彼らは堕落した民の罪とわが身の罪を、胸をたたいて責め、民族の贖罪と栄光とを、倦むことなく語りかける。「レヴィ記」から「イザヤ書」「エレミア書」にいたるまで、無数に出てくる性に関するきびしい教えは、新約聖書のキリストの教えを彷彿とさせる。キリストが、女を色情をもって見た者は、すでに姦淫の罪を犯したに等しいと教えた事は有名だ。

 もう一つの敵ペシリテ人は、小アジア西南部から、海づたいに攻めこんできた民族である。この強力な部族は、女子供を牛車に乗せ、男は幅の広い剣と丸い盾をもって、前千三百年ごろから逐次、カナンに侵入し、前千百九十六年には、海陸両面から大挙してエジプ

トを攻撃した。しかし、エジプト侵入は失敗したようだ。

 パレスチナの名の由来ともなったこの民族は、アカイア人の一派ではないかとも言われている。エジプトでは彼らを単に「海の民」と呼んでいる。彼らはエジプト侵入を阻まれたことで、カナンの海岸地帯に住みつくようになり、ユダヤ人を脅かす存在となっていったのである。

 だがユダヤ人はペシリテ人の敵ではなかった。なぜなら、ユダヤ人がまだ銅器しか知らなかったのに対し、ぺリシテ人は、鉄の武器の生産をはじめていたからなのだ。ヨシュアの後継者、ユダは、まずこの武器の懸絶という事実に直面する。

 モーゼの後継者、ヨシュアの死んだあと、イスラエルの子らは、ヤハヴェの命を受けた法官の手でおさめられていた。ユダからサウルにいたる人々がそれであって、学者は彼らを神霊的指導者と呼んだ。歴代の士師(法官)達は、カナン人やペシリテ人との苦闘に、身をささげる。その士師の時代の中でもっとも有名なのが、士師中の紅一点、女傑デボラと、豪勇の巨人、サムソンである。彼らにまつわる伝説は旧約聖書士師記に詳しい。

 隊商の群はとだえ、大路をゆく人影も絶え、ひとびとはものかげを歩み、自由の光りは消え、ひとびとはイスラエルに望みを断ったが、いま、私は立ち上る、私、デボラ。

いまこそ私は立つ、イスラエルの母として…             (士師記・5章)

 盲目のサムソンはヤハヴェに呼ばわり、言いけるは、ああ主よ、願わくは…ただいま一度、われを強くして、我がふたつの目のひとつのためにだにも、ペシリテ人に敵をむくいしめたまえ。                          (士師記・16章)

 こうした士師達の苦闘にもかかわらず、ぺリシテ人の進出はつづき、前1080年、彼らの版図はついに山地に達した。ヨシュアがイスラエル十二支族を集めてヤハヴェに誓いをたてた聖所も焼き払われ、ガレリア地方のユダヤ人は奴隷の地位に落ちる。そして、この圧制を取り除き、ユダヤ人が確固とした一つの王国をうちたてるには、ダヴィデ王の出現をまたねばならなかった。

      

 

     第二部 王朝の興亡   

 前1020年ごろ、サウルにひきいられるイスラエルの兵士たちは、ギルボアの山を降りたところにある泉、ハロドに集結し、西から侵攻してくるぺリシテの大舞台を迎え撃った。サウルはイスラエル民族の要望によって、士師サムエルの手で王に任じられた人物である。彼は六百人からせいぜい二、三千人までの部隊を指揮してゲリラ戦を展開し、よくぺリシテ人を悩ませたが、しかしこの王には、はじめから悲劇的な運命がつきまとっていた。

 彼が王に登用されたのは、ぺリシテの進行が急となり、従来の巫女的、司祭的人物では、指導者として間に合わなくなったことに起因する。政治的、軍事的な能力のある王を民衆は求めた。しかしそういう王が上に立つということは、イスラエルが宗教連合体の性格を脱して、現世的王国となることを意味しているだろう。司祭層はもちろんそれを喜ばない。

 民衆が「現世の王を!」と言ったとき、士師サムエルははじめこう言って、その要求をしりぞけようとしている。

 サムエル言いけるは、汝らを治むる王のならわしはかくのごとし。汝らの男子を奪り、おのれのためにこれをたてて戦車にのらしめ、馬にのらしめ、また戦車の前駆となさん。

 またこれをおのれのために、千夫長、五十夫長となし、またその地をたがやし作物を刈らしめ、武器と車器とをつくらしめん。また汝らの女子をとりて香料作りとなし、厨の下婢となしパン焼婦となさん。汝らの田畑とブドウ畑とオリーヴ畑のもっともよきところをとりてその下僕にあたえ、汝らの穀物と汝らのブドウの十分の一をとりて、その宦官と家臣にあたえ…                        (サムエル前書・8章)

 だが、イスラエルの民はそのことばを耳に入れず、「先頭に立って戦う王」を、「他国民と同じように」自分たちも欲しいといい、ここにベニヤミン支族のサウルに、召命が下ったのである。でもサウルの地位は決して強固なものではなかったので、宗教連合体としての伝統と、すでにその結合形態では生きていくことのむつかしい現実的条件との、両者に引き裂かれる宿命を、はじめから負わされていたわけなのだ。

 彼はそれでも、基本的には司祭的、士師的な立場に立って行動したし、少なくともそうなるようにつとめている。民族の結合の基礎が宗教にあり、自分の王位もそこからあたえられたものである以上、最善のみちは、司祭的王となる以外になかった。

 しかし彼に課された機能は、何よりも現世的王であることだった。彼は軍事上の必要から、士師サムエルの仕事である燔祭を、禁を犯して自分で行って、サムエルの怒りを買い、またサムエルが、敵の家畜すべてを殺して神に捧げよ、と言ったことばにも、財政上、軍事上の必要を考慮して従わなかった。サムエルはこのことがあって以来、サウルを憎んで二度と会わなくなり、「ヤハヴェはサウルを、イスラエルの王となせしを悔いたまえり。」

 サウルはサムエルに詫びをいれるが、士師は彼を許さない。サムエルの死とともに、サウルは巫女、占者を全土から追放しようとさえした。また邪魔をする司祭を殺すことも考えたらしい。しかし宗教連合体の司祭者層によって支持され、王になった彼が、司祭層に見離されては、王として立ってゆけないことになるのだ。現世権力だけで一人立ちできるほど、王権はまだ強いものではなかった。

 ついにサウルは絶望し、ぺリシテの大群をエズレルの野に迎え撃つ。エズレルの平原はかつてデボラがカナンの戦車隊を撃破した戦場である。しかし、こんどは奇蹟は起こらず、ペリシテの戦車はイスラエル軍を縦横に踏みにじり、ギルボア山に逃げ残った残兵は、追撃するペリシテの弓隊の標的となって、次々に倒れる。サウルの三人の子供が死に、サウルも矢をうけて重傷を負った。サウルは逃げられないのを知って、従者に殺してくれと頼んだ。従者がためらっているのを見ると、サウルは自ら剣をとり、その上に伏して死んだ。

 従者も殉じ、剣に伏した。ペリシテ人は、サウルの屍を発見して、その首をはね、ベト・シャンの城壁に曝した。

 サウルのあとに立ったのは、ユダ支族のダヴィデであった。ダヴィデはキリストと同じ(というよりも、無理に同じにしたらしいのだが)ベツレヘムの出身である。サムエル書では、サウルがヤハヴェにきらわれたとき、すでにダヴィデに召命があり、王として油を塗られた事になっている。ダヴィデはサムエルにしたがって戦場に赴き、ペシリテ方の巨人ゴリアテを倒したりして、数々の偉功を立て、サウルの娘を妻としてもらった。だが、そのあまりの功績ゆえにサウルの嫉みをかい、身の危険を感じたダヴィデはペリシテ方に亡命し、傭兵隊長として1年4ヶ月働いた。

 ダヴィデその従者とともに出で立ち、ゲシュル人、ゲセリ人、アマレク人を襲うことをこととせり。むかしよりこれらの部族は、シュルにいたる地に住みて、エジプトにまで及べり。ダヴィデ、その地をうちて、男も女も生かし残さず、羊と牛と駱駝と衣服を奪いて帰れり。                         (サムエル前書・27章)

 ペリシテの傘下で働くうちに軍事的技術を習得したダヴィデは、同時にイスラエルの諸部族の長老達の懐柔も怠らなかった。そして、サウルが死ぬとすぐにペリシテを脱して、ヘブロンに入った。彼はここに南方イスラエル6支族を集めて、その王となり、ユダ王国をつくった。前1004年のことである。

 これにたいして、北方系六支族はサウルの遺児イシュバールをたて、マナハイムを首都にして、イスラエル王国を作った。ニ王国による内戦は七年以上も続いたが、イシュバールが内紛によって殺害されるに及ぶと、北王国イスラエル系の六支族の長老がダヴィデ王の元に来て、契約を結び、彼を南北両国の兼任の王とすることをしぶしぶ認めた。

 全イスラエルの王ということになれば、ヘブロンにいては南に偏して不都合だし、マナハイムでは北に偏るだろう。二つの聖所、ヘブロンとシケムとの中間ということなら、それはエルサレムでなければならない。ここなら、サウルのベニヤミンとダヴィデのユダ族との境なのだ。ここに、後に聖都となるこの都の攻撃が発議された。

 エルサレムは北側を別として、三方が谷にとりかこまれたいわば自然の砦である。その上に聳え立つ城壁は、難攻不落の様相を呈していた。

 エブス人、ダヴィデに語りて言いけるは、汝ここに入ることあたわざるべし。かえって盲人、跛者、汝を追い払わんと。               (サムエル後書・5章)

 そこでダヴィデは策戦をめぐらして、エルサレム攻略を試みた。

 ダヴィデ、その日言いけるは、誰にても地下水道にいたりて、エブス人を撃ち、またダヴィデの心のにくめる跛者と盲人を撃つ者は、首領となし、長と為さん。    (同上)

 このダヴィデが使った地下水道の入り口は、聖母マリアが使ったといわれる処女の泉である。(これも無理にこじつけただけにすぎないが。)1910年にこの処女の泉が発見され、実際にここから通じた地下水道が城内に通じていることが確認された。

 こうしてエルサレムは奇襲によって落城した。ダヴィデはここに移って城壁を増築し、王宮をつくり、この地をダヴィデの町と呼んだ。エルサレム、すなわちカナンとも呼ばれていたこの町は、ここにダヴィデ王の直轄領となり、ダヴィデはここを首府として、南北二つの国を支配することになったのである。

 

 ペリシテ人は、ダヴィデがヘブロンにいたあいだは、まだ彼を自分の配下とみなしていただろうし、ユダ、イスラエル南北朝の対立は、彼らにはむしろ歓迎すべきことであっただろう。しかし二つの王国が統一され、ダヴィデが王になったとすれば、話は別なのだ。

 ペリシテはこのことを知るとすぐさま大群を差し向けた。ペリシテの作戦としては、ダヴィデの出身支族ユダ族の根拠地であるヘブロン、ベツレヘムをまずたたこうとして、ベツレヘムに近いファイムの谷に侵入した。一方ダヴィデは兵を率いてエルサレムを出発して、両者はバール・ペラツィムの地で両者は会戦した。

 結果はダヴィデの大勝利であった。ペリシテはその後、再度大群をもって同じ谷に侵入するが、またしても惨敗を喫し、これをもってペリシテの力は著しく凋落し、もはやイスラエルにとって脅威と呼べるほどのものではなくなっているのである。彼らは海岸にたむろする小集団の地位に転落した。一方の狂的を屠ったダヴィデは、ひきつづき、モアブ人、エドム人等、かつてはイスラエル人を悩ました国内の少数民族を征服した。

 

 ダヴィデの軍は、とおくダマスカスをこえ、ユウフラテスの河岸まで達する。ユウフラテス河からエジプトの国境にいたる大王国が、いまや建設されるのである。王国の建設後、ダヴィデはフェニキアの諸都市と友好関係を結び、ティルスから技術およびレバノン杉の資材の援助を受けて、エルサレムに王宮をつくった。

 従来モーゼの神、ヤハヴェは砂漠の神であり、一定の地域と結びつかないことを、その特色としていた。それまで、神の住居とみなされていたのは、神との契約、つまり律法をおさめた箱であり、箱はシロ(シケム近くの地名)の聖所に安置され、戦争のときには、ユダヤ人たちはこの箱を担ぎ出していた。箱はヤハヴェが、モーゼに命じてつくらせたものなのである。

 アカシアの木をもて箱をつくるべし。その長さは二キュビト半(1.25メートル)、その幅は一キュビト半、高さは1キュビト半なるべし。汝純金をもて、これを覆うべし。すなわち内外ともにこれを覆い、その上の周囲に金の縁をつくるべし。汝金の環、四個を鋳てその四隅につくべし。棹は箱の環にさしいれおくべし。それより抜きはなすべからず。汝、わが汝にあたうる律法を、その箱に納むべし。      (出エジプト記・25章)

 エルサレムに首府をおき、王城をつくる以上、神にもこれにふさわしい神殿を捧げるのが順序ということになる。しかし神殿をつくって、神を一定の地域に住まわせることになれば、司祭層の反発は免れないし、重大な変革であったに違いない。じじつ、預言者ナタンは、はじめ拒否をもって答えている。

 ヤハヴェのことば、ナタンに臨みていわく。ゆきてわがしもべ、ダヴィデに言え。「ヤハヴェかく言う。何時わがために、われの住むべき家をたてんとするや。われはイスラエルの子らを、エジプトより導き出だせしときより、今日にいたるまで、家に住みしことなくして、ただ天幕と幕屋の中に歩みいたり。われイスラエルの子らすべてとともに歩めるところにて、汝ら何故にわれに香柏の家を建てざるやと。一言だにも語りしことあるや。」                           (サムエル後書・7章)

 契約の箱は、ペリシテ軍がシロに侵入したとき奪い去られ、その後、諸所を転々としたらしい。ダヴィデは子の神の箱を運んできて、エルサレムに安置して祭壇を築いた。これは現在の岩のモスクの位置にあたる。ダヴィデは結局、フェニキアから材料をとりよせただけにとどまり、神殿建設はその子、ソロモンの手にゆだねられるのである。

 神殿の建設は、モーゼの神、ヤハヴェがあれほど憎んだ偶像や彫像の崇拝を誘発するだろうし、エルサレムを聖都として神聖化する機運をもたらすだろう。ダヴィデ王が、完全に現実的な理由から選んだ都、シオンの地は聖都となった。のちにエルサレムから追われたユダヤ人は、聖なるシオンの丘をしたって、涙を流すことになる。そしてやがてはキリスト教徒と回教徒とが、ユダヤ人にみならって、エルサレムに神秘の光を見るだろう。

 ダヴィデ王は、現実的政治家として連合王国を形成し、領土を異民族の土地にまで拡張する一方、最後までヤハヴェに対する忠誠を誓い、この二つの要素を巧みに両立させていった。サウル王の時代とちがって、時代は彼にこの操作を可能にさせたのだが、やはりときおり、伝統的なヤハヴェ宗教と対立することを免れなかったのである。その例が、人口調査問題やアブサロムの反乱などである。

 ダヴィデ王が晩年力おとろえるようになると、家督相続をめぐって彼の生ませた幾多の子供達が争いを始めた。そのなかで、軍の総司令官ヨアブは、アブサロムの弟、アドニアを後継者として推し、預言者ナタンはソロモンを推す。

 この家督相続の争いは、預言者ナタンが王ダヴィデに直訴したことで決着をみるのである。ソロモンが常備軍の主力をなす外人部隊の支持をえていたことが決定的だったと思われる。ソロモンは、この部隊に守られ、王位継承のしるしとして、処女の泉で油を注がれるのだ。

 

 

 かくて祭司ザドクと預言者ナタンおよびクレタ人とペリシテ人ら、ソロモンをダヴィデ王の騾馬に乗せて、これを処女の泉に導きいれたり。しかして祭司ザドク、幕屋のうちより膏の角をとりて、ソロモンに膏注げり。かくてラッパを吹き鳴らし、民みな、ソロモン王の命ながかれ、と言えり。                  (列王紀略上・1章)

 栄華と智慧で名高い王者、ソロモンがこうして王位を獲得する。彼はダヴィデの死後、王位につくと、ただちに反対派を粛清し、エジプトの王女と政略結婚して国境をかため、国内の軍備、政治体制を確立する一方、父の遺志をついで、エルサレムに巨大な神殿を構築する。これがいわゆるエルサレムの第一神殿である。

 ソロモンはダヴィデと同じように、南北両王朝十二支族の宗教連合体を束ねる王であり、特に北朝とは契約による主従関係であったが、版図内の異民族に対しては遠慮なく奴隷として酷使した。

 十二支族のうちでは、彼の出身部族であるユダ族が、とくに優遇されていた。しかし即位直後の粛清以後は十二支族の団結が保たれ、フェニキアの船は彼に財宝をもたらし、エチオン・ゲベルに精銅所をつくった。

 しかし、かれの派手な土木事業によって民衆の負担は重いものとなり、彼が死んだとき、それは爆発した。ソロモンの子、レハベアムの代に、ユダ、ベニアミン、ニ支族を除く十支族は、イスラエル王国を結成してエルサレムのユダ王国から分離するのである。

 こうして大王国は、ダヴィデ以来、わずか七十年で崩壊する。南北両王国の争いは、以後数百年にわたってつづき、結果として両国とも著しく衰えた。これを見た周辺列強はここぞとばかりに攻めてきた。

 まずエジプトがユダ王国を攻め、財宝を奪い取った。つづいてダマスのアラム人が独立し、さらにアッシリアがイスラエル王国を侵蝕した。そしてついに前721年、首都サマリアは三年の防戦ののち陥落した。かれら十支族の行方は誰にも知られることはなかった。

 

 

 

 

        第三部 民族の危機 

 汝らユダに告げ、エルサレムに示して言え。ラッパを国中に吹けと。また大声に呼びまわりて言え、汝ら集まれ、城壁ある町にゆくべしと。シオンに示す合図の旗は立てよ。逃げよ。とどまるなかれ。

 そはわれ、ヤハヴェ、北より災いと、大いなる滅びをもたらすなればなり。獅子はその森より出でて上り、国々をほろぼすものは進み来たる。汝の町々は、滅ぼされて、住むものなきにいたらん。                      (エレミア記・4章)

 エレミアがこれを語ったころ北の仇敵アッシリアは、すでに新興バビロニアに圧迫されて、ユダ王国には久方ぶりに明るい兆しが見え始めていた。だが、知識人エレミアの目には、やがてくる真の悲劇が映っていたのかもしれない。

 北王国イスラエルの滅亡後、アッシリアの従属国となることでなお百五十年その命脈を保った。もちろんその間、民族の自立的回復を目指す動きはあったが、つねに不幸な結末をもって終わった。

 外国による征服は、宗教的干渉を含み、異神バールの礼拝はおおっぴらに行われた。したがって当然、指導者層は宗教改革をおこなった。そしてヒゼギアには予言者イザヤが、ヨシュアにはエレミアが、つきそっていたのであった。

 前705年、ユダ王ヒゼギア(前715-686)はサルゴン二世が殺されたのを契機として、エチオピア系エジプトの援助の下アシュケロン、ペシリテの町々と結んでアッシリアへの従属をたったのだが、アッシリアの前にこうした同盟はむなしく、前701年にエルサレムは包囲を受けた。陥落はかろうじて免れたものの、多額の賠償金を課され、多くの女達が奴隷として連れ去られた。

 ヒゼギアの孫がヨシュア(前647−609)である。彼はバール神の追放、宗教界粛清に乗り出した。バール神その他、アッシリア系の神殿を破壊し、その器物、偶像を集めてキデロンの谷で焼き、ヤハヴェの神殿のそばにあった神殿用男娼の家を壊し、司祭をすべて追放した。そればかりでなく、エルサレム以外のユダ国内各所にあったヤハヴェ祭壇を破壊し、イスラエル国王の王たちの作った祭壇では、司祭たちを殺してその屍を壇上で焼くことまでした。

 エルサレムの神殿を頂点とする宗教への単一化、純粋化をはかったわけである。この背景にあったのは、アッシリアの衰退で、アッシュールバニパル王は前630年に死んでいた。そして前612年、ついに首府ニネヴェがメディアと新バビロニアの手により陥落して、アッシリアは滅亡した。

 アッシリアの滅亡はカナンの旧アッシリア植民地に解放をもたらした。しかしヨシュアはエジプト王ネコと戦って死に、それとともに宗教改革も頓挫し、以後、ユダはエジプトの従属国になった。しかしそのエジプトも新バビロニアに敗退すると、ネブカドネザル率いる新バビロニア(カルデア)が侵入してきて、約一万人を王とともに拉致した。これがエルサレム1回目のバビロン捕囚であり、前597年のことであった。

 ユダ王国は11年後、エジプトの援助を頼んで反旗を翻したが、1年六ヶ月の抵抗の後、エルサレムは落城し、王ゼルギアは前王エコニアの捕らえられたバビロンへとひかれていった。これが前586年のことである。

 この年をもってイスラエルの子らの王国は消滅し、指導者のすべてがバビロンに捕囚として連れて行かれた。ユダヤ人はバビロンの流れのほとりに、シオンの丘を思って涙を流す。いまは彼らは捕囚の身であり、土地も国家も神殿もすでにない。

 ユダヤ人の不幸は、律法を守らなかった人々への、神の怒りのあらわれであると説明されてきた。だが、バビロンにイスラエルの子らが連れてかれたことも神の怒りなのであろうか。国が滅んだのだから、自分たちの神への不信はでなかったのだろうか。

 多くのユダヤ人は逆境の中にあってなお、ヤハヴェを信じつづける道を選んだ。それは宗教こそが彼らの民族としての自覚を支えていたものにほかならないからだ。だが、国家なき民は如何にして可能かという、ユダヤ人特有の爾後二千五百年にわたる問題はこのときから頭をもたげたのである。

 イスラエルの子らにとっては、宗教は国家のつくられる以前に存在したから、根本的にはその特質がこの難問題にこたえる上で、大きな利点となったことは言うまでもないし、ヨシュアの申命記改革は挫折したとはいえ、信仰形態に国家的統一をあたえ、律法を強化し、えらばれた民としての自覚を呼び起こして、民族が宗教を中核に破局を乗り越える準備を行っていたのである。申命記改革によって準備された捕囚期以後の宗教こそが、それ以前のヤハヴェ信仰とは区別した意味でのユダヤ教なのである。

 捕囚の危機は、かれらに、その境遇に耐えて生き抜く道を学ばせた。国家なき民族の生き方を求めて、ユダヤ教は形成されてゆくのである。 

        第四部 つかの間の自由

 

 前538年にアケメネス朝ペルシアによってユダヤ人たちはバビロンから解放され、祖国に戻ることを許された。その翌年に、新バビロニアは滅亡する。代わったペルシアは、異民族には極めて寛容だったようで、ユダヤ人も安心してこの時期に律法を完成させていく。しかし、ペルシアの栄華も長くは続かず、ペルシア戦争に破れたことで、その影響力は減退。ペルシア国内で通商活動をして稼いでいたユダヤ人もいたであろうから、ユダヤ人も多少なりともその波及は及んだであろう。

 ペロポネソス戦争の内紛により一時、ペルシアの力にも光がみえるが、それもつかの間、アレクサンドロス率いるマケドニアにペルシアは滅ぼされてしまう。前330年のことである。アレクサンドロスの死後分裂したその帝国の中で、パレスチナはセレウコス朝シリア領になった。

 ある日、モディンという村にセレウコス朝シリアの役人が来て、司祭マタティアに、ギリシャの祭壇に犠牲をささげることを要求した。諸国民の民がそうしているように、皇帝の勅命にしたがって自分の宗教を捨て、先頭に立ってギリシャの祭壇に犠牲を捧げよ。そうすればマタティアは金銀と無数の贈り物をあたえられるであろう。

 ユダヤ人の一人が進んで犠牲を捧げるのを見て憤慨したマタティアは役人を斬殺し、祭壇をひっくり返すと、市民に向かって叫んだ。

 「律法に情熱の火を燃やすもの、宗教連合を支持するものは、だれであれすべて、わがあとに続け。

 マタティアはユダ(マカベ)、シモン、ヨナタン等五人の息子と、彼らを支持する人々をひきいて山に潜伏し、ゲリラ戦を開始する。老マタティアの死後、ユダがエルサレムを占領し、その戦死後はヨナタンがこれを継承して、セレウコス朝に正式に大司祭の職を認めさせた。ヨナタンが殺されると、その兄弟のシモンが継ぎ、彼が暗殺されると、その子ヨハネス・ヒルカヌスが継いだ。ヒルカヌスはローマの援助を得て、ユダの独立を回復し、東ヨルダンからサマリアにわたる王国を建設した。

 

 王国の建設により当然、司祭は世俗的権力を帯びるようになった。これに反発を覚えた一部の人々は律法への忠誠を説いた。これがパリサイ派の始まりである。他方で、国家の利害に敏感な一群も存在し、サドカイ派と呼ばれるようになる。当然ながら大司祭ヒルカヌスは後者と結託した。

 パリサイ派は新約聖書ではキリストにことあるごとにその因循と形式主義を批判され、頑迷固陋、偽善者の代表のようにみなされている。だがこれは歴史的事実ではないだろう。パリサイ派とサドカイ派の相違は、パリサイ派がなによりも立法を重んじ、国家のことは二の次にしたのに対して、サドカイ派は国家を優先したことに集約される。サドカイ派が国家主義的だったのに対して、パリサイ派は国際主義的、国際協調的だったのである。

 パリサイ派は、マカベ革命の先頭に立った熱心な宗徒たち、ハシディーム(敬虔党)からでている。パリサイとは分離、離脱のことで、不浄な食物や不純なものからの分離を意味するというが、後には蔑称としても用いられ、彼ら自身は多く『仲間』と呼び合っていたらしい。サドカイ派が成文化した律法を金科玉条とみなし、字体までも、古い伝統的自体を復活しようとしたのに対して、パリサイ派は律法の口語伝承を重視した。後者は農民層や字の読めない大衆に深く食い入り、前者は都市の貴族、祭司階級に、支持を得る。

 パリサイ派は、のちにヘロデ王朝の支配下で、社会矛盾が激化し、階級差が大きくなるにしたがって、さまざまに分派し、隠者的なエッセネ派(現在のエルサレムにいる保守派はこの末裔である。)や、逆に戦闘的な熱心党を両翼に生み出す。また、捕囚期のころから一種の彼岸思想があらわれていた。彼岸には生きたままではゆけない道理だから、当然そこには復活の思想や、奇蹟を実現してくれる救世主出現の思想がともなうだろう。そしてこの面を受け継いだのも、パリサイ派だった。

 しかしこのパリサイ派とサドカイ派の争いこそが、外国の侵入を招き、結局、エドム人の策士、アンティパテルと、ローマとにつけこまれるである。前63年、マカベア王朝は事実上廃止される。アンティパテルの子、ヘロデはユダヤ人の独立運動を鎮圧して、ローマ軍の援助のもと、反逆者の首をはね、ハスモネ家の女マリアンム(のちに彼女はヘロデに殺された。)を娶り、正式に王位についた。

 ヘロデは恐怖政治を布く一方、ユダヤ人を懐柔するためにエルサレムの神殿の大改造を行なう。これが聖書に出てくる神殿であり、第三神殿である。西側の谷にむかって築いた巨大な石の城壁の一部は、いまもなおヨルダン側の城内に残っていて、「嘆きの壁」として知られている。

 イエスは神殿の崩壊を予言し、このことが今まで彼が批判してきたパリサイ派だけでなく、サドカイ派も怒らせ、十字架上の悲劇をわが身に呼び寄せる結果となった。しかし、その予言は30年後に現実のものとなった。

 紀元66年、全パレスチナのユダヤ人はローマに抗って蜂起する。投降したローマ兵を皆殺しにし、導師(ラビ)ガレリアのメナヘムはマッサダの武器倉庫を遅い、エルサレムにどうどうと帰還した。一方、シリア総督セスティウス・ガルスは、多くの軍勢をひきつれてエルサレムに迫ったが、エルサレム市民は善戦し、ベト・ホロンでこれに壊滅的打撃を与える。ネロ帝12年のことである。

 ローマはヴェスパシアヌスに兵を授け、彼が皇帝となった後には、その子ティトゥスが将となった。ヴェスパシアヌスは67年、ガレリアの野に兵を進める。対するは、パリサイ派の若き指導者フラヴィウス・ヨセフス率いる混成部隊だった。ヨセフスはヨタパタの町に篭城するも、巨大な投石器を擁したローマ軍の前には無力で、降伏を余儀なくされた。

 ヨセフスは、ローマ軍に投降を促され、市民達の轟々の批難を浴びて一人おめおめと生き延びる。彼はローマ投降後はローマと自分の行為を正当化するための史書を書く。皮肉なことにユダヤ人の歴史はこの男の手によって後世に伝えられるのである。

 一方の首府エルサレムの状況は日々、悪化していた。ギスカラのヨハネは熱心党と手を組み、穏健派を粛清。その後、再び穏健派が盛り返して、シモンが実権を握る。こうした間にもティトゥス率いるローマ軍は迫ってきており、城内には百万人近くの市民がいた。

もはや内戦をしている場合ではなく、お互いに協力してローマ軍にあたることになるのだが、ローマの大軍はあまりに強大であり、かつエルサレムの町に百万人はあまりに多すぎた。半年の篭城後、ついにエルサレムは陥落する。そのあとには人っ子一人、建物一つと残らなかったと言われるほど、悲惨なものであった。

 なおも三年間、ユダ族の残党達千人がマツサダに立てこもってなおも抵抗したが、全滅させられてしまった。また、132年のハドリアヌス帝時代の反乱もむなしく、残った建物までもがこのとき壊されてしまった。

 このときから、カナンの地はその名をシリア・パレスティネンシスと改められ、エルサレムはコローニア・アイリア・カピトーリーナとなった。ユダヤ人はエルサレムに立ち入ることを禁じられる。ユダヤ人ニ千年の苦難がここに始まるのである。

       第五部 長き屈辱の時代 

 

 宗教民族連合体の拠点としての拠点から完全に追放されたユダヤ人たちは、ヨセフスの伝えるように全ローマ帝国の各地に離散(ディアスポラ)していった。さらに、ユダヤ教の分派としてのキリスト教が影響力を行使し、ついにはコンスタンチヌス帝のミラノ勅令で公認を勝ち取り、テオドシウス帝期には国教化される。このようなキリスト教の、政治的な勝利のもとでユダヤ人は不当な差別をも耐えていかなければらない運命となる。

 それはキリスト教がユダヤ教を起源としているから故に、キリスト教には常に競争相手として対抗せねばならないという特殊な事情とあいまって、キリスト教会の執拗な憎悪に原因があると思われる。

 神の国の著で有名なアウレリウス・アウグスチヌスは、その著のなかでユダヤ人がキリストを信じようとせず、十字架にかけて殺したが故にキリストは死去し、復活しなければならなかったとして、ユダヤ人にキリスト殺しの共同責任があるという見解を示したことがそれを如実に示している。だが一方で、教皇グレゴリウス1世はキリストの生き証人としてのユダヤ人の生命を護持し、彼らの信仰や宗教的儀式、墓地やシナゴーグを保護する必要があると説いた。

 こうした教会のユダヤ人観により、彼らは滅びることも消滅することも許されず、偏見と憎悪の中でいきつづけなければならない運命に陥っていた。

 ローマ帝国が滅んだあとのヨーロッパを支配したフランク帝国のカール大帝の保護下でユダヤ人が国王の商人(ケーニヒスカウフマン)の名のもとに特別な保護を受けていたことはよく知られている。彼らは単に商人としてだけでなく、水先案内人や物資の調達者としても活躍し、王に忠誠を誓っていた。

 そして、ユダヤ人団体(ゲマインデ)内部では、民事裁判権も認められていた。ユダヤ人は聖書の民として特別な保護を受けていたので、10世紀ごろまではキリスト教ととの間に共存できる寛容さが存続していた。しかし、こうした寛容の時代も永遠ではなかった。キリスト教世界を代表する事件とともに事態は急変するのである。

 

 10世紀末から11世紀にかけて、西欧社会に大きな社会・経済的変化があった。農業生産技術の改良・発達、土地の開墾とそれに伴う生産力の向上は大幅な人口増加を可能にし、そこから生まれた余剰労働力は公益・交通の発達を促すと共に、成立しつつあった中世都市の発達を多いに刺激した。

 聖職者の堕落とその結果生じた教会改革や叙任権闘争における教皇権と皇帝権の対立は多くの政治不安を引き起こした。また、人口過剰によって生じた民衆の貧困化や社会的不満、弱小封建諸侯の没落などはキリスト教社会の緊張度を極度に高めた。こうした動きのまっただ中でローマ教皇ウルバヌス2世は地上における神の代理者たる自己の権威を絶大なるものとし、当時の政治・経済・社会・宗教的矛盾や不満・不安によって生じた猛烈たるエネルギーを結集すべく、西欧キリスト教世界に共通する聖地奪還のための十字軍を呼びかけた。

 キリストの聖地を取り戻そうというスローガンのもとに糾合された十字軍は、異教徒に対する異常な宗教的情熱と戦闘意識を生み、その最初の犠牲となったのがライン川沿いの古都に居住していたユダヤ人であった。十字軍以来、「改宗しようというユダヤ人の根絶(アウトスロットウング)」という思想がはじめて現れるのである。異教徒との対決、キリストの神の教えに耳を傾けようとしない考えや意図は、古くから教会内に成立していた

 「キリスト殺し」の神学に裏打ちされていた。以後、ユダヤ人迫害熱はことあるごとに燃え上がることになるのである。大量殺害を伴う十字軍のユダヤ人迫害をもってキリスト教徒とユダヤ人との決裂は決定的な段階に入り、将来におけるゲットー成立の重要な背景となってゆく。

 ユダヤ人はその自らの閉鎖性故に迫害を受けてきたという見方がある。たしかに、ユダヤ人には選民思想に代表されるその宗教の特殊性があり、他との接触をあまり好まなかったという面は否定できないが、それよりもっと根本的な問題として、迫害が迫害をうむという悪循環が働いたこと、そしてその発端としてキリスト教の布教政策上の産物があったということが出来ると思う。つまり、迫害の口火を切ったのは言うまでもなくキリスト教徒達であり、彼らが権力を手中にした後はそのことが布教政策という名のもとに正当化されてきたという歴史があることを忘れてはならない。

 だから、ユダヤ人達の閉鎖性を迫害の因子と決めつけてしまうのは、あまりに彼らが好むと好まざるとを問わず置かれてきた状況を鑑みていないということになりはしないか。むしろ彼らはその閉鎖性を固持することでしか自らの宗教を守る手段が残されていなかったと見るほうが妥当でないかと思う。

 ドイツ中世において宗教的な観点以外の立場からユダヤ人を異質の集団として差別視する上で大きな意味を持ったのは皇帝によるユダヤ人団体の王庫(カイザリツヘ・カンマー)への隷属化であった。1090年、ザリエル朝3代目神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世はヴォルムスのユダヤ人団体に特別な国王の保護令を発し、ユダヤ人が王庫に属することを明らかにし、彼らに関する諸規定はすべて皇帝によって定められることを宣言した。

1.土地、家屋、ブドウ畑、耕地などの動産、不動産の相続権の保障、市内(ヴォルムス)における居住の自由。

2.両替商(ゲルトヴェクセル)の権利保有。

3.王国内における自由、無制限な商取引と関税の免除。

4.不本意な外来者の宿泊受け入れ、馬車の供与義務からの解放。

5.ユダヤ人が購入した盗難品を返還する際には、それに相当する額がユダヤ人に払い戻されるべし。

6.強制洗礼の禁止、これに違反したものは王庫に罰金を払う。しかし受洗したものは祖父より受け継いだ特権や相続権を失う。

7.キリスト教の祝日や日曜日以外に、キリスト教徒の女中や下僕を使用することを許可、これに対し教会の司教・司祭は異論をはさんではいけない。

8.キリスト教徒の奴隷購入は禁止。

9.キリスト教徒とユダヤ人の係争は現行法の適用により裁定が行われる。

10.何人もユダヤ人を勝手に裁定してはならず、また捕虜としたり、投獄したりしてはならない。国王への控訴権の保障、これらを無視した者は王庫へ罰金を払わなければならない。

11.ユダヤ人同士の係争は、彼らの裁判官により裁定が行われるべし。他人によって行われるべきでない。

 これらのユダヤ人保護規定を無視した者には罰金が科せられる。

 以上のハインリッヒ4世によるヴォルムスのユダヤ人に対する保護規定は、その後赤髯(バルバロッサ)で有名な、ホーエンシュタウフェン朝皇帝フリードリッヒ1世によって1157年に再確認されたのみでなく、1236年にはその孫のフリードリッヒ2世によってこの規定は神聖ローマ帝国全土に拡大して適応されることになった。こうして、ドイツにおけるユダヤ人の法的な地位は決定的となり、一般の人民からはっきりと区別される存在となっていったのである。

 神聖ローマ帝国皇帝はユダヤ人を特別に保護する代償として、彼らに種々の納税義務を課した。キリスト教社会の中で「キリスト殺し」のレッテルを貼られたユダヤ人は、先にも述べたような理由からしばしば迫害に遭う弱い立場にあったため、為政者による保護を絶えず必要とし、またそれに依存して生きていかざるを得なかった。皇帝にとって、そうした不安定なユダヤ人を保護することの最大の目的は、経済的な関心からであった。後にこのことはエスカレートし、14世紀にユダヤ人は皇帝の私有財産とされた。

 1215年、教皇インノケンティウス3世下のローマで開催された第4回ラテラノ宗教会議は、ユダヤ人をキリスト教社会から締め出し、隔離する上で極めて重要な決定と方針を打ち出した。この宗教会議が打ち出したユダヤ人対策は、ユダヤ人に対する一定の服装(ハビトゥス)、つまりとんがり帽子やマント、頭巾、ユダヤの印としての黄色のリング等を身につけることを義務付けたことであった。はじめはなかなか実行されなかった会議のこの決定も、13〜15世紀を通して徐々に徹底されて行く。

 また、この宗教会議では、ユダヤ人を決定的な孤立へと陥れるもう一つの重要な取り決めを行っている。それはキリスト教徒間での利息を伴う金の貸し借りを破門をもって厳格に禁止したことである。しかし、教会法の対象とならないユダヤ人は、堂々と利息をとって金を貸すことができた。

 すでに職人組合ギルドから締め出され、土地所有を伴う農業などからも締め出され、店舗もかまえることもできないユダヤ人には、金貸し業か両替商しかその活路を見出すことはできなくなっていた。いつ追い出されるか分からないユダヤ人にとって、金があればどこの地に行っても生活できたわけなので、金にまつわる職業は格好の生きる道となった。

 しかし、いうまでもなくキリスト教のモラルに反する高利貸し(ヴウーハー)はキリスト教徒の非難と軽蔑の的とならないはずはなく、隣人愛の精神を前提としていたキリスト教社会にあって、ますますユダヤ人が孤立、迫害へと追いこまれるのは必然で、ユダヤ人の隔離はこうした面からも現実化していった。

 1348年から49年にかけてヨーロッパを襲った黒死病は、人口の3分の一に相当する3500万人の命を奪った。だがこの時、ユダヤ人はその厳格な食物規律ゆえに死者があまりでなかった。しかしこのことがかえって大衆の嫉みを招き、ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだという全くのでっち上げの噂が広がり、ユダヤ人の大迫害が行われた。皇帝もこの迫害にはお手上げだったようで、結局一万人以上の犠牲者がでた。迫害が終わったあとにはすぐユダヤ人に対する再受け入れがなされたが、あつかいは以前と全く違うものになっていった。

 以前は都市の市民名簿に登録された市民として長期滞在と居住の自由が保障され、一定の商業活動や金貸し業を営みながら生活していたドイツのユダヤ人は、一般のキリスト教徒とは一緒には市民台帳には登録されないようになり、別個に記載されて差別扱いを受けるようになった。そして、ユダヤ人の新しい居住権や納税義務、金貸し業についての規定、また種種の制限を定めた特別なユダヤ人規定が設けられた。しかも居留権を中心とするこの新しい規定では、ユダヤ人の居住地区が指定された場合が多く、教会などから離れた場所にしか居住することができなくなった。そして生活の基盤となる居住滞在許可は、おりるまで数年かかる上、そのための多額の納付金を請求された。再度都市に生活の場を打ちたてようとしたユダヤ人はさらに孤立化し、また反面、彼ら相互の結束を強化していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        第六部 隔離の時再び

 第五部で述べたように、黒死病流行下での迫害の後、フランクフルトには1360年より再度ユダヤ人が受け入れられ住みついたが、安全が確実になる1390年代までは数がかなり少なかった。15世紀になると、ドイツに再び迫害の嵐が吹き荒れ、フランクフルトでもユダヤ人追放が検討されたが、1433年以降は追放の代案として強制隔離が議論されるようになった。

 その理由は、「礼拝が会堂や路上でのユダヤ人の叫び声により大いに妨げられ、嘲られ、乱されている」とするものである。当初は教会のみの要求であったこの事項も、皇帝フリードリッヒ3世が教会の意図を汲み取ったことで、たびたび市に隔離・移住令が下され、1460年になってやっと市側もこの主張を受け入れ、ゲットー建設への行動に出た。

 皇帝にとっても市参事会にとってもユダヤ人は有力な収入源であり、その利害の対立から互いにユダヤ人に配慮を示し、流失しないように努めた。なぜなら、地方領主がユダヤ人の商才や資金提供力を必要としたため、彼らを受け入れたからであった。

 市参事会の建設監督委員のもとに、旧市城壁外側の防濠地で建設工事が始まった。ここに成立するゲットーの家屋は市側の費用で建設されるので、その持ち主は市であり、借り手がユダヤ人となった。つまり、ユダヤ人が滞在許可を得て市城壁内のゲットーに居住する場合、市側により家屋が彼らに賃貸されたということである。

 借り手になるユダヤ人の代表も市の建設委員会に参加し、建造物について協議した。ユダヤ人にとって不本意なゲットーの建設と強制移住の決定は、フランクフルトからユダヤ人の流出を招くのではないかと市側は憂慮したが、幸いそれはなかった。むしろその逆にわずかながら増加の傾向をたどったのであった。

 1500年頃までは居住者の数は百数十人に留まり、シナゴーグを中心にわずか数十件しかなかったゲットーでの生活はそう悲惨なものではなかったであろうが、状況は16世紀に入って人口が急激に増えるようになると一変していった。わずか1.5万平方メートルに満たない土地に3000人以上のユダヤ人が閉じ込められる状況になったのであった。ゲットーに住むことを強制されたユダヤ人は、自分達の住むところを「新しいエジプト」と呼んだ。これは言うまでもなく、第1部で述べたようにユダヤ人がエジプトに移住してからモーゼを脱出するまでの期間、その地で捕囚、隷属の身となっていた時代になぞらえたものである。

 ゲットーはユダヤ人だけが住む場所とされた。他方、市参事会はゲットー外にユダヤ人が住むことを拒絶した。前に述べたように、16世紀以降ゲットーの住民は急増していくが、その原因となったのは自然の人口増ではなく、近隣のライン・マイン川流域地区ならびに南ドイツからのユダヤ人の移住がその原因であった。金融、商取引により一旗あげようとした多くのユダヤ人が、田舎から帝国自由都市であり、また大市(メッセ)の開かれる都市でもあるフランクフルトへ集まってきたのは当然であった。

そればかりでなく、ほかの地から追放され、移住してくるものもいた。大きな負債を抱えていた市参事会は、ゲットーに入居するユダヤ人から徴収する税が重要な収入源であったので、経済力による制限はあったものの基本的には許可した。このことがゲットーの過密化とそれに伴う環境悪化を引き起こしたのであった。

ドイツの分裂と後進性を決定的なものにした三十年戦争の余波は当然、フランクフルトにも及んで市人口の3分の一の命を奪った。これにもれずにユダヤ人の人口もやはり減少したのであろうことは想像に難くないが、18世紀になると密集は恒常化した。しかも、1711年にはゲットーを大火事が襲った。出火から約丸1日後に鎮火したものの、すでに時は遅く、ゲットーの建物のほとんどが全焼してしまう。被害が大きくなった原因は略奪を恐れたユダヤ人が、救助に駆けつけた市民をゲットー内に入れることを長時間拒んだことであった。

この事例が示すようにこの問題の根本に横たわるものは相当根深いものであり、それゆえに、この問題の解決は傑出したユダヤ人の出現と啓蒙思想との発展とを待たねばならなかったのであった。

もちろん、フランクフルトにきて悪いことばかりが彼らの身に降りかかるわけではなかった。住人の中には金貸し、質屋、両替など、また商取引により大きな富を築いたものも少なくはなかった。有力なユダヤ人の財力形成の背後には、十六世紀以降ヨーロッパに成立、発展する絶対主義と君主や諸侯による富国強兵政策、またそれを資金的に支えるべき重商主義の動きがあった。重商主義を背景とした国際金融取引は、各地に離散しながら同胞意識を持ち、共通の言語(イディッシュ語)を話していたユダヤ人にとって、まさに格好の条件をもたらしたのである。特に、封建制が遅くまで残り、領主君主や騎士領などがひしめいていた神聖ローマ帝国では、資金力や国際金融取引網を持っていたユダヤ人は特に必要とされたのである。

重商主義下のユダヤ人は皇帝や諸侯、地方領主に対する資金や軍需物資の提供者、領主の委託に基づく貨幣の鋳造とその貸し付け、また広域商取引網での代行者として、さらに君主や領主の財産管理、運営、宮廷財政の顧問、代理人として大々的に活躍するようになっていった。こうした動きの中で、ゲットーのユダヤ人の中から宮廷に召し抱えられ、数々の特権を与えられて、大きな富を築くものも輩出するようになった。

 神聖ローマ帝国の実状はこうした宮廷ユダヤ人(ホーフユーデン)に依存したのである。宮廷の御用商人となったユダヤ人は、しばしばゲットーでの強制移住から解放されたばかりでなく、不動産の購入、所有さえ許され、税法上の特権も得て、中には貴族の地位にまで列せられるものもいた。このようなユダヤ人は、賦与された特権を子孫に相続させることすらできた。

 特に、神聖ローマ帝国皇帝の選出地となり、皇帝の戴冠式も行われた都市フランクフルトは皇帝位を350年にわたって独占したオーストラリア・ハプスブルグ家と親密な関係が成り立っていたため、フランクフルトのユダヤ人の中からウィーンの宮廷に召し抱えるものが輩出されることになった。

フランクフルトは前述したように大市の開催都市として、神聖ローマ帝国内はおろか、ヨーロッパ各地より数千人の人々が極めて多種多様な貨幣をもって集まってきたため、指定貨幣により取引をするためには両替の必要があった。春秋の大市開催期とその前後における両替の量は大変なものであった。また大市は別としても、国際交易都市であったフランクフルトには、絶えずいろいろな貨幣がながれこんでいたし、帝国自由都市として常に外来者が訪れたり、居住したりしていたので、自ずと多種多様な貨幣が存在していた。

 1428年に皇帝ジギスムントより銀貨鋳造に関する特権を得ていたフランクフルトはみずからの銀貨を基準とすることを公言していたし、15世紀の帝国議会は、すべての帝国内の貨幣はフランクフルトの大市へ送られ、そこで相場が決められるべき事を決定したため、帝国内の貨幣取引における大市の地位は決定的となった。これが、今日におけるドイツ最大の外国為替銀行と証券取引所へと発展したのである。このように、帝国内における貨幣取引の中心がフランクフルトになるに及んで、ゲットーでの両替商は繁盛を極めたのであり、その取引によりユダヤ人が莫大な富を築くことになった。

そのなかでも、フランクフルトは史上稀に見ない人物を輩出することになる。それは、1743年のことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      第七部 ユダヤの力

 1743年、フランクフルトのゲットーにその後のユダヤ人の歴史を大きく塗り替える人物が生れ落ちる。その名はマイヤー・アムシェル・ロートシルト。世界最大の国際金融財閥の初代当主である。彼は父が死んだ20歳で開業、古銭商や両替商をはじめた。彼は友人の紹介で、ハナウ家のヴィルヘルム公に近づくことに成功する。やがて公の信頼を勝ち得たマイヤーは国家財政を任されるまでになる。さらに、公の父、フリードリッヒの死にともなってヴィルヘルムがその莫大な遺産を継いだのであった。

 彼の三男であるネイサンは、その天才的な商才でヴィルヘルムから投資された資金を莫大な額に膨らませた。公に約束した額は一定だったから、その差額が全てロスチャイルドのもとに転がり込んできたことになる。また、五男で末っ子だったジェームズもいち早く鉄道に目をつけて、莫大な利益を手にした。他の兄弟たちも決してこの二人に引けを取るものではなかった。それゆえ、ロスチャイルド家の築き上げた富はニ代経った時点で途方もないほどの額になっていたことは間違いないと言っていいだろう。

 彼らの富の増大は、同時に彼らの影響力の増大をも意味していた。また、17世紀になるとヨーロッパ思想の主流となっていったのは啓蒙思想であった。啓蒙思想は人間の存在

が普遍的法則に支配されているという観念と、人間は理性のひらめき力、つまり自力で世界の秩序や原理を解明できるという考えを基調としていた。この思想運動は、人間が生まれながらにして普遍的にもつ自由、平等の上に立つ人権思想を発展させた。ドイツでは、啓蒙思想の発展が遅れたが、18世紀中葉になると少なくとも知識人の間ではゲットーの現状がもはや時代にふさわしくないことに気づいていたのであった。 

 1789年、ヨーロッパに激震が走った。フランス革命の勃発である。革命の報に接したドイツのインテリや学生は大いに感動したが、数百の封建領主の集合体である立ち遅れた社会条件のもとではどうすることもできず、さしあたりドイツ社会には何の変化も生じなかった。だが、ユダヤ人解放運動の方は一定の盛り上がりを見せ、フランクフルト・ゲットーの行政管理職たちは、新皇帝レオポルド2世にユダヤ人の待遇改善の要望書を提出したが、保守勢力の結集と旧秩序維持の高まりの中で、もみ消されてしまうのである。

 1792年、旧体制ドイツの内政干渉に怒ったフランスのジロンド党政権は、オーストラリアに宣戦し、プロイセンはオーストラリアに同調、ここに対仏干渉戦争が始まった。フランス革命軍は次第に優勢となり、十月には革命軍がフランクフルトの市城壁前に姿を現し、帝国自由都市として中立を宣言していたフランクフルト市は開城した。一度は革命軍を撃退したものの、数年後にはオーストラリア軍を受け入れたことがあだになって、革命軍の砲火をあび、ゲットーもまたその例に漏れず、炎上した。

 だが、皮肉なことにこのゲットーの炎上こそがユダヤ人のゲットーからの解放をもたらすのである。当初、市参事会は再度ゲットーを建設しようとしたが、啓蒙思想の広まる中での市民からの反発とおりからの財政難により、債権は断念された。しかし、市参事会の後進性、保守性はなおのこと健在で、なおも一連のユダヤ人隔離政策の撤廃に難色を示したのでった。

 でも実際問題としてフランクフルト市の財政面を支えているのはロスチャイルドをはじめとしたユダヤ人の大富豪たちであり、ほぼなし崩し的にユダヤ人は市内のゲットー以外での居住権を認められ、ゲットーは事実上、なくなっていった。

1806年、ナポレオンの保護下に西南ドイツ諸侯がライン同盟を結成し、神聖ローマ帝国からの離脱を宣言すると、最後の皇帝フランツ2世は退位し、オーストラリア皇帝を自称した。ここに神聖ローマ帝国は消滅し、その結果フランクフルトは帝国自由都市の地位を失い、隣接地域を含むフランクルト公領となった。

 その領主の座はライン同盟の盟主でナポレオンの寵児、カール・フォン・ダ―ルベルグがつき、さっそく就任3日後にユダヤ人に対し、市内の公共施設への立ち入りを許可した。しかし、フランクフルト市民ならびに上層階級のユダヤ人解放に対するきわめて保守的な態度を無視するわけにはいかず、1808年に出したフランクフルト・ユダヤ人の居留権規定はユダヤ人の期待を裏切るものであった。これに対して同年にプロイセン王国では、ユダヤ人に対し都市市民権が与えられていて、ベルリンでは市議会議員が選出された。

 でも次第にゲットーがなくなっていくなかで、ユダヤ人の市民権要求の声が高まり、ついに1811年に44万グルデンの納入とひきかえにナポレオン法典がフランクフルトにも導入されることになった。そしてその納付を確認したダールベルグはついに翌年、フランクフルト・ユダヤ人団体の市民的平等に関する大条例をだした。このなかの第8条では居住ならびに不動産所得の自由がうたわれ、ここについにユダヤ人ゲットーは制度的法的に廃止されるに至ったのであった。

 

 

 

 

 ところが、1813年のナポレオンの失脚によりユダヤ人解放令は無効とされた。ついでウィーン会議ではメッテルニヒがユダヤ人解放に対する意見を述べたにもかかわらず、最終的にはその最終決定が各主権国家や自由都市の決定に委ねられた。それをうけて翌年フランクフルトでは再びユダヤ教徒とキリスト教徒との分離が導入され、ユダヤ人公務員は全員解雇された。

 このような反ユダヤ的な動きに対して、ロスチャイルドを通して、メッテルニヒやプロイセン使節に働きかけが為され、実際に書簡を通してフランクフルト市に勧告を行ったが、市はそれを内政干渉とみなして応じようとはしなかったのであった。

 しかし、人権思想に目覚めたユダヤ人はそうした恣意的、時代錯誤的な差別や処遇には甘んじていなかった。ユダヤ人の知識階級や富裕階級は、ドイツの旧体制と遅れた市民意識を手厳しく批判しつつ、市民権獲得闘争を拡大していった。その闘争はフランクフルト市がプロイセン王国、ドイツ帝国に組み込まれるまで続いたのであった。

 世紀末から20世紀にかけてのヨーロッパの帝国主義時代はいままでの国家のあり方を大きく変容させたばかりでなく、戦争を外交の一手段と考え、不可侵の主権をもつ国民国家が総力を挙げて世界分割に乗り出したのであった。

 広大な植民地を獲得した各国はその投資のために莫大な金を必要とした。そして、その調達を行ったのはロスチャイルドをはじめとしたユダヤ人銀行家たちであった。投資は確実に蓄積され、また新たなる調達資金となった。こうして蓄積された富は彼らに信じられないような額の富と、それがもたらす国家への影響力とをもたらしたのであった。

 だが、そうした富は嫉みを生むこともまた事実だった。帝国主義の激化に伴って、列強と歩調をそろえて植民地政策に進出するロスチャイルド家には帝国主義者という批難がつきまとった。そして、それがまた新たなる反ユダヤ感情を生み、ついにそれが第一次大戦後に爆発したのであった。それが世に言うドレフュス事件である。

 

 

 

 

 

 

           第八部 水晶の長き夜

 1894年、フランスのユダヤ系陸軍大尉ドレフュスは、フランス陸軍の秘密をドイツに売ったという濡れ衣を着せられて軍法会議にかけられ、満場一致の有罪判決をうけた。翌年、彼の位階剥奪式は多くの群集の見守る中に行われた。そこで群集たちは数多くの罵声を彼に向けて投げかけた。だが、ヘルツェルという男がこの光景に立ち会ったことこそがその後のユダヤ人の歴史を変えることになったのであった。

 この時期のユダヤ人は先にも見たように、すでにヨーロッパのほとんどの国々で市民権を認められていた。ユダヤ人はそれぞれの国に同化する権利をあたえられ、多くのユダヤ人が在住する国の市民として生きようとした。ユダヤ人ディズレリーはイギリスの首相となった。しかし民族主義の高まりによって、再び迫害熱は高まりを見せることとなった。

 シオニスムはこの世紀末の民族主義的な反セミティスムに対する反動として起こった。市民権を与えられたユダヤ人は国民の中への同化を志す。それなのに、国民がそれを許さないとすればユダヤ人は自分の国をつくるよりほかはないではないか。

 ドレフュスの裁判から帰ったヘルツェルはユダヤ人国家というパンフレットを書き、新国家建設の理想を掲げた。その中で彼はその候補地としてアフリカ東海岸とパレスチナを挙げた。しかし前者は東欧系シオニストの反対を受けてなりを潜めることとなる。

 帝国主義という怪物は結局、いずれは世界を戦争に導く機能しか持ち合わせていなかった。それは国威発揚をその宿命としていたゆえの悲劇であった。そしてついにそれは19れは1919年に現実のものとなる。第1次世界大戦の勃発である。

 第1次世界大戦は既成の戦争に対する価値観を完全に破壊したばかりでなく、東欧とくに旧神聖ローマ帝国ではドイツ・オーストリアという帝国が崩壊し、国民国家となった。だが、この国民国家というものこそユダヤ人にとっての心配の種となっていったことは想像に難くないであろう。

 しかし、同時に第一次世界大戦は思わぬものをユダヤ人にもたらした。それがユダヤ人国家の建設を約束するというバルホア宣言であった。しかし、イギリスはアラブ側とも内容の矛盾するフサイン・マクマホン協定を結んでおり、はやくもその対立の構図は露見していた。1919年にはマドリッドで妥協がはかられたものの、それはむなしいものとなった。そういうなかで、ドイツでは新たな局面を迎えることとなるのであった。

 ワイマール憲法という世界で最も民主的な憲法のもとで着実にドイツは復興しているかに見えた。しかし、あまりに過酷なまでの賠償金の支払いは途方もないインフレをもたらし、シュトレーゼマンのインフレ抑制策もアメリカから波及した世界的大恐慌の前にはなすすべもなく、ふたたびドイツ経済は瓦解した。

 ここで登場したのが、いうまでもなくナチスである。ナチスは不況の原因を戦争敗北の原因をユダヤ人に求めた。実際、人々の目にはロスチャイルドをはじめとするユダヤ人たちがアメリカやイギリスの背後で画策していると信じて止まなかったのである。

 ナチス政権成立とともに、フランクフルト・ユダヤ人の海外移住・逃亡は目立って増え、1938年の水晶の夜の迫害以後、逃亡者は激増し、第2次世界大戦が始まったとき、市のユダヤ人はすでに半減していたのである。アンネの日記で有名なアンネ・フランクの父がすでにヒトラー政権成立の年にアンネと家族を連れてフランクフルトを去ったのは賢明であった。当時はまだ、所有する不動産物件を売却処分することができたのである。

 フランクフルトからのユダヤ人強制輸送(デポルタティーオン)が始まったのは、1941年からであった。ヒトラーがポーランドに侵入し、第2次世界大戦を始めた1939年時点でまだフランクフルトに居住していたユダヤ人13836人のうち、72パーセントにあたるほぼ1万人がナチスの手にかかって生命を失った。

 執拗な虐殺はなんとアメリカから解放される6週間前まで続いた。名前を変えたり、かくまわれたりしてなんとか市内で終戦まで生き延びた人は500余名たらずであった。そして、戦後になってこの戦慄の光景が全ユダヤ人の、とくにアメリカのユダヤ人の知るところになると、一斉に多くのユダヤ人がパレスチナに流入したのであった。

 しかしそこには当然、従来から住んでいた人々が存在していたのであり、彼らが国家をつくることが全ての人々にとって幸福をもたらすものではなかったことは自明であった。

 

 

 

 

      第十部 ユダヤ人の世紀

 

 1948年、イスラエルはベン・グリオンを首相として独立宣言を行った。しかし、先にも述べたようにこの独立宣言はアラブ側に受け入れられるはずもなく、独立宣言と同時にアラブ軍団が攻めこんできた。

 ところが、ナチスの戦慄がまだ冷め切れぬユダヤ人のインセンティヴは凄まじく、5人に1人が戦争に動員された。そして気がついてみればユダヤ人の占領地はむしろ独立宣言当時よりも拡大していたのであった。

 こうして国の独立が達成されたとは言っても、このイスラエルの場合には、国民とか国土とかがちゃんとはじめから存在していたわけではなかった。戦争の結果獲得された領土は四国ぐらいしかなく、そのうち灌漑、耕作されていたのは2パーセントにも満たなかった。国語さえ、なにを使うのかよく決まってなかった。

 したがって彼らは、まず国民からつくらねばならなかった。すなわち帰還法という法律を特別に制定して、国外在住ユダヤ人の移民、帰還受け入れの促進につとめた。次に彼らは国語をつくった。移民は同じユダヤ系といっても国籍は多種多様であり、ことばはお互い通じない場合が多いのである。

 国語としてはユーディッシュ語または英語を採用すべしという意見も相当に強かったが、結局彼らが選んだのは2千年ものあいだ死語になっていたヘブライ語を採用した。採用したとはいえ、それを現代に蘇らせ、国民に普及させることがいかに大変かということは想像に難くないことであるが、成人学校の網をつくり、6か月の速成教育で大人たちにその国語を改めて教えるという形で対処したのであった。また彼らは国土をつくった。ヨルダン川とヤルコン川から巨大なパイプを引き、灌漑地面積は当初の5倍以上になった。

 国づくりとはここでは形容ではない。そしてこの開拓事業のうち、もっとも劇的なのは、ネゲヴ砂漠の灌漑と、北のフレ湖の干拓であろう。 フレ湖の干拓は長い間懸案となっていたが、イスラエル政府はあえてこの計画に着手した。仕事の困難さとシリアの妨害もあり、遅々として計画は進まず、その犠牲者は戦争にも匹敵するとまで言われたがついにその事業は達成され、かつて疫病が支配していたその地域が今では麦畑と林に変貌している。ネゲヴ砂漠も水道を引くことで1歩1歩後退していっているのだ。

 今、イスラエルは先進国の仲間入りを果たしており、インテルのペンティアムを発明しうるほどの高度な産業競争力を身につけているまでになった。

 私がユダヤ人というものに出会ってから、もう9年以上の年月が経つ。未だに、その研究は入り口に立ったばかりであろうと思う。私がユダヤ人というものを研究していていつも感心させられるのは恐ろしいまでの適応力と団結力である。

 最近、夙に思うことは、人間集団にとってもっとも必要なものはこの二つではないかということだ。あきらかに、ユダヤ人はその能力的に常に最先端をいっている様に思える。なぜなら、これからますます進展するであろうグローバル化をユダヤ人はずっと前から、世界(当時考えられた限界においての世界)規模で活動していたのである。

 これほどまでの迫害に曝されながらも、常に自分たちの独自性を守り抜き、守り抜くことで自分たちの存在意義をそこに彼らは見出したのであろう。それだけに彼らの自尊心は相当に高く、そのことこそが躍動の原動力になり得ているのではないかとも思う。そのことが原因で彼らに対する偏見は依然として大きく、人類の不寛容さを如実に現すものと言ってよいだろう。

 最後に、私がユダヤ人というものに出会い、彼らの生き方に触発され、その考え方が自分の現在の思想体系の根幹をなし、未だにそのことが最も正しい選択であったと思っているということを付け加えておく。これを機会に再びユダヤ人に対する自らの理解が少しでも高まったことは非常に光栄で、嬉しく思う次第である。駄文ながら、ここでこの文に幕を閉じたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         1999年10月8日、3時40分  浦和の自宅にて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献

 

 「ユダヤ人」           村松 剛        中公新書

 「イスラエルとパレスチナ」    立松 良司       中公新書

 「中東和平の行方」        立松 良司       中公新書

 「都市フランクフルトの歴史」   小倉 欣一       中公新書

 「聖書」             赤司 道雄       中公新書

 「正当と異端」          堀米 傭三       中公新書

 「イスラームの心」        黒田 壽郎       中公新書

 「マホメット」          藤本 勝次      講談社現代新書

 「聖書VS世界史」        岡崎 勝世      講談社現代新書

 「ユダヤ人」           上田 和夫      講談社現代新書

 「ユダヤ人とドイツ」       大澤 武男      講談社現代新書

 「ヒトラーとユダヤ人」      大澤 武男      講談社現代新書

 「ユダヤ人ゲットー」       大澤 武男      講談社現代新書

 「ロスチャイルド家」       横山 三四郎     講談社現代新書

 「ロスチャイルド」        D,Wilson   新潮文庫

 「ロスチャイルド王国」      F,Morton     新潮社

 「ロスチャイルド家」       中木 康夫       誠文堂新光社

 「ヒトラーの戦場」        柘植 久慶        集英社

 「赤い楯」            広瀬 隆         集英社

 「イスラエル建国物語」      M,Rebin      ミルトス

 「ユダヤ人の世紀」        A,Darshouittu    ダイヤモンド社

 「ユダヤ人のビジネス哲学」    手島 佑郎       ダイヤモンド社

 「わが闘争」           A,Hitler     黎明書房

 「ユダヤ人国家」         T,Hertzel    理想社