「あんた、なんていう名前?」
「すみれ。阿佐ヶ谷すみれ。」
「スミレ!すみれって花の名前よね。」
「…」
「年いくつ?」
「16」
「その爪すごいねー、つけヅメ?」
「…はい」
「ふーん。コーヒー好き?私エスプレッソ入れるの得意なのよ。」
自分は名乗らないで、不思議の彼女は淡々と会話を進めていく。
私がどう答えるかなんてあんまり関心が無いみたいで、それがなんか奇妙にラクだから不思議。
がたがたとものすごい音を立ててどうやらコーヒーを入れているらしい彼女の後ろ姿を見ながら、部屋をぐるりと見回してみた。
ひろい、1DKのアパートメント。まだあまり引っ越して間がないらしく、あちこちにダンボールがつんである。白いシーツがかかったベッドはきちんと整っていて、真っ白のカーテンがかかった窓からはまだ顔を出したばかりの太陽がのぞいていた。
本当に引っ越したばかりなのかな、異様に家具が少ない。そのベッドと私が座っているテーブルぐらいしかないんだもん。
そんなことをボーっと考えていると、彼女がまもなく二つの小さなカップと一緒に台所から顔を出して隣に座った。
「はい。飲めるといいけど、これかなり苦いよ」
そういって自分はさっさと飲んでいる。
すごく華奢な体をしているけど、でも背が高い事は良く分かった。コーヒーカップにのばした手がウソみたいなぐらい長くてすらっとしている。
朝日に透けた金髪は背中の真中に届いていてものすごくきれい。友達にも金髪は何人もいるけど、彼女の髪に比べたら偽物の人形の髪の毛みたいなものだ。もしかしたらあれは彼女の自毛なのかもしれない、と一瞬思った。とすると外人っていう事も十分ありえる。確かにいわれてみれば日本人っていう雰囲気はまるでないし、第一スタイルが良すぎる。目鼻立ちだって…。
真っ黒な瞳。本当に、茶色も青も灰色も混じっていない漆黒の真珠みたいな目。それを縁取るまつげもまっくろ。混じりけの無い、本当の黒。それを引き立てるように、肌は不健康なくらい白い。唇の色もどっちかっていうと白?少なくともピンクとはいいがたいし、健康的とは呼べないことは確かだ。
「じっと見ないでよ、照れるじゃん」
“彼女”はいきなり言った。例の黒い深い目で私を見つめながら。
今度は私がドキドキしてしまう番だ。どうしてこんなふうに人のことを本当に「見つめ」られるのだろう。
「エスプレッソ、飲まないの?」
「あ。はい」
間抜けな返事をして、一口のその「エスプレッソ」とやらを飲んでみた。
うわ…と思わず手を止める。うわ…これ本当に苦い。こう、ただ舌がびりびりするだけの苦さじゃなくて、もっとこう、口中にひろがる心地よい苦さ。すべてを知っているような苦さ。そして苦いだけじゃなくて、何でかコーヒー豆の甘さが漂ってくるようだ。水っぽさが全く無くて、本当にコーヒーをぎゅっと濃縮した感じ。安心できる感じ。
「あ、やっぱ苦すぎた?普通の紅茶でも入れようか?」
きっと表情に出たのだろう。でも私はこの苦さに取り付かれていたから結構ですとお断りした。
ヘぇ、これ飲めるの、っていう表情をして、彼女は自分のカップを飲み干した。かちゃかちゃと手際よく片付けている彼女に、私は思い切って聞いてみた。
「あの!」
突然の私の声に別段驚いた様子も無くぱっとこっちに振り向いてをじっと見つめる。
ああ、やっぱりドキドキする彼女の視線。いや、瞳線。
「あの、名前…なんて呼べば…」
私の「彼女」は、ああそんなことか、とでもいうようにふっと微笑んで
「サラ。本当はさんずいに少ないの沙と藍色の藍で沙藍ってかくんだけれど、字面うるさいでしょ?だからカタカナでサラ。」
あ、なるほどと思った。結局サラという彼女のうちに居候する事になってしまった。
いや、拾われた(?)その日に、その後なんとなくうつらうつらしてしまって、失恋のショックと疲れで熟睡して、そのまんま彼女のうちで生活する、みたいなことになったの。
なんだか、夢の続きを見ているようでいまいち現実感が無い。
エスプレッソを飲ませてくれた朝、つまり失恋直後の朝は、サラを観察している自分がいて、失恋を直視できない心を紛らわせてくれていたから、それで少し安定していた。
でも結局私の心は隆を求めてさまよっている。
心が隆を求めて悲鳴をあげ続けている。
今日だって朝おきて、ここが人様の家ということに気づくよりも先にまず携帯を手にとってしまった。つきあっていた頃は必ず起きた後におはようメールを打って、「これから学校うざーい」とか「ちゃんとねむれた?」とか送っていたから。
それで、手に取った瞬間にああ、もう彼には私じゃない人がいるんだなぁ、って思って。
「付き合っていた頃」なんて、本当に分かれてしまったんだな、なんて思って。
泣くのはあまりにも疲れることだから、またベッドにはいってみて寝てしまう。
それで夢にはいつも隆がいて、憎たらしいぐらいやさしい目で私を包んでくれて。
私は彼に触れたくて一生懸命手をのばすけど届かなくて。
でも目を覚ましたら彼の幻影さえも見られないのを知っているからずっと寝ている。
隆。隆。
祈るように呼びかけてみるけど、答えは返ってこない。
それではっと目を開けると、大して時間はたっていなくて私は汗びっしょりの吹っ切れない昼下がりを迎える。「隆」は私の運命の人だ。
またたかが高校生が運命なんて、って笑う人もいるかもしれないけれどこれだけは自信がある。
私は16という年齢の割に恋愛経験は豊富な方で、色々な人とお付き合いしたし、お付き合いじゃとどまらない範囲まで関係したこともたくさんある。
けれども彼は特別だった。
出会った瞬間に「あ、この人かも」みたいな一目ぼれ的ひらめきがあって、それは静かだったけれども私の中ですごく確かな物に生まれ変わった。それから彼に触れるたび、彼の事を知るたびに、私はその思いをますます信じてきた。
はっきり拒絶された今でも信じられる。彼は私の運命だ。
彼はいわゆる万人うけするかっこいい人ではない。
いつもどこか人を突き放した所があって、傍目から見ても人に対する何重もの壁がわかってしまう。外見も、どっちかっていうと自分を飾る事を最初からあきらめている感じ。
もちろんそれは彼の傷つきやすい心を守るために自然と身についた立ち振る舞いなんだと思う。見た目からは想像もつかない深いやさしさを持った人だという事が、一言でも喋るとよく分かる。
けれども、100歩譲った所で大衆に愛されるタイプの人じゃない。
どちらかというと、分かる人にだけ分かる、好かれる人にだけ好かれるタイプだ。
そして私は見事に彼にはまってしまった1人。もう24になる隆は、小さな診療所の心理療法家をしている。
そんな壁のある人がよりによってなんで心理療法家なんてしているの!とか、そもそも心理療法家って何?とか思うでしょ。
心理療法家。もっと砕けた表現でカウンセラーは、自分が誰なのかわからない人を受け入れる所だと隆はよく言っていた。
「助けるんじゃない、ただ受け入れるだけなんだ。」隆は口癖のように言う。
「満たされているはずの世の中なのに、案外誰の心の中も空っぽで、誰もがみんな何かが足りないって思ってる。でも実際は何も足りないわけじゃなくて、自分がどこにいるか分からないだけなんだ。この世の中で、それがわかっている方が不思議だって言うのにね。」
人の話を聞く事にかけて、隆は本物のプロだ。彼が自らおいている距離は、話す側にとってとてもラクになれる魔法の壁だった。この人なら無駄な所まで踏み込まれない、とか、よけいな期待をかけられていない、こっちもそれに答える必要も無い、と思わせてくれる所がある。
よけいな期待をされないという事は、人と人がいっしょにうまくやっていく上で欠かせない事だ。
信頼する事と、期待する事をめちゃくちゃにしてしまう人が多いけれど、全然違う。
信頼するというのは、すべて自分の責任でやっている事。期待するというのは、ひと。責任を押し付ける事だ。信頼しているからといって、いろいろなことを先回りして考えてしまうと、結局それは相手に負担をかける事になる。そういう経験、誰にでも結構あるんじゃないかな。
私もそうだったけれど、それは違うという事を隆は教えてくれた。
依存心の強い私を、ちゃんとした一人前の大人に育ててくれたといっても過言じゃない。でも、結局、私は頼ってしまったのかもしれない。
だから一緒にいられなくなったのかもしれない。涙がまたあふれ出てくる。
朝の光はまぶしすぎて、私はサラの枕に顔をうずめた。 p>![]()
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