「知ること」
最近、無性にいろいろなことを知りたいと思うようになった。
それは別に、人に自慢できる知識がほしいというわけではなく
純粋に「知ること」というのに興味を持ったからだ。
自分の知らないことなんていうのは
世の中にゴロゴロと転がっているだろう。
それは調べればすぐに答えの出るものから
世界中の学者が血まなこになって研究しているものまで
幅広く存在する。

オイラは知ったかぶりというのは嫌いだ。
かといって、長い人生、知ったかぶりをしていないわけではない。
だから、そんな自分に出会うと恐ろしく腹が立つのだ。
たとえば、突然、友人からある話題を振られた。
それは自分の知らない分野で、あまり詳しくないものだった。
基本的に負けず嫌い(意地っ張りともいう)なオイラは
その話題についての自分のありったけの知識を並べてみる。
それで、あたかも知ってるかのように
振舞っている自分がアホ臭く見える瞬間があるのだ。

昔、倫理で習ったことを思い出した。

「無知の知」

人は自分が無知だと自覚することが大事で
それ自体が知識であるという言葉だ。(と思う)
ソクラテスの格言だが、かなり納得してしまう。
この言葉を久しぶりに思い出して
「なるほど・・深いなぁ」
と関心してしまったぐらいである。

たしかに世の中、何も知らない人が多すぎると思う(オイラ含めて)。
何も知らないというよりは、
無知を認めようとしないというべきだろうか、
それは紀元前の昔から何も変わっていないようだ。
最近、一番それを痛感したのがイラク戦争である。
人が血を流し、死に直面し、実際に死ぬ。
はっきりいってオイラにも詳しい事情などわからない。
だって知ろうとしなかったんだから。
今だって誰が悪いのか、誰が正しいのかなんて
わかりはしない。

ただ、オイラはこの問題を軽々しく取り扱いたくない。
以前、親から戦争について
「どう思う?」
と質問されたことがあった。
オイラは
「知らない。答えようがない。」
と答えた。
親からはもっとニュース見ろ!と言われたが、
オイラにはそう答えるしかできなかった。今でも同じだ。
友達との世間話程度だったら
知ったかぶることもできたかもしれない。
しかし、知ったかぶるには
あまりにもスケールがでかい。
戦争というのは立場によって見方が変わってくるものだ。
それぞれには、それぞれの正義と悪が存在し
それぞれの言い分が存在する。
オイラはそれすらも知らないのに、
軽々しく自分の意見を発することなどできなかった。

昨年、街をデモ行進する人たちをよく見かけた。
「戦争、反対〜!」
「ブッシュは人殺しをやめろ〜!」
そんなような言葉が次々と聞こえてきた。
信号待ちで自転車にまたがっていたオイラは
妙な違和感を感じた。

果たしてコイツラ、全ての事情を知った上で参加してんのか?

デモの参加者、テレビでインタビューを受ける素人。
彼らは口々に言う。

「人を殺すことは悪いことだ。」

「人が戦争に巻き込まれるのはかわいそうだ。」

さまざまな意見が聞こえる。
そして決まって

「だから、戦争は反対だ。」
という。

たしかに人が人を傷つけて、
たくさんの人が死んでいくことが
悪いことなどというのは誰が見たって明白な事実だ。
けれど、それだけで戦争自体を反対するのは
無責任すぎないかと思う。
もしかしたら、この戦争のおかげで
ようやく、解放された人だっているかもしれない。

勘違いされる前に言っておきたいが
別にオイラは
戦争に反対するな、などとは言っていない。
ただ、自分が知ることのできる範囲すらも
知ろうとしないで
上辺だけの知識で、反対するのはおかしいと言いたいのだ。

だからオイラはこの戦争について
自分の意見を言うことはやめた。
語るには、自分は何もしらなすぎる。

なんだか、話の論点がずれてきてしまったが
要は、

「お前ら、全部知った上で意見いってんのか?」
と。

最近、そんなことを思う。
自分の意見もしょせん、知ったかぶりの
何もわかってないやつの言い分かもしれない、とも思う。
しょせん、人に全てを知ることなどできないのだ。
だから、せめて自分の知ることのできる範囲は
この長い人生のうちに知っておきたいと思う。

まぁ、きっかけはなんであれ、
無性に「知ること」に興味を持ったのは事実だ。
これはいい傾向だと、
ひそかに心の中で得意気になっている。