藤本選手のプロフィール わかる範囲で詳しく書いてます。

 ■名前 藤本 敦士(フジモト アツシ)
 ■背番号 9 (2002年〜)詳しくはエピソード参照
 ■生年月日 1977年10月4日
 ■星座 てんびん座
 ■血液型 O型
 ■出身地 兵庫県明石市(実家はJR西明石の駅前で両親が焼鳥屋サン「万」を経営)
 ■身長 173cm
 ■体重 71kg
 ■経歴 育英高校→亜細亜大(中退)→甲賀総合科学専門学校→デュプロ→阪神タイガース
 ■入団 2001年ドラフト7位
 ■一軍初出場 2001年4月14日中日戦
 ■一軍初安打 2001年4月17日横浜戦 ピッチャー福盛
 ■一軍初本塁打 2001年5月16日巨人戦 ピッチャー鄭
 ■テーマ曲 HIT THAT (OFFSPRING)
 ■愛車 赤のベンツ。おそらくGタイプ。以前は真っ赤なシボレーを乗り回していたことも・・・
 ■推定年棒 4600万円
 ■好きなタイプ 家庭的な人、よく喋る人、気が強い人、スレンダーな人=奥様の中埜裕貴さんになるわけです(笑)
 ■嫌いなタイプ 静かな人
 ■好きな食べ物 鶏肉(実家の焼き鳥の中では皮とつくねが好きだそうだ・・・)、チョコレート
 ■嫌いな食べ物 なすび、グリンピース、タコ、あずき
 
 年度別成績
 
年度
試合数
打数
安打
本塁打
打点
盗塁
打率
2001
75
186
75
1
17
2
.269
2002
63
139
63
1
8
3
.209
2003
127
402
 121
0
36
9
.301
 

 エピソード・・・
 ■01年オフ、背番号を変更する際に、和田コーチから現役時代付けていた「6」を勧められる。しかし
 本人は「僕にはもったいない」と「9」を新しい背番号に選択。現在「6」は金本選手が引き継ぎ、価値
 あるものとしているそう。(本人談)
 ■阪神18年ぶりの優勝決定後、胴上げのときにアリアス選手、金本選手によって胴上げならぬ
 胴下げをされ、グランドを引きずり回され折角着替えたユニフォームムをドロドロにされる。その後は
  ビール掛けで「打倒金本!」と書いたハチマキをしめ、何度も反撃を試みるが見事にことごとく仕返し
  される。
 ■毎試合、守備位置に着くとき、攻守交替のときベンチと守備位置であるショートの間を全力疾走する。
 和田コーチに言われたことらしいが、1試合フル出場でそれを繰り返すと18本のダッシュという
  トレーニングになる。本人も全力疾走は体力づくりの一環というように試合までもトレーニングに活用
  しようという心がけらしい。
 ■金本選手がホームランを打ったとき、日ごろのうっぷんを晴らすかのようにヘルメットを叩き、反撃を
  しているそう・・・金本選手は藤本のHRをずっと心待ちにしているとか・・・HR打ったらヤバイことなっちゃい
  そうですよね・・・汗 選手生命が。。。笑
 ■2004年5月4日、プロ初、野球人生初となる今季第2号満塁ホームランを打ちました!!おめでとうございます。
  昨季はホームランゼロでしたが今年は期待できそうですね。
 
ヒストリー・・・(入団まで)

1977年10月4日、明石で藤本家の第2子、長男として生まれる。
幼い頃から外で遊ぶのが大好きな子供だったそうだ。小学校に入ると父・和幸さんが監督を務める
ソフトボールチームに在籍する。厳しい監督(父親)の元でスポーツ少年は育っていく。
中学に入学後、ソフトボールではなく野球部に所属。ソフトボールと厳しい父親のおかげで培った
もので厳しい練習にも耐え、レギュラーも獲得。
育英高校進学後も野球部に所属し、チーム一丸となって甲子園を目指す。キャプテンを務めた高校
2年の冬、阪神淡路大震災が襲う。その後、育英高校は第67回センバツ高校野球に出場が決まる
ものの震災で家が全壊してしまった仲間が居り、満足に練習できなかったという。しかしその仲間を
無事だったチームメイトが一時的に下宿させ、練習に励むこととなった。無事だった藤本家にも一人の
仲間が下宿したそうである。
そして迎えたセンバツの試合、一回戦、創価高校に6対2で勝つものの2回戦の前橋工戦で藤本
自らの失策でサヨナラ負けを喫した。藤本はグランドでうずくまって涙を流した。送球に不安が残り、
野球をやめようと考えたほどだったが前橋工戦の試合後にベンチ入りできなかった仲間から言われた
「お前のお陰でここまでこれたんや」という言葉に救われ、野球を続けることを決心する。
亜細亜大学に入学し、みるみるうちに頭角を現し、一年生ながらベンチ入りするほどの実力を発揮した。
しかし、その夏、悪夢が藤本に襲い掛かった。椎間板ヘルニアで腰を患い、足もしびれ歩くことさえも
困難になり、痛みで熟睡できなかった。実家に「やめたい、帰らせてくれ」という電話がかかってくる
ようになり、両親の持つ受話器の向こうでは何度も泣き声が漏れたそうである。肉体的にも精神的にも
ボロボロだったという。
結局亜大を中退し、実家に戻りリハビリを開始するももの、「野球はやりたくない」と宣言。今度は
その言葉に父の和幸さんが涙を流した。この涙が藤本の胸にずっと引っ掛かっていた。母・紘子さんにも
 「一回甲子園連れて行ったたからええやろ」とこぼしていたそうだ。やがて腰が回復すると再び白球へ
の思いが募り、「もう一度やりたい」と父に打ち明けた。しかし中退者の行き先はなかなか見つからず、
近所の公園で2人の幼馴染と寂しい練習を繰り返すだけだった。父・和幸さんは常連だった岡田監督
 (当時オリックスコーチ・現阪神タイガース監督)に息子の窮状を話した。
 翌春、藤本は岡田コーチの勧めから甲賀総合科学専門学校に入学。同じ境遇の仲間がたくさんいた。
監督からみんなのレベルを上回っていると判断されていたが、藤本は不平不満をこぼすことことなく
IBM野洲の主力選手に混じって滋賀県ベストナインを受賞し、野球ができる喜びを全身で感じていた。
その後、デュプロ就職し、日本生命の補強選手として都市対抗大会に出場し、日本選手権で当時の
阪神タイガース・野村監督の目に留まり、ドラフト7位指名を受け入団。そして今に至るわけです。