飛び込み


ここ数日軽い雨が続いて、水の匂いがいっぱいに立ちこめている。傘を差して友達と「嫌な天気だね。」なんて言って歩く。でも、本当はこの灰色な感じが気に入っていた。梅雨が好きになったのは最近のことだけれど。
「ばいばい、あみ。」
「うん、またあした。」
また一人、去っていく友達に答えて、残ったのは私と、森くん。
「・・・雨だね。」
ちょうど大きな橋に差し掛かったところ。欄干から少し乗り出して、川面を眺めながら呟く。沢山の小さな波紋が、現れては消えていく。
「そうだね。」
森くんも欄干にもたれて川を眺めながら、ぽつりと答えてくれる。
川は濁ってしまって、濃い灰の空を映してなお黒く見える。細かな雨粒が音も立てずに降って、川も水たまりも空気も霞んで見える。
ふと見ると、森くんが空を仰いでいた。しばらくしてまた川の方に目をやって、ふ、とためいきを吐くと、また欄干にもたれた。
私は気づかないふりをしていた。
「・・・俺、来週誕生日なんだよね。」
ちょっとしてから、川面を眺めたまま、森くんはぼそりと言った。彼が俺と言うのを聞くのは初めてのような気がする。
「・・・・おめでとう。話題の17歳。」
彼の横顔を横目で見ながら、笑って言った。彼は、唇だけで少し笑って、
「あんまりおめでたくない言い方だな。」
と答えた。――確かに。私は目をそらして、ひたすら雨粒を追った。口調が投げやりで、彼が弱っているのが――彼はよく「ブルーになる」と言うけれど――よく分かる。
「・・・17かぁ。」
諦めたような切羽詰まったような変な声で、彼はぼそりと言った。
「・・・若いね。」
「ふっ。」
私の言葉に、彼は吹き出す。
「激動の?」
「そう。」
頷いてからなんだかおかしくなって、二人でひとしきり笑った。
でも、すぐ二人とも黙ってしまう。大粒の雨がばらばらと通って行って、また収まった。二人でいると、こんな沈黙は珍しくない。でも今日は、彼がまたためいきをついている。多分、こんな天気のせいなんだろう。
「・・・その真只中で生き残るには、どうすればいいのでしょうかね。」
横目で彼を窺いながら、また口元で笑って言った。
「俺に訊くなよ。」
彼が思ったよりずっと怖い声で言ったので、私は驚いて少し目を見張った。でも、彼は川面をにらみつけたままで、この上なく素っ気無い。
私は彼の、あんまりに真面目で深刻な横顔を見ていられないで、黙ってうなだれた。私が言いだしたことなのに。一体彼に何を言ってほしかったんだか。
呆れてため息をついて、私は欄干にもたれかかった。この橋はちっとも人通りが無いらしい。さっきから人っ子一人通らない。
ふと、ある想像が頭に浮かんで、目のピントが合わなくなった。ぼやけた川面が、さっきよりずっと黒く見えるのは気のせいだろうか。まさか、彼と喋っているときに浮かんでくるなんて。
その想像を追い払えないまま、精一杯澄ました声で、
「やはり、鋭利かつ繊細な感性を頼りに、危うくも滑って行くしかないのでしょうか。」
となんとか呟いた。
「もしくは、何かの夢のために、一目散に走っていくか。」
彼が、相変わらず怒ったような声で続けた。
どちらも、私には出来ないことで。空を振り仰いでみたれど、やっぱり灰色の雲しか見えない。そんな大層な感性も夢も、持ち合わせていない。それは前から分かっているはずのことで・・・。
雨はすっかり霧のようになってしまい、髪も服もいつの間にかしっとりぬれていた。私の想像が彼に伝染したのかもと思うと恐ろしい。どうか、それだけは。
「・・・嫌だな。」
我ながら、声が少しかすれている。
困ったことに、横で森くんが小さく頷いている。
「私、今このまま・・・」
ここまで来て、口をつぐんだ。とっさに続きが言えない。あんまりに優しい彼に言うことではない、確かに。けれども・・・結局私は最後の思い切りがないのだろうか。霞んだ川面を見据えて、また黙ってしまった。こんな天気なのに口が渇く。・・・情けない。
そのとき、
「一緒に行こうか。」
突然森くんが言った。私はとっさに信じ切れなくて、ゆっくりと振り返った。首の骨が音を立てている気がする。
けれど彼は、ひどく真面目な顔でこちらを見ている。いつもはにこにこと柔和に笑っている人が。真面目な顔というより、水の底に沈んでしまったような青白い顔で。彼の、やわらかい綺麗な声まで、低く沈んでかすれている。
きっと、私のあの想像が移ってしまったんだろう。真面目で親切な彼は、私の中の果てない水の底を見ようとして、そのまま映そうとして、自分が落ちてしまったんだろう。
彼を巻き込むなんて、私にはそんな真似はできないと思っていた。
けれど一瞬で、その良心も、本当は何処かで感じていた怖さも飛んでいってしまった。彼の真面目さが災いしたんだろう。私のを映したはずなのに、それよりずっとずっと澄んだ目に、吸い込まれてしまった。
私が抱きつくと、彼も腕をまわしてくれた。二人で遠慮なく身を乗り出すと、すぐそこに黒い川面が見える。川面の小さな波紋を見ながら、雨はもうほとんど止んでいていることに、漸く気づいた。それで何も音がしていなかったんだ・・・。
盛大な水音が、耳を劈いた。


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