私の大好きな黒猫嬢


「ダメダメだ・・・」
と私は思わずつぶやいた。というのも、うちの黒猫嬢に起こされたのが早朝四時半と六時で、散歩を要求している彼女にかつお節をやって誤魔化して、計三度寝をして、気付いたら昼の十一時だった、って訳だったから。もうカーテンの外では日が高く昇りセミは元気に鳴き、午前中の講座は欠席確定。しかも、寝坊の原因が昨日遅くまで昔のマンガを読み返していたからなんだから(ちなみにまだすごく眠くて、とても布団から起きあがれなかったりする)。久しぶりに読んだ手塚治虫のブラックジャックはとてもすてきだったのだけど・・・朝起きてみるとほんと馬鹿みたいだった。
今でも、この日の目覚めはひどかったかな、と思う。だって、普段は猫に散歩を要求されるのは父親の方で、「ホラ散歩の時間でしょうが」とばかりにしつこくしつこくニャァニャァ言われて起こされるなんてほとんど初めてだったから。(この日、ちょうど家族は全員出ていて私だけだったのだ。)
それでも、午後の講座もあることだしと、私はため息をついてなんとかのそのそと起き出して、でもまずパソコンを立ち上げた。ちなみに黒猫嬢はむくれて玄関であっちを向いていた。「カオルちゃん、時間がないから、悪いけど散歩は講習から帰ってきてからね。」
そして、パソコンで・・・無意味だとは思いつつまたメールチェックをしてしまったのだった。と言うのも、このあいだもののはずみで、知り合いだか友達だか親友だかもよく分かんないようなやつに、なんとも変なメールを送ってしまったからで。その変さ加減というのも、「イモを食べると全員必ず死ぬんだよ、本当だよ」ってなものだったんだから重症かと思う。本当はこれは、イモを食べても食べなくてもいずれは必ず死ぬんだよ、って話で、しかもこれをエッセイで書いた人が読者の猛烈な抗議に遭ってカメラの前でイモを食べるハメにまでなった、ってエピソードまでついてる阿呆くさい話なんだけど、まぁ事情を全然知らない彼にいきなりこんな話をするのは、さすがにひどいかな、と思わないわけでもなかったのだ。
しかし、というか案の定、と言うべきか、「新着メールはありません」と無情な表示が光った。
(あぁもう、いっそ、喧嘩売られたと思うなら買えばいいのに)
と思って画面を睨めつけた・・・けど、実はいつものことだった。きっと、私の訳分かんないメールに怒るどころか途方に暮れて返信できないんだろう。向こうは私の個人的な気分とか事情とか飛びまくった思考の経過とかを知らないってことを忘れて、色々と変な話題を持ちかけて、思った様に反応してくれないと勝手に苛立ったり怒ったり不安がったりしているだけなんだ。
「バカみたい・・・」
と、また声に出してしまった。全く私は、なんて自己中心的なんだろう、友達が言うことも自分にとってどうか、だけが問題なのだから。ほんとに誰か他の人の為に考えたりするなんて、実はいまいち想像すら出来ないでいるんだもの。それがボーイフレンド候補(!?)のあいつでさえなんだから、ほんと手に負えない。
またため息をついてふと見ると、黒猫嬢が、「ようやく起きたと思ったら何やってるの。」とでも言いたげに私を眺めていた。(もう13歳になる彼女は、私なんか格下にみているのだ。)

それから私はバタバタと支度をして、血圧がいまいち上がらないままなんとか塾にかけつけた。私の塾は神田の本屋街のすぐ近くにあって色々と便利なのだけど、やたらと新しい綺麗な建物で、私でも思わず「受験産業もうかってやがるなちくせうめ(あらはしたない)」とか言いたくなるような、ちょっと嫌味といえば嫌味なところだった(自分も通ってるのだけどそれはとりあえず置いておく)。それでも、さすがに最終日だったし、若い講師のちょっと飄々とした感じがおもしろいせいもあって、午後の国語の講座は大人しくちゃんと聞いていたのだ。
それが、授業の終わりに、彼が「誰も言わんから僕が言うけれども」と前置きして関西弁で喋りはじめたことが少し意外で、とうとう塾講師がこんなことを言い出すとはね、とか思ってちょっとびっくりしてしまったのだった。
「勉強して、レベルの高い大学に入って、一流企業につとめても、結局はいいことなんでないんですね。『自分が、自分が』って言ってばっかりで。今の大人たち見ても、仕合わせそうな顔してるのはほとんどいないんですわ、身近な人を理解したりとかができてなくてね。今君たちがこうやって塾来て上を目指すのも、必ずそういったことの罠になりますよ。」
要するに、彼が言ったのは大体こんなことで、なんだかまとめてみるとそこらへんの鼻につく教育的なセリフと変わらなくてちょっと笑っちゃうのだけど、若い塾講師がこんなことを言ったときは、確かにちょっと説得力があった気がしたのだ。上を目指すのと身近な人と云々は別なことだ、って話はまぁよく聞くけど、相反するものだってばっちり言われたことはあまりなかったせいかも知れない。
ただ、さっきも言ったけど、こんなことは、塾の、できたての綺麗な教室で、若い講師に言われるようなことじゃない、と私は思っていた。そもそもこの類のことって、皆塾に来る前に分かってるはずのことじゃないかしら?それもまぁお爺ちゃんとかならともかく、誰かにお説教されるようなことでもないし。それをわざわざ塾の夏期講習の終わりに言わなきゃならないなんて。馬鹿にしてるってのは言い過ぎにしても、なんかすごく阿呆くさい気がした。


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