そんな妙な終わり方をしたものだから、その講座が終わっても、どんどん思考が飛んでいって、私はちょっとぼーっとしたまま地下鉄に乗りこんでいた。
そもそも今の大人たちって言っても大人ってどこからどこまでなんだろう。十八とか二十とか、時間が過ぎるだけでなれるんだったら楽なものだわ。そういえば、誰かが「大人とは、世間で通用しているルールを知っている人間」だ、みたいなことを言っていたっけ。あーぁ、全く嫌になっちゃう。そんなどうでもいいことではない筈なのに。
そんなことをぼーっと考えながら、気がつくと私はいつもの様に新宿まで来ていた(家に帰るには新宿で乗り換えなきゃならいのだ)。
なんでまた大人がどうこう、とか考えていたかっていうと、そのとき私は実は十八になったばっかりで、それまではなんとなくそれに特別な意味があるような気がしてたからなんだ(まったく、誰でもいずれ十八にはなるし誰でも十八だったっていうのに、そのときはあまり思いが及ばなかったんだ、大笑いだけど)。もちろんそんな間抜けな予想は肩すかしをくらって、つい最近も、「もう免許が取れるなんていまいち信じらんない」とかもっと間抜けなことを友達にこぼして、微笑されたりしていたのだけど。

私はJR新宿駅南口の雑踏に相変わらず考え事をしながら加わって、高島屋の向こうの紀伊国屋までてくてくと歩いていった。白状すれば、たった二時間の講習のために都心まで出てきたのがちょっと悔しかったのだ(なにせ私の家は新宿から50分も掛かるから)。でも、どうせ本屋に寄るなら神田の方がいいのだから、やっぱりかなりぼーっとしてたに違いない。
そして、ひょっとして予想がつくかもしれないけど、ある種の考え事をしながら雑踏を歩くのって、結構きわどいものがあるのだった。だって私は、まぁすごく貧弱な脳味噌だけども割と真面目に、大人になるにはどうすればいいのかなとか、(話が飛んじゃって悪いけど)こういうこと考えない奴は下らないんだろうか、いや考えたところで下るんだろうかとか、(もっと話が飛んじゃってすごく悪いけど)下るも下らないも生きることに目的なんてないのかなとか、そんなことを考えているのに、周りにはひたすらにたくさんの人、人、人(しかも大半は大人)が溢れてるのだから。彼らは特に深刻に悩んでるような様子もなくて、言ってしまえばもういい年なのにほんとに何も考えてないんじゃないかって思えるような人もいるんだ。私は、横断歩道をすれ違う大量の大人たちの顔の間をすり抜けながら、「こいつらは私みたいに真剣に考えてさえいない」とか思っているうちに、ものすごく苛立たしくなってきた。
高島屋や東急ハンズの横の道にはベンチが沢山あって、もちろん人が沢山居て、こちらに背を向けてるカップルやぼーっと煙草をふかしてるおじさんや他にも色んな人達がいたのだけれど、私は彼らを見てやっぱり同じことを思って、ほとんど睨めつけるみたいにして歩いていた。
だけど高島屋を過ぎてちょっと人が少なくなったあたりで、突然、彼らも昔は十八だったっんだってことをふと思い出して、私はびっくりして一瞬立ち止まってしまった(ほんとに当たり前のことなんだけど、さっきも言ったように、何故だかすっかり忘れていたんだ)。きっと彼らも昔は若くて、今の私みたいに人間がすごく下らなく見えたときもあったんだろう。それどころか私なんかよりずっと深刻に世の中が嫌になっちゃった人だっているかもしれないんだ。でもみんな、なんだかんだと自殺もせずにちゃんと生き延びて大人になっているじゃない。そう思うと、背筋に悪寒が走った。そもそも今は青少年の自殺率なんてすごく低いって統計が出てなかったっけ?

私はややぼーっとしたままふらふらと紀伊国屋にたどりつき、何を見るとでもなく本棚の間をうろつきまわった。この大きな本屋の広いフロアには、岩波新書やらちくま新書やらハードカバーの哲学書やらの棚が延々と続いていた。
ゲーテ伝、ヨーロッパの個人主義、科学の哲学、ドエトエフスキー云々、それにカント、デカルト、ショーペンハウワー、etc.etc.
私は隙間なく並んだ本の背表紙を読むともなく目で追っているうちに、ふと、こんなに沢山の本、とても私には読み切れないんだ、とてもとても量が多すぎる、ってことが確信的に分かってきた。一体この本屋だけで何冊あるっていうんだろうか。私は速読なんか全然できないし、そもそも普段からそう本を読んでるわけでもないんだから(私の部屋には相当にマンガばっかりあって、軽い小説を入れてもまともに読んだ本なんて一度に腕で抱えられるくらいだもの)。私なんかよりずっと頭のいい人たちが、色々と真剣に考えて書いたに違いない本が、こんなに沢山目の前にあるのに、私はそれを完全に理解することなんて程遠く、とりあえず読むことすらできやしないのだ。
それが本当に身にしみて分かってしまうと、私はそれ以上本棚の前にいるのに耐えられなくなって、手近にあったニーチェ入門とかそんな名前の新書を取って、ろくに中も見ずにレジに向かった。綺麗にブックカバーを掛けてもらった本をバッグに突っ込むのもそこそこに、私はほとんど逃げるようにして本屋を出た。

でも私は、(更に情けないのだけど)自動ドアを一歩出ると外の熱風にびっくりしてしまって(中はすごく涼しかったから。私はほんと暑いのは苦手で)そのまま隣の東急ハンズに冷房に引かれる感じでまたふらふらと入っていったのだ。それに私は、普段から役に立つような立たないような小物を眺めるのがとても好きで、いつもなら、太さ様々のピアノ線とか小さなアクリル板とか使いもしない画材とはがした跡が目立つシールとか、そんなものを物色して何時間だって飽きないんだ。
けれどこの日は、店内をいくらほっつきまわっても、何を見ても全然おもしろくなかった。ハンズは紀伊国屋なんかより更に人で溢れいてうんざりしたし、槍ヶ岳のジオラマもオムレツ専用フライパンも、本当にコマゴマしてて無価値で十把一絡げで心からどうでもよかった。こんなものを見てても何にもならない、心底無意味だと思った。
大事なことはもっと別にあるはずだった。例えば、さっきの紀伊国屋の長い本棚を一刀両断にする方法とか・・・
そんなことを考えながら、すぐそこで何かをテレビでやっている、となんとなく引きつけられて見てみると、トルマリンゴとかいう、トルマリンを仕込んだリンゴ(名前のまんまだ、)のCMビデオが流れていた。「これを部屋に置いてから、観葉植物かどんどん大きくなったんですよ」の類のインタビューが繰り返され、プラスチック光沢のある色とりどりのリンゴが、「マイナスイオン〈元気イオン〉と高次元波動エネルギーが人体に有効なエネルギーを拡散し・・・」とかいった解説付きで綺麗に並べられていた。マイナスイオンが元気イオンだって?私は思わず信じがたいような気分になってその解説をまじまじと眺めたけど、その隣には、二分ほど煙草を入れておくと煙草が無害になり、しかも味は損なわない(!)というトルマリンを仕込んだ筒なんてのまで置いてあった。
「馬鹿みたい」
私はためらわず声に出して言った。隣にいた若い女性が、驚いたような顔をして一歩離れていったけど、それももうほんとにどうでもよかった。トルマリンは構造上ゆがみを与えると電気的な偏りが生じる、というのは聞いたことがあったけど、こんなうさんくさいものがハンズの真ん中に並べられてCMがエンドレスで流れているなんて。くだらない、ほんとにくだらない。私でも明らかに分かるくらいにくだらなかった。
私はもう外が暑いのさえどうでもよくなってしまって、さっさとハンズを出て新宿駅に向かった。電車では座れたけれど、歯を食いしばったり辺りを睨みつけたりうつむいたりしてばかりで、ちっとも眠れなかった。


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