そんな散々な状態に追い打ちを掛けるように、まぁほんとは私がぼーっとしてたことの結果なんだろうけど、実は私は、途中で財布を落としていた(ほんっと阿呆みたいなんだ)。気付いたのは最寄り駅のコンビニで、レジの前で探せど探せど出てこない。それで蒼くなって考えてみると、どうやら紀伊国屋で本と一緒にバッグに入れようとして落としたらしいのだ(ちなみに本はちゃんと入ってた)。あんな都会の真ん中で落とした財布、大した額も入っていなかったけれど、今更一時間かけて戻ってもあるはずもなかった。私は店員さんにもぐもぐと言い訳をして又逃げるようにコンビニを出て、仕方がないから家までの道をだらだらと歩いていった(お金がないからバスに乗れない訳だ)。はじめ、自分の間抜けさ加減に笑いそうになったけれど(まだかろうじてそのくらいの余裕はあったんだ)、財布の中に友達と行く予定だったコンサートのチケットが3枚も入っていることに気付いて、笑うどころかほんとに泣きそうになってしまった。ほんとに皮肉なものだった。大人になるにはどうすればいいんだろうとか考えたり、先人達に感服(反感とか嫉妬かもしれないけど)したり、ともかく真面目に考えていると、お金がなくなるんだもの。それにしても、友達のひとりはあのコンサートすごく楽しみにしてた様子なのに、全くどうしたらいいんだろう?
私はのろのろと家の鍵を開けると、ため息をついて玄関に座り込んだ。そこには私を待ち構えて黒猫嬢が張っていて、私の顔を見るなり「ぅなーん」と私の帰りが遅いのを責めて、大きく鳴いた。
「・・・ただいま、カオルちゃん」
「なーん(遅いー)」
「私、財布落としたのよ。ほんと馬鹿でしょう?」
「なーーん(そんなことより散歩に連れて行けー)」
「チケットどうしよう・・・。今日ほんとに嫌なことばかりでね・・・散歩?そろそろ暗くなっちゃうでしょう?」
「なーーーーーん!(なおさらさっさと連れて行けー!)」
彼女がこちらの気分も状況もお構いなしなのはいつものことだけれど、このときばかりはほんと恨めしかった(彼女の散歩も、家族が出てる今は私の仕事のひとつなんだ)。嫌が応もなく、私は手近にあった夕刊を引っ張り出すと下駄をつっかけて彼女の散歩に出かけた(言い遅れたけど、彼女は猫のくせにすごい箱入り娘で、ちょっと珍しい猫でうっかりすると拉致されちゃうかもってこともあるけど、散歩に出るときは誰かがお供についていかないとダメだったりして、全くもって手の掛かる甘ちゃんなのだ)。
薄暗い夕暮れの中、裏の芝生を蚊に刺されながらぶらぶらと歩き回って、私は持ってきたものの全然夕刊を読む気がしなくてただぼーっとしていた。私は普段から新聞だけはそれなりに読んでいたけれど、それも例の、十把一絡げでどうでもいいことの類に思えた。確かに、世の中で何が起こっているか多少は分かるかも知れないが、あくまで一部だし、大体分かったところでどうなるというんだろう?
少し涼しくなって快適なのか、黒猫嬢は悠々と歩きまわり、その辺の匂いを嗅いだり爪を研いだり、蚊にも刺されず(みっしり生えた毛のお陰だ、)気ままにやっていたのだけれど、ふと何を思ったかこちらを振り返ると、短くなーん、と鳴いた。私はその目に妙に冷たく睨めつけられたような気がしてびっくりしてしまったのだが、猫の目は周りの人間の心情を映すという話を思い出して、思わず座り込んでしまった。
私は丸めた新聞を握りしめてしわしわにしながら、思わず「最悪だ」とつぶやいていた。トルマリンゴが馬鹿みたいだって?一番くだらないのは誰だと思ってるんだ、貧弱な脳味噌で考えることは全部自分のことばかり、その上ぼーっとしていて財布を落として友達に連絡もできないでいるし、挙げ句猫を睨みつけて八つ当たりか。ほんとに私は腐ってる。いっそのこと貧しい国の少年とかに後ろから刺されてしまえばいいのに。こんな輩が日本で働きもせず食っているだけってのはそれだけで犯罪じゃあるまいか。それなのに、悪人世にはびこるって奴で順調に自殺もせずに生き延びていくんだろうか。
そんなことを思って、私はほとんど新聞をねじ切りそうになってしまった。
ちょうどそのとき、ぶーんっていうやや重々しい、ほとんど反射的に首をすくめてしまう、あのハチ独特の音が、いきなり耳のすぐ近くを掠めて飛んで行ったのだ。私は情けないくらいにびっくりして慌てて何歩か逃げてしまったのだけど、よく見るとその黒と黄色の縞々の飛行物体は、黒猫嬢の方に飛んで行くではないか。確か、スズメハチは黒いものを攻撃する性質があるとか言わなかったっけ?
しかも、ちょうど黒猫嬢は小さな白い花の付く植え込みのところにいて、花にやってきたそいつの動きをすごく興味深げに眺めていて、その上今にも手をだしてじゃれつきそうに見えたのだから、私はもっと慌ててしまった(彼女、何が危ないとかいまいちよくわかっていならしいんだ、箱入り娘だから!)。私がどうしようどうしようとない頭をしぼっているうちにも、黒猫嬢はすぐ目の前をうろうろする変な虫にちょいっとパンチを食らわせて・・・
「カオルちゃん何やってるの!」
私は思わず叫んでしまって、ともかく世間知らずの黒猫嬢に駆け寄ると(私の髪も黒いなとか一瞬思ったけれど、私なんかより明らかにカオル嬢の方が危なっかしいのだからどうしようもない)、耳元で不吉なぶーんという羽音を聞きながら彼女を抱えると全速力で逃げ出した。もっとも下駄だからまともに走れずにぺたぺたと間抜けな音を立てていて、正直何度か転びそうになったりして危なかったのだが、あの羽音がすぐ後ろを追ってくるような気がして身をかがめながらほんとに蒼くなってともかく私は走った。スズメバチにちょっかい出すなんてこいつは一体何考えてるんだか、これじゃぁこいつ、野良だったらとてもやっていけないに違いない、なんて頭の隅で考えながら。私は15m位芝生の端から端まで走ると、恐る恐る振り向き、ハチが追ってきていないのを念入りに確認してから、黒猫嬢をそっと降ろした。あーぁ、まったくやってるの、ほんとに馬鹿なんだから・・・。
私はあきれて大きくため息をついて、空を仰いだ。そして、今がちょうど日が沈んだ直後で、西の空がほんとに深い綺麗な青色をしているってことに気付いて、そのまま息をのんでしまった。黒っぽいのではなくて、ただ青を濃くしたような、でも藍色なんかとは違うほんとにすてきな空で。こんなにすてきなことが、頭上で毎日のようにあったっていうのに、なんで私は気付いてなかったんだろう?私はあのハチにびっくりしたのと全力疾走したのとで、今まで考えてたことがすっかり頭から抜けてしまったのをいいことに、全然何も考えずに空を眺めてしみじみしていた。
でも、不思議に思われるかも知れないけど、私は小さい頃から高いところを見続けていると足がすくんでしまう癖というか性質があって、やっぱり長く立っていられずに座り込んでしまった。(何というか、例えば高い塔に昇るにしても、下の方は地面っていうはっきりした終わりがあるわけだけど、上の終わりの方は、特に昇ってる最中じゃちょっと見当がつかないときがあるでしょう?それで私は下りよりも昇りの方が怖かったりするのだけど。)それでも梢の間から見える空は本当にすてきで、しかも日が落ちて涼しくなってきたお陰でちょっといい風が吹きはじめていた。その風に乗って何か聞こえてくるので耳を澄ましたら、ちょっと向こうに、どうやら夏祭りの準備らしくてテントやら屋台やらを出してきてる人達がいるらしいのだ。すっかり忘れていたけれど明日はこのあたりの夏祭りの日で、近所の友達と遊びに行こう、できたら浴衣も着よう、なんて思っていたのだった。今年も中学校の先生方のおでんのお店は出るのかしら?いやそれより、その近所の友達は片思いの彼に果たして告白したのかしら?是非とっちめて聞いてやらなければ。
何がどう危なかったのか全然分かっていない様子の黒猫嬢を、顔を無理矢理こっちに向けさせて私と顔を突き合わさせた。彼女の金色の綺麗な目は、もうさっきの睨んだような目つきでなく、いつもの我が侭いっぱいで妙に人間くさい(つまり、彼女は表情がやたらと豊かなんだ、)感じで「なにするのよ」と言っているのを見てふっと少し安心した。
私はくしゃくしゃに潰してしまった新聞を芝生に敷いて座り直すと、迷惑そうな黒猫嬢を引き寄せて膝に乗せ、のどを掻いてやった。誰かに見られてたらちょっと恥ずかしい、と一応思ってあたりを見回すと、すぐ近く一階のベランダのガラス戸が開いていて、明かりがついているのに気付いた。でも人が居る様子はなくて、ただ棚に無造作に積み上げられた沢山のCDが印象的だった。この部屋の主はきっと音楽好きなんだろう。きっとお気に入りの曲を聴いているとそれだけで仕合わせな気分になれたり、それについて語らせれば一時間くらいは喋っていられたりするんだろう、なんて勝手な想像をして、私はむしろ、部屋の主が居なくて、CDが聴けないのをちょっと残念に思ったりもした。
もういちど空を仰ぐと、だんだん暗くなってきて少し黒が混じってきたような気もしてきたけれど、代わりに五階まである団地の窓のあちこちに明かりがともってきていた。私はそのオレンジ色の光を見上げて、なんだか本当に涙でにじんで見えるんじゃないかと思ってしまった。だって、この明かりのひとつひとつの下に、色んな人の色んな生活とか趣味、それに仕合わせがあったりするんだろう、って思えたのは(月並みな感慨かも知れないけれどね、)ほんとに初めてだったんだから。
私はすっかりなじんで膝の上で重くなっている黒猫嬢を抱えて(新聞は頑張って器用に小脇に抱えて)ゆっくり立つと、そろそろ帰ろう、と言った。彼女はやや不満そうではあったけど、こんなに和んでしまっては散歩を続ける気もなくて、おとなしく私の肩にぺろんと掴まった。私は未練がましく空を眺めてコロンコロンと下駄の音をさせたりしながら、(こんどは絶対転びそうになったりしないように)ゆっくり家の玄関まで歩いていった。とりあえず帰ったら明かりをつけなくちゃ、なんてほんとにどうでもいいような、何の解決にもならないようなことをかなり真剣に考えながら。