はじめに
神奈川県立相模台工業高等学校の社会科巡検も1998年で34回目を数えることになった。途中、巡検の中心的役割を果たしていた重田先生のご栄転や故広島先生のパキスタン・カラコルムにおける遭難、クラス減による教員定数の削減など幾多の危機があり、何度か巡検の廃止を検討せざるを得なかった。しかし、何とかここまで持ちこたえることができたのは「伝統」を作った先輩方、社会科教員のチームワーク、クラス担任をはじめとする他教科の先生方、学校職員、秦野市のボランティア講師等のみなさんのお陰である。また、「巡検」を教育実践として評価し加配措置を認めて下さった神奈川県教育委員会のご判断にも感謝する次第である。
今回この報告書を作成するにあたっては多くの方のご尽力が必要であった。この春退職された中村校長より報告書の必要性を示唆され、報告書の作成を決めたもののスタッフの入れ替わりで経験者が少なく作業は難渋していた。ところが県立弥栄西高校の寒河江東一氏・県立相模原高校の堀 俊氏・県立東金沢高校の清田徹也氏のお三方(旧台工社会科教員)が積極的に手伝って下さることになり何とか完成にこぎ着けた次第である。
現在の神奈川の高校教育においては貴重な教育実践となってしまった「巡検」である。多くの方々にその意義を理解していただきたいと思う。
1998年 秋
神奈川県立相模台工業高校 社会科
伊東 卓哉 、池田 照美、城川 隆生、須磨 矩子、山中 正道
目 次
1.秦野社会科巡検の沿革───────────────────1ページ
2.現在の巡検計画──────────────────────5ページ
@ 意義・目的
A 教室における授業計画と準備
B 実施概要
C 巡検コース
D 地図
3.秦野盆地の地形と地下水の学習────────────── 10ページ
4.地域の産業を学ぶ──────────────────── 18ページ
5.神奈川の酒造りと金井酒造店─────────────── 35ページ
6.歴史教育としての巡検────────────────── 45ページ
7.地域信仰の学習───────────────────── 52ページ
8.「秦野巡検」を続けて −広島三朗−────────────60ページ
9.生徒レポート──────────────────────62ページ
1.秦野社会科巡検の沿革
「地理の授業を通して、学習した知識を実地に野外で具体的な諸事象にふれ、観察・聴取・体験することにより、これを地理的に探求していこうとする態度とそれに必要な観察眼・思考力および判断力を養うと同時に一般社会人としての必要な教養を身につけることを目的とした」(第4回巡検資料より)地理巡検が始められたのは1965(昭和40)年のことだった。当時はいくつかの高校で、学校周辺での地理巡検が行なわれており、相模台工でも「生徒に生きた地理を学ばせ、また地域を調べることによって少しでも郷土への関心を開かせることができたら」(創立20周年記念誌より)との目的で最初は希望者を集め7月の夏休みの時期に行なわれていた。秦野を巡検の場所に選んだ理由は、盆地としてまとまったブロックを形成しており、地理的には扇状地や水無川等の教材、たばこ・落花生・酒造り等の産業に恵まれ、1日の行程としては格好のフィールドであったからだ。
この当時の、自由参加による巡検のコースを以下に書いておこう。
大秦野駅(現秦野駅) → 駅前新興商店街 → 駅周辺の在来工業(湧水 利用の醸造等)→ 今泉(白笹稲荷等) → 大磯丘陵・震生湖(昼食)→ 寺井
→ 水無川 → 新興工業団地(平沢・曽屋) → 曽屋神社 →
日本専売公社秦野工場 → 秦野市中心部の商店街 → 大秦野駅
夏休み中の巡検でありながら、年を追うごとに参加者が増加していったので、1971(昭和46)年から正規の授業の中、全員参加で行われるようになった。また、巡検の時期も、酒造りの始まる11月下旬に変更された。この当時、秦野市内の酒造店は3社であった。
扇状地の伏流水を利用した酒造店の見学が巡検の大きなポイントになってきたのもこの頃からであった。1972(昭和47)年の巡検コースを見てもらいたい。
大秦野 → 扇端の湧水と古い集落(弘法清水、大岳院、今泉) →
近江屋酒造 → カーネーション温室栽培見学
→ 白笹稲荷 → 大磯 丘陵、震生湖 → 平沢、たばこ栽培農家見学
→ 扇央野土地利用(平 沢工業団地) → 養鶏業 → 水無川 →曽屋神社
→ 日本専売公社秦 野工場 → 竹細工業 → 秦野市中心部の商店街
→ 大秦野駅
酒造業の他に、当時の秦野の在来産業と、新興産業が盛りだくさんに並んでいる。全国に知られた秦野のカーネーションとたばこ栽培・伝統的な竹細工も巡検コースに入り、机上で学ぶ農業・産業ではなく、実地に触れることが出来た。
巡検が始められた頃、秦野市の人口は5万人台であった。また、在来産業に加えて、新興産業が誘致され始め、従来のたばこ・落花生・カーネーション栽培も盛んに行われていた。しかし、日本が急速に工業国化したのと同じように秦野盆地もしだいに変化して行き、1980年代に入った頃には人口は12万人台となった。伝統的な在来産業は後継者難等の理由で衰退し、3社あった酒造店は1社になり、竹細工業も減少していった。それに合わせて巡検コースもいろいろと変化していった。第13回巡検(1977年)のコースを記しておこう。
大秦野駅 → 秦野市中心街での聴取調査 → 金井酒造店見学 → 専売 公社秦野工場前 → 竹細工の店見学 → 葛葉川と穿入蛇行 → 曽屋神 社と水源池(上水道の歴史) → 水無川 → 今泉神社 → 平沢(和田 さん宅等) → 室川流域(石仏、道祖神) → 渋沢断層と大磯丘陵 → 震生湖 → 白笹稲荷 → カーネーション栽培農家(綾部さん宅) →
扇端の古い集落(今泉、大岳院) → 弘法清水 → 大秦野駅
このコースが、もっとも長い間行われたコースだった。また、聴取調査が行われている。聴取調査がいつ頃から始まったのか資料不足で分からないが、生徒たちが秦野の町の中で商店街の人たちに聞いて回るのは、秦野巡検の大きな柱のひとつであった。
その後、竹細工の店見学が無くなったり、「現代社会」必修化により、「地理巡検」が、「現代社会巡検」となる変化があった。また、1984(昭和59)年には秦野の葉たばこ生産が中止され、日本たばこ(旧専売公社)秦野工場でのたばこ生産も1988(昭和63)年に終了した。巡検の柱のひとつであったたばこが消えたのである。
巡検にとって新たな改革を必要とする変化が起こったのは、1986(昭和61)年に、秦野市内唯一の酒造店となっていた金井酒造店の工場が秦野市の中心街より、平沢工業団地の一画に移転したことであった。在来産業としての竹細工・たばこはすでに巡検コースから消えている。残っていた酒造りをコースから消すことが出来ず、そのため従来の巡検コースでは大秦野駅から金井酒造店新工場を経由して渋沢駅に抜ける必要があり、巡検終了が夕方5時〜6時になってしまう。以上のような事情の中で、新しいコースを故広島氏が中心に作ることになった。そして、巡検は2つのコースで行われることになった。(授業担当者がコースを選ぶ。)まず、従来のコースであるが、以下のようになった。
大秦野駅 → 秦野市中心街での聴取調査 → 弘法清水 → 扇端の古い 集落(今泉、大岳院) → カーネーション栽培農家(綾部さん宅) → 道祖神 → 平沢(和田さん宅等) → 震生湖 → 大磯丘陵と渋沢断層 → 室川流域(石仏、道祖神) → 扇央部の畑 → 水無川 → 金井酒 造店 → 渋沢駅
新しいコースは自然地理的要素の濃いコースになった。
渋沢駅 → 渋沢駅周辺の街の様子 → 北口の牧嶋落花生店の工場見学
→ 平沢工業団地(日立神奈川など)の立地、大山道の道しるべ
→ 金井 酒造店 → 水無川 → 御岳神社
→ 平沢(和田さん宅等) → 石仏、 庚申塔
→ 渋沢断層と大磯丘陵 → 震生湖 → 白笹稲荷 → 道祖神 カーネーション栽培農家(綾部さん宅) → 今泉遊水池、大岳院 → 弘 法清水 → 秦野駅
新しいコースの特徴は、産業、扇状地の土地利用、伏流水・湧水と集落、それに断層を適度に組み合わせたことであった。また、楽しく巡検をやろうとの発想で、渋沢断層の断層崖を直登する事になった。崖を登った経験のほとんどない生徒にとって、それは崖を実感すると同時に新しい発見であったようだ。逆に、震生湖から渋沢断層を下る時には、秦野盆地のパノラマを見て自分で最短の道を探して白笹稲荷まで10分で着くように生徒に指示して、崖の獣道を走って駆け下りるなど、遊び心もあった。(このやり方は、途中の道路の交通量増加や住宅増加のために危険になり、出来なくなった。)
1991(平成3)年、それまで巡検の中心であった重田先生がご栄転された。また、秦野市中心街での聴取調査は、街の変化に伴って困難になってきていた。それとともに2つのコースが出来ることにより、秦野でボランティアで協力して下さった方々の拘束時間が長くなり(例えば、綾部さんは午前と夕方の2回)、いろいろと改良すべき点が出てきた。そのため、従来の、秦野駅から始まり聴取調査を行うコースは廃止となり、渋沢から始まるコースに一本化された。
1993(平成5)年には、渋沢駅北口が新設された。さらに北口から水無川に至る新しい直線道路が開通した。それに伴い、巡検コースも変更され、日立神奈川に行かずに、テクノパークを抜けて桜土手古墳公園に行き、秦野の歴史的な話をし、工場立地に関しては水無川沿いの日産車体工場の前で説明することになった。自然地理的要素の強かった渋沢コースに、歴史・道祖神等の民間信仰の内容が追加され、内容が盛りだくさんになって現在に至っている。その詳しいコースについては別の章で書かれているので、それを参照されたい。
しかしその一方で、昭和30年以来秦野の農業を支えたカーネーション栽培が、後継者難や都市化の波に洗われ次第に減少し、綾部さんの温室がいつしか無くなり、そこに分譲住宅が立つなど、大きく変化していった。そのため、綾部さんにはカーネーション栽培の話ではなく、秦野の農業の変遷についてのお話をお聞きすることになった。同様に、和田さんからは、もう行われなくなったたばこ栽培のお話をしていただくのであるが、生徒にとっては実感の薄い物にならざるを得ない。和田さんは葉たばこの鉢植えを用意されるなど、いろいろと工夫され、頭の下がる思いがする。
秦野の多くの人々の協力と、相模台工の歴代の社会科教員の努力と関心、担任や学校の支援体制、生徒たちの関心や向上心等に支えられて、巡検は1998年で34回を数えることになる。大秦野駅(現秦野駅)の南側は一面の畑や水田であった。それが、今は住宅地に代わった。巡検も同様に、時代の変化、教員の関心によって、コースを変えて存続してきた。確かにもう止めようと言い合った時期もあったが、巡検中の生徒の生き生きした様子には、教室の座学では得られないものが感じられる。また、これほどの巡検を行っている学校は全国にもほとんど例がない。知識偏重の教育の弊害が叫ばれる中、今相模台工に在職している教員にとっては大変であろうが、これからも是非存続させていただきたい。
【県立弥栄西高校 寒河江東一】
