4.地域の産業を学ぶ

@秦野の農業について
巡検においては、秦野名産の落花生について、渋沢駅前の牧嶋落花生店でお店の方から話を聞く。
  葉タバコについては、平沢の和田さんが鉢植えの葉タバコを生徒のために用意してくれていて、実物を前に話を聞く。 さらに、今泉の綾部さんは施設園芸農家として、体験に基づいて秦野の農業についてその変遷を生徒に話してくれている。現在の巡検の日程からすると、3日間に渡って日中の忙しい時間帯に訪問するので、毎日その時間に待っていていただいているのは本当に大変なことである。生徒にとっては、地元の方から実際に話をしてもらうということは、なかなか機会がなく貴重な体験である。 そこで、われわれがまず最初に生徒に話すのが、地元の方が時間を割いてみんなのために話をしてくれているということ。こんな機会は滅多にはない。貴重な体験であるということである。また、何より失礼があっては困る。それゆえこのことは授業の中で機会あるごとに何度となく話していく。この巡検がすばらしい教育実践であるのは、まさにこのような機会があって、生徒がわれわれ教員からではなく、体験に基づいた地元の方のお話を聞くことができるからなのである。
こうした機会を充実したものにするために大切なのが事前の学習である。わずかな時間の中で話を聞くため、ある程度の予備知識があるとないとでは理解に大きな差がでてきてしまう。具体的な農業についての事前学習としては、二万五千分の一の地形図を利用している。まず、等高線(100b・150b・200b)に色を付け、水無川などの河川の位置を確認し、盆地の地形と複合扇状地という地形的特色を把握させる。さらに、土地利用ごとに着色する。こうした作業は初めはめんどくさがったりするのだが、結構のめり込んで、最終的にはきれいに仕上げる者が多い。この作業が終わると、扇状地における水利を基本に、農業・工業の授業である。地形図で確認すると、田は金目川などの河川に沿った一部の地域にしか見られない。そこで、畑においては換金作物として葉タバコや落花生が生産され秦野名産になったこと、昭和30年代ごろからは温室栽培によるカーネーションが新しく名産になったことなどを、自然の状況・時代背景・秦野の立地等を絡めて授業で話をしていく。

<落花生について>
 巡検では渋沢駅前にある牧嶋落花生店で店の方の話を聞く。落花生は秦野名産として全国に知られ、長い間この地方の経済的支柱の一つであった。落花生は明治4年に横浜から持ち込まれ、秦野に入ってきたのは明治12年ごろである。明治30年代ごろから作付けが急増し名産としての地位を確立する。落花生は労力がかかるたばこ栽培と同時期の夏作で、手間がかからず販売価格が高く、秦野の土質にもあっており、輪作の関係も良好だったために作付けが伸びたようである。ちなみに輪作は、1年目の夏作がたばこ、秋にそば、冬が小麦または油菜である。2年目の夏作が陸稲か甘藷か粟、冬が大麦で、3年目の夏作として落花生、冬作で大麦というのが一般的であった。昭和40年代に入って都市化の進展により宅地化が進み農地が減少し始め、たばこを主体とした輪作体系も崩れ、落花生の耕地面積は減少してしまった。また、中国・アメリカ産の安い豆の輸入増によって販売の面でも制約を受けている。秦野での落花生の作付けは、昭和33年には約853fであったが、平成8年には約159fと約1/5となってしまった。農協では独特の風味があるおいしい特産物として年間の販売可能量を見定めて、農家との契約栽培としたり、農協が窓口となって観光農園としてらっかせい掘りをさせているところもある。また、平成元年からは冷凍物の「ゆでらっかせい」が商品化され、付加価値をつけて販売でき、通年販売ができるようになって需要も伸びているとのことである。
 生徒の中にはピーナッツと落花生が同じものということをわかっていなかったりする。ましてや、花が咲いて受粉したあと、その実が地中にもぐっていって大きくなるなんていうことを知っている者は稀である。聞くと枝に実がつくと思っていたり、馬鈴薯のように根にできると思っていたりする。巡検の時期が生育収穫の時期に対して遅いため実物を観察できないのが残念である。

<落花生作付けの推移>

年次 昭和25年 昭和35年 昭和40年 昭和45年 昭和50年 昭和55年
作付け面積 3610(反) 9120(反) 888 810 619 508
年次 昭和58年 昭和60年 平成2年 平成4年 平成6年 平成8年
作付け面積 444 409 200 178 168 159

資料:「市勢要覧」「統計はだの」「神奈川農林水産統計年報」
    「世界農業センサス」
  (同年度で資料によって数値が違うものについては秦野市の資料を採用)
注:昭和25年、昭和35年の数字は秦野町と西秦野町を合計したもの
   昭和40年以降の単位はヘクタール
(参考)1反=991u 、1e=100u 、1f=10000u

<畑の土について>
渋沢駅から水無川に向かう途中のテクノパークと表示された信号の周辺には、まだわずかに畑が残っている。ここで畑の土を観察する。火山放出物スコリアの確認である。スコリアとは、多孔質の内部構造をもつ火山放出物である。同様の構造をもつ軽石が、石英安山岩質ないし流紋岩質で白色〜黄橙色であるのに対して、スコリアは玄武岩質で、黒色〜暗赤色である。関東ローム層を構成する富士山・箱根山の火山灰で比較的酸性の度合いが強く、また扇状地の扇央部ということで水はけが良い(良すぎる)。こうした土壌ゆえに秦野においては、落花生を生産し葉タバコが名産になったというわけである。ただし、落花生も葉タバコも連作をすると収量や品質に大きな影響があり生産性も低下することから輪作が行われている。さらに輪作においても、たい肥等で有機質を投与したり、苦土石灰によって土壌酸度を調節したりしてと地力の培養に努めている。落花生は落花生に対応した、葉タバコは葉タバコに対応した土作りがなされていることはもちろんのことである。

<葉タバコについて>
秦野にタバコがもたらされたのは江戸時代の初期で、当地の修験者が肥前(長崎)から種子を持ち帰り自家用として栽培をしたのが始まりと伝えられている。慶長17(1612)年に煙草耕作禁止を付帯条件とした禁煙令が発布されているので、密かに栽培が行われ、全国各地に広まっていったと推測される。秦野では明暦年間(1655〜1657年)には売買が行われるようになったようである。1707年の富士山の大爆発によって秦野は壊滅的な打撃を受けたが、この時、タバコなら火山灰に覆われたこうした土地でも栽培が可能ということが伝わった。試しに栽培してみると脂質微薄で香味佳良なものができたため、麦の間作として本格的に栽培が始まった。天保年間にはすでにその優秀性が認められるようになり(新編相模風土記、天保12(1841)年)、安政年間に横浜が開港されると外国人にも評判となり、鹿児島の国分葉、水戸の水府葉とともに三大銘葉としてますます名声を博すようになった。明治期になって、殖産興業の目的から在来農産物に対する奨励振興が大々的に行われ、秦野盆地だけでなく神奈川県の重要産業の一つになった。タバコの品種改良や栽培技術の改良もさかんに行われ、共進会や博覧会で入賞するものも多く、タバコ栽培においては全国の先進地となっていった。十日市場(本町地区)には仲買人や製造業者などが行き来し活発な経済活動が行われた。
 軍事費調達のために明治30年、たばこ専売法が施行されると仲買人や煙草製造業者等は職を失い、養蚕や織物製造業などへ転換を余儀なくされ、たばこ耕作も許可制となった。煙草専売所と農商務省農事試験場秦野煙草試験場(専売局秦野煙草試験場の前身)が開設され、試験場の試験成果である育苗の改良などにより病害虫や風害等の被害が減少し、煙草耕作経営上多大な利益をもたらした。大正期から昭和初期にかけてタバコ栽培は最盛期を迎えた。この時期、秦野は煙草耕作に関して他の産地の追随を許さぬ全国水準の技術を誇り、全国から視察や技術習得に訪れるものがあったり、栽培技術の指導者を派遣するなどということが活発に行われていた。こうした動きを示すものとしては、寺井の西光寺門前にあるたばこ栽培法普及の顕彰碑があり、巡検でもこれを見学する。煙草耕作は秦野地方にあって農家生活の向上、商業の発展に計り知れない貢献をし、他に産業とてこれといってない秦野の経済を支えるものであった。
 戦後、専売公社が発足し、専売局秦野製造所(明治40年開設)が専売公社の秦野工場となった。当初は刻みタバコ、昭和37年から両切りタバコ、昭和40年からは国際水準の新工場で「ハイライト」などのフィルタータバコが生産された。この工場の跡地は現在ジャスコとなっている。秦野葉は昭和14年に秦野煙草試験場で達磨葉と交配育成されたもので純粋な秦野葉ではない。また、昭和10年以降黄色種の耕作が開始され、昭和30年代には黄色種が耕作面積の60%を占めるに至る。
黄色葉が生産されるようになったのは、刻みたばこの嗜好が変化し、消費が減少していったという背景がある。秦野葉は刻みたばこには適していたが、需要の伸びた紙巻きたばこにはあわなかったのである。また、秦野の土地の土質は在来種である秦野葉には適していたが、黄色種に対しては今一つであったようである。
 昭和25年のたばこ会館(大秦野駅前)竣工時には「秦野盆地発展の基本産業である『たばこ』を没却して秦野の発展はあり得ない」という意気込みであった秦野のたばこであるが、黄色種中心で品質が全国の産地と比較しても中位となり価格も安く、栽培過程で苦労が多いたばこ栽培に魅力が少なくなった。さらに、昭和40年代以降日本の高度経済成長とそれに伴うこの地域の都市化等の影響で農業用地の開発が急激に進み農業構造の変化となった。昭和49年を最後に秦野葉の生産がなくなり、昭和60年には黄色種も生産されなくなり、秦野たばこ400年の歴史に幕を閉じた。現在は、秦野煙草耕作組合連合会が昭和23年に同連合会の25周年記念行事としてスタートし、毎年9月に行われているたばこ祭りが市民のお祭りとしてその面影を残すのみである。
 葉たばこ作りは、まず苗床の土から始まる。苗床には、落葉・米糠・籾殻・硫安なと窒素分の肥料が入れられ、土とは言えないぐらい手を加える。
2月の初めに種を蒔いてから5月の終わりに畑に植え替えるまでに、4〜5回も肥料をやる。10アールあたり1トン以上も堆肥を入れた畑に移された苗は、夏の間に成長して7月上旬から秋にかけて取り入れられる。取り入れは、たばこの葉を一枚一枚下の方から掻きとるという方法である。取り入れた葉は色合いや出来方で分け、縄に通して乾燥させる。乾燥は単に乾かすだけでなく、適当な温度と湿気を与えないと良質のたばこにならないので、その管理に多くの苦労を要する。徹夜で交替しながら乾燥作業をすることもしばしばであったということである。二週間ぐらいで乾燥が済むと、葉のしをする。これは葉のしわを伸ばす作業で、伸ばした葉は丁寧に重ねていく。ある程度水気を与えないと伸びないし、与えすぎると腐るおそれがあるので、これも難しい作業である。きめられた重さに束ねて専売公社へ出荷する。公社では品質を調べたばこに等級をつける。そしてそれに応じた値段で買い取る。せっかく苦労して作っても等級が低ければ苦労は報われないのである。「秦野たばこは技術で作る」と言われ様々な工夫や努力がその耕作の中にあったようである巡検では平沢の和田さんに葉タバコの話を聞く。和田さんには親子二代に渡ってお世話になっており、われわれの巡検のためにたばこの鉢植えも用意してもらっている。和田さんの話の内容としては、タバコはナス科の植物であること、春に種をまき夏の収穫後には乾燥させ、葉を一枚一枚のばさなくてはならないので大変な労力がかかること、しかし収入の面はサラリーマンの3〜4倍もあったということなどである。高校生にとって身近な?タバコを実際に目にしながら説明を聞く生徒の反応はさまざまでおもしろい。さらに、巡検では民家の敷地内にあるタバコの乾燥倉を見ることができる。



<たばこの栽培状況の推移>

年次 大正5年 大正10年 大正15年 昭和5年 昭和10年 昭和15年
作付け面積 5324(反) 5564(反) 5580(反) 5128(反) 4492(反) 3362(反)
年次  昭和25年 昭和30年 昭和35年 昭和40年 昭和45年 昭和50年
作付け面積 3165(反) 451 354 276 134 32.5
在来種 214 114 51 10
黄色種 237 240 225 124 32.5


資料:「市勢要覧」「統計はだの」「神奈川農林水産統計年報」
  (同年度で資料によって数値が違うものについては秦野市の資料を採用)
注 :昭和30年以降の単位はヘクタール
  (参考)1反=991u 、1e=100u 、1f=10000u


<葉たばこの収納価格>            (昭和41年産1s当/円)

種類  優等 1等 2等 3等 4等 5等 6等
第三在来種
(秦野葉)
630 550 450 340 250 150
第五在来種
(白だるま)
570 500 400 310 230 150
第一黄色種
(ブライトエロー)
800 730 640 520 390 270 160
第二種黄色種
(ヒックス)
780 710 600 480 370 260 160

備考:葉のし加算金 五在 1キロ当 68円
注 :10アール当たり(昭和41年耕作事績)
秦野葉=223s、102,884円、    ブライトエロー=197s、 94,040円、       ヒックス =204s、 96,277円
                                                          資料:「秦野市史」別巻 たばこ編

<花卉栽培について>
 巡検では、今泉の農家綾部さんのお宅に伺い、秦野の施設園芸を中心とした農業の変遷のお話を聞く。毎年二学期にはいるとわれわれは巡検の下見と挨拶を兼ねて秦野を廻るのだが、綾部さんの口癖は「まだやるのかね、もう温室もやっていないし、そろそろ勘弁してくれ」というものである。確かにかつて綾部さん宅の裏には温室があってカーネーションを栽培おり、巡検では生徒はその温室を見学させてもらっていた。しかし現在は分譲住宅となっていて、以前の面影はない。秦野駅から徒歩10分の綾部さん宅の周辺も宅地化が進んでいる。
たばこと落花生が秦野の農業の中心であったが、昭和30年代後半に入って急速に都市化が進展し、農家の多くが第二種兼業農家へと変わり、農業を辞めてしまう家も増えた。専業農家として残った農家が収益の面から施設園芸を行うようになり、全国でも有数の産地になっていく。秦野にカーネーションが入ってきたのが昭和8年ごろで夏切りを始めたのがきっかけといわれている。戦後すぐに秦野温室組合が設立され、栽培技術の研究と先進地への視察、会員相互の体験交流によって技術の習得向上が図られた。昭和25年当時の温室暖房は石炭ストーブであったが、昭和30年ごろから石炭ボイラーに、そして昭和35年ごろには重油ボイラーが導入された。昭和40年に県の農業改善事業が実施されたことは新規規模拡大が進んだ要因でもあった。これによって、育苗センターの設立や自動かん水・天窓の自動開閉装置の導入などが進み、秦野カーネーションの基盤が固まった。東京・横浜といった大消費地の近郊にあって、農協等の関係団体の充実した指導と地域の農家の熱意により高い品質を保ったため、市場においても信頼と高い評価を受けるようになった。しかし、石油ショックによって暖房用重油がドラム缶1本二千円程であったものが1本一万五千円へと急騰。航空輸送等輸送手段の進展に伴って四国や九州などの遠隔地の産地からも市場にカーネーションが供給されるようになる中で、カーネーションの値段はといえば、1本当たりの値が(出荷時期にもよるが)あまり変わらず、物価上昇を考えれば相対的には値下がりしている状況が現出した。消費者に好まれる大輪のものやピンク系の生産を増やしたり、省力生産に向けての技術の導入などの努力がなされた。その後、昭和50年代後半から老朽施設更新の時期が来たが、価格も従来とさして変化がなく、生産者の高齢化、後継者難ということで更新されない温室も増えてきた。綾部さんの所でもそうした理由で菊や鶏頭などを露地栽培をするようになったということである。露地栽培というのは屋根やおおいなどのない畑で作物を栽培する栽培方法のことで、温室栽培・ビニールハウス栽培と区別している。菊は畑ごとに種蒔きの時期をずらすことによって、春から初冬にかけての比較的長い期間出荷が出来き、それなりに需要もある。また、出荷のタイミングによって単価が大きく異なったりするが、施設維持費や暖房費のかかるカーネーションに比べて費用がかからないこと、露地栽培のためあまり手が掛からないことなどから、経営的には安心とのことである。高度経済成長、石油ショック、都市化と通勤圏の拡大、バブル経済崩壊の原因ともなった宅地並課税、そして後継者問題等、農業をとりまくさまざまな現実の問題が綾部さんの農業経営の中に凝縮されている。
 秦野における花卉栽培としてはカーネーションの他にはバラがある。やはり昭和40年代になって若手の農業経営者が温室バラの有利性に着目して生産を始めた。バラは平塚市が中心であるが、秦野でも県内生産の23.2%(昭和59年)を占め周辺の市町村と共に「湘南のバラ」として生産している。主な栽培の形態は温室での温湯暖房による冬切りが中心で、休耕田を利用した夏切り栽培も見られた。石油ショック以後は省エネ技術が進み温風暖房方式と手軽で効果的な内装カーテン装置が導入された。また、バラは年間50〜70回程の薬剤散布が必要なため、その労力が大変なことと、密閉された温室内での防除作業は人体への影響も心配されるので、健康を考えた無人の自走式薬剤散布装置、蒸散式、ミクロ細霧式防除法等による完全無人防除を目指している。綾部さんのお話によればバラの作り手は若手の農業経営者が多いようである。

<秦野の温室カーネーション栽培の推移> (単位:u)

年次  昭和20年 昭和30年 昭和40年 昭和45年 昭和50年
温室面積 10、469 15、289 54、226 104、172 121、605
カーネーション 3712 12995 55944 90135 97864

注:温室栽培には、カーネーション、バラ、鉢物がある。


<施設園芸の花卉・花木・種苗類の農家数・収穫面積>

年次 昭和55年 昭和60年 平成2年 平成7年
農家数(戸) 159 124 111 107
面積(a) 1885 1661 1763 1884

資料:「統計はだの」「秦野統計要覧」

<施設面積の状況> 施設面積210,593u                                       1996年JA調べ

バラ      53918u     25.6% カーネーション    46506u      22.1%
イチゴ     37536u    17.8% ハウスみかん    9250u       4.4%
トマト
キュウリ   39582u     18.8%
シクラメン
プリムラ
他  鉢物    23801u       11.3%

資料:「農業とJAの概要」(1997年度版)

<現在の秦野の農業の概要>
 秦野市の農業粗生産額で見ると野菜、生乳、花卉の占める割合が70%になっている。花卉園芸は、温室・露地栽培とも先進的な農業経営が行われており、特に温室はカーネーションを中心にバラ、シクラメンの鉢物栽培など広範囲にわたってを経営が行われ、路地切り花栽培では小菊、アスター、枝物などを中心に栽培が行われている。温室・露地栽培とも経営の安定のため新品種の導入、省力化、省エネ対策、栽培技術の向上等の研究に取り組んでいる。
1979年度から農業振興をはかるため農業構造改善事業が進められ、市街化区域内の農業を調整区域へと転出させ、温室団地構想などの実現や、収益性の高い農業を目指し、コンピューター等の先端技術を積極的に導入した経営を行っている。
野菜類は、ビニールハウス、ガラス温室によるイチゴ、キュウリ、トマト等の栽培が盛んに行われ、近隣市場・地元スーパーへ出荷されている。露地栽培も盛んに行われ、地場消費を中心に地元市場、全農大和集配センターへ出荷が行われている。イチゴ栽培は栽培技術も高く栽培者の結束も強いため、共選・共販により有利販売が行われている。
果実は、栽培の北限といわれるミカン、ブドウ、ナシ、クリ、キウイフルーツ、リンゴ等多くの種類が栽培されている。ミカンは1979年度から新農業構造改善事業で秦野市農協の選果場が完成、秦野ミカンとして東北地方に多く出荷されている。しかし、ミカンは価格低迷が続いたこともあって再編対策事業によりキウイフルーツ、クリ、ウメ等への転換もはかられた。
畜産経営については、都市化が一段と進む中で、後退を余儀なくされ飼養農家戸数は減少しているが、一戸当たりの飼養頭数は増加傾向にある。
農業をとりまく環境は、農畜産物の輸入自由化問題をはじめ、就農者の高齢化、兼業化の進行や農業後継者不足、さらに生産緑地をめぐる農地の活用方策など多くの課題が山積し、秦野の農業の健全な発展をはかる上で大きな阻害要因になっている。    〜「農業とJAの概要」より

<主要農産物の農業粗生産額構成比>

年次 昭和55年 昭和60年 平成2年 平成7年
総額 5、184百万円 5、326百万 5,615百万円 4,089百万円
(%) 生乳      19.5

鶏卵       7.5

カーネーション  7.1

豚         7.1

落花生       5.2
生乳      19.7

鶏卵       7.3

バラ        6.2

カーネーション  6.2

豚         5.5

生乳      18.3

カーネーション  6.6

バラ        6.0

鶏卵       5.8

乳牛       5.3
生乳       20.7

豚         6.9

みかん      6.6

カーネーション  6.5

バラ        6.0

資料:「神奈川農林水産統計年報」


A秦野の工業について
秦野の在来工業は、戦時中の疎開工場を除くと、農産物を加工する伝統的なものであり、醸造業・製油業・生糸製造業・刻みたばこ製造業(専売制以後は大蔵省専売局の場外作業担当人としての経営)などである。この他には専売制以前のたばこ製造業者が転換して始めた綿織物業で、「秦野木綿」と称された先染め小巾織物があった。これは綿糸を天然藍草を発酵させた藍瓶の中で染めるもので、原糸を先に染めてから織るもので先染め織物といい、体裁よりも正藍染めの色と香りと質の丈夫な点に特色があった。しかしこれも戦後姿を消していく。在来工業といっても日常生活必需品の職人的手工業のおもむきが強く、工業として特筆すべきものはなかった。
巡検では、昭和40年代からこうした在来工業の中で、醸造業の工場見学と竹細工の店の見学などをしていた。竹細工そのものは各地方にあって、それぞれ生活用品等が作られていたわけだが、秦野にあっては戦前から番傘を中心に竹細工の生産が盛んであった。戦後になってからは、簾や玩具や竹ひご等が生産され、輸出用の簾や鳥かごなども生産されていた。昭和30年代初頭には大工場誘致の一方で竹製品に対する期待もなお大きかったと記されている(秦野市史研究、第4号、秦野市の竹工業、古島敏雄)。その後、石油ショック前まで東芝や日立の下請けとして電気製品のかさなどが生産の主流となっていった。しかし、これも石油ショックで売れ行きが止まり、またプラスチック製品の増加により将来の見通しが立
たず、後継者もできないままにその姿を消した。巡検で見学させていただいていた竹細工の店がなくなったのは昭和61年のことである。こうして時代の変化とともに巡検のコースも変更せざるを得なくなり、今は在来工業としては醸造業の金井酒造店さんで「酒造り」を見学させてもらっているにとどまる。
 秦野において本格的な工業が成立してくるのが、昭和31年に「秦野市工場設置等奨励に関する条例」が施行されてからである。神奈川県内では、高度経済成長に伴って臨海工業地帯から相模原や藤沢等の内陸工業団地造成が進められ、秦野でもその機運に乗って市制施行を機会に工場誘致が図られた。この工場誘致は農家の次男・三男対策、市民の地元での雇用の促進、税金の増収、それと同時に国策としての人口の地方分散にも役立つ。さらに、二次産業の定着人口増加は、商業サービス業等の第三次産業の増加をも期待したものであった。誘致場所の選定にあたっては、農業生産性の低い盆地中央の曽屋原、堀山下、戸川、平沢にまたがる地域に、公害のない工場を第一条件として、地下水の豊富さと衛星都市として交通の便に恵まれた立地条件を前面に打ち出し、奨励金の交付(固定資産税額を限度の3年間)を条件に工場を誘致した。早速スタンレー電気などが進出してきた。条例は5年後に廃止されたが、この条例が呼び水となりその後も大工場の進出が続き現在に至っている。ちなみに条例が廃止されたのは、誘致にあたってインフラの整備が必要となり財政的に厳しくなってきたことと、逆にインフラの整備を進めることによって高度経済成長の最中でもあり、奨励金等の優遇措置を講じなくとも工場の進出が期待できたためである。
秦野の工業の中核は加工組立型産業である。中でも電気機械と輸送用機械の両業種が多い。規模別の事業所構成は少数の大企業を頂点に中堅企業が少なく小規模の事業所が大半を占めるピラミッド型である。業種別出荷額を見ても電気機械、輸送機械(自動車)を合わせて全出荷額の70%を占めている。また、昭和60年から基本計画が練られた秦野テクノパークは、高度技術力を集積した地域工業を目指す秦野の工業の将来構想であるとも言えよう。
 巡検の事前の学習においては、地形図で曽屋原工業団地・平沢工業団地の場所の確認を行い、どのような企業が進出しているかを確認する。実際の巡検では、秦野テクノパークの島津製作所や日立神奈川・日産車体工業などの工場の周囲を歩いていく。丹沢山塊のすぐ麓で、周囲に畑の残るこうした場所にこのような大工場が建設されているのはなぜなんだろうというのが、秦野の工業について考えさせていく導入となる。工業に関する秦野の立地条件としては以下のようなものだろうか。

<工業用地>
 各工業団地は扇状地の扇央部分にあり、なおかつ火山性土壌のため、水利や土 質に恵まれず農業生産性は低い。京浜工業地帯近郊の都市の中にあっては、そ の地価が驚くほど廉価であった。

<工業用水>
精密機械工業や機械工業にとって不可欠な良質の地下水があり、工業用水とし て利用できた。しかしながら、この地下水については、昭和59年に環境庁の全 国名水百選に選ばれたものの、発ガン性物質のトリクロロエチレンやジクロロ エチレンなどが検出され取り消されてしまったという経過がある。

<交通>
小田急線、国道246号線、東名高速道路の秦野インターチェンジとあって、 人的交流も貨物輸送の観点からも東京都心部や京浜工業地帯に対して比較的便 利である。

<資本>
畑作を中心にしてきたこの地域には近代的な大工場を建設するほどの資本力は なく、「誘致」による外来資本の導入がなされた。

<労働力>
農業の衰退はこの地域からの労働者の流失、そして過疎の問題にもなった。工 場の誘致は地域開発と、住民の雇用の創出・所得向上、地域の活性化をも視野 に入れた政策と考えることができる。

 各工場の正門脇で生徒を集めてこうした説明やどういった物が作られているかなどについて説明する。生徒は帰ってからのレポートの提出に備えて工場に向けてシャッターを押す者もいるのだが、何度か守衛さんに怒られたことがあった。工場の塀には有刺鉄線が張られていたりしているので、「産業スパイと思われたんだぞ」などと冗談を言いながら次のポイントへ向う。


<産業別製品出荷額等の比較>    (単位:百万円)

昭和30年   総額               1、036
   1、食料品製造                 415
   2、機械製造業(電気機械器具を除く)    214
   3、化学工業                   114
   4、繊維工業                    86
   5、精密機械製造業                54
   6、木材及び木製品製造業           52
(注:食料品製造業の主な製品としては日本酒・菜種油等である。)
昭和32年   総額               1、643
昭和34年   総額               2,168
昭和36年   総額               4,670
昭和40年   総額               9,781
   1、電気機械器具製造業         3,099
   2、輸送用機械器具製造業        2、940
   3、その他の製造業              888
   4、食料品製造業               825
   5、金属製品製造業              502
   6、窯業、土石製品製造業          443
昭和45年   総額               87,841
   1、電気機械器具製造業         49,683
   2、非鉄金属製品製造業         11,045
   3、機械製造業                7,048
   4、輸送用機械器具製造業         5,770
   5、食料品製造業               5,050
   6、窯業、土石製品製造業          3,034
昭和50年   総額               115,508
   1、電気機械器具製造業         50,974
   2、輸送用機械器具製造業        18,455
   3、非鉄金属製品製造業         12,684
   4、食料品製造業              11,051
   5、窯業、土石製品製造業         4,955
   6、機械製造業                 4,643
                                
昭和55年   総額              381,171
   1、電気機械器具製造業         228,220
   2、非鉄金属製品製造業          35,390
   3、輸送用機械器具製造業         35,091
   4、食料品製造業               30,161
   5、金属製品製造業             13,796
   6、機械製造業                 12,182
   
昭和60年   総額              535,821
   1、電気機械器具製造業        308,371
   2、輸送用機械器具製造業        59,858
   3、非鉄金属製品製造業         32,187
   4、一般機械器具製造業         26,499
   5、食料品製造               26,149
   6、金属製品製造業            21,168
平成2年   総額               847、441
   1、電気機械器具製造業        607,475
   2、輸送用機械器具製造業        69,750
   3、非鉄金属製品製造業          32,187
   4、金属製品製造業             30,642
   5、食料品製造業              25,284
   6、窯業、土石製品製造業        15,961
   
平成7年   総額               609,062
   1、電気機械器具製造業        358,195
   2、輸送用機械器具製造業        62,466
   3、食料品製造業             39,224
   4、非鉄金属製品製造業         37、341
   5、金属製品製造業            31,791
   6、化学工業                20,504
   

注 :各年の1〜6は出荷額の多い順に抜粋したものである。
資料:「市勢要覧」「統計要覧」「統計はだの」

B商業について
秦野の商業については、昭和32年の「市勢要覧」によれば、往昔は八王子街道の宿場の一つで十日市場とよばれ相当な繁栄をなしていたが、昭和30年頃は総店舗の90%が小売業で、販路が狭い盆地内に限られているので、消費者の流れが平塚や小田原に吸収されないような努力が必要であると指摘している。巡検では商業についてはほとんどふれることはないが、渋沢駅南口の古い商店街と北口から水無川に向かう途中に最近になってヤオハンができて対比できる。コースではないが、元の専売公社秦野工場跡にはジャスコもできている。国道246号線沿いや東名秦野インターへの道筋などにはロードサイド店やコンビニエンスストアも目に付くようになった。今まで小田急線の4駅(鶴巻温泉、東海大学前、秦野、渋沢)を中心に発展してきた秦野は、各駅とその周辺の整備が現在も進められているが、こうした郊外型の大店舗などが既存の商業圏を変化させているものと思われる。

Cその他
周辺の厚木・平塚や小田原といった地域との結びつきについては、この巡検ではほとんどふれることはないが、バス路線の調査から周辺地域との結びつきなどを考察する。巡検では8時45分に渋沢駅改札前に集合するが、集合前に生徒はバスの路線について調査する。渋沢と周辺地域との結びつきを調べるためである。渋沢駅には神奈川中央交通と湘南神奈交バスの2社が乗り入れており、神奈川中央交通は秦野盆地内を路線としており、湘南神奈交バスは新松田方面をその路線としている。
 湘南神奈交バスは神奈川中央交通の子会社で、95年までは箱根登山鉄道のバスが乗り入れていた。新松田にぬける四十八瀬川沿いには人家もあまりなくバスの利用による交流が薄いことから、箱根登山鉄道は合理化のために路線の継承を神奈川中央交通に依頼し、神奈川中央交通は子会社を設立し継承したのである。台工は相模原・厚木在住の生徒が中心なので、以前は箱根登山鉄道のバスが乗り入れていたんだという話をすると、いかにも神奈川県の西部に来たという感想を持つ者が多い。湘南神奈交バスは車体のカラーが神奈川中央交通と同じであるため、実感が今一つわかなくなったのは残念である。
 集合・点呼のあと、駅と駅前の商店街の説明にはいる。昭和2(1927)年に開設された渋沢駅は93年までは南口だけであった。南口は、いかにも古い商店が狭い道路を挟んで並んでおり、生徒は自分たちの生活の場である相模大野や本厚木に比べ、その古い町のたたずまいに驚く。地形図をひろげて「渋沢」の集落の位置を確認させる。駅の南側の緩やかな傾斜の奥に「渋沢」の地名が記されている。渋沢の駅名はこの集落から採られたもので、駅開設から最近まで駅の南側中心に開けてきたことがわかる。北口に廻る。駅の北側は、水無川の扇状地の扇央部分にあたる。以前は入会地や馬場として利用されていたとのことである。やがて畑として利用されるようになり、最近になってから工業団地へと変貌する。大工場が建設され、駅の利用者が駅の南側より北側に多くなり、新しい駅舎と駅前ロータリーが作られたのである。南口との景観は好対照である。



参考文献:「図説 秦野の歴史」(秦野市)
     「秦野市史 別巻 たばこ編」(秦野市)
「秦野たばこ史」(井上卓三、(財)専売弘済会文化事業部)
     「秦野市史研究 第4号」(秦野市史編さん委員会)
「秦野市史(秦野煙草史話)」(中村壽夫)
     「かながわの特産物」(神奈川農林統計協会)
     「地理学事典」(日本地誌研究所、二宮書店)
「秦野市の農業とJAの概要(1997年)」(秦野市農業協同組合)
「神奈川農林水産統計年報」(神奈川農林統計協会)
「世界農林業センサス(1950年、1960年版)神奈川県市町村別統計書」
(神奈川農林統計協会)
「市勢要覧」「秦野市統計要覧」「統計はだの」の各年度版
                       (秦野市企画部企画政策課)

      【県立相模原高校 堀 俊】