6.歴史教育としての巡検

 秦野盆地には、古くから人々が住んでいた。このことは、旧石器時代以降の遺跡が点在しているということ。「秦野」という地名が、古代の渡来人である秦氏に由来していること。などからも推察できる。
現在の高校生たちは、小学校以来「歴史」を学習している。しかし知識としての「歴史」が蓄積されていても、それが具体的なイメージとしては結びついておらず、おそらく遠い「別世界の出来事」としかとらえられていないのではないだろうか。しかし歴史とは本来、断続したものではなく、【事実=人間の生活】の連続の結果であり、その延長線上に現在および未来がある、というのは自明のことである。
この秦野地理巡検では、コース途中にある、桜土手古墳群など古代からの歴史的遺産を実際に目にふれたり、話しを聞いたり、自ら調査することによってその時代背景や人々の生活に想いをはせ、「歴史」を身近なものとして感じさせることや、秦野盆地内部の地理的位置や環境が歴史の展開、ひいては現在にどのような影響を与えてきたか、などを考えさせることに主眼を置いている。

@ 秦野盆地の遺跡
時代が変わっても人間が住める条件に大きな変化はない。遺跡を見ることによってその当時の人々の生活を考えること
もできるのではないだろうか。
1992(平成4)年、小田急線秦野駅南側の太岳院遺跡で今からおよそ1万6千年前の旧石器が、赤色ローム層内地下約3Mの地層から発見された。これが秦野盆地で最も古い人間の足跡である。
縄文時代の遺跡は主として盆地周辺部にあり、中でも中期〜後期にかけての遺跡は相当大規模であった。しかし、縄文時代も終わりの頃になると、平沢同明など一部を残して潮のひくように盆地内からその姿を消した。これは、米作という新たな生活な生活様式に適応するために、広い沖積平野に土地を求めて人々が移っていってしまい、盆地内にあまり人間が住んでいなかったためと考えられる。 秦野盆地内の縄文時代の遺跡の特徴を時代区分ごとにみてみたい。
早期・・・・・縄文海進の時代であり、至る所に沼沢があったために、標高 の高い所(海抜100〜200M)に集落を形成した。
中期・・・・・後期と重複する遺跡が多く、相当期間定住していたと考えら れる。規模も大きく寺山・三廻部等の遺跡が代表的である。
後・晩期・・・後期後半より盆地内外の遺跡に変化が見られる。盆地内では 遺跡数が減少し、住居も低地に移動して、今泉太岳院遺跡や 平沢遺跡のように湧水や湿地をひかえた場所に限定される。
    盆地外での住居跡は小河川に臨む台地上に営まれている。

秦野盆地内には、弥生時代の遺跡は少ない。しかし、平沢遺跡は、数少ない弥生時代の遺跡の代表的なものである。
平沢遺跡は扇状地南端の湧水 湿地帯に接した地域にあり、南開戸・北開戸・道明・畑中といった範囲に存在する遺跡である。
1955(昭和30)年、南開戸から須和田式土器8個が、甘藷の貯蔵穴を掘っている際にほぼ並列した状態で発見された。この土器は縄文とへら描文を主に構成され、縄文時代の系譜をひくものとして注目されている地方色に富んだ壺型土器である。現在この土器は秦野市の重要文化財に指定され、秦野市立南小学校と和田家に保管されている。なお和田家は、巡検コースに    組み込まれており、この土器を 弥生式土器(平沢:和田義男氏所蔵)直接拝見させていただくだけでなく、発見当時のことや煙草栽培・湧水等についてお話ししていただいている。大和政権の支配が及んできた5〜6世紀頃、東国ではそれぞれ有力な部族の長を中心にある程度まとまった小国家群が形成されていた、と考えられる。畿内より遅れること1世紀、これらの人々により古墳がつくられ始めたのである。
古墳の築造には、多くの人々と指導する技術者が必要であり、この点から古墳は支配者階級の墓と考えられる。つまり、各集落ごとに「村おさ」のような支配者が存在していた、ということである。
古墳時代後期以降、人口増加と鉄製農耕具の普及など農業技術の進歩とあいまって、谷間の比較的小規模な灌漑可能な地域に小集落が形成されはじめた。このような人々が、やがて鉄製農耕具を使用することによって秦野盆地内の開拓をすすめ、古墳をつくっていったのであろう。秦野市内最古唯一の前方後円墳である下大槻の二子塚古墳や堀山下の桜土手古墳群などの古墳は盆地開拓の証拠といえる。

A 桜土手古墳公園
小田急線渋沢駅北口駅前から伸びる道路が水無川にぶつかった所に桜土手古墳公園はある。この公園は扇状地の扇央部にあたり、現在は工業団地に囲まれている。このポイントで  A)コース途中で通過してきた扇状地扇央部の土地利用の変遷        B)富士山・箱根の噴火の影響                      C)古墳とその時代背景       
について説明している。ここは、渋沢駅前からの道路が伸びていなかった関係で1993(平成5)年より巡検コースに加えられた。
桜土手古墳群は水無川南岸の段丘上に東西約800M・南北約300Mにわたり、総数39基の古墳が分布しており、全て円墳である。1974(昭和49)年から1978(昭和53)年にかけて23基が調査された。しかしこの地域は工業団地として造成されるため12基が古墳公園として保存され、残りは埋め立てられた(現在道路をはさんで公園の東にある日産車体工場敷地内に数基、原状保存されているものがある)。
この古墳群には、墳丘規模の大きいものは径28.5M、小さいものは径10Mと様々なものが分布している。各古墳はすべて周溝をともない、また主体部は河原石を用いた横穴式石室でいづれも南の出入口に羨門がある。出土品は隣接する博物館に展示されている。これらの古墳群は古墳時代後期の6世紀末から7世紀にかけてつくられたものと思われる県内でも有数の群集墓である。
なぜ群集墓がつくられたのであろうか。このことは、鉄製農具の普及による農業生産力の発展を背景に共同体内部の階層分化がすすみ、そのなかから自らの古墳を造営しう
る有力な家父長制的家族が成長してきたことと無縁ではない。つまり古墳の造営が特定の首長層に限定されるものではなく、有力な家父長制的家族がそれぞれの力に応じて古墳をつくるようになったということである。

 後期の古墳の主体部には横穴式石室が採用されるようになったが、これにより竪穴式石室が原則として1回だけの埋葬に用いられたのに対して、羨門を開閉することによって数次の追葬が可能になったということがいえる。また副葬品についても直刀・馬具など実用的な物が多くなり、特に土師器・須恵器などが死者に供物を献じるための容器として大きな比重を占めるようになってきた。このようなことから後期古墳は、前方後円墳にみられるような政治的・宗教的権威としての象徴というよりもむしろ死後の生活のよきことを願う「墓」としての意味あいが強くなってきたといえるのではないだろうか。








A)扇状地扇央部の土地利用の変遷についての説明のポイント
   イ 渋沢駅から桜土手古墳公園までの土地利用の様子の確認
    ・ 土地の傾斜
   ・ 畑と工業団地の広がり
   ロ 工業団地造成の理由・条件


B)富士山・箱根の噴火の影響についての説明のポイント
   イ 富士山・箱根までの距離の確認
   ロ 畑の土壌に含まれているスコリアの提示
   ハ 噴火がもたらした影響
C)古墳と時代背景についての説明ポイント
   イ 古墳の種類と内部構造の変遷
   ロ 有力氏族の存在
   ハ この古墳群がつくられた6〜7世紀頃の時代背景

B 波多野氏
「秦野」と同じ音を姓としてもつ豪族がいた。平安時代末に城を構え、この盆地を支配した波多野氏である。
この波多野氏が、直接秦氏の子孫だという証拠はない。伝承では波多野氏の祖先は、平将門の乱を平定した藤原秀郷といわれ、その5代孫の公光が相模守となった。その子経範はこの秦野盆地を開拓して土着し、波多野氏と称したとされる。 しかしこの伝承に対しては、武士の勃興以降、武士としての意識が高揚し、渡来系を表す「秦」を嫌い、「波多」を用いる気運が生まれる中、東国一帯に勢力のあった藤原秀郷に祖を求ることにより、生粋の武門の末裔「波多野」氏として偽装再生したものである、とする説もある。
いずれにせよ、波多野氏が秦野盆地に拠を構え、一族の松田氏が現在の松田町へ、河村氏が山北町へ、小田原市内の曽我近郊へも大友氏が進出していったことは事実である。また波多野氏自体も、波多野氏の祖とされる(佐伯)経範が前九年の役で、そして波多野義通が保元の乱で活躍する姿がそれぞれ「陸奥話記」・「保元物語」に描かれており、源氏との関係が深かったことがうかがえる。

C 秦野の地名について
昨今の住宅開発や都市再開発によって、昔からの地名が多く消えていった。地名は漠然とただつけられたものではなく、人々が生活をしていく中でその土地との結びつきの中でつけられていったものである。このように考えてみると、地名は、人々の生活のしるしであり、また財産でもあるといえよう。
ここでは、秦野盆地内のいくつかの地名について考察してみたい。

(1)秦野
 「秦野」の地名が最初に見られる文献は「和名抄」であり、そこには、「幡多」と記されている。「はた」とつく地名は、日本に多く存在しているが、それぞれに残る伝承等から考えて、                            a) 秦氏の居住地であった
   b) 山の峰に村があったから
    c) 畑などの耕地から
   d) 端・傍を意味する地形から
などの諸理由に起因しているようであり、それぞれについて多方面からの考察が必要とされる。
他はさておいて、神奈川県の秦野は、以下のような理由から、秦氏との関係から地名がつけられた、と考えて良いのではないだろうか。

a) 当地に残る古墳の造営年代が、6世紀後半から7世紀にかけてで       ある
b) 横野の唐子神社など渡来人に由来するものの存在
 c) 秦氏の実力者は畿内に多く存在したが、秦氏に属する人々は多い
d) 渡来人系の秦氏をあらわす居住地が冠されている可能性
e) 秦河勝が、五大尊を祀るために当地に来住したという伝承

(2)渋沢・・・用材にならない柴のはえている所を開拓した。または鉱物性の 水渋を含んだ沢のために渋柿が多かった。という説もあるが、両 岸の迫った室川の地形を起因とする「シボ沢」が「シブ沢」に転 訛したとする説もある。

(3)今泉・・・「今」は「新しい」ということを意味し、泉の湧く土地を新た に開拓した集落という意味。

(4)味噌田・・このあたりが深田であり、その土壌が味噌のような感じがした から。という説もあるが、輸祖田(ユソデン・ユソダ)が転訛し たとする説もある。
(5)平沢・・・「平」は「開く」のあて字であり、沢を開いた記念の名である。 という説と「平」は平地を表し、沢のある傾斜地を開拓して平地 にした、という説がある。

ここでとりあげた今泉・味噌田・平沢などは、扇状地の扇端部に位置しており、地名にも水に関係する字がついている。このあたりにも秦野盆地内での人々の生活と水との関係がうかがえるのではないだろうか。

D おわりに
巡検コースで歴史的なポイントというと、桜土手古墳公園・弥生式土器・太岳院遺跡出土品である。現代の高校生たちが自らの目でこれらのものを見るということは、貴重な経験であろう。しかしそれ以上になぜこういう所に遺跡があるのだろう、なぜこんな地名があるのだろう、ということを巡検コースを巡ることによって歴史的視点からだけでなく、地理的視点からも考察できるようになってほしい。
また秦野の社会・農業・産業の変遷を見聞することによって、現代の日本がかかえている環境問題や農業問題・都市問題などについても考えることができるのではないだろうか。過去のことがわからなければ、現代のこともなかなか理解できないであろう。逆に現代から過去を振り返ってみれば、理解できることも少なくない。
このように、相模台工業高校の秦野地理巡検は人文科学的要素だけではなく、社会科学ひいては自然科学的要素をも含んだ総合学習であるといえるのではないだろうか。



参考文献: 「図説秦野の歴史」(秦野市)
「秦野 郷土のあゆみ」(秦野市)
「秦野市史」(秦野市)
「秦野地方の地名探訪」(石塚 利雄、創史社)
「日本歴史地名大系14 神奈川県の地名」(平凡社)
「神奈川の遺跡」(神奈川県教育委員会編 有隣堂)
「秦野盆地の遺跡」(秦野市立桜土手古墳展示館)
「秦野の古代遺跡ーV」(秦野市立桜土手古墳展示館)

 【 清田 徹也 】