7.地域信仰の学習

 巡検コースの途中には多くの石仏・祠・神社・道しるべがあり、近世以降の地域信仰を知る上で興味深い教材がそろっている。特に石仏は既成教団の宗教とは違うレベルの民俗宗教の存在と民衆文化の深さを我々に伝え、現代に生きる高校生の「宗教」という言葉に対するステレオタイプな理解を改めることができる。また、道しるべから歴史をさぐれば、大山はもとより秦野盆地の北側にそびえる丹沢山地全体が修験の山・信仰の山であり、そのような山岳宗教が里人にとっても信仰の対象であったことが見えてくる。
 現代の多くの高校生にとって「宗教」と言えば教科書に出てくるような世界的宗教、または「オウム真理教事件」等からイメージされる新興宗教である。「宗教」とは、まず確固たる教団と布教活動があり、信者は個人の意志でまたは洗脳されて教団に入り非日常的な信仰生活を送るものという理解である。正月をはじめとする祭りや年中行事を幼少より経験しながらそれを「宗教」ないし「宗教的なもの」とは理解しない。巡検における地域信仰の学習は我々の身近にある民俗宗教の学習にもつながるものである。

@ 大山信仰
 現在の巡検コースでは堀山下の日立神奈川工場の東側芝生の中に残されている「大山道」道しるべのポイントで大山信
仰と丹沢の修験道について説明している。この道標は寛延年間(1748〜1750)のもので正面「大山道、施主堀山下村」右「そんふつ(尊仏=塔ヶ岳)みち」左「ふし(富士山)みち」と記されている。過去の巡検コースではジャスコ(もと日本たばこ産業あと)付近の道しるべや渋沢駅付近曲松の道しるべをポイントとしていた時期もあった。
 大山(1252m)は、古代より信仰を集めた霊峰で、奈良時代には大山寺が開かれ山岳宗教の拠点となった。室町時代になると天台系(本山派)の「大山修験」は丹沢修験の中でも一大勢力を成し、厳しい入山修行を行っていたらしい。中世の大山は「国御獄」(くにみたけ)として里人からも崇敬されていた。慶長年間(1596〜1614)、江戸幕府の管理統制が大山にも及び、大山修験は真言宗(当山派)の管理下に置かれ修験僧(山伏)の下山が命ぜられた。山麓の大山門前町(伊勢原市)と蓑毛(秦野市)へ移り住んだ修験僧の「御師」(おし・先導師)としての活動が始まるわけである。この御師達が積極的に布教活動を行った結果、関東・中部一円に「大山講」が組織され大山参詣(「大山もうで」「石尊まいり」)の爆発的な流行へとつながる。大山信仰の地域的拡大とともに信仰内容の拡大も注目される点である。「山岳宗教共通の祖霊が宿る山」・「魂が再生される山」としての信仰、雨降山(あふりさん)としての雨乞い信仰に加えて豊作・豊漁・海上安全、さらには商売繁盛・厄除けといった信仰を合わせ持つに至った。毎年夏になると大山の麓は多くの参詣客が集まり大変な賑わいとなったようである。「御師」宅は宿坊となり白装束に着替えた参詣客は山頂の石尊社を目指した。
 秦野市内の大山道しるべ約30のうちもっとも古いものが享保20年(1735年)のものであり、多くが18世紀中頃から19世紀中頃にかけてのものである。大山詣での人波はそのころ「大山道」と呼ばれる街道を創り出し、道しるべが増えていった。村々は庚申供養塔などを造る際にも大山道しるべを兼ねたものを造るようになったと考えられる。
 現在、大山は神道の阿夫利神社と仏教真言宗の大山寺に分かれているが、この二つは本来一体のものであり、別当寺大山寺が管理していた石尊権現信仰が明治政府の神仏分離令で分けられたものである。

A 丹沢の修験道
 巡検ポイントの大山道しるべに記されている「ふし(富士山)」はもちろんのこと「そんふつ(塔ヶ岳)」も山岳信仰の山である。塔ヶ岳にはかつて尊仏岩と呼ばれる岩塔があり、拘留孫仏(くるそんぶつ・過去仏の一つ)が祀られ雨乞いの神として尊崇されていたそうである。5月15日祭礼の日は「そんぶっつぁん」と呼ばれ、半ば公認のバクチの日であった。バクチ好きはこの日山頂を目指し、関八州の親分衆も集まったそうである。このバクチは昭和20年頃まで存続していたという。現在この岩は関東大震災で崩落してしまい無い。かつて修験者が修行をしていたに違いない塔ヶ岳がいつの間にかバクチの山となっていたわけである。
 修験道とは修験者・行者・山伏と呼ばれる修行者が神仏の宿る霊峰への入山修行によって超自然的な力を得ようとする実践と儀礼を中心とした宗教である。現代で言うエスパーを目指すものである。全国各地で修験道の祖として言い伝えられている「役の行者」(役小角:えんのおづぬ)は7世紀末の人である。「修験道」自体は平安時代の天台密教・真言密教以降の成立だが、「山=神の座」という信仰に仏教・陰陽道の影響を受けた山岳修行者の数は古来から多かったらしく、「役の行者」もその一人であったと考えられている。修験道は中世に最盛期を迎え吉野金峰山や熊野を中心に全国の山岳でそれぞれ独自の一山組織が形成されていた。また、修験者の姿とイメージは里人に畏敬の念を抱かせ、それは各地に「天狗」伝説を生み出している。
 丹沢の修験道についてはその研究も少なく多くの事はわからないが、丹沢山塊を道場とする修験者たちは大山の霊山寺宝城坊(日向薬師)・愛甲郡の八菅山光勝寺(八菅神社)・秦野堀山下の大倉山城光院(現在はない)・秦野横野の仙能院(加羅子神社)などを拠点に活動していたことがわかっている。戦国時代以降になると小田原の鶴松山玉滝坊(松原神社)が相模・伊豆・武州南方の年行事職として地域の本山派修験を統括していた。小田原北条氏はこれら修験者を間者・使者としても使っていたようである。また、修験者の入山修行の形跡は丹沢の地名に色濃く残っている。表丹沢の菩提峠・行者岳・新大日岳・木の又大日岳・塔ヶ岳(尊仏山)、東丹沢の仏果山・経ヶ岳・華厳山、西丹沢の梵天山・権現山・山伏峠などである。

B 道祖神
 秦野は石仏が大変多いところである。今日、広い意味で「石仏」と呼ばれるものは仏教信仰によるものだけに限らない。神仏習合が進んだ近世庶民の信仰対象物を神か仏かと区別する事はさほど意味があるとは思われない。「石仏」とは信仰を表現するための石の造形物であり、巡検コースの中では道祖神・庚申供養塔・地神塔・馬頭観音を教材として扱っている。
 午前中の巡検コースはすべて戦後開発された地域を歩いているので、我々が石仏にお目に掛かることはまず無い。ところが昼食ポイントの平沢地区・御獄神社から午後のコース今泉地区にかけて多くの石仏を発見することができる。近世以前から人々の暮らしがあった地域である。その中でもバスのロータリーがある平沢1324番地で天保年間の船型双体道祖神、享保年間の庚申供養塔、天保年間の地神塔、造立年代不明の馬頭観音について、また今泉460番地で明治30年代造立の巨大男根型道祖神(マラセエ・摩羅塞)について説明している。
 道祖神の名称はその多くが「道祖神」であるが、まれに「道陸神」、明治以降の神道国教化の影響を受けたものには「久那(奈)斗神」「岐神」(記紀の神名)がある。また江戸期の道祖神には大きな破損のあるものが多く、明治初期の廃仏毀釈の対象となった可能性をうかがわせる。道祖神の信仰はその形状・地域などによって違いがあるが、基本的には「境」の神(塞の神)・「道」の神である。「境」とは村境・分かれ道・辻・峠などの「地理的境」であると同時に「この世とあの世・異界との境」でもある。外から入ってくる魔や厄神を塞ぐ道祖神の力を人々は信じ、祭祀を行っていた。五輪塔の一部や一代限りの石臼が置かれているのもそういう信仰との関連が考えられている。道祖神の塞ぐ力の根元はまた性的な力とも無関係ではない。男女一対の双体、五輪塔片の男石(オイシ)・女石(メイシ)、勃起した男性器、これらの形状が示すことはセクシャル・パワーの持つ魔除けのご利益が昔から信じられていたということであろう。また、当然その形状から子宝・安産・縁結び・夫婦和合の神としての信仰もある。神奈川県内の男根型道祖神の中ではこの今泉のものが最大とされているが、相模原市田名・清川村別所の道祖神とともに「相模三マラ」と呼ばれたこともあった。今泉のご神体は現在四代目であるらしい。
 道祖神のお祭りは現在でも行われている。小正月に行われる「ドンド焼き」(セエトバライ)である。特別の小屋が造られ、地区の子供が中心になって行われる。今泉道祖神のセエトバライについてはNHK教育テレビが制作した「ふるさとの伝承」(道祖神と子供たち・神奈川県秦野市の小正月)に詳しい。

C 庚申講
 庚申供養塔は本来道祖神のようなご神体・ご本尊とは異質のものである。中国に「守庚申」と呼ばれていた信仰行事があった。人間の体内には頭に上尸、腹に中尸、足に下尸という「三尸(さんし)の虫」がいる。これは虫とも鬼神とも知れない存在である。十干十二支説(「えと」)の庚申(かのえ・さる)の日、60日に1回まわってくるこの日に、天帝は門を開き諸鬼神より衆生の罪科を聴聞する。三尸の虫に罪科を報告された人間は早死にしてしまう。だからその夜は寝ずに起きていて虫が体から抜け出さないように見張りをする(庚申待ち)。この信仰行事は日本では平安時代の貴族社会に受け入れられ、近世に入って一般庶民にも一般化していった。事実、神奈川県内の庚申供養塔の造立年代は1600年代の後半以降である。
 庚申待ちする人々は長命や二世安楽などの願を掛け、目標を立てた数年の間毎年6度の庚申行事を繰り返していた。身を清め、掛け軸をかけ、真言(マンダラ)や名号・呪文を唱え、結願成就となると供養のために石塔を築いた。このような地域の信仰グループが「庚申講」である。「講」組織は近世以降の地域社会を語る上で欠かせないものだが、秦野の庚申講はそのほとんどが戦中・戦後に廃れてしまったらしい。しかし、「話は庚申の晩に」という言葉があるように、近代の庚申待ちは必ずしも徹夜はせず夜遅くまで飲食をしながら歓談する庚申待ちだったそうである。
 庚申供養塔の形態を見て回るとその種類はバラエティーに富んでいる。そこに刻まれているのは「庚申供養」「庚申塔」「青面金剛」「山王権現」といった文字であったり青面金剛・猿・鶏・地蔵の像である。最も多いのが「青面金剛」の文字か像を刻んだものだが、青面金剛そのものは仏教の信仰史上ほとんど出てくることの無い仏名でその出所は謎に包まれている。ただ、初期の庚申供養塔(17世紀)は山王権現を祀っているものが多く、青面金剛像が十八世紀になって出現していることを考えると、この山王権現(比叡山の地主神、天台宗の護法神)との関係を認めることもできる。庚申塔下部によく刻まれている三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)や鶏も山王権現の神使であることと関連づけられる。しかし、庚申の「申」は猿であり明ければ「酉」(とり)であることや庚申待ちが物忌みの日であることも当然意識されていたであろう。
 秦野の庚申供養塔は寛文年間(1661〜1672)に突然造立ブームが始まっているが、供養塔の形状を含めて庚申信仰には当時の僧侶や修験者といった宗教指導者の人為的なイニシアチブや流行神としての性格も推測できる。






D 地神講

 「天社神」「地神」「后土神」「堅牢地神」「社稷神」などと刻まれている石仏を地神塔と言う。
 地神塔は全国的には比較的珍しいものである。研究者の間では神奈川県とその周辺に集中的に存在することが知られている。地神塔は石仏の中では最も歴史が浅く、秦野市内では18世紀の末に造塔活動が始まり、ピークは文化・文政・天保の19世紀前半と明治の19世紀末から20世紀始めである。当時配られたお札や地神の掛け軸などから今では地神信仰の流行に積極的な役割を果たした宗教家の存在が明らかになっている。藤沢市西俣野の神礼寺・御獄大神(修験道・当山派、現在は御獄大神のみ)の修験者などである。地神塔に刻む神名にただの「地神」だけでなく中国の神名や仏教教典からの援用が神奈川のこの地方にのみあることは人為的な信仰の形成が推測される。
 地神は秦野では「ジジン」と発音されるが、東日本では一般に「ジシン」「ジチン」「チジン」「ジノカミ」、西日本では「ジガミ」「ジヌシサマ」などと呼ばれる。本来は流行神的なものではなく、古来から屋敷神・先祖神として全国的に祀られてきた土地の神をそう呼んでいた。代表的な建築儀礼「地鎮祭」もその伝統を受け継いだものと考えられている。しかし、地神塔を中心に地神講で祀られている地神の性格は田ノ神のような「作神」つまり農業神である。春・秋2回の地神講の日、身を清めた講中のメンバーが掛け金を持って集まり、地神を祀り、夕食を共にする。掛け金は「鍬無尽」と呼ばれるくじ引きをするためのものである。鍬などの新しく買った農具をくじ引きで分けていたらしい。この地神講は現在でも形を変えながら行われているところが多いようである。

 *秦野の講集団には大山講・庚申講・地神講以外にも富士講・伊勢講・念仏 講・観音講・不動講・徳本講・道了講・山の神講・稲荷講・太子講・水神講 などがあり、地域の信仰集団として、また互助組織・レクリエーション組織 として庶民の生活の一部となっていた。また講集団のメンバーはその多くが 重なっており、講の行事は村の年中行事でもあった。なお、弘法清水として 有名な臼井戸には水神講がある。

E 馬頭観音
 観世音菩薩の一化身である馬頭観音の造塔は主として牛馬を飼育していた講集団(観音講)または個人によって行われている。秦野には18世紀半ば以降のものがあるが半数以上が慶応・明治・大正・昭和のもので、家畜の墓標として立てられたものが多い。中には「犬頭観音」などというものまである。観音講によって立てられたものは旧小田原藩だった西地区(渋沢駅方面)に多く、駿河小山の円通寺初柴観音が信仰の中心であったようである。観音講の日には「ハクラクサン」という馬の爪切りがやって来たそうである。

F 稲荷信仰
 今泉にある白笹稲荷神社の「初午(はつうま)」は関東三大稲荷の一社と言われるだけあって盛大なものである。境内の外、数百メートル先まで露天が並び、各地から参拝客が訪れ大変なにぎわいとなる。秋、巡検の頃はそのにぎわいを見るべくもないが、鳥居から拝殿前の階段に至るゆるい坂道の両側に奉納された灯籠群の奉納者住所・職業・企業名から東京・神奈川・静岡にわたる広い信仰圏と商売繁盛・豊漁といった信仰があることがわかる。白笹稲荷がいつ創建されたかはっきりしていないが古代の渡来系豪族秦氏との関係が秦野の地名と共に言われている。
 稲荷を祀っている神社・祠は全国で最も多いと言われている。各家の敷地に祀られている屋敷神も稲荷が非常に多い。
稲荷は本来稲作の神つまり「田ノ神」であり養蚕・食物の神であった。京都東寺が建立された際、弘法大師空海が伏見稲荷をその鎮守神として以来稲荷信仰は全国に広まり、近世の稲荷講の発展などと共に日本を代表する神格となった。また稲の実った頃田んぼの周辺に現れる霊獣「狐」は稲荷の使いとして信仰されている。狐の穴や狐塚が稲荷信仰の対象になっている所は多く、またキツネツキ・キツネオトシといった呪術的精神病理現象も全国的にある。しかし狐は本当に油揚げが好きなのであろうか?


G 鎮守信仰
 巡検で昼食休憩を取るポイント御獄神社は平沢の鎮守である。平安時代の昔から領主が大社の神を勧請し神社を建立するという行為は記録されているが、中世・近世になると村の氏神・産土(ウブスナ)神としてまた寺院の鎮守として盛んに神社の建立が行われたようである。
 この御獄神社の創建年代は不明だが、既に建久3年(1192)には御獄道という地名で呼ばれていたようである。慶長13年(1608)年、徳川家康は鷹狩りの途中にこの神社を参拝し、社殿の改修を命じて翌年完工したと伝えられている。境内には他にも八坂神社を始めとする多くの神々(稲荷・金比羅・熊野など)が勧請されており、石仏も多い。中には道路拡張・開墾などのために他の場所から移されたものもあると思われるが、村の祭祀空間として大切にされていることはわかる。ケヤキ・クス・イチョウなどの広葉樹の古い大木が聖域の中にひときわそびえ立って「鎮守の森」を形成している。

H 弘法大師伝説
 弘法太子の伝説は北は北海道から南は鹿児島まで全国的に流布している。巡検ポイントでは水無川と尾尻の臼井戸に弘法伝説が伝えられており、それぞれ弘法伝説の代表的な類型を保っている。またハイキングコースとして有名な弘法山もある。ここに出てくる弘法大師は歴史上の人物「真言宗の開祖弘法大師空海」ではなく、マレビト・マロウド神(客神)つまり民俗神としての「弘法さん」である。これらの伝説の流布には「高野聖」を始めとする遊行の宗教者たちの活動があったと言われている。


参考文献:「秦野市史 民俗編」(秦野市)
「秦野市史研究第15号『丹沢修験の幻像を追う』」(漆原俊、秦野市)
     「小田原市史 通史編 原始・古代・中世」(小田原市)
「山と神と人」(鈴木 正崇、淡交社)
「丹沢物語」(朝日新聞横浜支局編、朝日ソノラマ)
「神奈川県の山」(広島 三朗ほか、山と渓谷社)
「秦野の道祖神・庚申塔・地神塔」(秦野市教育委員会)
「神奈川の石仏」(松村 雄介、有隣新書)
「仏教文化事典」(佼成出版社)
     「新編相模国風土記稿」(雄山閣)

   【  城川 隆生】