第一章 教えたいこと
     リ ン ゴ の 季 節

 校長に就任して、最初の講話は、弁護士の渥美雅子さんのコラムからの引用であった。
 もう一昔も前の晩夏、奥秩父小川山、廻り目平のキャンプで、ボルダーリングをO高校の山岳部OBと楽しんだ帰途、信濃川上の食堂でなにげなく開いた地方紙にそれはあった。「リンゴの季節」という題の刑務官の話である。

 ある死刑囚に執行することを伝えたら、その男がリンゴを一つ呉 れという。身寄りも何もない男で、遺言も手紙も書くあてもないんだが、最後の願いでリンゴが一つ欲しいという。早速買って来て、手渡したところ、ゆっくり丁寧に皮をむいて八等分した。ちょうどそこに立ち会っていた刑務官や教戒師などが七人いた訳だが、彼は言った。「皆さん、このリンゴを一切れずつ食べてください。」一同はリンゴを食べ始めた。実は食べ終わってしまうと、彼の持ち時間がなくなってしまうんだと思うと切なくてなかなか食べられない。一同はゆっくりゆっくりリンゴを食べたという。その後、最後の一切れを彼が食べて、「皆さんありがとう、私と一緒に、私と同じものを食べて呉れて本当にありがとう。」と深々と頭を下げて刑場に向かったという。
 渥美さんはそのコラムを結んでいる。「その人は、それ以来リンゴを見ると胸が詰まって、食べる気になれないと言った。もうすぐリンゴの季節が来る」と。

 長い間温めていたこのエピソードを、赴任早々、学校とは何かという基本命題の基調講話として、わたしは話したつもりである。人間(にんげん)という字は人(ひと)の間と書く。漢語で「人間」(じんかん)とは人の世すなわち世間の意だが、人間は社会生活を営む動物であること、人は人によって支えられ生かされている存在であることを、繰り返し繰り返し若い人たちに教えることが、学校教育の基本理念である。それは、高等学校においても例外ではない。
(平成四年七月)


植 林 の こ と

 少年時代を過ごした田舎の中学校が廃校になった。過疎化のために統廃合されたのだった。四十年でその歴史を閉じたことになる。
 少年期の思い出は、たとえそれが小さなものであっても、心の奥に焼き付いていて、時がたつにつれて、純化され、美化され、濃縮されてゆくものらしい。まして、自分の過ごした学校が「廃校」への運命をたどったとなれば、それは感傷を伴って増幅される。しかし、心に残る出来事や行為が、単に懐旧の思いに浸るための「あの時の、こんな出来事」といった「点」としての存在ではなく、一筋のはっきりとした軌跡をもって現在の自分につながっていることに気づく。


 その中学校には学校林があった。三年生のときには学校植林コンクールで全国三位に入賞している。植林と下草刈りは大切な学校行事だった。
 入学して間もなく、この行事を体験した。鎌と鍬 と弁当を手に山に入る。杉や檜 の苗木より大きく茂っている草を刈り、苗木に巻きついている蔓 草を取り除く。前の年に植えて根づかなかったところには、新たに苗木を補植する。いばらで手をひっかき、斜面で足を滑らせながらの作業に汗がしたたり、腰が重くなる。入学したばかりの一年生には手に余る作業だった。
 しかし、こうした大人のやる山仕事を一人前に(客観的には半人前にも満たないのだが)やっているという思いは、中学生であることをはっきりと意識させた。大人がやるようにタオルを首に巻いた姿には、多少の気負いと誇らかな気分とが含まれていた。
 午前中で作業は終わり、昼食の弁当がすむと講演会が始まる。
 全校生徒(といっても一八〇名ほど)が、林舎(山小屋)の前の草の上に腰をおろして、村の識者から講話を聞く。今までの作業の場が一転して自然を背景にした講演会場になるのだった。牧歌的な伸びやかさと、それでいてそこに漂う知的な雰囲気は今も鮮烈な印象としてよみがえる。その時の話は村の寺院と仏像の由緒についてだった。
 四十年前のことである。

 懐かしい思い出とは別に、教育に携わっている現時点から思い返す時、あらためてこの植林や下草刈りの中に込められていた教育的な意義や効果に気づく。
 勤労の体験は、当時、どの家庭においても子どもたちはさまざまに体験しており、珍しいものではなかった。しかし、それを「植林」という形で学校の教育活動の中に組み込んでいるところに大きな意義がある。
 肉体的にきつく、技術的にも難しい一連の作業は、自負心を刺激し、中学生としての自覚を促し、成就感を抱かせている。木々の世話をし、苗木を根づかせる努力は生き物を慈しむ心をはぐくんでいる。郷土の先達から郷土の文化を学び、伝統文化への理解と愛着を抱かせる工夫もある。
 何よりも優れている点は、苗木の成長に託して将来を見つめさせていることではないだろうか。将来へ目を向けさせながら、そこにつながる現在を意識(もちろんこの意識は現在につながる過去を見つめさせることにも通じるわけだが)させている。そして同時に、「育てる」ということの意味を体感させている。教育を考える上で、大切な視点がここにあるように思われる。
 少なくとも自分にとって、「教育」の苗木が植えられたのはこの中学校においてであった。たとえ廃校になろうとも、そこで植えられた苗木は心の中にしっかりと根を張っており、心の奥にある学校は消えることはない。
(平成九年六月)


     存 在 へ の 問 い

 神戸市須磨区の少年Aの犯行が、教育界のみならず世間に、今日まで大きな衝撃を与え続けている。論調をみていると、教育にかかるこれまでの様々な矛盾、問題点が一度に噴き出してきたような様相を呈している。
 しかし、せんじつめてみれば、その根本には、「人間の存在」に対して疑問を投げかけ、人々に考えさせる機会を与えたのではないかと思う。

 少年Aは、事件当初、自分の気持ちを次のように述べている。
 「……しかし、悲しいことにボクには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もし、ボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ……という行動はとらないであろう。……やろうと思えば……ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までもそしてこれからも、透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めていただきたいのである」と。
 ここには、周囲から認められず居場所のなかった少年Aの孤独な心境が語られている。彼の「生まれた時からボクのままであれば」の表現から思い出すのは、中島みゆきの『誕生』という詩である。

  Remember 生まれたとき誰もが言われたはず
  耳をすまして思い出して 最初に聞いた Welcome ……
  Remember けれど もしも思い出せないなら
  私 いつでもあなたに言う 生まれてくれて Welcome ……

 誰でも生まれたときは Welcome といわれたはずだ。あの新生児室のガラス越しにいろいろな人から飽かず見つめられ、温かいまなざしを受けた。ところが、十五年間の間に周囲の人々は、声はかけてもその初めの心を忘れてしまった。
 生まれた意味を、三帰依文では『人身受け難し』と述べている。この言葉こそ「ようこそ人に生まれ、あなたに出会えてよかったね」という喜びの言葉ではないだろうか。生きている意味、いのちの尊さを率直に表現したものであろう。少年Aに、このただひと言の出会いがあったならば、その行く手も変わったであろうと悔やまれる。
 学校行事や授業を受けたあとの生徒たちの感想文を読んでいると、ハッとするような言葉にぶつかることがある。B君は、「僕は生きているって思ったことがない。なにも熱中するものがないからかも知れない。僕は味わってみたい、生きるってどんなにすばらしいかを。生きている証が欲しい。」と述べ、なぜ人間は生き、存在しているかについて率直な疑問を投げかけている。このような迷いを抱きながら、一方では多くの情報に振り回されて、生きる意味を見失っていることさえ自覚することなく流されている若者が、意外に多いのではないかと考える。またC君は「自分のしたことは、よいことであろうと、悪いことであろうとも、いつか必ず自分に返ってくることがわかりました。過去をいくら否定しても、真実は最終的に自分の心の中にあるのであって、自分の行為の責任を逃れることはできないと思います。その責任を素直にうけとめることを教えてくれる人が、自分にとっての『光の人』であるとわかりました。そしてその人に出会うことによって『人間』になれるのだとわかりました」と述べている。D君は「生命は尊いのだという理由に、それは二つとないものだ、なくなれば死んでしまう、などという言葉には納得できない。もっと大切なのは、生命は自分のものであって、自分のものではないということだ」と述べ、生命の尊さに気付いている。
 いのちの大切さを教えてくれる人に出会い、自分はいろいろな人に支えてもらっていると知ったのである。そこには「自分の生命だから勝手でしょ」「何も人に迷惑をかけているわけではない」という考え方は見あたらない。
 今日のように、情報が安易に入手でき、物に充足し、物事を深く考える時間や機会を失っている青少年は、「いかに生きるべきか」について疑問を持つことなく思春期を過ごしてしまいがちではないだろうか。本来、この年頃は「生」について自ら探求し、悩み、迷う時期であると思われる。それは、少年Aの文でも、B、C、D君ら若者たちも同じである。
 こうした悩み、疑問に率直にこたえていくことが大人たちの果たさねばならない責務である。
(平成九年十一月)


     若葉して御めの雫ぬぐはばや ― 芭蕉 ―

 今の職場に赴任して十か月、専門高校での勤務は初めての経験である私にとって、毎日が新しい発見の連続であった。特に、衛生看護科の単独校として他の専門学科には見られない複雑な問題が山積しており、教育と医療行政の狭間にあって呻吟している様子が理解できた。加えて、少子・高齢社会を迎えて、将来、准看護婦養成課程が看護婦養成課程に統合されるという方向が示されており、高等学校衛生看護科の将来展望についても一考を迫られているのが実情である。
 問題の裾野が広く一概には表現できないのだが、看護教育を行っていることには違いはない。そこで、私は、日々の教育実践の中で、「看護の心の育成」ということを学校経営の基本に据えて、生徒・職員に働きかけている。人間に対する職業、特に、医師や教師や看護職員は、感性が豊かで、人間に対して深い洞察力と理解力がなくては成り立たぬ職業である。それだけに生徒に対しても、指導する職員に対しても、豊かな感性と洞察力を備えた人間として成長してほしいというのが私の願いなのである。
 三月一日、卒業式(専攻科は修了式)を迎えるが、当日発行の学校新聞に以下のような一文を載せた。前文と後文を省略して、「看護の心」の部分だけをここに載せる。ご批評いただければ幸いである。

 「若葉して御めの雫 ぬぐはばや ― 芭蕉 『笈の小文』所収」
 芭蕉が奈良の唐招提寺に詣でた折、寺内の開山堂に祀 られている鑑真和上の坐像を観た時の感慨をうたったものです。
 ある本の中で、看護学校の教官の手記が載っておりました。その中で、芭蕉のこの句を常に念頭において学生たちを指導していますと書いてありました。その一文が何故か心に残り、看護を考える私に、一つのヒントを与えてくれました。
 唐の高僧鑑真は、遣唐使として渡った日本の留学僧の熱意にうたれ、日本の仏教のために尽くそうと決意し、国禁を犯し五度の渡海を試み、十二年の歳月をかけて来日しました。渡海の途中失明し、日本に来た時には六十六歳でした。日本では、律宗の開祖として唐招提寺を開き奈良仏教に貢献し、架橋や潅漑などの土木技術を伝え、そして、何よりも特筆すべきは、唐代の最新の医学を伝えたことでした。伝染病予防に多大の貢献をしたと言われます。鑑真については授業で習ったことと思いますし、唐招提寺を訪れ鑑真坐像を拝観した人も多いと思います。
 芭蕉はこの坐像に対した時、「想像を絶する苦難の船旅に耐え、失明までされた和上の事跡をしのびつつ、心なしか盲 いた御目に涙の雫が感じられる。周りは一面の若葉、この若葉で御目の涙を拭 って差し上げたい」と思ったのでしょう。
 盲いた鑑真の坐像に涙などあろうはずはありません。しかし、辛苦の皺 を額に刻み、端然として瞑目しているお顔の中に「涙」を見た、その芭蕉の心に看護の心を感ずるのです。芭蕉は日々の人生を旅と観じ、生涯を旅に終始しました。自ら骨身を削り死を賭しての旅を通して得た人間理解の深さを、この句の中に感ずるのです。
 看護は「心」なくしては成り立ちません。看護は自己の反映そのものです。同情や憐れみではなく、人間存在に対する深い洞察力と理解がなくては「心」は育ちません。どうか日々の実践の中で豊かな人間性を養いつつ、広い視野と心を持った人間として成長していってください。
 また、看護は医師が行う医行為と対等であって、かつ、独自なものでなくてはなりません。そのためには深遠な学問を必要とします。皆さんのたゆまざる実践と研鑽の一つ一つが、看護の学問構築に役立つことを確信しております。
(平成九年一月)


    バラバラでいっしょ

 あるお寺のご住職のお話しを聞く機会があった。このお寺は、関西の地下鉄出入口の真前にあって、多くの人通りがある場所で、老若男女、あらゆる職種の人々がその前を通る。その門前の掲示板にこんな言葉を掲げたそうである。
 「人は一体、何を求めて生きているんやろ。」
 プロのパチンカーから女子高生まで、いろいろな反応があったようだ。一様に、立ち止まりじっとその言葉を読んでいく。何かを考えて遠くを見つめる。中にはお互いに聞き合う高校生同士もいる。別の機会に女子中学生に「何のために勉強しているの」と聞いたところ、良い老後を過ごすためという返事が返ってきたそうだ。良い高校へ行って、良い大学へ合格し、良い会社へ入社すれば、良い結婚相手も見つかり、良い生活をすることができる。子どもも同様に勉強させ、良い家庭を作れば、良い老後を過ごすことができる。そのために今、一生懸命勉強しているという。ずいぶん先の長い計画である。未来の準備のために、今勉強をしているというのだ。人はそんな将来のためだけに、今を生きているのであろうか?
 いのちには大きな二つの特徴がある。一つは、人は必ず死ぬということである。現在までの最高齢者は百二十二才。長短はあるが、百五十〜二百年生きる人はいない。もう一つの特徴は、いつ死ぬか分からないということである。五十年先かもしれないし、明日かもしれない。いつ死ぬか分からない不確定さと、でも必ず死ぬという絶対性を合わせ持つものがいのちである。いつ死ぬか分からないが必ず死ぬのなら、今を大切にしなければならない。いのちはいつも真剣勝負、そのときそのときが大事なのだ。将来も大切だが、はたして未来の価値が、今と同じであろうか。前述の中学生の価値観はまさに現代の日本人の価値観(人間のものさし)そのものである。
 人間のものさしは常に変わる。少し前には、物質的には貧しかったけれども、地域や家族が助け合って生きていくことに何の抵抗もなかった。戦後、大量消費の時代を迎え、「貧しいがゆえに幸せではない」というものさしが横行し、もの優先の時代に入った。役に立たない人は切り捨てられる風潮になった。目や耳や手足の不自由な人、労働力にならないお年寄り、知識・地位・権力のない人は社会の邪魔者扱いである。こんな人間のものさしで心豊かに今を生きられるか? 本当のものさし探しが今、始まったところである。
 役にたたない人をひととして見なくなっている。人をひととして見られなくなったとき、自分が人間ではなくなっている。身障者やご老人を役に立たないと感じる人は、もう人間の心を失っているといえる。人がひととして生き生きと生きたい、そのためにどうあるべきかを問い続けていくことが、生きる意味なのである。どんな人もどんな時も同じ人間なんだ、身障者もご老人も、その人をそのままの状態で受け入れて認めていくことが人となることである。
 私の職場は親鸞聖人のみ教えを建学の精神として設立されて百七十年を迎えた。来年は周年事業も計画している。同じく、浄土真宗中興の祖、蓮如上人の五百回ご遠忌記念事業が全国的に計画されている年でもある。テーマは 「バラバラでいっしょ ― 差異 をみとめる世界の発見 ― 」である。個性の重視で、それぞれ違っていることは認め合いたい。しかし、他人との比較で差別することはいけない。自分を他人を、世の中のものさしで、あんな人こんな人と決めつけてしまうことから差別が生まれる。
 今こそ、どんな人でもそのままの状態で大切なかけがえのない人間なのだ、という仏様のものさしが必要な時だ。仏様のものさしは不易である。「損か得か、人間のものさし。嘘か真実 か、仏様のものさし。」これは、私の大好きな相田みつをさんの言葉である。この言葉にもう一つ好きな言葉が加わった。「いっしょといえる世界がなければ、バラバラではおれぬ。」人としての価値は皆いっしょなのである。
 私学は建学の精神を持っている。ともすると見忘れてしまいがちな毎日だが、人間教育、いのちの大切さが盛んに言われている現在、ほんものの宗教教育の大切さが注目をされているといえる。「バラバラでいっしょ」は教育の本質を言い当てた言葉であるといえる。
(平成九年十一月)


     四万十川のうなぎ

 俵万智さんの短い随筆のなかに、四万十川の漁師の話があった。舟の上で天然のうなぎをさばく漁師の手つきを美しいと感じる。
 しかし、『かわいそうに』と思わずいってしまったら、柔和なおじさんの顔が急に厳しさを見せた。俵さんは考える。ふだん、自分が魚をさばいたり、都会で活 け造りの目玉を見たりして思う『気持ち悪い』という安易な感覚で『かわいそうに』と言葉を発したのではなかったか。おじさんの手つきは美しく、その場でいただいたかば焼きは事実おいしかったのに。
 俵さんは、こう書いている。
 「…おじさんにさばかれるウナギは、ちっとも気持ち悪くない。その違いは何だろう。その違いは、魚とのつながり方ではないかと思う。おじさんと魚はつながっている。都市で生活している私たちは、自然から離れた位置にあって、魚とかかわりをもつ。だからいとも簡単に『かわいそう』と言えるし、無責任に『気持ち悪い』と感じてしまう。……」

 学校現場のなまぐさい「生徒指導」にかかわる諸問題に、美学など望み得べくもないのであろう。だが、指導する者とされる者との、自然な人間と人間とのつながり方の基盤に立った「うなぎをさばく手つき」まで、無責任な『かわいそう』で片付けられ呪縛されている部分が、地域であれ家庭であれ学校であれ、子どもを取り巻く環境にありはしないかと痛切に思うこの頃である。
 そして、生徒指導上のさまざまな問題にまさに体を張って日夜指導に明け暮れている一団の教師たちの、人間的でしかも超人的な営為と情熱に支えられて、学校がかろうじて学校であり得ている事実が、厳として存在していることを、学校現場はもっと声を大にして叫んでもよいのではないかと思う。
 無責任な部外者からの『かわいそう』を恐れて、鍛えるべきときに子どもを鍛えることを、いわゆる大人社会は、家庭も地域も、忘れてはならない。そして、学校は怠るべきではない。

 俵さんは考える。……おじさんは漁をしながら、魚たちにどんな気持ちを抱いているのだろう。『かわいそう』ではなくて……
 さりげなく聞いてみた彼女に、おじさんは、しばらくの沈黙ののち答えるのである。それは、やはり『ありがとう』だと。

 自然界における万物共生の摂理の内に、教育をきちんと内包して、人間倫理の秩序の回復をはかることが、今日の少子時代の社会の存立には、不可避ではないかと思う。その基盤が『かわいそう』にはなく、『ありがとう』にあることはいうまでもない。そして、その『ありがとう』の理念が来るべき高齢化社会を構築するように、教育環境の整備を図らねば、二十一世紀はとんでもない社会の到来を招くことになる。
(平成九年六月)


     自 分 を 大 切 に

 十年以上前から折に触れて、生徒たちに次のような話をしている。人知れず悩みを抱いている生徒の中には、多少の安堵感を持つ者もいるようだ。

 子どもの頃ガキ大将であったような子が、成長して思春期になると、急に口数が少なくなり、物思いに沈み込むようになることがある。……自分は何てイヤな人間だ、何てチッポケな人間なんだ、自分という人間は一体何なんだ、何故この世に存在しているんだ……。私はこのような心の状態になることを、「(個人意識における)天動説から地動説への転換」と呼んでいる。
 人類は昔、自分たちが生活しているこの大地(地球)を宇宙の中心と考えていた。太陽も月も星もすべてこの我々の地球の周囲を回っていると考えていた。しかし科学の発達により、そうではないことが分かってきた。宇宙の中心と思っていたこの地球が、実は太陽のまわりを回っている小さな一惑星に過ぎないことを知った。今まで泰然自若として動かぬと思っていたこの大地が、毎日回転しながら太陽のまわりを回っていると知ったとき、人々は大きな不安を感じたであろう。この人類の経験と同様の事が、個人の心の内にも体験されるのである。不安、みじめさ、心細さ……。しかしこの体験は、人類の進歩と同様に、その人個人の精神の進歩なのである。個体発生は系統発生を繰り返す、ということの一類型と言うべきか。

 自分の体内には、父母二人の血が流れている。父母の体内には、それぞれの父母たち二人の血が流れている。そしてその祖父母たちの体内には、各々またその両親たちの血が……。一体自分の体内にはどれぐらい多くの人たちの血が流れ入っていることであろうか。自分とは一体何なのだろうか。自分の体だと思っているこの肉体は何なのだろうか。このようなことを考えると、まるで自分のものなど何一つ無いのではないかと思えてくる。不安になる、心細くなる……。しかし、これもまた精神の進歩の一過程なのである。
 繰り返すが、自分の精神的状態が天動説から地動説へ変わる時というのは、自分が進歩しているのである。ここにおいて初めて、自分は「生きている」というよりも「生かされている」のだということが分かるようになる。精神が、子どもから大人になってきたのだ。お日様の暖かさ、草花の可憐さ、木々の葉の青さ、頬を撫 でていくそよ風の心地よさ、木漏れ陽の美しさ、水のうまさ、ご飯のおいしさ……周囲の様々なものが、自分を優しく抱いていてくれる。

 「人」という字についてよく言われている話がある。「人」という字は、長い棒と短い棒が左右から互いに支え合っている字である。長い棒が外れると、短い棒は倒れてしまう。短い棒が外れると、長い棒も倒れてしまう。人というものは一人ではとても生きていけない。人の世は互いの支え合いで成り立っているのである。
 実際、自分が如何に多くの人たちに支えられてこの人間世界を生きていることか。深く考えてみると、時々人々の口に出る「御陰様で…」という言葉が、大変な真理を含んだ言葉として光ってくる。まさに、どこで誰が自分を支えてくれているのか、想像もできないようなこともあるのである。偉大な小説家であった吉川英治氏の言葉に「我以外皆我が師」というものがあるが、さらに深く思いを致すとこの境地に達するのであろう。自分は様々な人・ものに育てられているんだ、育てられ生かされているんだ、……嗚呼、有り難いことだ、という感謝の念も湧いてくる。周りのものすべてに感謝の気持ちが持てる人は、至上の幸福者であろう。このような人は、心の襞 も柔らかく、人の喜び・悲しみもよく分かる豊かな精神の持ち主となるであろう。

 昔、天動説を奉じていた人類が、今では地動説の正しいことを知った。我々のこの地球は、広大な宇宙に比べて本当に小さなものではあるが、そこに奇跡的に生命が生じ、我々が存在している。我々にとってかけがえのないこの地球を皆で大切にしていこうという気運が、現在高まっている。同様に、我々一人一人も、精神的に天動説から地動説へ転換した後の自分をよく見つめ直し、自分という存在がかけがえのないものであることを深く悟り、様々な人・ものに支えられ助けられ育てられていることに目覚め、自分というものを大切にしていかなくてはならない。
(平成九年六月)


     今 学ぶという事

 運命共同体としての「宇宙船地球号」が今日ほど意識されている時代はない。その基礎的理解に欠かすことのできない地学が開講できない場合が多い。「一般市民としての自然科学」では、窮屈なカリキュラムのなかには生き残れないようである。自分の専門分野は物理であるが、地学とくに、地質学分野については、全くのゼロの状態から生徒と共に学び二十数年。最近では物理よりも学問的興味も深まり、濃尾平野の第四紀にこだわったりしてきた。自分なりに思い入れをして授業で話してきた事柄の一端を述べてみたい。どなたも言われていることばかりであるが、蓑虫のごとく寄せ集め綴り合わせたものである。
○ なんでもない足元の石ころも、見る人が見ると、地球の歴史が分かる。どうしてそこに坂があるのか、どうして山がそこにあるのか。われわれは概して、眺めてはいるものの、見抜くことができないことが多い。学習には、今まで見えなかったことが見えてくるという醍醐味がある。(足元の地形を読む)
○ 濃尾平野は変動している。その原因は地球の裏側にある? ……半年かけてその謎を探ろう。意外にすべての事柄は身近な足元から発している。(濃尾平野の形成史を探る)
○ 表面がピカピカなものが結晶ではない。結晶とは、目に見えない基の基のところ、即ち、分子原子段階で規則正しい配列をしている物である。したがって結晶が大きくなるには、高温高圧の状態が、長く続く必要がある。汗と涙の結晶という表現は、かなり本質をとらえている。(岩石のいろいろ)
○ 火山には大別すると、「ねあか」なものと「ねくら」なものとがある。「ねあか」は外向性であり、すぐに反応してストレスが溜まらないから物凄いエネルギーは溜まりにくい。「ねくら」はストレスにじっと耐えるが、いったん限度を越えるとどうにも止まらない。どちらが良いとか悪いとかはない。しかも、同じ火山でも時によって、「ねあか」であったり「ねくら」であったりすることがある。人のパーソナリティに似ている。(火山)
○ 生物の進化は合目的的に進んだものではない。にもかかわらず、その流れを総括すると、ぬくぬくとした海から厳しい荒野を目指す方向性がある。パラダイスに安住した祖先は単細胞のままである。一方、常に荒野をめざした祖先は、累々と屍 を晒 し、それを乗り越えて新天地を切り開いてきた。そして哺乳類に至り、少々の環境の困難さは克服できる強さを培 った。やはり、「易きにつくは滅びの道」という気がする。(生物の進化)
○ 生物のうち、活動的な動物の方が非活動的な植物よりも強いと思われがちであるが、全く間違っている。動物は、植物(食糧)がないと生きていけない。即ち、動物は植物に寄生している存在である。それが証拠に進化は植物の方が時代的にも先行している。そして、今、植物が滅びかけている……。とかく我々は、おもて舞台のキャストばかりに目を奪われてしまうが、背景の、いや裏方の重要さを見抜きたい。(生物の進化)
○ 地球を一抱え(半径六十四p)の球とすると、大気の厚さは、たった一oである。無尽蔵にあることを、大気のようにとはいえないことが分かる。大気が汚染されない方が不思議に思えるであろう。そして、我々はこの薄い一oの中から全く出ることもなく死ぬ。また地球が誕生したのを一月一日とし、現在までの時間を一年とすると、人類が出現したのは、一二月三一日二〇・二時となる。文明は、たかだか三〇秒間、人間の一生百年は〇・七秒程度になる。こういう我の存在を考えたとき、何を想うか? 「ああ はかないなあ」と悲観的には考えないことが肝要である。そのような存在である人間は、そのことを知っているばかりでなく、もっと大きなところまで識 り、かつ考えている。いわばその存在を超越している「素晴らしさ」を想像して欲しい。(地球の概観)
○ 人類が直面している問題は、シャーレの中で培養されている黴 が抱える問題によく似ている。ゼラチン(食糧、エネルギー)を食い尽くして絶滅するか、自家中毒(環境汚染)で絶滅するか。どちらにしろ黴は自分の存在を知り得ないから絶滅する。人間は、今、その存在に気付き、考えはじめたところと言えよう。「単純、明解、率直」の積み重ねにより、「王様は裸」と気付くことが、科学である。若い君たちの叡知が期待されている。 (「宇宙船地球号」)
 …等々、単に自然科学的事柄の解説に終始しないで、人間との関わりを強調できないものかと考えてきた。このたわごとの是非論はともかくとして、生徒の反応はあったと感じている。やはり、現代っ子でも「お仕事」としての学習ではなく、何か「道を求める」ことに渇きを感じている気がする。ノルマに追われる授業の中で、いかに半畳の余地を生み出すか。いっそう研鑽を積み、より深い問いかけをしていきたいと思っている。 (平成六年二月)


     自 己 の 再 発 見

 人は誰でも新しいものに憧れると同時に、古いものへの愛着も強い。こうした気持ちは日本人に限らず古今東西どこの国の人でも同じであろう。
 ここに、内村鑑三という人物がいる。明治の日本が、西欧文化を積極的に取り入れた頃、キリスト教の伝導に一生を捧げた人である。我が国においては、「キリスト教の父」とも言われている。
 彼は、誕生が一八六一年(文久三年)で、亡くなったのは一九三〇年(昭和五年)であるから、明治維新にその青少年時代を送った人である。
 私が今、ここに内村鑑三を取り上げたのは、彼の一生の業績をみようというのではない。たまたま彼の著書に『代表的日本人』(明治文学全集)というのを目にしたからである。
 序文に外国向けに日本人と日本の国の優れた特質を知ってもらうのが目的で書いたことを記している。
 さて、「題」となった『代表的日本人』とは一体誰なのだろうか。この中で彼は、五人の日本人を紹介している。西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人である。
 人それぞれに、また時代によっても選ぶ人物は異なるであろう。ただ私は、キリスト教徒である彼が、その時代、外国向けにこの五人を日本の代表的人物としてあげたところに興味がわく。
 この五人については、どのような特徴があるのか。
 西郷隆盛は、歴史的には征韓論が有名で、反逆者のように思われているが、維新という革命を成し遂げるうえで、彼の役割は大きいものがあった。上杉鷹山は、江戸時代貧窮と欠乏の米沢藩(今の山形県南部)の藩主となり、藩政の改革を行い、藩を豊かにした人である。二宮尊徳は、江戸時代身分制度の厳しい中で、農民の出ながら公共事業(特に農業経営)の数々をまかされ、それぞれの地を豊かにした。また、中江藤樹は、後に近江聖人と言われた人で、近江(今の滋賀県)の教育者である。日蓮上人は、仏僧で、独自の布教で法華経を説いた人である。
 この五人に共通するのは何であるのか。
 まず、自分に厳しいことである。また、物欲が無く生活が簡素であること、国(自分の住んでいる土地)を愛する気持ちが強いこと、さらに、今をよしとせず常に変化や向上を目指していることである。
 内村鑑三自身、彼の家は江戸時代徳川方の武士であった。ということは、明治維新は少なくとも彼にとっては、生きにくい生活へのスタートだったはずである。しかし、彼は新しいものを取り入れていくのである。それがキリスト教の伝導に繋 がる。

 時代とともに、世の中はたしかに進歩していく。現代は以前と比べると、格段に物質的に豊かである。終戦(太平洋戦争)直後 、食べ物で殺人事件が起きたことなど、今の若者には信じられないであろう。しかし、地球上のあちこちで、まだ、そんな繰り返しが続いている。
 内村鑑三自身のみならず、この五人ともが、今、自分の生きて生活している価値を見つめ、自分の命が自分だけのものではなく、全宇宙のものであるという自覚をしっかり持っている。
 これは宗教や民族に関係はない。時代にも関係がない。
 人の生きざまは、時間や空間を越えても共感できる点があるところが興味深いし、また、心安まるものがある。
 人との新しい出会いは、自分を再発見させるものであると言われる。そして、また、あまたの先人の業績にふれることも、自分を再発見する要素を持っているといえる。
(平成九年六月)


     短い人生を精一杯生き抜いた生徒

 人間誰しも「生」を持ってこの世に誕生したからには、いつかは「死」を迎えることになる。
 私は今までに幾人かの人との永久の別れを経験している。その中で一番辛い別れとなったのは、生徒の「死」である。

 私は新採用と同時に一年生の担任を受け持つ機会に恵まれた。その時の隣のクラスには、生まれながらに心臓の病気を持つ女子生徒が入学していた。その生徒の病気については、クラス担任や養護教諭から四月当初全職員に報告があり、万が一校内で発作が起こった時の対応についても周知徹底された。
 その時私自身は、自分のクラスのことだけで頭が精一杯で、はずかしいことであるが、「世の中には、かわいそうな生徒がいるんだな」程度の思いしか持たなかった。
 一年生の時の彼女は、外見的には他の生徒とほとんど変わりはなかった。部活動は、文化部の中でも非常に厳しく、当時全国大会にも出場していたカナタイプ部に入り、毎日朝早くから夜遅くまで活動していた。また、資格取得に対しても積極的に取り組んでいた。

 一年が過ぎ、その生徒が二年生になったとき、私のクラスに籍をおくことになった。二年生の当初は、一年生の時に比べて少し元気がないように見受けられたが、授業中も前向きに取り組み、部活動も相変わらずがんばっていた。また、調子がすぐれないときでも、欠席するのを嫌い、遅刻してでも学校に来る生徒であった。
 一学期の終業式の日、クラスの生徒を前にし、「健康に留意し、元気に二学期を迎えよう」という話をして一学期が終わった。

 その年は、例年に比べ非常に暑い夏であった。七月が過ぎ、八月に入ってすぐのことである。私は、当時ハンドボール部の顧問をしていたのだが、公式戦の試合の最中に放送で呼び出された。至急学校に電話を入れよ、とのことである。どうして学校から電話が入ったのか、まったく見当がつかないまま、折り返し学校に電話を入れた。
 電話口の向こうから、「試合中で申し訳ないが、試合が終わったらすぐに学校に戻ってきてください」と言われた。「何かあったのですか?」と聞き返したとき、「生徒の○○さんが、亡くなりました」という言葉が返ってきた。その後、試合に戻ったが、頭の中は真っ白になり、無意識のうちに目から涙がこぼれていた。
 彼女は当日朝、家の階段を上ろうとしたとき発作を起こし、そのまま息を引き取ったということである。後日、知ったことであるが、七月ぐらいから体の不調を訴え、朝父親が自転車を車に積んで登校し、帰りはゆっくり自分で自転車に乗って帰っていたということである。また、主治医は、高校入学前に保護者に対して、この子の寿命は「よくもって三年」と宣言されていたとのことである。そしてこのことを、本人もうすうす知っていたというのである。
 仮に私自身が彼女と同じ境遇であったなら、彼女のように最後まで精一杯生き通せるだろうか、と自問したとき、胸を張って「できる」とは断言できない。

 私は、彼女の話を今までに生徒の前で何度かしたことがある。それは、五体満足で特に不自由のない生徒がいいかげんな学校生活を送っている姿を見たり、なげやりな行動が目立ったときである。この話をした後で、生徒の行動が変わってくれることが、今私ができる亡き彼女へのささやかな贈り物だと思う。
(平成七年七月)


     Incivility (無作法・無礼)

 この言葉は過日週刊誌を読んでいて出会った言葉である。アメリカのジャーナリストが自国の現状を評して使った語であり、もちろん憂慮すべき事態としての認識がそこにはある。話はO・J・シンプソンの殺人罪の判決について述べられている中で、アメリカのテレビ番組やトークショーなどに触れて、「他者に対する節度の欠如」、「共感の欠如」、「礼儀の欠如」を指摘して、その中で Incivilityなる語が使われていた。これを読んでいて、これらのことはアメリカの現状どころではなく、そっくりそのまま日本の現状ではないかと思えた。二学期になって、校内では盗難が相次いだ。それに万引きも連続して起こった。盗難については、近隣の学校との情報交換の際にも類似した手口のものが報告され、同様の悩みを抱いているとのことであった。
 物の豊かな現代社会にあって、「空腹を満たす」ための盗難ではない。「遊ぶための金欲しさ」、「消費的欲求」を満たすためのものがほとんどで、自己中心的な動機が多い。「人の痛みがわかる」など、通じないのであろうか。相手の立場に立ってという思考回路が初めから欠如しているのか。それとも幼い時からその回路が休止状態であるからうまく機能していないのか。このように非難してみたところで、このような子どもにしてしまったのは大人の責任であり、教えるべき時、しつけるべき時にそうしなかったからいま現在があることをまず知らなければならない。
 ところで、私も今の中学生や高校生の親と同じ年代となった。団塊の世代から昭和三十年生まれぐらいまでが今の中高生の親の世代である。質的な差があるものの物質的に豊かな時代を享受しているのは、すでに今の中高生の親の世代から始まっている。今の子どもたちが急に嘆くような現状になったわけではない。すでにその親たちの世代にその兆候があったのだ。しかし、このように判ったふうなことを言ったり、評論家ぶったりしたって何も問題の解決にはならない。果たして子どもたちの未来のためにも、もちろん私自身のためにも、彼らをどんな人間としたらよいか、はたと考えてしまう。
 「節度の欠如」といわれるが、どうしたら「節度」というものがわかるのか。「共感の欠如」といわれるが、どうしたら「共感」できる人間となり得るのか。「礼儀の欠如」といわれるが、どうしたら「礼儀」を身に付けさせることができるのか。あれこれ思い巡らすと、ある一つのことに気付く。それは現代人が「畏れ」ということを忘れてしまったことである。「畏敬」については、漢字の書き取りで扱っていても、その意味するところを体験していない。「畏れ」を見失い、「謙虚さ」も失い、自己本位でものごとを考えていく過程では、他人との距離を意識する必要もなくなった。世の中の禁忌 がなくなり、「畏れ」の意識もなくなった。だからといって、神秘主義を主張するつもりはない。人間は自分を取り巻くすべてのものと共存しなくては生きていけない弱い存在であるという謙虚さを見失っている。「畏れ」は「敬い」の気持ちから生じるものだ。人が生きていく中で、一人では何もなしえないことを自覚しなくてはいけない。
 お年寄りの方がよく「御蔭様で」と言う。老若男女問わず、真にこの語の持つ意味を理解することが必要であり、実感として個々人の意識の中に「御蔭様で」という言葉が根づいたら、素晴らしい世の中になると強く信じる。
(平成七年十一月)






  第二章 育てること、導くこと








     造 林 と 教 育

 先日、賀茂県有林を見学する機会を得た。明治四十年からの造林で、その後計画的伐採が進み、当時植えられた木の大部分はなくなって、山としては、わずか一部だけ杉が残っている。さすがに八十年の年輪を持った大木の景観はすばらしい。しかし、なぜこの一部の木が残っているかというと、伐採当時商品としての価値が良好な状態になかったからだというのが、その理由であった。残された木は日当たり等の条件が変わったことから、その後自分の力で立派に立ち直り、今は、どこの市場に出しても押しも押されもしない商品価値を備えた木になっているという説明を聞いた。周りは三十年程度の手入れの行き届いた造林が広がっている。
 植林して十五年ぐらいは、下草刈りと枝打ちが続く。木の若いうちの枝打ちは、むしろ深めに切り落とすのがいい。少しでも残して切り落とすと節になる。えぐるように打ち払うと、節は幹に巻き込まれて、もう表面に現れることはない。植林から伐期までの間に何度か除伐、間伐が行われる。二十年間に六八%、仮に四千本植樹したとすると、それが、千三百本になる。そして、三十年から五十年の間に二〇%、約八百本になる。それから皆伐までに、また一二%、五百本になる。これが、現在の造林のやり方であるようだ。
 西欧では、五百本植えて五百本を皆伐まで育て上げるのだそうだ。日本の場合、この四千本から五百本になるまでの手間賃のロスを埋めるよい方法がなくてコストが高くつく。それと、土地が狭いのであちこちから切り出して運び、一つの場所に集積する。外国の場合は、広大な土地から切り出して、一度にトラック三百台分の材木の積める船舶を利用して、倉庫保管の役割まで果たさせることでコストはいっそう低くなる。こんな訳でコストの低い輸入材に押されているのが現状であるという話であった。
 長々と県有林の見学記を書いたのは、これを学校教育に重ねてみたかったからである。
 四千本を五百本にする間伐は、学校には当てはまらない。不良木でも環境条件を整備改良すれば立派な材木になる話は、大いに考えるべき点で、学校も環境や条件を整備すれば、立派な生徒を育成することができる場合が多いと思う。
 次に、植林から六十年間の木の手入れで、愛情と手間を掛ければすばらしい木が育つ点は、人間にとっても幼児期や少年期にどのように大人が援助するか、中学・高校時代にいかにしてエネルギーをマイナスに消費させる余分な枝を払って、根幹を真っ直ぐに育てるかということと重なる。ここが、教師の努力しなければならないところである。しかし、あまり枝打ちが過ぎると木は活力をなくしてしまう。どこまで払うか、合理的な判断とともにコツとでもいうべき、経験を通して身につける力が必要だとも思う。
 若木の節が体内に巻き込まれて消える話は、まさに自己教育力そのものである。若者の行為や心の傷も、自己の内側の蓄積として、表面からは消えてしまうにちがいない。教師の指導力は、どの深さでどこまで枝打ちができるかにかかっている。
 もう一つ最後に、根本が曲がっていて、「あてにはならない」と言われる若木でも、根がしっかりしてくると自然に真っ直ぐになっていくものだと聞いた。根をしっかり育ててやることが教育の真髄であろう。
 先生でも世の中の人でも、「今の若い者は……」という批判をする人がいる。批判するのはいいとして、「だからどうしようもない」という結論に導くのは間違っている。現代の高校生は、あの昭和二十年代のひもじさは知らない。本の少なかった欲求不満も味わってはいない。家を代表するような世間付き合いもあまり経験してはいない。彼等を育てるには、愛情と根気強さを持って躾 をしなくてはなるまい。知らないことは教えてやり、実行しなければ叱り、やれば褒 めて育てるのが教師の使命である。校則の見直しが進められているが、かつては生徒と話し合って決めた自律的な約束事であっても、今では他律的と思われているものがたくさんあろう。しかし、すべて他律が悪いわけではないし、今でも不要なものではないということも十分考えて進めないと、大きな過ちをおかすことになろう。
(平成八年二月)


     言 葉 の 力

 「先生、三年生の時の個人懇談でどんなことを言ったか、覚えてますか?」
 懐かしい話が続く中で、ふいに、こう聞かれた。
 再びもとの学校に勤めるようになって間のないころ、そこで以前受け持っていた教え子が訪ねてきてくれた時のことである。
 「先生のあの時の言葉で、私は進路を決めたのですから」
と、続けられて、思い出さないわけにはいかなくなった。もし、忘れてしまっていたり、思い出せなかったりしたら、これは申し訳がない。しかし、すっかり忘れていることでも本人を前にすると思い出すこともある。

 「先生、こんな子でも、養護の先生になれますかねえ」
 「いえ、『こんな子でも』じゃなく、『こんな子だからこそ』だと思っています。この子が養護教諭になってくれるといいですね」
 母親は、子どもの学力のことを気にしながら、謙遜して「こんな子でも」と言ったのだが、私は、あえて母親の言葉を打ち消し、彼女の明るい人柄や陰ひなたのない学校での生活ぶりから、「こんな子だからこそ」と言ったのだった。
 こんなやり取りを、彼女は母親の隣で聞いていたというわけである。
 短大の養護教諭の課程を卒業した彼女は、本意であった養護教諭になることはできなかったが、実習助手として高校に勤務することになったという。

 何気ない教師の一言が、生徒に大きな影響を与える場合がある。もっとも、その時の生徒の心の状態によって、意図するように伝わらなかったり、まるで逆の受けとめられ方をすることもあるが、概して、生徒は教師の言葉をよく聞いている。教師は、言葉の力を信じ、もっとそれを活用する努力と工夫をする必要があるように思う。言葉によって、話し方によって、生徒を力づけ、意欲を持たせることをしなければならない。
 生徒の心に教師の言葉が印象的なものとして残るのは、それが自分の存在を認めてくれるものであったり、思わぬ自分に気づかせてくれたりした場合である。
 教師の方からすれば、そのためには生徒をよく観察し、生徒のさまざまな点を知ることである。一面的な観察ではなく、多面的に生徒を見ることである。そして後は、それをどの場面で、どんな言葉で生徒に投げ返してやるか、である。
 しかし、これにも訓練がいる。同じものを見ていても、訓練を積んだ俳人とそうでない者とでは、目の付け所とその表現にはっきりと差が見られるのに似ている。
 印象に残る言葉というものを意識させたのは、父親だった。
 教師になって仕事にも慣れ、面白味のわかるようになった頃、夜も遅くなって帰宅したことがあった。まだ、眠らずにいた父が、
 「いい足音だ、と思って聞いていたが、なんだ、お前のだったのか」
と言った。夜も更けていたので、舗道に響く靴音は遠くから聞こえていたらしく、小気味がいいと思って聞いた、と言う。そして、きっと、その足音の主は、自分の仕事に張り合いを感じている者に違いない、と思って聞いていた、と続けた。
 「なんだ、お前のだったのか」と予想外だったという思いを言った後に、足音についての感想を言っているのだが、そのために、感想は第三者に対しているような印象になる。そのちょっとした間 のようなものが、効果を生むのかもしれない。
 他人ごとのように聞きながらも、自分の仕事に対する気持ちがこんな足音にまで現れたのかしらと思ったり、息子が一人前になったのをこんな形で認めたのかしら、と思ったりして、悪い気はしなかった。そして、足音をほめるという、思いがけないところを突いてきた父の言葉と観察力とに妙に感心した。
 この印象は強く、その後、生徒の歩き方や姿勢にまで気をつけるようになった。また、視点の置き方や表現の仕方、声をかける場面などについても工夫をするようになった。
 どこに視点をおいて、どのように生徒に迫るかは、結局、生徒をよく観察し、生徒をよく知ること以外にはないことに気づく。
 教師は、もっと生徒への声のかけ方を勉強しなければならない。生徒を励まし、意欲を持たせる言葉のかけ方を訓練しなければならない。教師の言葉が生徒に与える力は、決して小さくない。 (平成六年十一月)


     ある中退した生徒にとっての「教師」

 その生徒は、九月の初めに校内で喫煙を発見されて退学していった。三回目の特別指導だった。一度目は、入学早々「生意気な」同級生を二人で正座させて謝らせ投げ飛ばした。母親は熱心で、「高校を卒業させたい」と頭を下げた。一月ほどの長い家庭謹慎になった。二度目は、一学期の末頃、階段の踊り場での喫煙だった。この時には、謹慎の申し渡しに父親が学校に出向いてきた。
 彼は中学生の頃に新興住宅地に引っ越してきた。最初は友達もできなかったが、そのうち暴走グループに入り、勉強から遠ざかるようになった。高校へは乗り気がしなかったが、母親の薦 めで受けるだけ受けたら合格してしまった。入試の時から目立っていた。
 私は、生徒指導主任として、事情聴取したり、家庭訪問したり、事後指導したりで、よく語りかけていた。髪の毛は茶色いが、素直な目だった。乱暴な言葉遣いではなく、むしろ優しいしゃべり方だった。勉強さえ何とかなれば、もつかもしれないと考えていた。
 しかし、本人は母親には悪いと思いつつも、学習への意欲は少なく、学校を辞 めたい気持ちを持ったまま夏休みが明けた。そして、謹慎指導を受けてもやめる気になれなかったタバコが見つかった。「もう課題をやるのはいやだ。辞める。先生ありがとう。」私は、少し迷ったが、引き留めることをしなかった。逆に、就職口を探してやろうと考えていた。
 私の頭に閃 いたのは、土建業の親方に婿 入りしていた五年前の卒業生だった。さっそく連絡を取ると、「引き受けてもいいよ」と言ってくれた。母親もあきらめた。
 ブリ君と呼ばれていたその卒業生は、高校のとき札付きの問題児だった。三年になるとき留年して、私が引き受けることになった。他に留年生が七人いた。彼ら五人は前の学年のリーダー格で、うち一人は一年経 たずに辞めていったが、残った四人は両学年に影響力を持っていた。私の経験した本校の八年間の中で、学校が最も荒れていた時期だった。残された一年間で学年を立て直さなくては、そのためには彼らとじっくり話をしなくては、と悲壮な思いであれこれ考えていたことを今は懐かしく思い出す。
 次の年、留年生七人は立派に卒業し、留年したときは恨み言を言った親たちも感謝してくれた。その後ブリ君は仕事をいくつか替えた後、結婚相手の父親に気に入られ、その家業の土建業をやることになった。結婚式に招待され、かつての悪ガキたちに久しぶりに会い、たくましい生活力で頑張っていることを知った。道路管理の仕事をしながらボクシングに打ち込んでいる者、家業を継ぐべく修業中の者、自動車整備士として資格を取った者などなど。警察にも何度か世話になった高校時代からわずか数年しか経っていないが、彼らは希望を持って生き生きしていた。たくましいなあ、しみじみ思った。
 そのブリ君に今度は退学したばかりの一年生を頼んだのは、彼なら一番よく分かってやれるのではないかと考えたからだ。勉強のつらさも、それから逃げたい気持ちも、高校を卒業することの大切さも、仕事のつらさも、社会の厳しさも、バイクで走りたい気持ちも、親の気持ちも、そして彼の行動パターンも読めるのではないかと考えた。
 まず彼は、自分から仕事をやらせてくださいと言いに来るまで放って置いた。電話をかけてくるのに二週間かかった。仕事場に呼び、「明日から来い」と言って、母親に会った。彼は母親の期待が過剰なことに気づき、しばらく任せてくれるように言った。母親は毎日弁当を用意した。前夜の暴走で疲れ、無断で仕事場に顔を出さない時、寝ている家まで行って叩き起こした。「バイクで走りたい気持ちは分かる、でもそれを仕事に持ち込むな」と言った。
 「彼の気持ちは手に取るように分かる、自分もやってきたことだから。だから無理にやらせようとは思わないが、仕事の時は俺もマジに打ち込むからどうしても厳しくあたってしまう。彼の世話は後輩に任せて相談に乗らせているんだ」と、私が気にしている頃に電話で状況を知らせてくれた。「最初の一 月はお客様扱いで、君付けで呼ぶ。でもそれが過ぎたらびしびしいく。三か月が勝負だな。奴は向いているかもしれないよ」と言う。三か月経った十二月に、ブリ君の言ったとおり危機が来て、他のふらふらしている仲間と何度か学校へ現れたことがあった。私はブリ君の学校時代のことを話してやった。一月になって、「もう一人退学した奴を自分の下で使ってほしいと言ってきたよ」とまた電話があった。「承知したら前とは見違えるように仕事に打ち込むようになった」と喜んでくれた。「もし奴がやっぱり高校を卒業したいと思うようだったら、定時制に行かせてやるつもりだ」とも言ってくれた。
 彼がこの調子で続けてくれることを願っているが、彼らにとって先のことは分からない。はっきりしていることは、ブリ君は、彼にとって私よりも「教師」らしい、それも「人生の師」ということ。 (平成七年二月)


     ひとことの大切さ

 授業の中でなにげなく発した一言が、ある生徒には意欲の向上につながり、ある生徒には、辛い思いをさせる言葉となることもある。
 生徒のやる気を起こさせる言葉として「よくがんばったな」、「なかなかいいぞ」、「上手になったな」、「すばらしい」などがあげられ、やる気をなくさせる言葉としては、「もっとがんばれ」、「なんだ、これぐらいで」、「ダメダメ」、「バカだな」、「下手だな」などがあげられる。

 今から十五年ぐらい前のことであるが、私の担当した授業の講座に心臓病のため、小学校、中学校と体育の授業をすべて見学してきたという女生徒がいた。彼女は、心臓が悪いと信じ込み、また一人娘であるということで随分両親から大切に育てられていたようである。
 バレーボールの授業中、彼女が座って見学している所へボールがころがっていった時、私はなにげなく「ちょっとやってみる」と声をかけてみた。

生徒 (不安そうな顔をして)私、運動したことがないから。
私  椅子に座ったままでもできるんだよ。
生徒 上手にできないから。
私  やってみると、意外に面白いと思うよ。
生徒 少しやってみようかな。
   (五分程度やってみると、なかなかセンスがよい。)
私  なかなかいいじゃない。ほんとに上手だね。
生徒 先生、これから少しずつやってもいいですか。
私  無理をしないで楽しみながらやればいいと思うよ。

 そんなやりとりのなかで始まった彼女の授業への参加態度は、制服のままから、体育の服装へと変化し、一年生の後半には、皆と一緒に活動できるようになった。二年生になってからの彼女は、運動に対しての積極的な姿勢が身につき、汗をかきながら一生懸命取り組むようになった。健康面でも自信がもてるようになったと思われた。

 卒業し、七、八年経ってから、私のところへ結婚式の案内をもって彼女がやってきた。

生徒 先生、結婚することになりましたので、是非出席してください。
私  おめでとう。
生徒 わたしのこと、おぼえてますか。
私  よく頑張った子だから、よく覚えているよ。
生徒 先生のおかげで、私も人並みに結婚することができるようになりました。

 現在、彼女は二人の子どもに恵まれ、子育てに追われる毎日を送っている。

 私も教師になって二十六年が経過した。しかし、このような人の人生を左右するような体験は一度しかない。私に残された教師生活は十二年である。生徒との出会いを大切にし、教師としての醍醐味を味わうことができるよう、日々努力していきたい。
(平成四年七月)


     親 和 と 共 生

 生物の授業『個体群の調節』で、「縄張り」、「順位制」、「リーダー制」を展開していたとき、次のような一文に出会った。

 「ニワトリのつつき順位行動」という現象に見られるように、脊椎動物は強い個体が順に弱い個体をつついていく。つまり、いじめを行う。サル山でもいじめを行うが、ボス猿(第一順位ザル)は、ワカオスが小猿やメスザルにあまりひどいいじめを行えば、威嚇 のポーズを示してこれを制止する。
 比較行動学のK・ローレンツが言うところでは、人間以外の動物では、同じ種の間の攻撃には遺伝子がもたらした抑制の仕組みがあるらしく一定の歯止めがかかっているのに、人類ではこの歯止めがはずれているらしい。精神分析の創始者であるフロイトが、「人間は犯罪者として生まれてくる」と言っている。
 「いじめ」の抑制は、後天的に大脳皮質の中に、禁止事項として刷り込むほかないのである。だから、キリスト教の「愛」、仏教の「慈悲」など、高等宗教はそれを教える。欧州の騎士道やわが国の武士道でさえ、せめて肉体的な優位個体に、下位者を虐 げるのを恥じる心を植えつけようとしたのである。教育や刑法など、社会装置もそのために存在するのである。従って、社会の秩序を代弁する者(父親、教師、警察、先輩)によって、制裁するという原則を確立する他、これを抑止する方法はない。
 学校で担任教諭がボスザルとしての役割を放棄し、対等のサル一匹か、または動物園の見物人のような態度をとりはじめてから、いじめは歯止めのかからないものになったとおぼしいのである。        (小田 晋『新聞が書くから「いじめ」がはやる』)

 明解な主張である。しかし、この主張の前提である「社会の秩序を代弁する者」は、再生する方向には向かっていない。そして、家庭もクラスも解体する方向に向かっている。一九八〇年代の初め、「互いに違いを認めながらも親和と共生のうちに生きようとする女性的な人間関係へと、時代の転換が進みつつある」と言われたが、本校では、むしろ家庭や学校への不信から個別的、緊張的、闘争的な人間関係へと変化しているとも言える現状がある。こうした現状を打破する方策は、まず、親和と共生を実感できる授業、学校行事、PTA活動を展開することにあると思う。
 日本で飼育されているゴリラは、ここ七〜八年間繁殖に成功していない。本来ゴリラは、一頭の成熟したオスゴリラ(シルバーバック)を中心に複数のメスとその子どもが一つの群を構成し生活している。しかし、現在日本で飼育されているゴリラのほとんどは、幼児期に輸入された個体か人工飼育された個体で、「家族」での生活経験のない個体が多いため、ゴリラ間の関係作りがうまくいかないそうである。なかには人間に発情する個体や他のゴリラを見て驚く個体も見られる。このように、繁殖という生物にとって最も基本的な行動も、ゴリラの社会では、本能だけでなく学習があってこそ可能なのである。そこで上野動物園では全国からゴリラを集め、人為的にゴリラ社会を形成し、繁殖させる試みを始めた。メス三頭の集団に一頭のシルバーバックを入れたのだが、強引にメスを支配しようとしたオスは受け入れられず、かろうじて三代目のシルバーバックが、長い時間をかけて、一頭のメスとの間に雌雄の関係を作り始めた段階まできたようだ。
 時間をかけて、焦らず生徒と教師の関係を作ることが大切だ。時には今まで作り上げてきた自らの教師像を傷つけられることもあるだろう。しかし、そのような状態でも生徒を理解しようとする姿勢、彼らのほんのわずかな変化を感じとれる感性を磨 くことが必要だと思う。もちろん、警察の介入や強い指導を否定するものではない。ただそうした中でも、生徒本人や家族の気持ちを汲み取ろうとする姿勢が必要だと思うのである。
(平成八年二月)


     「広い心」での対話

 長年高校教育に携 わってきて感じていることの一つに、先入観で子どもたちに接していなかったかということがある。
 最近の例を挙げる。一昨年から高校でも、男女が共に家庭科を学ぶことになったが、恐らく男子はあまり望んでいないのではないか、という思いがあった。そこで、担当することになった一年の三クラスの男女を対象に、無記名でアンケートをとってみた。「男子が家庭科を学ぶことについてどう思うか」という質問に対して、「学ぶ必要はないと思う」と答えた男子生徒は、ただ一人であった。あとは、「中学でやっているから何とも思わない」、「学ぶのが当然」、「自立していくのに必要」と、肯定的な回答ばかりで、こちらの思い過ごしであることが分かったのだ。大人が考えている以上に、子どもたちは柔軟に時代の趨 勢を捉えているということを痛感させられた。
 これは、幼児期からの家庭教育にも関連して言える。従来の性別役割分業観で、男の子に何も家事をさせないでいたら、将来の自立の芽も摘 んでしまうことになるだろう。むしろ、大人の考え方を変えていかなければならないと反省させられた一件であった。
 また、教師は、その時の成績を基準にして「あの子はできる、あの子はできない」と決めつけてしまいがちである。
 数年前のこと。夏休み前、三年のK子が、「先生、個人面談をしてください」と申し出てきた。前年担任をした生徒なので話を聞いてみると、「これから頑張れば、進学できるでしょうか」と言うのだ。一瞬、言葉に詰 まった。K子は一年の後半から二年を通して、クラスの最下位の成績だったのだ。二年の時は、遅刻や無断欠席も多く、注意すると、「これでも一年の時より少なくなったの」と涼しい顔。髪もパーマのようなので指摘すると、生まれつきだと言い張って、「先生、信じられないの?」と迫ってくる。そんな彼女だったが、三年生になってから廊下などで会うと、「先生」と駆 け寄ってくるようになっていた。
 彼女から、これからの希望などについていろいろと話を聞き、その進学の決意が固いことを知った。そこで、意を決して、「本気で頑張れば入れると思うよ」と答えた。彼女は真剣な眼差 しで、何度も「本当?」と念を押した。たしかにこれまでの彼女の成績は、どの科目もおしなべて悪かったのだ。そこで、「好きな科目は?」と聞くと、「世界史」と答えたので、「それを一生懸命やったら? どうせやるなら一番になるぐらいに」と励ますつもりで言葉を添えた。
 それから頻繁 に世界史の先生に質問にくるK子の姿が見られるようになった。そして、学期末考査では、いつもトップの生徒を抜いて、本当に一番になったのである。
 こうして自信がついたのか、彼女は他の科目にも力を入れるようになり、全部の科目が伸びたわけではなかったが、みごと希望の短大に合格することができた。彼女は、「先生のひと言で、やる気になれました。クラス最低の生徒でも本気で頑張れば合格できるって、後輩の人たちにも励ましてね」という言葉を残して卒業していった。
 ダメな生徒と思われがちな子も、どこかに素晴らしい可能性を秘めているものだ。苦手なものを責めるより、得意な分野を伸ばすことによって急成長し、目的を達することができた一例である。
 現在、教育現場では、ほとんどの学校で幾人かの不登校生徒、また、いじめまでいかなくても、友人関係等で悩んでいる子どもたちがいる。原因は様々だが、教育相談の事例から見て共通して言えることは、目先の現象に惑わされず、先入観を捨て、広い心で子どもの心を開くことが大切だということである。それには、親も教師も、子どもを長い目で見ることが必要となる。特に母親は安定した気持ちで関わることが大切で、その陰にはもちろん、父親の強力な精神的援助も望まれる。
 そして、そのためには、大人自らが自身を省み、成長しようという姿勢が不可欠である。表面だけの会話でなく、相手の気持ちを正しく聞いて理解しようとする心からの対話ができるようになれば、ほとんどの問題は解決の方向に向かうのではないかと思う。これからも自分自身の研鑽 に努め、少しでも教育の場で役にたっていきたいと思う。
(平成八年六月)


     教 師 の 一 言

 三年生のY君が一月に行われた大学入試センター試験で、七〇〇点を超える好成績をとった。これは、本校始まって以来の快挙であり、職員室の話題となった。そんなY君であるが、入学時の成績は特に目立ったものではなかった。職員室の話題の中で、彼がこのような成績をとるきっかけの一つに、教師の一言があったと聞いた。
 Y君がまだ高校一年の頃、担任の先生との面接で自分の進路について相談した時のことであった。彼が「将来医者になりたい」と話したところ、「本校から今までに国立の医学部に合格した者は一人もいない。それに今の成績では医学部どころか国立大学合格も難しい」と言われてしまったそうである。
 Y君はこの一言に反発、発憤し、一、二年生では部活動(柔道)と両立させながら毎日四時間の勉強を行い、三年生になってからは五時間以上机に向かってさきの点数をとることができたというのである。
 この話を聞いて、私は、一年前に教え子の結婚式に出席した時のことを思い出した。高校一年で担任した生徒同士が十三年間の交際を経て結婚した。その披露宴の席に、私の担任した生徒が新郎新婦の友人として多数出席していた。
 その中にK君がいた。K君とは、彼が高校卒業以来十年ぶりの再会であった。彼は現在、T市で公認会計士をやっているとのことであったが、その仕事についてはその時はじめて知った。そのことに驚くと同時に、難関を見事に突破し、独り立ちして立派にやっていることを嬉 しく思った。
 そのときK君は、私に次のようなことを言った。「先生は覚えてみえないと思いますが、高校一年の面接の時に、私が『公認会計士になりたい』と言ったところ、『絶対お前には無理だ』と言われました。」
 私には、まったくその記憶がなかったが、K君のその頃の成績では国立大学に入学するのがやっとで、とても公認会計士どころではなかったのは事実であった。おそらく、自己中心的で生意気なところがあった当時のK君に、現実を知らせようとして、そのようなことを言ってしまったのであろう。それにしても、K君はあれから十三年間、私の言った一言を心の奥にトゲとして、ずっと持ち続けていたと思うと、返すべき言葉が無かった。
 Y君もK君も、夢をあきらめないで自分の夢が叶 うところまできたから、教師から言われた一言を打ち明ける気持ちになったことと思う。彼らはその時の屈辱をバネにして、あきらめず努力する精神力を持っていたから、教師の厳しい一言も良い結果をもたらしたことと思う。しかし、現在の生徒は、少子化が進む中で過保護に育てられ、そのうえ、テレビ、ビデオ、ファミコンなど、一人の世界に閉じこもりがちである。そのため、人間関係を作るのが苦手で、またちょっとしたことで傷ついたりあきらめたりする傾向が強い。こうした情況では、教師の一言で将来の夢を捨ててしまい、心に傷を残したままの者も多くいるのではないかと心配になる。
 先日、ある講演を聞く機会があった。その中で講師の先生が、「どの生徒にも成長しようという気持ち、いいことをやりたいという気持ちがあるんです。生徒を良くするには、励まして認めてやることです。叱って怒鳴りつけてはだめです。」と言われた。
 Y君は話さなかったが、彼が努力し成績が良くなるにつれて担任をはじめ多くの先生が彼の実力を認めるようになり、それが彼の自信とやる気に拍車をかけたことも好成績がとれた理由の一つになっていると思う。
 進路指導においては、生徒に現状を認識させることは大事なことであるが、生徒を今の生徒の情況だけで判断するのは誤りである。生徒一人一人の良いところを見つけてやろうという温かい気持ちを持って、より深い人間関係を作ることに心がけながら、彼らの成長を援助したいものである。
(平成八年二月)


     励 ま し の 言 葉

 職業高校では、大半の生徒が就職試験を受験する。最近の傾向としては、「超氷河期」という言葉に象徴されるように、特に女子の就職については非常に厳しいものとなっている。また、大学進学についても、以前よりも間口が広がったとはいえ、職業高校出身者にとってまだまだ厳しい現状がある。
 以前、私と接した二人の生徒とのやりとりは以下のようなものであった。

〈就職試験に失敗したA子〉
 A子は入学時より運動部に籍を置き地道に努力をしてきた生徒で、学習面においても学年でトップクラスであった。就職試験では大手企業の事務職を受験したが、不幸にして不合格となった。本来であれば、不合格になった原因を考え、今回の結果を次への糧とすればよいのだが、A子にはそのような気持ちが出ていないようであった。
A子 就職試験は不合格でした。(いつもの笑顔はどこにもなかった)
私  でも一生懸命やったんだろう。
A子 はい、やりました。
私  だったらそれはしかたがないね。次がんばればいいんじゃないかな。
A子 でも次もダメだったらどうしよう。
私  今から次の失敗の心配をして何かプラスになるかな。
 今回受験した企業はたしかに良い会社だったと思う。しかし、その会社とA子とは縁がなかったんだ。でもきっとA子を必要とする会社はあると思う。仮に就職するのであればA子を必要としている会社に勤めた方がA子にとっても、また会社にとっても幸せではないかな。
A子 ……(少しにこりと微笑んだ)
私  くよくよ考えないで頑張れよ。
※ 後日別の会社を受験し、内定通知をもらい、現在はその会社で一生懸命働いている。

〈進学のための準備をしているB子〉
 B子も入学時より運動部に席を置き人一倍努力し、三年時には部の主将を務めた生徒である。体育系の大学への進学を希望しているが、受験する学校は今年度競争倍率が高く、今の実技の記録では合格が難しいという状況である。そんな中で、彼女は実技試験に向けて毎日グランドでトレーニングに励んでいた。
私  調子はどうだ。
B子 あまりよくありません。(いつもの元気な顔ではない。)
私  もうすぐ試験だろう。元気を出して頑張れよ。
B子 でも今の記録では合格できません。
私  たしかに難しいかもしれないが、ダメだと思いながら練習していてもよい記録は出ないぞ。引退するまでの部活動もそのような気持ちで練習していたの。
B子 決してそうではありませんでした。
私  そうだろう。一生懸命頑張っていたよな。まだ、試験を受けたわけでもないし、結果が出たわけではないだろう。これから試験を受けるんだろう。
B子 ……(無言)
私  C先生(B子の顧問)が教員採用試験を受験した時、実技試験に幅跳びの試験があり、C先生はその試験の前に利き足を痛めたそうだ。でもその試験は逆足で跳び自己最高記録を出し、採用試験も合格したそうだ。後でわかったことだが痛めた足は骨折をしていたらしい。……何事も最後まで望みを捨てずに必死でやりとおすことが大切ではないかな。
B子 頑張ります。(少し涙を浮かべていた)
※ 卒業後も進学の夢を捨てず、予備校に通い、翌年大学に合格した。

 物事を考える場合、マイナス思考とプラス思考があると思う。現実は現実と受けとめ、仮にマイナスの結果が出てもそれを将来のプラスになるように物事を考え、努力したいものである。
(平成九年六月)


     褒 め て 叱 ろ う

 親や教師はすぐ子どもを叱る。叱っている自分は感情的になっている。時には陶酔状態にいることすらある。これではいけない。子どもの身になれば、叱られてばかり。成長して幼い時を顧み、褒められた記憶がないというのは悲しいことだろう。ただ押さえつけるだけの叱り方は拙劣そのもの。素直に成長すればよいが、「お前はダメダ、ダメダ」の毎日だと本当にダメになってしまう。猛り狂った野獣のような子どもに育つかもしれない。時に親に暴力を振るい教師を殴る。これは、まさに子どもの悲劇、親の悲劇、教師の悲劇!
 なぜ、このような情けないことになってしまうのか。どこでどう間違ってきたのか。難しいことはさておき、少なくとも、子どもの叱り方の上手な親や教師が少なくなったということは確かだろう。家でもガミガミ、職員室でもガミガミ。「長い下手なお説教、もうたくさん、早く終わらないかな。」親や教師の『お叱り』は頭上を右から左へ。叱っている方は感情的になって疲労は増すばかり。子どもの心はいつまでたっても掴 めないし離れる一方である。可愛がるだけが愛ではない。愛には心と技術がいる。叱り方にもコツがある。叱られたことが、人生のその後に大きな影響を与えることも多い。
 私事で恐縮だが、小学校四年生の頃、母が入院したので寂しくて、家の者に無断で遠くに入院している母のもとへ妹と出かけた。我々が病院に到着してから母が父に電話をかけたので事なきを得たが、父は子守のお婆さんと捜し回り、もう少しで警察に届け出るところだったらしい。事情を知らず、帰宅したら父に物凄 い剣幕で叱られた。後にも先にも、この時ほどこっぴどく叱られたことはない。体が縮みあがり、ワーワー泣いた。本当に怖かった。この時には怖さが先にたって、どうして叱られたのかがわからなかった。しかし、しばらくして冷静になり事情が呑 み込めた時、父親に心配をかけて叱られたのだとわかった。叱られることによって、父親の愛情をひしと感じた。父の怒りの大きさが置き換えられて、愛情の深さだとわかったときは嬉しかった。このあと父は、「あんな遠くまで子どもだけでよく行けたものだ。」と感心したように褒めて(?)くれた。子ども心にもちょっぴり自尊心が守られ、そして自信ともなった。
 叱り上手は褒め上手という。どんなときにどのように叱り、またどのように褒めたらよいのか。少し大仰だが、子どもが親や教師に愛と信頼を持つためには、親としてどうあらねばならないか、教師としてどうあらねばならないか。一番大切なことは子どもの言動に心の耳を傾けてやることだ。これは親や教師の務めでもある。心から聞くことによって初めて叱ることができる。子どもは、自分でも自分が悪いとわかっている場合がある。だから、褒め上手かつ叱り上手の先生が愛される。叱るというよりも、人生の先輩として、親や教師が見本となり得れば理想的ではあるが……。子どもは親の背を見て人生を学んでいく。親自身が自分の行動を反省し、努力しなければならない時がきている。
 また、叱るときは、親のそして教師の心が高ぶっていては効果がない。叱るときは落ち着き冷静に静かな声で叱る。そうすると、相手の胸に染み入る。その場で叱るかあとで叱るかは、周囲に人が居るか居ないかにもよる。子どもにも自尊心というものがあるから効果が違ってくる。家庭でも学校でも同じである。そして、相手の自尊心を掻 き立てながら、褒めて、子どもの悪かったところを指摘する。そうすると、子どもは自分が認められていることも分かり嬉しくなって、その信頼に応えようと努力する。褒めた効果は大きい。最近、二十代の若者から「さすが先生ですね。」と、言われた。何のことで言われたのやらわからない。しかし、この歳になっても悪い気がしなかった。いや、むしろ何だかやる気が湧いてきた。大人も子どもも、褒められるということは嬉しいものだ。この気持ちがすべてにおいてやる気の大きな原動力になる。
 褒めて叱り、叱って褒めて、お互いの個性を傷つけることなく尊重し合っていくこと。これは、大人が学ぶべきことであり、子どもたちによって教えられることでもある。
(平成七年十一月)


     ラ ブ の 贈 り 物

 ラブ。生後五か月半。今のところ、わが家の長男である。もちろん人ではない。七夕の日に家族の一員となったラブラドール=リトリーバーの雄である。ラブラドール・リトリーバーの祖先は、カナダのラブラドール半島で漁師の仕事を手伝い、運搬を主として活躍していたようで、「リトリーバー」とは Retrive (回収) から名付けられたようである。また、最も我々になじみがある言い方をすれば、「盲導犬」に多い犬である。
 子育て未経験の私にとって、この三か月あまりは苦労の連続だった。そして、教員として考えさせられることが多かった。
 わが家の長男は、ひいき目に見ても物覚えがよくない。盲導犬と同種である以上、彼は過度の期待を寄せられていた。しかも、彼には血統書というおまけまでついていたのだからなおさらである。しかし、「おて」や「おかわり」以前に、私は、室内犬にとって最も重要なトイレをしつけられないでいた。何冊も本を読み、知識は持っているつもりだったのだが役に立たなかった。そんな悪戦苦闘中に、テレビできちんとしつけられている犬を幾度か目にした。なかには、雑種も多く含まれていた。結局、どんな犬でも、「言うことを聞くようになる」のでなく、飼い主の根気強く、愛情こめたトレーニングにより「成長していく」のであろう。
 福沢諭吉も「学問ノスゝメ」のなかで、「天ハ人ノ上ニ人ハ作ラズ、人ノ下ニ人ハ作ラズ。……サレバ、賢人ト愚人ノ別ハ、学ブト学バザルトニヨリテデキルモノナリ。」と著している。教員である私は、この観点をあらためて大事にしたいと思う。
 物覚えが早くない彼に対し、時に私は感情的にどなりつけることがあった。その時、家内から「あなたは、ラブのことを思って叱っているのではなく、自分の感情をぶつけているだけじゃないの」と言われたことがある。この指摘は、耳が痛い。そして、自らの生徒指導を思い出す。授業時やクラス経営はさておき、部活動の指導時には、正直に言って、うまくいかないプレーに対し、生徒のためというよりも自分の腹立たしさをぶつけていたことがあった。「怒る」ということばが自動詞であり自らの感情表現であるのに対し、「叱る」は他動詞で目的語を必要とする。つまり、生徒のためを思ってする行為なのである。家内の指摘を謙虚に受けとめたい。
 九〇%ほめて一〇%叱る。これが犬のしつけの基本である。いけない行動をした時に叱る否定的強化ではなく、好ましい行動にはごほうびなどのうれしい結果を与える肯定的強化を繰り返すのである。本によれば、叩かれる犬は叩く「強者」に対しては従順だが、子どもやお年寄りなどの「弱者」に対しては反抗的になるらしい。私は、生徒に対し九〇%ほめた場合、教育的に悪影響が生じると思うが、やはりほめることは重要であると思う。高校生にもなっている相手だから、見え透いたお世辞はかえって逆効果になる。だが、本人が内心「よくやった」と思うことをうまく見極めてほめることは、教育的効果を上げるに違いない。
 権勢症候群(アルファ・シンドローム)という言葉がある。本来、犬は群れて行動してきたので、集団のなかでの自らの地位を常に上げようとする本能を持つ。つまり、一番上位にあるアルファ雄かアルファ雌になろうとする。簡単に言えば、自分を家族内のリーダーと思い、飼い主の言うことをきかなくなるのである。原因は明らかで、飼い主の甘やかしにある。同じベッドに寝たり、犬を先に歩かせたり、一緒に食事をしたりすることの繰り返しがアルファ・シンドロームを招くのである。ところで、わがままな犬を飼い主が育てるように、わがままな高校生を教員が育てている側面はないのだろうか。
 わが家では、両親が犬を溺 愛する。かわいがってくれるのはよいことなのだが、祖父母が孫を甘やかすような対応に終始してしまう。例えば、「まて」をしないで食事を与えるなど、我々夫婦間では認められていないことが、公然と行われそうになる。犬の立場からいうと、指導に一貫性がなく迷いが生じても当然である。果たして、教員間に指導の一貫性が保たれているだろうか。喫煙、防寒着など、校内には様々な問題が山積している。ぜひ、校内で一貫性を持って指導していきたいものである。
(平成八年十月)


     「いじめ」問題について ― 雑感

 「『いじめ』が深刻な問題として取り上げられてから久しい。しかし、問題なのは、『いじめ』を問題化するマスコミや世間の姿勢にある。いじめの『現場』責任者として『指定』される学校や教師が、その誤った指摘を跳ね返せない事態にある。人間の支配欲や好戦欲をなくすことができないように、人間社会から『いじめ』を抹消することはできない。できるのは、悲惨な事態にならないように、相互がよく防備し、陥った場合は、『跳ね返す』ことも含めてよろしく対処することである。ところが『いじめ』はそもそも『よろしくない』、『ありうるべきではない』とされる。その『ありうるべきではない』ことが、『学校』で生じているのに、それを放置している学校と教師が指弾されてしかるべきだ、とされる。」(中日新聞 平成八年八月二十七日より)
 以上は新聞の抜き書きである。その中で谷沢永一著「人間通の喧嘩教育論」(PHP研究所)が紹介されている。これを読めば、適切かつ具体的でだれにでもすぐにできる対処法を提示しており、いじめ問題で苦闘している教師たちには福音となる、ということであった。
 早速その本を買って読んでみた。
 ― いじめを粉砕する十の鉄則 ―
 鉄則1 祝福された誕生の妄想を捨てよ
 鉄則2 いじめ、いじめられる存在が人間と知れ
 鉄則3 「君子の交わりは水のごとし」を実践せよ
 鉄則4 秀吉のたくましさと狡猾さに学べ
 鉄則5 「一芸一能」に秀でることを目指せ
 鉄則6 学校と教師に過大な期待を持つな
 鉄則7 いじめ自殺を徹底的にののしれ
 鉄則8 自殺する前にいじめっ子を殺せ
 鉄則9 戦後日本の平和思想と決別せよ
 鉄則10  手段を選ばず親は子どもを守れ
 少々過激な表現もあるが、これらの鉄則は、我々が当たり前としてきた社会のありかたを自分の言葉で表現しているか、また、自分自身の考えを持って生きているか、と問題提起をしているように思う。そして今の子どもたちが、それらを幼いときから教えられ、鍛えられているかどうかを顧みさせている。
 巻末の部分では、ある保護者と、ある作家の例をあげている。保護者は、「学校がきちんとした対策を取らなければ、通学させるわけにはいかない」と言い、損害賠償の訴えを起こそうと考えている。作家は「いじめをできるだけ早く知ること、次に学校へ行くのをやめさせること、そして三番目にいじめた犯人を突き止め、責任を追及すること、四番目には、相手の親と徹底的に対決すること。いじめる子はまず親から直さなければダメ。基本はやっぱり家庭ですよ」と述べている。著者は「学校なんていうものは、ほんの形式であって、通過すべき線路であって、教育機関ではないと思え。もし学校に役割があるとすれば、それは、ただ、子どもが勉強しやすい場を提供するという働きでしかない。」と言う。
 最近の新聞記事の中にも「学校へ行くのを拒否する選択もある」という意見が見受けられる。また、いじめに対処できない子どもに育てたのも親ならば、いじめに苦しんでいる子どもを救えるのも親なのだという論調もある。学校の役割や教師の役割はどこへいってしまったのだろうか。
 しかし次のような記事にも出会った。
 「いじめもけんかもどちらも人を傷つけるからいけないことだ、と子どもは親や教師から教わることが多い。しかし本当にそうだろうか。その教えを固く守る子はいじめの状況にあった時、ジレンマに陥りはしまいか。『けんかはできればしないほうがよい。でも自分に危険が迫った時には、やり返すことも必要だ』、と私は思う。」(日経新聞平成八年十二月十一日より)
 教育者でもある筆者はいじめられている少女と一緒に話し合い、いじめからけんかに展開する作戦を取ることにした。少女は筆者をいじめっ子に見立ててロールプレイを繰り返し練習し、ついには、いじめグループを分裂させてしまったのである。
 いじめは高校の現場では大きく取り上げられてはいないが、「大人が毅然として生きているところではいじめはない」 ― という件 は人ごとではない。
(平成九年五月)


     葡 萄 の 実

 夏を迎えるころ、八百屋さんではいろんな果実が店先に並ぶ。その中で、葡萄の王様といわれる巨峰はいかにも高級な果物という感じがするが、どうしてこんなに立派なものができるか紹介したいと思う。(実家で栽培しているため多少知識がある。)
 店頭に並ぶ葡萄は、実に色、形がよく、食べてみると実に甘い。桃栗三年柿八年というが、葡萄は八年過ぎないとこのような木にはならないそうだ。苗木から数年で実をつけるが、まだまだ店頭に並べられる葡萄ではない。ある程度成長した葡萄の木は、木枯らしの吹く寒い冬のころ枝切りをする。芽を出している木を見てよい方向へ枝が伸びていくだろうと思われるものを残す。よい枝はよい房をつけるからである。若い木は元気がよすぎて枝が勝手に伸びてしまうので、予想がつきにくく、枝切りのときは長年の勘があっても簡単にはできないそうだ。だいたい一本の木から一三〇〜一五〇の枝が出るようにして切る。八〜十年を経た木は、安定していてこれが読めるという。また、安定した葡萄の木は、房も粒も安定しているそうだ。
 葡萄の木の枝には平均して三房つくから、一本の木には三九〇〜四五〇房がなる計算になる。しかしこのままにしておくと、すべての粒が小ぶりになり、色も薄くなり、とてもおいしい葡萄とはならない。では、どうしてあのおいしそうな葡萄ができるのか。春になると花が咲き、実がなる。一本の枝のうち二房を残し、あとは切り落としてしまう。残った房が大きくなると、今度は、五十粒前後ある葡萄の珠 を十三〜十六粒に揃える。これを珠抜きといい、五月の中旬頃には終わっている。この時期には、気温の影響も受けるので、ビニールハウスの換気に気を配ったり、病気や虫から守るための消毒もしなければならない。さらに房が大きくなってくる六月には、残した二つの房のうち形の良い方を残し、一方は切り捨てる。しかし、これほど手を加えてもよい房にならないものも出てくる。おもしろいことに、同じように手を加えても、枝の勢いがあるかないかで、すべて形、大きさは違ってくる。六月も終わりごろに近づくと、さらに房の中の悪い珠(傷がついていたり、大きくならないもの)を除き、最後に袋を被 せて成熟を待つ。この間、天候次第で甘味も変わる。梅雨が長すぎると日照不足となり、酸味が増して味が落ちる。また、水も適度にやらないといけないし、気温が低くても高すぎても葡萄にはよくない。成熟しだすと小鳥や昆虫が食べにくるので、これらから保護しなければならない。時には病気が出ることもある。台風による風で棚が揺れ、房がちぎれてしまうことも年によってある。
 やがて実は熟す。今までの苦労は袋から開けた瞬間にわかる。色づいたかどうかは袋を少し破って判断できるが、よい出来かどうかは葡萄の房すべてを取り出さないと分からない。その年の天候によって出来、不出来があり、この瞬間まで手を抜くことはできない。同じ木から実っているにもかかわらず葡萄はすべて形も味も違う。そして、出来、不出来によって選別し、箱に詰めて店頭へ並ぶ。
 育てるということは、大変である。よい葡萄を育てるには、よい方向に伸びる枝を見極める確かな目、きめ細かな心配り(愛情)、そして、自然には逆らえないので、忍耐強くおおらかに構え、自然と協調する心のゆとりが必要である。また、葡萄の実は同じように手を加えてもすべて同じ葡萄とはならない。できのよくない葡萄は、粒を減らしたりもして育てる。

 先日、中央教育審議会から審議のまとめが発表された。その趣旨は理解できるが、ふと不安がよぎる。しかし、どうこれを受け入れていくかである。学校がどう役割を果たすかは、教員にかかっている。また、学校は、社会生活に共通の基礎的なあり方を維持・継承する場でもあることを忘れてはならない。生徒が社会の構成員として最低限のマナーを獲得していることは、社会の維持、存続のために不可欠の条件である。そのことは、普遍的なものとして、保護者と教師が、そして地域が認識しなければならない。
 「葡萄の実」と題して、流れにどう対処すればよいか、私なりに暗示したつもりである。とらえ方はいろいろとあるので、結論めいたことは記さないことにした。
(平成八年六月)


     危機からの脱出

 第四十一回全国高等学校軟式野球選手権大会愛知大会で、Aゾーン優勝、続く東海大会ではベスト4に入る。秋の新人戦でも愛知県優勝、続く東海大会でもベスト4に入る。以上が、昨年度の我が野球同好会の成績である。
 本校での軟式野球同好会の歴史は浅い。設立五年目、公式戦に参加するようになって四年目の同好会である。そのような若いチームが、なぜ優勝できたのか。「野球はピッチャー次第」という言葉通りの生徒が二年生から加入したことが、大きな要因の一つである。彼の才能は素晴らしい。東海地区の中で最も優れた投手であることは、素人の私の目にも明らかである。高校進学の際に、甲子園の常連校数校から誘いがあったほどだった。
 年が明けた現在のチームに彼の姿はない。中学野球界の管理体制に反発を感じていた彼にとって、志望校の第一条件は、野球部のない高校であった。もちろん、本校に硬式野球部はない。たとえ軟式でも、たとえ途中入部でも、彼を野球へと駆り立てたのは、野球に対する捨て切れぬ思いだったのであろう。しかし、他の部員と比較して、彼の練習参加率は低かった。高校生活の重点を部活動に置いている他の部員と、部活動どころか高校生活そのものにも適応しているとは言い難い彼との間に溝が生じるのは、当然といえば当然であった。
 昨秋の東海大会ベスト4の成績は、部員たちに満足感をもたらすものではなかった。わがチームは、冷静に戦力を分析しても、彼の投手力を中心に東海地方を制する力を持っていた。初戦のH商を十三対〇のコールドゲームで破ったほどであった。だからこそ、大会終了後の二年生が、涙とともに、さらなる上の大会への出場を誓ったのは当然であった。そんな矢先に彼は退部した。
 学校内および学校外における危機対策については、事故を「未然に防止し回避に努める」ために日頃から安全点検や安全指導のための「教育活動を展開すること」が重要であり、「予想される事故についての対応策」を全教職員で考えておくことが必要である。これは、学校の危機管理についてのある先輩教員の意見である。
 では、部活動における危機管理は、私の中でできていたのだろうか。怪我に備え、投手、内野手等の二番手を育成し、「予想される事故についての対応策」はとってきたつもりである。しかし、素人監督が現在のチームにしてやれることは、技術指導や選手育成ではなく、選手間の潤滑油として「教育活動を展開すること」だったのかもしれない。退部した背番号1の生活態度は、以前にも増して乱れているという。「未然に防止し回避に努める」ことができなかったのかと悔やまれる。
 彼がグランドから姿を消した後、部員たちの精神的動揺が心配だった。大きな目標を達成することが事実上不可能になってしまったのである。しかし、当初動揺を隠せなかった部員たちも、一名の引退を除き、寒い冬を越すことができた。そこには、一年前の教訓が生きていたように思える。二年生が一年生だった冬は、上級生が全員引退したため、部員がわずか六人になってしまった。六人での野球の練習には限界がある。そのような中、毎日ほぼ全員が練習に参加し続けた。精神的に生徒は成長したのである。今回の危機以上の同好会存続の危機を、部員たちは既に乗り越えていた。今回の危機も生徒をさらに成長させるであろう。
 本校の部活動の現状は、顧問が練習に参加して指示を与える部活動が活発で成績も良い。しかし、本来のありかたとして、生徒による自律、自立が望ましい。県立高校の教員である以上、いつ転勤になるか予想できない。顧問に依存せず、生徒間で年間計画や指導方法などのノウハウを継承していくべきである。顧問の転勤が部活動の危機になってはならないのである。本年度の私は、練習内容に関して口出しする必要がない。是非、下級生にこの体制を継承していってもらいたい。

 幸い、本年度の大会も勝ち進んでいる。明日のK高戦次第で、県大会準優勝以上の成績となり、東海大会出場を果たすことになる。
(平成九年六月)


     感動・発見する体験

 最近、「若者の理系離れが深刻」ということをよく耳にする。
 事実、今の子どもたちを見ていると、学年が進むにつれて彼らの視点での「感動する」、「発見する」喜び、あるいは、自然に対する畏敬、ロマンをかき立てる体験などが乏しくなり、それが教育現場や家庭教育にまで影響を及ぼしているように思える。
 かつては、幼少時代に竹とんぼを作って飛んだときの感動や、川の中に入り魚を追いかけた思い出のように、身近な自然や科学的な現象に感動し、好奇心を駆り立てられ、創造と工夫の心が育まれてきた体験を、多くの子どもたちが持っていたものである。
 本来、子どもたちは、このような体験や出会いを通して、逞 しく、粘り強く自分なりの「らしさ」を形作り、自らの未来を切り開いていく大人に成長していくものだと思う。
 あらためてこうした視点から学校、家庭、地域社会が教育を工夫していかねばならないと感じる。
 私自身もささやかながら実践していることがある。たとえば、家庭クラブ活動では物作りの体験実習を取り入れたり、授業の際には、手作りの教材、生徒が興味を示すもの、生活に身近なもの、考えるにあたってイメージを作る手助けとなるものなどを必ず持ち込んでいくように心掛けている。そうした品々は、私自身が感動し、新鮮な感覚で授業に臨むための「助手」でもある。こうした工夫は、日頃からの創造的で好奇心旺盛な「心の豊かさ」を保とうとの努力の中から生まれるものだと思う。
 このことは家庭にあっても大切なことだ。親や兄弟がそれぞれの目標をもって創造的に生活する姿は、子どもたちが自ら考え、自信をもって成長していける大切な環境・土壌になるはずである。そこから自分に似合った夢を描き、挑戦する子どもに成長していけるのだと思う。

 ある日わが家で、子どもが私に弁当のおかずの件で談判することがあった。「毎日の弁当のおかずに工夫が見られない」というのだ。「工夫」という点に反省し、結局この件は、私が折れることになった。ささいなことでも、そこに創意・工夫や新鮮さが見られると、子どもは敏感にそれを感じ取っていくものだ。それだけに、まず大人たちが日頃から知恵や工夫、前向きに考える心がけを持つことが大切であると確信している。
 子どもの成長過程で大人が心がけるべきことは、
  @ 黙って見守る時
  A 厳しく言い切ったり、激励する時
  B 一緒に悩み、考え、行動する時
という三つの接し方を使い分けることだと思う。
 ある書に、「創造性」を薫発しゆく土壌は、人間と人間との打ち合いにある。……無償の信頼関係に支えられた、あるときは厳しく、あるときは温かい魂と魂との打ち合いと鍛えの触発作業を通してこそ、創造的生命というものは、泉のごとく湧き出してくる。また青少年の内に秘められた想像力を薫発していくには、教える側の努力が不可欠である。……「創造性」の薫発は、まさに、教師自身の努めて創造的な日々の中にこそある、とある。
 いずれにしても、子どもを取り巻く環境、とりわけ学校と家庭での、大人(教師、親)のかかわる姿勢は、子どもの考え方や行動に、大きな影響を及ぼしていくものだ。
 それだけに、私自身、未来への夢を持ち、日々新鮮な心で生徒に接していく人間教育の道を歩み続けようと決意している。
(平成九年六月)


     あいさつの素晴らしさ

 毎年六月上旬、北陸・信州方面において修学旅行を三泊四日で実施している。その中で体験学習として、金沢市内のグループ研修、八方尾根トレッキング、白馬村での蕎麦打ち、藤細工、木彫り、そして多治見市の陶芸道場での美濃焼の実習などを行っている。
 本年度は五月三十一日から六月三日にかけて実施され、私も引率者の一人として参加した。陶芸道場での美濃焼の実習では、展示室の見学も日程に入っていた。そこには、百万円もする高価な壷や、三十万円もする抹茶茶碗なども展示してある。その作品を含め美濃焼についての説明をしてくださるのは、五十過ぎと思われるおばさんであった。
 そのおばさんに対して、男子生徒のM君が「こんにちは」と大きな声で元気のいいあいさつをした。
 おばさんは、生徒が展示室に全員入ったところで、美濃焼についての説明をされたが、その前に次のような話をされた。

 「さきほど、今日いちばんの気持ちのいいあいさつを受けました。他人同士が出会うとき『こんにちは』のあいさつは、お互いの人間関係をなごやかなものにすると私は思っています。私の父は、『あいさつは、人から言われてするものではなく、相手より先に、自分の方からしてこそ価値がある。』ということをよく言いました。私はべつに強要された訳ではないけれども、今では自然にできるようになりました。このような気持ちのいいあいさつを受け、いっぺんにこの学校の生徒さんと学校そのものが好きになりました。」

 この話を聞いて、ふだんは注意されてもなかなか話の聞けない者も、おばさんの心が通じたのか、陶芸に関する説明も静かにしっかりと聞くことができた。
 私は、以前校長先生が、「先生方は、『うちの生徒はあいさつをしない』とよく言われるが、生徒は私にはよくあいさつをしてくれますよ。それは、私からあいさつをするからです。先生方も生徒があいさつをするのを待っていては駄目ですよ。自分からしなければ。」と言われたことを思い出した。私を含めてその場に居合わせた生徒は、陶芸に関する知識以上の何かをおばさんから教えてもらったような気がしている。

 展示室を出てからM君に、「なかなかやるじゃないか。」と声を掛けたところ、M君は嬉しそうに、「先生、昨日は旅館のおばさんにあいさつをしたんだよ。そしたらおばさんにもほめられたんだよ。」と前日の話をしてくれた。M君の話によれば、家庭でふだんからあいさつをする習慣がついているから自然にできるとのことである。学習面ではけっして目立つ生徒ではないが、この修学旅行での体験は、今後彼が生きていく上で、一つの大きな自信となることと思う。
(平成七年七月)






  第三章 時代の考察








     高校生のモラルと非行  ― 在り方・生き方 ―

 昔も今も、理想的な社会といえば、市民の一人ひとりがモラルを持っていて、お互いの思いやりと尊敬によって社会秩序が保たれている社会であろう。ところが現実には、山では登山者が折ってはならない樹や花を折り、池や沼では、大人も子どもも釣ってはならぬ魚を釣っている。板切れに書かれた「禁止」の文字は何の意味もなく薄汚れていく。警察官や管理人が出てきて、「法律で罰せられる」と言わない限りは、こうした不道徳な行為が続く。
 ところで高校生にとってのモラルはどのような意味を持っているのであろうか。一般に高校生時代は道徳的感情と道徳的知識が統合される時期といわれている。しかし道徳的知識は口に出して言うのは、はばかられる。友達の前で道徳的なことを述べ、皆のやる行為に逆らえば、嘲笑されるだけだろう。それは彼らの反抗の的である。社会や親の権威に対する従順を表すもののように受けとられるのである。
 したがって道徳的知識は、それが人間としての正しい判断と深く広い知性を表す場合でさえ公言されることなく、個々の青年自身の中の課題として、基本的に道徳的感情と結びつくのである。
 他方、道徳的感情は、幼い頃から家庭や学校をとりまく社会生活の中で培 われていくものである。単に学校の生徒指導の領域の中で教えこまれるものでなく、より広い生活に関係する。
 一人の高校生が接触するさまざまな人々や文化から受けとる体験が、彼の行為や態度の「在り方」を決めてゆく。それが場の特性に応じて道徳的感情として現れる。モラルが道徳的感情と道徳的知識の統合であるとすれば、それはまさに人の生き方の問題のひとつとして青年期までに培われ、さらにその後も真摯 に発展させられるべき態度なのであり、決して一朝一夕につくられるものではない。しかし、当の高校生のみならず社会の人々さえも、モラルということばに行為の抑制 ― 非行へのブレーキだけを感じとりやすい。きわめてしばしば、「生き方」の問題が、結果としての非行を惹起 している例を認めるにもかかわらず。
 高校生の非行を一般にモラルの欠如とだけ関連づけ、モラルが復活すれば非行も減るだろうと考えるのはいくらか見当違いである。若者が現在の生活に充実感をもち、未来への希望をもって、緊張した、しかし弾力的な毎日を送るなら、非行から自然と離れてゆくことになるだろう。そして今の社会が一人ひとりの高校生にとって充実感や希望を見いだせるところであるかどうかということこそ、焦点になるであろう。
 高校生の希望は、受験を通じていわゆる一流大学に入るとか、優秀な会社に就職するとか、あるいは甲子園へ出場するという、目を見張るような目標の達成に集約されがちである。そして、この壮大なラインから逸脱した多数の若者たち(優等生でも劣等生でもないごく平凡な若者がそれに含まれる)は、たいした希望をこの世の中に見つけだせないのである。それは結局、一流大学か甲子園かという形でしか耳目に訴えないマスコミの罪でもあるが、むしろ「平凡」を尊重しない現代の価値観の問題である。
 実際、一人の平凡な高校生が自分なりの目標と生き甲斐をこの世の中に見出すことは、どれだけ大変なことだろう。彼のために、社会はあまりにも乏しい理解、そしてわずかな手段と資源しか用意していない。
 だがさらに重要なのは、社会の側が今日の高校生に強く期待するものを持っていない点である。社会が彼らに向かって、こうなってもらいたいと公言できるものがはたしてあるのだろうか。親が子どもに対する、家族として、また個人としての期待はあろう。しかし全体としての社会が、二十一世紀に向かって彼らに期待するものがあるだろうか。
 もし社会の側でさえ青少年に期待するところが乏しいなら、青少年の側で社会に希望を見出すことが困難なのは、当然といえるだろう。高校生のモラルと非行の問題は、やはり社会自体の未来に向かっての姿勢と深い関係があるといえよう。
(平成八年六月)


     教 育 の ア ポ リ ア

 社会の豊かさは、各家庭の経済的なゆとりをもたらした。そのためか、最近本校の調査結果では、入学生の七割弱が中学生のとき学習塾へ通っていた。学習塾へ通うこと自体悪いこととは思わないが、しかし、家庭での予習・復習を通して体得できる主体的な学習やその仕方の習得なども学習塾に委 ねてしまったと言えなくもない状況である。そのため、家庭での団らんなどを通して自己の自立を育む環境は、生徒の成長を図るために極めて大切なものであるが、このことにより少なからず阻害されてきたような気がする。
 その結果、家庭では、子どもの自立を図ることや規範意識(公共心・しつけ)の育成に対する関心が薄くなり、学力の伸長のみを期待するという価値観が優先されるようになる。生徒は両親の生き方に示されるこの価値観で、基本的な生活態度を体得する。そのため、生徒自身も、自立や規範意識から育つ自律や公共心などを重んずる態度といったものを養いにくい環境にあるのではないかと思われる。
 このように、今は物質的に恵まれてはいるが、自らの問題に粘り強く取り組み、困難を克服する力などを育みにくい環境だと言える。それは最近の遅刻・欠席の増加や通学の際の自動車による送迎の多さにも表れている。そしてこうした環境は、結果的に、子どもたちの学習への取り組みの希薄さや、自分の生き方に対する選択の幅を狭めることにもつながるのではないかと危惧する。
 しかし一方、このことはこうした視点で論議すべきものでなく、近ごろの文化的な背景の変化に焦点を合わせなければならないという思いもする。わが国では、シートベルトの着用は搭乗者の安全を確保するために法律でも規定されている。しかし、欧米社会においては、着用率は高いものの、それを法律で定めることにはかなりの抵抗があるという。これにはパターナリズムという文化的な背景が内在していると言われる。父子主義、温情的干渉とでも訳されると思うが、お節介もほどほどにしてほしいということであろう。個人のことは個人が責任を持つ、差し出がましい口出しは個人の自由の侵害であるということである。正しい目的や動機があって、好ましい結果が得られることが期待できたとしても、パターナリズムの視点からするとお節介なのである。このような欧米社会の文化的な背景をこの豊かな社会は無意識のうちに育んできたのではないだろうか。安易な遅刻や欠席の多さに対し注意を促すことは、正しい目的・動機があって好ましい結果が期待できたとしても、近ごろの文化的背景では差し出がましいお節介なこととなりつつある。
 学習とは自由の形成であると規定されるときがある。「ピアノを教師の指示どおり動かす」訓練によって「指が思いどおりに動く」状態に変化する。学習においても同様だからである。しかし、そのためには先行する自由(レディネス)がなければ、学習の過程は成り立たない。この先行する自由のレディネスを存在させることが、学習する者の条件であろう。なぜなら、スキー教師が「右足に力を入れ、上半身を左に傾けなさい」と指示したとき、少なくとも指示どおり体を動かそうと努力する自由がなければ練習が成り立たないからである。
 通学することもそうであろう。自らの力で学習しようとするための先行する自由は、自らの力で通学する行為として表れていなければならない。この先行する自由がなければ毎日の学習が成り立たないのである。しかし、パターナリズム的な文化的背景が生まれつつある。自動車の送迎への注意に対しても、お節介はほどほどにしてほしいという気持ちが働く。差し出がましい口出しは自由の侵害であるということである。
 アポリアとは、アリストテレスによれば解決し難い事柄を意味し、現在では放置できない論理的な困難さを指すのに用いている。この言葉を借りれば、これからの教育は、このアポリアに答を見いだしていくことが必要になった文化的背景に注目していかなければならないのだろうか。
(平成四年十一月)


     教育改革に思うこと

 「生命科学の進歩で得られた知識から、進化論は今や単なる仮説ではなく実証されている。科学としての生命に関する研究の成果は進化論を裏づける重要な論拠となっている。」
 昨年の十月、ローマ法王は進化論をあらためて認めるメッセージを出した。旧約聖書の天地創造と進化論が矛盾していることは、よく知られた事実である。大多数の日本人には信じがたいことだが、欧米のキリスト教国では、いまだ創造説論者がかなりの勢力になるということである。ダーウィンが提唱して百五十年後、ローマ法王に「進化論は正しい」と述べさせた意味は計り知れないものがある。これにより、世界のキリスト教国でも、進化論が普通に受けとめられていくことになると思われるからである。
 進化論を認めさせた「科学としての生命に関する研究の成果」の一つに、近年のDNA(遺伝子)研究のめざましい進展がある。例えば、ある遺伝子の研究で、その遺伝子が広範な動物に存在することが解り、同一の祖先動物の存在が明らかになってきた。
 人間の遺伝については、すでに科学的に実証されている遺伝子もあるが、それ以外に存在だけが推定されている遺伝子もある。ヒトゲノム計画等により、DNAレベルでの解明も進められているが、病気や体質などの形質、性格、能力などの遺伝を解明するには、まだ、家系内調査や「双生児法」等の統計調査による地道な研究が重要な意味を持っている。
 一九六〇年代には、子どもの能力や性格が遺伝的に決まるということは、心理学者の間では禁句に近いものがあったそうだ。能力や性格が遺伝する可能性を口走ることすらタブーであった。最近では、「性格についてはかなり遺伝で決まる部分がある」というのが当たり前になっている。昨年の秋、「幸福遺伝子」の存在が新聞や雑誌に取り上げられた。「双生児法」、すなわち一卵性と二卵性の双生児を調査し、統計的に検討した結果、本人が現状を幸せと感じるかどうかは、社会的・経済的な状況とは関係なく、遺伝的な影響が大きいらしいのである。このアメリカで行われた調査結果から、IQや性格はかなり遺伝によって決まり、性格の三分の二は遺伝的に、残りは環境によって決まるということが解ってきた。もちろん、この結果から教育や本人の努力が無意味という結論が出たわけではない。教育や本人の努力の重要性には変わりはないのだ。しかしながら、教育の方法や努力の仕方は変えていかねばならない面があるだろう。そのうち、遺伝的な特徴を知り、得意とする能力を生かし、不得意な能力は他でカバーすることを考えるようになる時代がくるかもしれない。
 日本の戦後教育を被ってきたのは、「子どもは無限の可能性を持ち、努力や教育でどのようにもなるはずだ」という声で代表される教育の平等思想であった。子どもに能力差があるという事実をタブー視してきた。この平等思想が現在の教育に弊害をもたらしていることについて、東京大学の苅谷剛彦先生は「どの子どもにも無限の可能性があるという理想が学歴信奉でゆがめられ、勉強ができないのは努力が足りないからだと子どもたちを追い込んできた。これが変わらない限り、教育は大きく転換しない。」と述べている。
 二十一世紀を展望した我が国の教育の在り方を審議していた第十六期中央教育審議会は、五月三十日に審議のまとめを公表した。そしてその中で、「全員が一斉かつ平等に」という発想から「それぞれの個性や能力に応じた内容、方法、仕組みを」という考え方へ転換を図り、従来の横並び意識から脱皮し、能力・適性に応じた教育が教育の最も重要な使命だと指摘している。
 この報告を読んだ文部省OBが「一昔前なら、差別選別反対、能力主義の教育観、と非難の声がわき上がっただろう。しかし、今回、そうした反対は以前ほどではない。日本人の意識の変化、戦後五十年の流れを感じる。」と読売新聞に感想を述べている。創造説論者も進化の証拠を認めねばならなくなったのと同様に、教育の平等主義者も個人の能力・適性の違いを認めなければならない時代になったのだろうか。こうした意識や思想の転換は、日教組と文部省の和解を含めた日本の経済・社会の変化によるところも大きいと思うが、能力や性格に対する研究の成果も忘れてはならないと思う。能力や性格に対する新たなる研究と、それを踏まえた教育の内容、方法、仕組みの研究が、私たちの今後の使命ではないだろうか。
 それにしても、「教育の制度上の改革やそれに関わる指導上の提言は無数にありました。しかし、学校という現場において、どれほど具体化されてきたでしょうか」という声が聞こえぬよう、教育界全体で教育改革にどう取り組めるかが一番難しい課題だと思う。
(平成九年六月)


     豊 か さ を 考 え る

 現代の高校生像として、「豊かな時代に育った脆 弱な青年」と危惧 されて久しい。「近頃の若い者は……」の嘆きは、太古の文章にも残されているとか。自分の感覚は、老人のそれかもしれないと自戒しつつも、目の前の生徒のいくつかの現象に戸惑ってしまう。長期不登校などを代表とする耐性の欠如。落とし物、忘れ物の多さ。また、それらに対する淡泊な態度。困難さに立ち向かうバイタリティの稀薄さ。たまたま自分の目にする生徒の特殊な状況かもしれないが……。落語や講談でよく出る三代目の話を思い起こす。初代は、貧窮のなかで建設に向けて奮闘し、財産を成すパイオニア。二代目は、先代の苦労をかみしめてさらに発展充実させる大旦那。三代目は裕福な生活を享受する放蕩 児。これは古今東西変わらない。無意識に放置していれば自然に辿 る流れであろう。先進国病といわれる根も同じではないか。
 三代目的な状況はどこから生ずるのだろうか。物質的豊かさと精神的豊かさは、対峙 する事柄なのか。そうではない。しかし、三代目は多分に「夢」が持てない。先代、先々代の見た「夢」は実現されてしまっている。どういう「夢」を持って自己実現を図るかが見えにくい。当座は、生きていくのに切羽詰まった事情もない。しんどいのはごめんだ、楽しくやろうよ、となる。作ってきた者、支えてきた者には、この豊かさの代償の大きさ、脆 さが身に染みているから、食い潰 しは簡単にできない。三代目は豊かであるのが初めから当たり前であるから貧しくなることが分からないようだ。必死に支えられているからこそこの豊かさが存続している、とは思わない。だから、今日のように明日もまた同じような日々が続く、退屈な閉鎖的な世の中だと思い込んでしまう。しかし、無意識なうちにも若いエネルギーは満ち溢 れる。そのエネルギーの振り向け方が分からない状況だとすると、現代青年の有様に結びついてくる。病んでいるのではなく、出口を求めて胎動していると明るくとらえたい。単なる希望的憶測ではない。たとえば、阪神大震災に見せたさまざまな動き、日常性を超えたイベントに見られる積極的動き。また、自分の目標を持ち積極的な努力をしている青年が少なからずいる。ただし、一昔前のように自然に自己脱皮して大人になることができない青年が増えたというところか。我々教師の役割について、改めて自覚している。陳腐なことだが、「大人への過程の補助」なのだ。今、青年に向かってどう切り込んでいくのか。何を引き継ぎ、どう後押ししていくのか……。自分の現状は、あまりにも貧しい。
 「衣食足りて礼節を知る」、「貧すれば鈍する」などの諺 は、どうも現代では通用しない。何事につけても建て前があげつらわれ、本音で居直ることが正直かつ誠実ともてはやされる。大声で先に相手を言い負かした者が正義となる。町には品のない運転をする高級乗用車が溢 れ、公園、イベントでなどは善意の人々の努力を踏みにじる群衆の挙動がしばしば起きている。いつから、こんな下卑た風潮が大手を振って歩き回るようになったのか。まるで守銭奴そのものではないか。どうやら、社会的に規範を指し示す者がなくなり、「罰せられなければなんでもあり」の世になってしまった。マスコミは啓蒙的存在を疎 んじられ、大衆迎合型の悪い意味での商業主義に堕している。表面的には思索することよりも感性のおもむくままに行動することが推奨される傾向に流されている。一方、不透明な時代として「○○論」などの指針を謳 った書籍が氾濫している。人々はそういうことに飢餓感を感じている。最も敏感であるはずの青年はどうなんだろうか。少なくとも目の前の高校生には、なにも飢餓感が感じられない。商業主義のターゲットになりきり、ちゃらちゃらした風俗ばかりが目につく。
 マルチメディアの流行を代表とする情報洪水のなかで、ますます質の高い情報を見極めるのが困難になってきた。玉石混淆 どころか、人を陥 れる悪意の情報までまことしやかに流れる。幅広く流布されているからといって簡単に信用できない。責任ある情報とされるものにもそれらが混入する可能性がないとはいえない。目先の快楽や手っ取り早い効率ばかりに囚 われないようにするしか自衛手段は無い。ゆったりとじっくりと人生の機微を味わうことが今求められているのではなかろうか。
(平成八年六月)


     タイ国の生徒から学んだこと

 二学期の中ごろ、福井県の高校に一年間留学で来日しているタイ国の高校生が、広く日本の高校で学ぶことを目的に、本校へ一週間通学した。礼儀正しく笑顔をたやさない、好感の持てる高校生であった。日本へ来て短期間だが、すでにかなりの会話ができた。日本語を覚えようとするその熱意や努力には感心させられた。授業も真剣に受けた。本校の生徒は純朴なところがあり、彼らとの間にもよいコミュニケーションができた。
 本校では毎年、短期間ではあるが、このように留学生を受け入れている。どの国からやって来る留学生も、やはり選ばれて来たという感じがある。しかし、今度来たタイの高校生には、どこか違いを感じた。ニュージーランドやアメリカ合衆国の生徒とは何かが違うのである。ニュージーランドやアメリカの生徒は良く言えば鷹揚 で、日本文化に広く触れようとする態度があり、一人で電車で見学に行くなど、行動的である。見方を変えれば観光的であるとも言える。タイの高校生の場合は違っており、日本を学ぼう、日本の秀れたものを知ろうという意気込みが感じられ、何か使命感さえ感じたのである。

 国家百年の計を図る時、産業の振興、経済の成長、政治の安定などが必要となるが、何よりも教育の充実がなければ成り立たないことは古今東西の歴史が示すところである。今、東南アジア諸国が目覚ましい勢いで発展していることは周知のところだが、その根底にはやはり教育の充実がある。そして、技術や学問を学びとろうとする姿勢がある。タイの生徒から私は学ぶものが多くあった。

 ところで、我が国の今日の発展、繁栄も、いうまでもなくしっかりとした教育があってのことである。日本は明治以後、新しい学問、技術、文化など、多くのものを欧米から学び、取り入れ、活かしてきた。今、東南アジアの国々が、人々が、真剣に学びとろうとしているように。そして、それらが実を結び、現在の繁栄を築き上げることができた。あらためて教育の重要性を痛感する。
 また、日本にはそれらを受け入れ、実践していく力があった。その力の一つは、日本人の「勤勉」さであった。しかし、戦後の教育、特に最近の教育では、この美点の育成がないがしろにされているのではないだろうか。日本がアジアのリーダーとして信頼され、世界の大国に堂々と対応していくためにはいろいろな課題があると思うが、その一つとして「勤勉」という日本人の美点の継承を図らねばならないと思うのである。

 第十五期中央教育審議会は、「これからの教育は、家庭や学校や地域社会が連携を図り、『ゆとり』の中で、子どもたちに『生きる力』を育む」ことを基本に挙げている。実態はどうだろうか。
 休業土曜日における子ども(高校二年生)の生活の午前の過ごし方は、@「ゆっくり休養」(36.9%)、A部活動(16.8%)、B「テレビ等の視聴」(8.7%)。午後は、@「ゆっくり休養」(22.9%)、A「テレビ等の視聴」(14.6%)、B部活動(14.6%)である。(文部時報八月臨時増刊号による)
 「ゆっくり休養」の中身が気になるところだが、「テレビ等の視聴」と合わせると、大方の推察ができる。「ゆとり」が「生きる力」につながっているかは疑わしい。
 私たちは、生徒が有意義に時を過ごし、それが彼らの活力の基、生きがいの基になるよう、また、「ゆとり」の意味を履 き違えないよう指導したいものだ。そして、教育に携わる者として、「勤勉」さの継承という視点を忘れてはならないと思うのである。
(平成九年二月)


     私 学 の 心

 私学では、来年度の生徒募集も最終段階を迎え、志願者数もほぼ固まりつつある。残念ながら、本校の志願者は前年度に比べ激減という厳しい状況である。志願者減の原因がどこにあるのか、学校運営の年間反省と渉外担当者の反省を合わせて行い、模索している現状である。
 生徒減少は全国的な傾向であり、それは少なくとも平成十五年までは続く見通しである。公立、私立を問わず、生徒が減り続ける。安易な解決策として、公立、私立で協調して、入学定員を減らせばよいという意見がある。個々の学校がそれぞれ定員を減らせば、学校は生き残れるという考え方である。しかし、地域や親・中学生からの評価がさまざまな多くの高校でこれを行うとしたら、さらに学校間の格差は広がる一方である。したがって、この考え方で学校経営を行えば、県平均二〇%程度の減少率が、ある学校では四〇〜五〇%にもなるだろう。つまり、志願者は平均して減少するのではなく、学校により減少の程度が異なるわけである。
 では、どうすれば志願者が増えるのか。施設や設備の充実、広報宣伝活動の拡大、制服の改訂などの外面的な部分だけでは、もはやくい止められないことは明らかである。教育の中身の問題を省いては、学校の評価を得ることは考えられないところへきている。結果としての大学進学率も無視できないが、それだけがすべてではない。「自分の子どもにもあの学校へ行かせたい。」と思うのは、単に自分がいい大学に入れたからではないはずだ。その学校で過ごした三年間が自分にとっていかに価値があったか、いかに充実していたかがあるからである。
 我々教師についても、まさに同じことがいえる。いま、この職場で勤めることがいかに価値があるか、充実しているか。そう思える教師が何人いるかで学校の評価が決まる。つまり、よい学校とは、生徒や親から見てよい学校であると同時に、教師の側から見てもよい学校であらねばならないのだ。
 一例として、先日、高齢の先生と話をしている折、「昔の時代と比べて、親の考え方が全く違う。親を教育することが必要だ。これではやっていられない。」という哀愁とも悲嘆とも取れる言葉が聞かれた。これは、多分に教師側の一方的な感情であり、むしろ親としては「時代の変化もとらえず、三十年前と同じ考え方で教えられたのではたまったもんじゃない。」と苦言も出そうだ。教師としての必要条件は、教員免許を持っていて学校に奉職していることだが、これだけでは十分とはいえない。生徒・保護者・他の教師が本当に認めているかどうかである。よい学校である学校評価のほとんどは教師で決まるといえる。
 教師にも校長以下さまざまな役割がある。しっかりしたリーダーシップを発揮し、学校の将来の方向性を明確に示すことが校長の役割である。この方向性の中から、個々の教員の努力目標を設定あるいは助言することが教頭以下の管理職の役割であるが、これが今まではあまりなされていなかった。「それを見つけだすのが先生でしょう。あなたは一人前の社会人なのだから。」的な発想が教育現場に限っては支配的であった。目標がなくても、毎日の授業は進められる。特に自分たちの評価を高めようという意識が無くても年は過ぎていく。しかしこれからの私学は、これでは職場そのものが消滅する。今日の授業は面白かったかどうか。生徒の能力が高まったかどうか。生徒・保護者が自分たちのことをどう見て、何を期待しているか。これらを基準として自分は何をなすべきかを考える教員集団が必須条件となる。
 個々の教員が努力目標を持つと同時に大切なことは、その成果に対しての正しい評価である。評価というと差をつけることと思われがちであるが、他の教員と比べることではなく、一人の先生として評価を与えるということである。その結果、教科指導・生徒指導等で優秀な成果が上げられれば給与制度に直結させてもよい。高い評価を上げられる教員が他校へ引き抜かれることも今後起こってくる。これもすべて、私学として高い評価を受け、志願者が多く集まる学校にする方策の一つである。自分の学校から、倍の報酬で引き抜かれる人が現れたとき、学校は教員を評価すべきではないといっておれるだろうか。私学ばかりとは限らない。公立からもどんどん良い条件で引き抜きが起こる時代が、やがてやってくるに違いないのである。
(平成九年一月)


     意 地 減 ・ 真 面 目

 新教育課程では、「基礎・基本」、「個性」、「心の豊かさ」等が目標になっている。そして、この教育課程の移行に呼応するかのように、いじめ現象がクローズアップされ、全国的に拡がっていったように思う。
 いじめといっても、国々による「戦争」、先進種族の「人種差別」、地域における「村八分」等いろいろな形がある。戦争、人種差別、村八分は、国中、世界中で、それを無くすよう真剣に努力が積み重ねられているが、子どものいじめについては、マスコミが取り上げることはあっても、結局どこかに責任を転嫁して済ませているように思われる。
 私たちは、社会を急速に発展させて物質的に豊かにすることには成功したが、それに反比例するかのように、いつの間にか心の豊かさを少しずつ削ってきたように思う。そして今、ここに来て「心の問題」が大きな話題となっている。マスコミでは、子ども本人、家庭、学校という形で、いろいろと論議がなされている。特に、学校に対しては、どのような体制で生徒指導が行われ、関係の教師がどのように対応したのかが話題になる。一方、学校でもPTAをまじえた協議や懇談が開かれ、何故いじめが起こったのかという論議が行われている。
 過日、いじめのあった学校の取材記事に、生徒たちが異口同音に『何となく「むかつく」からいじめになる』と言っていたことが載っていた。「頭にくる」のでなく、「むかつく」という表現は、実に当を得ていると思う。頭にくれば、頭の天辺から外へ放出すれば済むが、胸につかえて吐き出せなければ、息苦しくなり、窒息する感じになり、もがきたくもなる。子どもたちは、この心の状態を誰かが気付いて自分たちを救ってくれることを願って、言葉や行動で表しているように思われるのである。
 さて、大人には、心にゆとりを持ってそれらをしっかりと受けとめるだけのものがあるのだろうか?
 大人は子どもを理解するのに、子どもと同じ時期の自分と比較する。ある調査によれば、四十年前の高校生にはT・P・Oを考えて自分の力を臨機応変に発揮できるタイプが六〇%いた。しかしこのタイプは年々急激に減少し、現在では二〇%しかいない。逆に、自分の好みや他からの指示により自分の力を発揮するタイプは、二〇%から二十五年前を境に年々増加し、現在では六〇%にもなっている。この結果は、現在では大人も子どもも自分の考えや気持ちを、決められた場面や決められた形でしか表出できなくなっていることを示している。これでは、自分で考えて動くことはできず、動き方を示されて動くしかない。
 子どもが、もし家庭で心の安定をはかることができなければ、逃げ道はまず学校である。しかし学校も同じなら、そこも逃げ出し、放浪の旅路を辿 るしかない。それこそ、大人が考えなければならない時代になってきているのである。
 今、いろいろな形での「危機管理」が言われているが、指導体制がどんなに整っていても、それは縦の流れであり、理念の流れでしかない。小さな人間への対応には、親と教師間での共通理解を持ち、ゆとりの中で親自身が自分の個性を把握し、自分の力で、自然に子どもに接していく行動力を持つことが根本にあるはずだ。
 大人は、二次的現象の「苛め」、「虐め」を真面目に捉えるだけでなく、一次的な「意地悪 」の心の状態を無くすことをもっと真剣に考えるべきではないだろうか。
(平成九年六月)
[注]意地減  読み方はイジメ。漢字の「意地」と「減 る」の造語。
      「意地」― こころ、意志、心根。自分の思うことを通そうとする心。
        「減 る」― 減 る、少なくなる。衰える。(広辞苑より)


     父 性 愛

   私は、この『道程』を読むたびに、自然の
  父性ともいうべき厳格さを感じ、その強さに
  憧れる。なぜか? 今の世の中は、その逆の
  「真綿で包まれる」かのような母性ばかりを
  求めているように思われてならないからであ
  る。優しさの中だけでしか生きられないよう
  な人間でよいのか?
ただし、人は誰しも弱いものだから、「僕
  から目を離さないで守ることをせよ/常に父
  の気魄を僕に充たせよ」と祈らずにはいられ
  ないのかも知れないが、厳しさを求め、自分
  の道を自らの手で切り開いていく積極的な姿
  勢を持ちたいものである。今、まさに君たち
  は「一人立ち」の準備をしているのである。
   道 程     高村光太郎

僕の前に道はない
僕の後ろに道はできる

ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ

この遠い道程のため
この遠い道程のため


 これは、昨年度私が三年生の担任として、年度当初に配布した学級通信の一部である。自分の進路をしっかりと見つめ、来たるべき受験・就職試験に備えて闘志を燃やし、自己実現を果たすべく努力してほしいとの願いから書いたものである。現在世に蔓延しているのは「母性社会」の風潮である。親は子どもをペットのように扱い、猫可愛がりをする。厳しくしつけていないから、甘えた子ども、自分の気持ちをコントロールできない子どもが急増しているのではないか。
 昔こんな話を聞いたことがある。ある凶悪犯が銀行強盗をし、人質を取って行内に立てこもっている。すでに数人の人を殺している。警察は特別射撃隊の出動を要請。強行突入の準備を進める一方で、両親の説得にあたる。母親はたとえ息子がどんなに卑劣で凶悪な犯罪を重ねていても、警察の説得には応じない。「はい。」と返事ができるのは父親のみであるという話である。母性愛の何と深遠なることか! 広く深く無限なる愛である。命は何よりも尊いもの。その息子を守りたい気持ちは痛いほどよくわかる。ことさらに勇ましさを、また、いたずらに雄々しさを強調するものでは決してないが、「はい。」と答えた父親の心中はいかなるものであろうか。察するにも余りがある。
 母親は子どもを愛で包み、父親は子どもに道徳や法を教える。父性にも愛はある。そして何よりも生命は尊い。しかし、父親の愛とは一つの高みへ導くような愛ではないのか。幼い子どもが転んで足を擦 り剥 いた。大抵の場合、駆け寄る親が「あっ、大丈夫?」と叫ぶことで子どもは泣き始める。子どもは痛いから泣くのではなくて、親に甘えて泣くのである。「もう少し頑張ってみろ! よーし、よくできたな!」少々のことには目をつぶって子どもを鍛え、高みへ引っ張り上げたいものである。
 昨今の日本社会・教育現場には父性愛が欠如しているのではないか。なぜ、「自殺予告」で学校行事が延期され中止されなくてはならないのか。「生命第一」は当然である。しかし、こういった「脅迫」はどんどんエスカレートしていくであろう。ここで私たちは何に気が付かなくてはならないのであろうか。あるイギリス人記者が雑誌の中で、日本の戦後民主主義の欠陥を指摘していた。ある幼稚園の運動会で、ゴール前になって手をつないでゴールをさせる徒競走が存在していること。それを人々が平等だと思ってきたこと。人それぞれには能力差があっていいこと、それぞれの個人差を的確に見ることをせず、何でもかんでもの平等主義、いや、平等主義のはきちがい。そこに大きな間違いがあることを指摘していた。
 正しいことを正しいこととして、主体的に、力強く生きていく人間を育てたい。いろいろな不安と闘いながら、自分の道は自分で切り開いていく、そんな人間を育てたい。父性愛を持って。
(平成八年十一月)


     不 易 流 行

 昭和五十九年に発足した「臨時教育審議会」は、自らの役割をわが国における「第三の教育改革」として位置づけ、その第二次答申で、教育の本質は「不易」と「流行」の両面を統一するものでなくてはならないと芭蕉の言葉を借りて指摘している。「不易」とは、時代を越えて変わらないことである。「流行」とは、時代とともに変化していくものである。なぜ、統一かというと、不易のみに固執すれば、教育は独断・硬直に陥り、流行のみに流されれば、教育は軽佻 浮薄に堕 ちるからである。さらに、教育における「不易」とは何かという点について臨時教育審議会は、「人類文化ならびに日本文化の優れた遺産や伝統の維持・継承である」としている。ここで問題なのは、どんな遺産や伝統を維持・継承するかだと思う。学校教育では、どんな教育内容を取り上げるかということと関わっている。流行とは「はやり」であり、すぐになくなるもの、落ちぶれるものというイメージがつきまとっている。この不易流行という言葉を起点として、社会の変化に伴った個性の重視の問題や、新しい学力観と生徒指導について考えてみたいと思う。
 ここ数年前から、教育の現場においても、また世間一般においても、新しい学力観について語られるようになった。我慢と頑張りで高度成長を遂げた日本社会にあっても、従来の画一的な教育ではもはや太刀打ちできない状況になってきたということである。一流の大学を出れば将来は幸せを約束されているというような時代は終わり、独創性のある人材が必要になってきたということである。換言すれば、偏差値中心の教育では独創性が育ちにくいため、個性を重視した教育が重要となってきたわけである。カリキュラムや教務内規の見直し、新しい学力観に基づく授業の在り方が議論されているが、ここで問題なのは、相も変わらず大学進学を中心と考える風潮があるということである。社会は変わりつつあるが、親の意識が変わっていないという点が大きな問題となる。親の要求を満たさなければならない学校もなかなか変われないということである。本来、学習の在り方が変わらなければならないのに、生徒・親の価値観の多様化と個性化が、学力ではなく生徒指導の側にいびつな形で取り入れられてしまった感がある。これは、個性尊重を口実にして、本来必要な指導を緩めたからではないかと思う。喫煙、深夜徘徊、暴力、窃盗、いじめ等の非行は減らないばかりか、最近は、覚醒剤、援助交際による売春行為も社会問題になってきている。学校の中では時間を守れない生徒が目立つ。五、六分の遅刻は何とも思っていないばかりか、いい加減な理由をつけて三十分以上遅刻しても悪いと思っている様子がない。あいさつや掃除等、自分の身の回りのことができない。人の物は勝手に使う。教科書は持って来ない。ゴミは所かまわず捨てる。化粧や喫煙を平気でする。いい加減な嘘をつく。そして、アルバイトや夜遊びのために疲れて授業中は寝る。これも個性として認めなければならないのか、と嘆くのは自分だけだろうか。基本的な生活習慣を身につけるという意味でのしつけは、一般的にいって家庭での教育に委 ねられるのが自然であるが、欧米諸国と日本の家庭のしつけは、かなり相違がある。日本は、幼児期におけるしつけが甘いのである。先進国が人権や個性重視の教育を行っているのはそうした背景もある。従って、個性重視や人権教育を学校教育の中に推進することは大いに賛成であるが、日本の教育の中にも全く同じ状況で取り入れることは危険である。
 個性重視・人権教育の推進は、家庭や地域と学校の共通理解が必要である。社会にも共通の基礎的な在り方を維持・継承する機能があり、その意味でもやはり、生徒には社会の構成員として最低限のマナーを獲得させなければならない。それは社会生活を維持していくうえで不可欠のものと考える。私的な集団としての傾向を強める現代の家族には、必ずしも全面的には委ね得ない。個人や家庭の選択に委ね得るとするなら、それは直接には他人に迷惑をかけない事柄に関してではないかと思う。このあたりの共通理解を家庭、地域、学校が認識しなければならない。
 いま、生徒たちは病んでいる。愛に飢え、自分がどう行動すればよいか迷っている。また、自分を信用できないから、人も信用できないでいるのではないだろうか。従って、本当にこのような生徒の気持ちを理解した教師の適切な指導・助言が必要である。子どもたちに「生きる力」を身につけさせるためには、人間的な教育を念頭に置いて学習させなければならない。わからないときには基本に戻れというが、「人間を育てる」という原点に戻って考えてみる必要がある。もう一歩進んだ表現をするとしたら、「人のためになる人間」を教育することが二十一世紀に必要ではないかと思う。
(平成九年六月)


     笑えないテレビCM

 最近のテレビCMで腹立たしさを感じさせるものがある。それは、某電力会社のもので、夜間割引料金を使って経済的にお湯を供給できるという電気温水器のCMである。父親が湯から上がり、次に娘に入るように促 し、娘は爽 やかに返事をするものの、浴槽を見つめ、湯ぶねの湯をさっと手の甲でひとなでしてお湯を入れ換えるという構成である。「お湯が経済的に存分に使えますよ」というのがセールスポイントである。三年前の渇水の経験は忘れ去られたようである。
 ところで私はこの点に腹立たしさを感じるのではない。あのCMでの娘の態度、しぐさに腹立たしさを感じるのである。
 近年「抗菌グッズ」なるものが日用品の中にも多くあり、それが若者を中心として受け入れられている。若い人たちは異常なほど「汚れ」に敏感になっているようだ。自身の体臭や汗の匂いを過剰に気にするのもその表れである。テレビCMに登場する娘さんも、「お父さんの入った後なんてとても入れないわ」と言わんばかりにお湯を入れ換える。では、これがお母さんや兄弟の後だったら、このCMは成り立つであろうか。きっとそれでは娘ごころが表現できないのであろう。思春期の娘が持つ父親に対する一種独特の感情を上手 く描いているといえばそれまでだが、それにしても、なぜあのように父親を惨 めに描かなくてはならないのだろうか。制作者側はきっと、父親を惨めに描くことの方が「受ける」し、ユーモラスだと考えているのであろう。
 このCMに限らず、父親の惨めさをCMの落ちに使っているものは他にもある。余った電話回線の買い取りのCMにしても、その落ちは「うちのお父さんも引き取ってくれない」であり、他にも、「……しないとお父さんのようになってしまうよ」と母親が小学生の息子に向かって諭 しているCMもあった。
 世の中の父親がすべて立派で威厳があるとは思っていないし、すべての母親が母性にあふれ、良妻賢母(こう言うと女性を型にはめていると非難されるであろう)とは思えない。それぞれ人として持ち味があり、また役割があり、男でも主婦(夫)としての力量がある人もいれば、女でも社会の中、組織の中で立派に活躍する人もいる。男(父親)だから、女(母親)だからという枠の中だけで、これがあるべき姿だと固定して考えるつもりはない。しかし、それにしても、父親を惨めに描くことをCMのコンセプトとはしてほしくない。テレビの公共性、電波の公共性というものを、CM制作会社は自覚してほしいし、また、そのCMを承諾した電力会社も、配慮に欠けたという点を反省してほしい。

 人の惨めさや劣等感をあえて際 だたせることで笑いを取る手段がある。我々もついお調子にのると、自分自身が優位な立場にいると思い込んでか、相手を貶 めて、何か気の利いたことでも言ったような思いになることがある。こんな構図があのCMに感じられる。「いじめ」の構図によく似ている。
 マスメディア抜きにして今の生活は考えられないという現実にあって、その中で、知らず知らずのうちに我々の中に、「いじめ」の構図が染 み込んでいるとは言えないだろうか。情報の受け手として我々は、ただ「面白い」ということだけに価値を置いて、無批判にすべてを受け入れているのではないか。かつてテレビの普及に対して「一億総白痴化」と言った有名な評論家がいたが、あらためてその言葉を、情報化時代に生きる自分たちに対する箴言 としたい。
(平成九年二月)


     豊かな時代の進路指導

 いま何が問題か。一番感じるのは、学校の価値観、生徒の発想、多様な保護者の要求が、それぞれバラバラに違っていることである。それに加えて、新カリキュラムの目指す方向、社会(企業・マスコミ等)からの要請もある。
 日本が経済的、技術的に、欧米に比べて劣っていた時代、非常に乱暴な言い方であるが、社会のかなりの部分での志向が上昇・発展という言葉で説明できた。人々は、学問や技術を身に付け、社会に奉仕できる有為な人材となることを目指していたと言える。その結果として、たとえば学歴志向が生まれ、高校や大学の進学率上昇が起こった。学校はそうした時代の要請を受けて、効果的な学習・進学体制を整えていった。それは、集団としての生徒の指導であり、易きに流れがちな生徒への強い指導であった。
 近年よく耳にする言葉に「多様な生徒の個性に対応する教育」がある。これは新カリキュラムにも謳 われているように、経済的な豊かさの中でこれまでになかった価値観を認めていく余裕が日本の社会全体に生まれた結果であるが、同時に、企業等の発想として、個性的な発想のできる人材が社会の発展を促すという考え方に基づく。
 また、「人間性尊重」ということもいっそう重視されるようになった。経済的豊かさを達成する過程で生起した諸問題(いじめ、没個性等)に対する反省から精神的豊かさが求められ、その一つの側面として人間性が強調されているのである。優しさ、人権、エコロジー、これらはかなりの部分、知識人やマスコミ等の主導であるが、重視されていることは確かであろう。
 そのような状況の中、生徒や保護者、地域はどうか。最も現実生活に密着しているこれらの人々はというと、まさに多様な価値観の中にいる。建て前としての現代的な人間性志向を受け入れつつも、本音では、上昇志向の表れである学歴志向も強く持ち合わせている。同時に、経済的豊かさの結果、以前には見られなかった楽観的な考え方も起こっている。例えば、進路の問題では、親子ともに就職に不熱心であることがしばしばである。今の世の中なら何か生活の術はあるだろう。だったらなにも苦労などしなくてもよいのではないか、等々。
 この生徒、保護者、地域の要請が、直接に学校教育、進路指導の現場に両論併記のままで投げかけられる。これに加え、前述の新カリキュラム、社会、企業等の要請もある。学校は生徒の個性に応じた教育をすると同時に、これらの多様な価値観に応えうる体制を作ることに腐心しているのである。ただし、それが十分に可能なことかと言われると、非常に悲観的にならざるを得ない。学習効果を上げるためには、全員を補習に出席させるのがいいことは明らかであるし、基本的事項は暗記させることでしか次のステップに進むことはできない。進学実績の向上を図るために、自ずと効率的な「集団としての指導」が重視される。しかし一方で、時代の変化の影響か、進学実績だけで高校選びが行われる訳でなく、指導の緩やかな学校に人気が集まる現実もある。このような多様な要求を満たすべく、常に学校、進路指導は工夫を行っていると言える。
 それにしても、このような状況の中から社会に出ていく生徒たちは、どんな社会を作っていくのだろうか。もしも現在の教育方針が誤りであり、ただ規律を身につけず、建設的志向を持たない生徒を社会に送り出し続けているだけであれば、将来、社会の秩序の崩壊、国際的競争力の低下という結果を招くこととなる。これはとりもなおさず経済的な豊かさの喪失を意味する。その時には精神的な豊かさを言う余裕はないかもしれない。現在、戦後教育の功罪が問われているが、その時もまた、教育の責任が問われることになるのだろう。
(平成八年二月)


     三十年目の一年担任

 教師になって二年目(今から三十年前)に、初めて中学一年生の担任となった。何も分からずに生徒手帳に書かれた規則に従い、「あれはだめ」、「これはやってはいけません」と言いながら、生徒を一つの方向に進めようとし、時には生徒にバカにされ、それに対していかにも自分がすべてのように思い憤怒し、学校全体の流れも分からぬくせに若い教師二人で酒を呑 みながら学校談義をし、「悪戦苦闘しているのは学校の中で自分たち二人だけ」と心に決めてクラスを経営していた。
 「教育」というお題目を唱えながら、子どもたちが自分と同じ人間であり、自分よりもこれからの可能性があることを知らずに、走り回っていた。
 ただ、年齢的に生徒に一番近く、若い仲間的な感覚で同化できたことが助けになり、生徒がついてきたのではないかと、今は思い返している。
 三十年経 った現在、彼らの子どもが高校一年生として目の前に現れた。
 今は当時のような若さはないし、生徒が同化することもない。三十年間の経験しか頼るものがない。ある意味では寂しい気もするが、もっと高い次元の何かをと彼らのために考えると、それは「彼らに自分の可能性の基盤を作らせ、拡げさせること」になる。
 時代の変化の中で何が残り、何が育ち、当時と何が変わっているかを考え、今もって残っているものが何か、その継承はどうするか、などと考えながら、次代の教育に思いを巡らす昨今である。


 現在、学校運営の中心となっているのは四十代の教師である。彼らの高校時代は、戦後四半世紀を経て新しい教育への転換期を迎え、大学紛争が波及し、高校紛争が続いた日々であった。
 当時の高校生は、自らの健康も顧みずに生徒のために苦慮し翻弄されている教師に対して、自分のイデオロギーだけで安易に反発し、仲間には分かっているようなふりで迎合し、学ぼうとする仲間は置き去りにした。こういう混乱した状況の中で高校時代を過ごした世代に、学校運営の中心として、互いの立場を理解した上での連携や、将来の展望を考えての実践を強 いるのは、むしろ酷なことだと思う。私たちはそのことも考えずに管理体制だけを無反省に維持しようとしている。これではますます混乱し、萎縮し、自らの考えに固執するしかなく、「豊かな心」、「ゆとりある学校運営」などできるはずもない。ただ「個の教育」を履 き違えた形でしか表現できなくなっていく。彼らが新しい教育の方向を見つけ出し、新しい学校運営を実践するためには、私たちの世代が身を持って、安心して実践できる場や考え方を示すことが第一と思っている。



 先日、夜半過ぎに名古屋の繁華街を歩いているとき、十人近くの高校生らしい男女の集団を見かけた。
 二人の女の子が、年上のヤンキー風の男に「遊んでよ」と声をかけたが、見向きもされない。そこで、仲間の男の子が「じゃあ、俺が○○子と、あいつが△△子と付き合う」と言うと、その女の子は「初めてだから、だめ」と答えていた。これが今の十代の若者、特に女の子の実態なのかと、内心びっくりして通り過ぎた。
 道すがら、こういう子どもたちを育てている親は私たちが教えた世代である、将来この子どもたちが親になったとき、その子どもたちはどんな考えを持ち、どんな行動をするのだろうか、と考えた。私たちの過去の過ちが、三十年近く経った現在、一つの形となって現れていることを痛感した。ゆがんでしまった方向を少しでも修正することが、今の私たちに与えられた課題だと思う。
(平成九年十一月)


     教 師 の 結 束

 二学期末に保護者会を行った。保護者会は、日頃、家庭でどのような躾 や教育がなされているかを具体的に聞くことができる機会であり、積極的に質問をしてみた。
 しかし、多くの親は自分の子どもに手を焼いているという状況にあり、返ってくる答の中には、なかば投げやりなものもあった。特に問題を持つ生徒の家庭では、子どもの考えていることがわからない、理解できないという答が多く、中には子どもの教育に対する関心の薄さを隠さない保護者もあった。
 家庭の教育力の充実・回復が叫ばれるようになって久しい。それなのに、なぜこのような家庭が増えてしまったのか。

 いじめ、不登校、入試制度など、多くの教育問題が山積している現在、これらの問題に対して各界から多くの意見、提言が出されている。
 先頃経済団体連合会から出された「創造的な人材育成のための『五つの提言、七つのアクション』」の中にも、
 1 教育にかかわる規制緩和を進める。
 2 教育機関の多様化・個性化を進め、多くの峰を持つ教育体系を構築する。
 3 複眼的評価の大学入試を行う。
 4 思考力と体験を重視しつつ、ゆとりある学校教育を行う。
 5 家庭の教育力を回復する。
というように、非常に多くの内容が盛り込まれている。
 ここに見られるような画一的な教育から個性を重視する欧米型の教育への移行は、現代の多様な価値観を重視する傾向から生まれてきたものであろう。だが、今までの日本の教育を一言で「画一的」と片づけることには問題がありはしないか、また、「個性を尊重する」あまり、それがかえって混乱の原因になってはいないか、と懸 念する。
 前述の『五つの提言』の中の傍線部のことばだけを拾っても、一つの方向が見えてくる。乱暴な言い方をすると、「規制緩和と、多様化・個性化を進め、複眼的な評価をし、ゆとりある教育をする」ということになる。だが、それはいったいどういうものなのか。また、提言の最後に「家庭の教育力の回復」を唱えているが、いろいろな意見が交錯 する中で、肝心かなめの家庭が方向性を見失ってはいないだろうか。「子どもの考えていることが、わからない、理解できない」、「自分の将来なのだから自分で考えなさい」というのは、親自身が子どもの教育に対して自信を持てていないあらわれのように感ずるのである。学校と家庭が、子どもに対して、何を、どこまで教えるのかということを、もう一度じっくりと考え直し、両者が話し合う機会がぜひ必要である。
 他にも、公的な審議会をはじめ、多くのところから教育に関する提言が出されている。しかし残念ながら、いずれも学校現場のなまの意見が十分に反映されているとは言い難いように思う。一部の教育評論家や学者、マスコミの批判に対して萎縮するのではなく、教育現場の前線にいる私たち教師自身が、さらに結束し、今後の教育のありようについて提言を行い、行動していく姿勢を強く出すべきであると考える。

 古いものの中には、変えなければならないものがある一方で、必ず、残していかなければならないものがあるはずである。この点を教壇から強く発言していかない限り、現状の教育の問題は解決しないと思うのである。
(平成九年二月)


     神 は 死 ん だ

 奥三河の山あいに佇 む神社に立ち寄ったときのことである。本殿の傍らにはお地蔵様をまつる小さな祠 があり、その隅に素焼きの人形が隠れるように置かれていた。幼子を背負い、優しい微笑みを浮かべる母親の姿をしたこの人形には、背に若い数字と女の子の名前が書かれていた。夕暮れ迫る鎮守の森で、私の目には静かに祈る母親の姿が浮かんだ。そして、今でもこのような信仰心が、若い母親に残っていることに胸を打たれた。
 過去に人は、夜の闇に怯 え、大水に襲われては悲嘆に暮れ、風邪をひいては死に、自然の猛威の前にただ祈るしかなかった。そして、それを時に運命と諦 め、時に自分たちの力を超越した目に見えない何か別の存在を信じた。自然との対話を忘れなかった日本人も、身近な草木や石にさえも生命を感じ、この世の生きとし生けるものすべてに心を開き、感謝と祈りを捧げた。
 しかし、近頃の若者を見ていると、こうした心に大きな変化を告げる時がやって来たように思えてならない。自分を世界の中心に据え、周囲とは無関係に自由奔放な振る舞いをし、他人は自分にとってただ迷惑な存在としか認識しなくなってしまった。
 この要因はさまざまあろうが、少なからず我々の心に潜在する科学万能主義も一因ではないだろうか。昨今のめざましい科学の発達は、病から幾多の人々を救い、自然のメカニズムを解き明かし、災害に対処する術を教えた。それはまた、人々を恐怖に陥れた幾多の自然現象が決して人を超越した存在によって引き起こされるものではないことも明らかにした。それを知った人類は、この地球で唯一絶対の存在であるかのように、他のすべてのものを跪 かせても平然としていられるようになってしまった。
 現代の若者たちの行動も、こうした時代の潮流と無関係とはいいきれないだろう。しかし、彼らは何の疑問や迷いもなく、孤高の生活を楽しんでいるのだろうか。傲慢な言動や周囲への思いやりの欠如の裏側には、他人に指示されなければ何もできない自分がそこにあり、常に集団に同化していなければ不安を覚え、真の友情が形成できないために凍りつくような孤独に苛 まれ、地獄と称せられる受験競争に日々怯 え、そこから逃避する自分の姿に自己嫌悪を抱く。こうした側面も持ち合わせてはいないだろうか。実はこのような自己矛盾の中にこそ若者たちは生きており、進むべき道を求めて、それを示唆してくれるであろう大人たちへ、悲痛な叫びをあげているのではないだろうか。
 それに対する答えも一様ではないはずである。しかし、数値という尺度でのみ価値を判断してきたこれまでの風潮を改め、思いやりや謙虚さといった周囲への配慮こそが大切なのだということは気づかせてやらなければならないだろう。そのためには、過去のヨーロッパにおいてキリスト教から人々の心を解放しようとした動きとは対極的に、何もかもが混然一体となった曖昧な宗教心しか持たない多くの日本人に、人間には越えることができない何かがあるといった自覚を促さなければならない時が来たのではないか。ただあえて断っておくが、意図するところに、宗教を通して短絡的にこの世界の成立を説明してしまうつもりはないし、いたずらに超越的な存在を持ち出して、人間をそして自分自身を矮 小化させる狙いはないのだが。
(平成十年三月)






  第四章 親の姿勢、子の姿勢








     雑  念

 「本来、学校は意図的教育機能を持ち、家庭は親の行動を模倣し成長していく無意識的教育機能を持っていたが、今の家庭はどうなったかというと、『下宿化』したし、『心の庭』である『家』がなくなるとともに会話と笑いが失われ、親も子もストレスがたまっている状況にある。そして家庭こそが生涯教育の原点であるという大前提が忘れられているところに大きな問題がある。」(お茶の水大 森隆夫教授)との言がある。
 「ああ子育て戦争」は、著者(豊田短大 矢崎藍教授)自身の子育て奮戦記を社会に訴えかけたものであるけれども、子育ての気苦労や難しさに対する普遍性が読みとれて共感した記憶がある。
 人の親として、子どもを育てることに苦しみ悩むことは多い。それは、親が未成熟だから子育てに苦しむということではなさそうである。子どもを測る価値尺度が単一的になってきてはいないか、そのことが余計に困難さを増しているような気がしてならない。
 一方、子どもが親を求めていることは事実であり真実である。少なくとも子どもの幼少時においてはそうである。しかし、思春期にある子どもたちは次第に親と一緒に行動しなくなり、同世代の友人たちとの交わりを求めていくようになる。親離れのスタートである。この時期に親はある種の寂しさを体験することになる。親としては子離れの時期であり、親として、人間として、自立が問われる時でもある。心理的にはすっきりしないものが残るけれども、親の態度いかんによって子どもの「巣立ち・自立」の仕方が決定されると考えられるだけに、この時期は大切である。
心理的に距離を置くこの時期は、人間関係も疎遠になりがちである。親子といえども、この時期に親の期待する関係を築いていくことは概して難しいし、即効的な妙案はない。特別な妙案はないけれども、彼らの話に耳を傾けることは可能である。ただし、他人の話に耳を傾けるということは、簡単なようで簡単ではない。自らを変えていく精神的な作業が必要であり、「受容」と「共感」の質、量が問われることになるからである。
 いずれにしても子どもたちは、先人から教えられることを自分なりに問いただしていくことによって価値観を形成していくのであり、それをどう支えていくのかということが私たちの課題だと考えている。
 また、子育てはやり直しがきかない親の務めである。だから「親業」という言葉も生まれてくる。世の中の変化するテンポがはやいと、その変化した環境から生じる価値観のギャップが世代間の軋轢 になり、生き方について悩むのである。そして長じた世代者は、概して自信をなくしてしまいがちになる。物言えば唇寒しの生活が続く。ストレス社会の構図だろうか。
 社会問題となっている「いじめ」も、子どものストレスの一種なのか。「いじめ」の問題が報道されると、いつも真っ先に学校の対処の仕方が適切であったかどうかが問われている。ここで学校側の不手際が非難されて終わるのが大半のマスコミのストーリーである。しかし、今様の「いじめ」を考えてみると、学校の管理や教師の不手際、手落ちだけに帰結すべき問題ではないと思っている。「いじめ」の核心は友人関係が主なものであるから、友達に無視されたり意地悪されたりという人間関係の不調である。この人間関係の不調は、友達ばかりでなく両親からも無視されて、温かい人間関係が家庭の中にも欠けていることが多いと聞く。
 福岡大学の西園先生によると、「友達に無視される前に、両親に包み込まれて育ったとはいえない場合が少なくないのである。今日の家族共同体の崩壊が、子どもの自負心と協調性の発達を著しく阻害しているのである。仲間の中で自己主張を避けてしまう。そのような気弱さは、集団の不条理さの標的にされてしまう」という。
 豊かな時代の子育ては、今までになかった難しさを伴うことも事実であり、我慢することの少ない生活からは、耐えていく力量も育ちにくい。お金や物に頼ったり置き換えたりせずに、生きる自信に繋 がっていくものを培 っていくことの必要性を痛感しているこの頃である。
 ふと、定時制に通う大工さんが名古屋大学理学部に合格したというこの春の新聞記事を思い出した。「中学の成績は1ばかり」であったという。人生はもっと柔軟に生きていくべきだと感じた。
(平成八年六月)


     人生半分 ― 子へのかかわり ―

 人は四十歳にもなると、確実に体力の衰えを感じるようになる。しわや白髪が増え、歯も衰える。日常の生活の中でも、秋風のような肌にしみる人生の黄昏 をいたるところで感じる。避けられない宿命である。
 ただ、人の親として考えなければならないのは、そのあとに現れることである。体が衰えるとともに様々なことが自分の思うようにならなくなって、思わず「ためいき」がでてくる。その「ためいき」を子どもは聞いている。活発に行動する高校生には特にそれが不快に聞こえる。
 いわば子どもが親に老醜を感じはじめる第一段階がこの「ためいき」である。その次は、「愚痴」がでてくる。さらに身だしなみがどこか崩れてくる。気のつかないところで、何かが抜けているような生活態度になる。……そして、ふとそれに気づくたびに、「ああ、年をとったものだ」という。
 こういったことが、逞 しい青春の日々を迎えている子どもにとっては、どうにも鼻持ちがならない「老醜」と感じられる。なにかにつけ思うように動けなくなった親は、気持ちが落ち着かず、つい不平を口にするようになる。その不平を耳にした子どもは、ひそかに、「頼りないオヤジだな、あんなふうになりたくないな」などと思うに違いない。老醜への批判である。
 その批判が、いつのまにか親に対する軽蔑と憐憫 の気持ちへと変わっていく。子どもは成長すると、自然に親の自由にはならなくなる。それは、子どもが大人の世界に入った兆候ともいえよう。ところが、大きくなった子どもをいつまでも幼い時代の自分の自由になった子どもと同じように思い、親の威光や経済力や親の恩をひけらかすことがある。これも、一つの老醜なのである。例えば、ことごとに「お前を育ててやったのだ」、「親の恩を知れ」、「親孝行をしろ」などと平気で口にする。……子どもたちは、そういわれればしかたなしに「はいはい」と答えるだけである。中には、反発をあらわにする子どももいるかもしれない。
 そんなとき、子どもはいつも思うだろう。「いやな年寄りになったな。これではつきあいきれないや」と。そして子どもの心は、親から離れていく。もともと、親と子の間の「恩」は、一方的なものではないはずである。親は、そのことをよく考える必要があると思う。
 子どもがかわいいから懸命に働き、苦労を苦労とも思わずに努力して育てるのが親である。そして、人生の黄昏にたどりついて一息つくことができたとき、気がついたら子どもは立派な青年に成長していた、というのが本当だろう。決して「お前を育ててやった」のではない。
 自分たち夫婦に、もし子どもが生まれていなかったら、どんなに淋しかったことだろう。子どもがいてくれたおかげで、本当に苦労のしがいがあった。とても楽しかった。……そう思うことができれば、「親の恩を知れ」などという言葉は出てこないはずである。「お前たちがいたので、私たち夫婦は、生きがいを感じることができたよ。」それこそ、親の幸せというものであろう。
 どんなに学問や地位や名誉を誇ろうと、どんなにお金を持っていようと、人間は老醜から逃れることができない。老醜は、その人が、年齢に応じた人生の経験と、その上での思慮深い姿勢を忘れたときに、現れてくる。
 「昔はよかった。この頃はつまらない」とか、「昔からこういうことに決まっているのに」とか、「そんなことは、前例がないからだめだ」というように、自分の固定観念をむき出しにして同じことを繰り返し、時代の推移と流れに素直な目を向けようとしない姿勢はやはり老醜の一つである。
 親たるものは、四十歳を過ぎたら、どこかに一点でもよいから、子どもが尊敬できるような毅 然としたところを持ちたいものである。それは老醜から逃れて、五十歳や六十歳を過ぎても、若々しい生き生きとした人生を送るための秘訣でもある。それには、心を奪われて楽しくてしかたのない仕事とか趣味とかを持つことである。それが、その人の人柄を魅力的にし、いつまでも精彩のある親としての姿を保たせてくれるのである。その上で、常に若い人たちの声を快く聞き入れて、なお慎み深く確信を持って、自分自身の考えや意見を述べる親でありたいものである。
 心広く若い人たちと語り合い、理解し合える親こそ、次代を担 う若い人たちにとって貴重な存在なのである。……いくつになっても子どもに心から信頼され、必要に応じてアドバイスを要求されるような、すばらしい親になりたいものである。
(平成八年二月)


     学校給食と学校週五日制

 平成四年六月二十四日付、中日新聞夕刊は、埼玉県庄和町教育委員会が打ち出した学校給食廃止問題について、二面にわたり賛成、反対の論拠を報じていた。
 同町の教育長は、経費節減が主たる理由ではないと説明しつつ、廃止の理由は教育的意義、学校運営、家庭教育のあり方の三点から考えたものであることを力説し、特に家庭教育については、「……最後に、何よりも家庭の教育力の復活を願っています。今は何でも学校にという風潮だが、人間の基本である食生活は本来家庭の役割、弁当を作ることで、言葉だけじゃなくて、目には見えない親の愛情を感じとることができるのじゃないでしょうか」と強調している。
 同町助役も、「……画一的教育が見直されているんだから、給食だって同じ」と、教育長を応援している。
 これに対してPTAは猛反対である。同町のある小学校のPTA会長は、町の方針に賛成しているのは一人だけ、と反発している。
 「廃止の理由がないわよ。弁当は作ろうと思えばできる家庭は多いけど、いろいろの事情でできない家庭はどうするの。ローンを抱えて母親も働きに出ざるを得ない状況のこともまったく分かっていないのね。庶民と役人の感覚のずれと無責任さにあきれます」と、PTA会長女史の反発の言。
 給食費は一食二一〇円。弁当の場合、「一食平均五〇〇円としたら、子ども三人で二万円以上の負担増。それだけではすまない。隣の子がメロンを持ってきたら『ぼくも』というふうになるし、冬にスイカなんかだったらいい迷惑。朝だって今でさえバタバタなのに」とは、一母親の言。経費の面では、一食あたり全国平均で約二〇〇円。食費は保護者負担で、小学校の場合一か月約三三〇〇円、給食施設と調理設備は自治体負担で、三〜五割が国庫からの補助である。
 九割以上の保護者が反対していることを承知の上で、「大変なことはよく分かる。しかし、家庭における食生活を見直すきっかけにもなる。即席のみそ汁しか食べていない子もいる。三十分早く起きて親子の心がつながることの方が、よっぽど大事ではないか」と、同町教育長の反論の弁である。その他、全国学校給食を考える会の会長、「学校給食の創造と人間性」の著者の某大学助教授などの主張を載せ、ワイド版の特報として紹介していた。

 学校給食の日本における起源は、明治二十二年に山形県の鶴岡町で、仏教各宗協同協会が設けた貧民学校において、貧困児童に昼食を給したことに始まる。また、学校給食が児童を中心とする教育問題として社会的関心をもたれ始めたのは大正十二年の関東大震災の頃からであり、文部省が予算措置を講じて学校給食の奨励に乗り出したのは昭和七年からである。太平洋戦争開始前には、給食を受ける児童は二一五万人までに達していた。
 昭和二十九年、学校教育法、昭和三十一年、夜間課程を置く高等学校における学校給食に関する法律、昭和三十二年、盲学校、ろう学校及び養護学校の幼稚部及び高等部における学校給食に関する法律がそれぞれ制定され、それらの法律に基づいて、児童・生徒の心身の健全な発達と国民の食生活の改善に寄与するという見地から、それぞれの普及充実が図られ、現在に至っている。
 長い歴史を持ち、その間、児童・生徒の心身の健全な発達を目指す学校教育に多大な貢献をしてきた学校給食について、その動機が何であれ、廃止を打ち出した庄和町教育委員会の決定は、ある種の英断と言えなくもない。同時に、それを受けた保護者の困惑も想像できる。両者にはそれぞれの言い分があり、それぞれに理がある。反対論にいかに対処し同町の教育委員会の方針を浸透させていくか、行政の手腕を期待したい。
 現在、日本の教育は学校週五日制に伴う条件整備のために大童 である。我々も日夜悩み腐心している。学校五日制は、「家庭・地域二日制」ということであり、家庭や地域社会が本来持っている教育機能を回復し、高める契機となることを期待するという趣旨である。これが、結局はたてまえに過ぎなかったということに終わらせないためにも、庄和町の行政の手腕を注視したい。
 同町の騒動は、学校週五日制で揺れる日本の教育界のミニチュア版なのである。
(平成四年六月)


     愛 ― 有縁 ― 恩

 上縁は、縁を生かす。(柳生家家訓)

 年の瀬の京都は、ことのほか趣がある。すすはらいの寺の、この日ばかりは観光客も作業の邪魔にならぬよう気をつかう。そんな風情にひかれて毎年京都を訪ねることにしている。自家用車ではなく、バスと徒歩に、このときは決めている。歩く旅はなかなかいい。小回りのきくそれには、思わぬ出会いがある。今回は、洛東の、六波羅蜜寺、蓮華王院、智積院、清水寺を巡るつもりで出かけた。
 清水寺は参拝客が多いので、なるべく早朝がいい。五条坂でバスを降り、いつもは通らぬ大谷本廟を経る道では、古く、新しく、おびただしい墓標に感動したが、ふと小さな赤い文字で、「親鸞上人お荼毘 所」の表示が目にとまった。寺へ続く道を逸 れ、矢印に導かれて、墓石の迷路をいくつも抜け、奥まった場所に、コンクリートの屋根で覆 った碑があった。杉の落ち葉が少し散乱していた。訪れる人も殆 どいない。東西両本願寺で、末寺二万、門信徒二千万余の大教団のゆかりの地がこんなものかと、いぶかしく思う。
 合掌していると親鸞の声が聞こえた。「念仏を喜ぶ人とともに親鸞あり」と。
 そうでした。親鸞の最後の言葉は、「それがし 閉眼せば 加茂川に入れて うをに あたふ べし」でありました。親鸞の終焉の地に足を運ぶことができ、親鸞とともにあることのいい知れぬ感動がこみあげてきた。
 まことに得難きは縁、ありがたさに涙こぼるる思いであった。
 感動なき人生は不幸であろう。若者もそれぞれの縁を大切に、いたずらに人生を拗 ねることなく、明るく見つめ、感動多きことを、望まずにはいられない。


 父に慈恩あり、母に悲恩あり、
 父母の恩、重きこと天の極まり無きが如し (父母恩重経)

 暁烏敏 氏だったと思うが、「母を思うと、底が抜ける」と言っている。いかに、自分は、偉い人間だと思っても、いくら金持ちでも、世間に尊敬されようと、母のことを思い出した途端、あたかも天空の底が抜けたようになってしまう。そんな意味であろうと思う。
 吉川英治氏が幼き頃、大勢の兄弟で貧しく、年の瀬にも、すき焼きなど食べられない年が続いた。ある年、母は、子どもたちに、「今年は、すき焼きを食べさせてあげるからね」と約束した。夜になってすき焼きが始まった。兄弟たちは、先を争ってすき焼きを食べだしたが、吉川少年は、「僕たちは食べているのに、お母さんはなぜ食べにこないのだろう」と不審に思い、食べるのをやめて、ひとり、トイレにたつようなふりをしながら、母を探しに行った。やがて、暗い、味噌部屋の隅にうずくまるように座っている母を見つけ、気づかれないようにじっと母を見た。母は、塩を掌 にのせて、嘗 めていたのである。「ああ、これが母の夕食なのか」。これが母である。この母の、無言の態度が後の吉川文学を育 んだのだろう。氏は晩年、「私は、結局、母を描きたかったのです」と語っている。

 授業の持ち時間より生徒指導に費やすそれの方が多い、そんな時期に勤務していた高校のN校長先生のことばが、今でも新鮮に蘇 る。
 度重なる問題行動に、その生徒の保護者の方を学校にお呼びした。たまたま、立派に着飾った母親が、見事な車でお越しになった。校長先生は、母親に、「お母さん、お子さんに毎日、温かい朝食を食べさせておられますか。そして、きちんと洗濯した下着を着せて学校へ送り出しておられますか。」と問われた。くだんの母親は一言もなかった。
 後日家庭訪問した際、母親が私に、「あのとき校長先生に言われたことを実行しております。」と恥ずかしそうに打ち明けられた。校長先生にお話ししたところ、それ以上の恥ずかしそうな顔をされた。
(平成九年二月)


     親と子の対話について

 今は昔と違って一家族に子どもが二、三人と少なく、とても大切にされている。今の子どもは「うるさい」、「メシ」、「金」、「皆がやっている」をやたらと連発する。特に「皆がやっている」と言い出したときは、はっきりと「家には家のやり方がある」、「許可しない」と言うべきである。理由は言わなくてもよい。理由を言うと、言葉じりをつかまえて反抗する。「理由はない」、「大人になればわかる」の一言でよい。けじめをつけさせるべきである。

 子どものよくない行為を見つけたときは、頭ごなしにどなりつけるのではなく、冷静に言って聞かせることが必要である。高校生ともなれば、本人は悪いことをしたという自覚があるはずだ。少なくとも、どなりつけるよりは良い結果が得られるはずである。また、子どもが変な服装をするようになったら、一度きつく叱ることが必要。くどくど言うと、かえって逆効果になる。

 コミュニケーションを、と考える親の気持ちは大切だが、うるさすぎては子どもがリラックスできない。時には、子どもの言葉にウソやごまかしがあっても、それで子どものあらゆる面に疑いの眼を向けないこと。子どもだって親に知られたくないこともあれば、見栄を張りたいときもある。他人を傷つけるような悪質なものであれば、「ほんとかな」ぐらい言っておく。そうすれば子どもも、「ばれたかな」と反省することができる。信頼関係もこわれないだろう。そして、親子がリラックスをする夕食の後などに、ゆっくり子どもの話を聞いてみることが大切である。こちらに受け入れるやさしさがあれば、子どももありのままの気持ちを話すようになってくれる。

 母親をいたわる父親、父親を信頼する母親の姿があれば、子どもは自然に思いやりのある子に育つ。
 最近の社会では、親の方に自分の子を育てるための強い責任感、規律が十分に浸透していないように思われる。戦後の民主主義教育を受けた人たちはよく自由と平等を口にするが、これらには責任と規律が伴っていることを忘れている場合が多いのではないだろうか。家族のことを互いに考えるよりはまず個人、自分を優先させる、そういう家族のあり方に問題があるのではないか。
 社会で役に立つ子に育てる家庭教育を行うためには、「ダメ親」でないことが絶対条件であろう。自分の子が先生に叱られるとすぐに学校へどなりこむ親、虚栄心が強く他人の中傷ばかりする親。「ダメ親」の典型である。要は、親が自信を持ち、距離をおいて子どもをよく見極め、対話を深めることが大切である。しつけは厳しくし、良いことは繰り返し、習慣化させる。まず家庭で一人前の人間として生きるために必要な心の持ち方、習慣をつけることが大切である。要するにしつけは、親が子どもに対して行う最低の責任行為であると思うのである。
 ここでは、親としての義務、親として果たす役割を述べてみたが、一方、子どもは身の回りの大人、親や先生をどのように見ているのだろうか。少なくとも子どもは、まわりの大人、例えば親や先生の模倣をすることによって、自分を大人と同一視しようとしている。
 「仕事で疲れて帰ってくるのだから、家庭ではのんびりしたい」というのは人情であろう。しかし、それでは子どもに「勉強をせよ」とは言いにくい。子どもにやる気を出させようと思えば、親自身も、家庭でのやるべき仕事に積極的に取り組む姿勢を示すことが何よりも大切ではないだろうか。子どもは見ていないようで、きちんと見ている。親、先生の姿を見て、勉強にも遊びにも積極的に取り組み、やる気を出すのである。
 何事にも夢中になる。一生懸命やる子どもに育てようと思うならば、お母さんもお父さんも、夢中になることである。一生懸命やる姿を子に示すことである。
(平成七年十一月)


     親 の 信 頼

 先日、H地区のPTA地区懇談会があった。まずPTA会長と校長からあいさつがあり、出席者の自己紹介の後、教員から学校の現況を説明した。さて懇談に入ろうというときである。新入生の母親から、「学年別に分かれてやってもらえませんか」という発言があった。
 「うちの子はいじめられて、もう学校へは行きたくないと言っているんで、学年で話し合いがしたいんですが……」という。
 私は、これはまずいなと感じて、
 「学年別に分かれて話をするより、上の学年の親御さんもお見えになるので、経験に基づいてお話しをしてもらう方がいいのではないでしょうか」と言って、会を進めてもらった。その母親は、「子どもが学校で嫌がらせを受けて、もうやめたいと言って、このところ学校へ行っていない。先生にも言ったが何にもならない」という趣旨の話をした。
 これに対して三年生の母親から、
 「実はうちの子も二年前はそうでした。先輩から殴られたり、同級生から嫌がらせを受けていじめられ、もうやめたいと、泣いていました。でも今は、すっかりたくましくなって、元気で行っています。今の高校へ行ってよかったと言っています。Sさんも今は苦しいかもしれないけれども、頑張って学校を続けさせてください。やめたら何にもなりません。」
 「先生が親身になってやってくれますし、学校を信頼されてはどうですか。」
 「うちの子は本当は弱いのに、目立つ髪型にして強い子にいじめられました。先生にも迷惑をかけましたが、今は落ち着いています。そういう時期だったのかなあと思います。先生を信頼して、(学校へ行くよう)励ましてやってはどうですか」などなど……。
 さらに、
 「この高校はだんだん良くなってきたという評判です。うちの子が受験したときには希望者が少なく不安でしたが、来年受験する妹は、友達にもここに決めたっていう子がいるよ、と言っています。」という発言があった。
 この間教師は発言せず、じっと母親や父親のやりとりを聞いていた。これほど活発な懇談会になるとは思っていなかった。冒頭の母親の発言からは、「なぜ学校はもっと厳しくしないのか」、あるいは「学校は冷たいじゃないか。もっと親身になってほしい」というような話になって、校長以下教師は対応に大童 になるのではないかと覚悟した。ところがである。二、三年生の親の発言は学校に対して好意的なものばかりであった。一部の保護者ではあるが、これほど信頼してもらえているとは思っていなかった。
 ここ数年、PTAの活動は活発である。保護者会、地区懇談会はもちろんであるが、研修旅行や研修会、そして「環境美化活動(クリーンキャンペーン)」と称して校内の草刈り、通学路の草刈り、校舎のペンキ塗り、トイレの清掃などを、役員だけでなく、多くの保護者が参加して実施している。タバコで汚れ、壊されたトイレの清掃には少々の抵抗があったものの、「自分たちの子どもがやったことだから」との役員会での話で始められた。今年で五年目になる。生徒会にも働きかけて、PTAと生徒会の共催で保護者と生徒に呼びかけるようになった。問題行動を起こした生徒の親も参加してくれる。このように、生徒を介して親とかかわるだけでなく、直接親と教師が接する機会を積極的に増やしてきた。親と教師の距離は、上級学年に進むにつれて縮まってきているとの実感はあったのである。
 いじめや暴力行為は一年生に多い。アンテナを高くして、少しでも兆候があればすぐに動くようにしてきた。親と密接に連絡を取りながら、背景を探りつつ、問題の根本的解決を目指してきた。人間関係を結べるように、社会生活ができるように生徒の成長を促すにはどうしたらよいかを、保護者と共に考えるようにしてきた。そのような姿勢が、保護者にも生徒にも、少しずつ認められてきているのではないかと思っている。
 ここ数年私たち教員がやってきたことは、少なくともこの場にいる親たちに対しては間違っていなかったのだと感じた。その親にしても、子どもが一年生の頃に学校へ来てもらったときは険しい顔だった。ここまで信頼してもらえて率直に嬉しかった。一年から三年へと、子どもだけでなく、親も成長するんだなと思った。それならきっと教師も成長しているに違いない。
(平成八年六月)


     オ ー プ ン な 学 校

 「学校と家庭の連携を取り生徒(児童)をよりよい方に導こう……」という言葉をよく耳にするが、実際には学校は、何を、どんなふうにして、どんな機会を利用して家庭に連絡していたり、知ってもらおうとしているのだろうか。また、逆に、家庭からはどんなルートで学校に情報が入っているのだろうか。

 私には小学校に通う子どもが二人、幼稚園に通う子どもが一人いる。幼稚園では、「幼稚園便り」が学期に数回発行されている。小学校では、「学年便り」だけでなく、担任により発行回数の差はあるものの、「クラス通信」が必ずある。中でもJという先生は、ほぼ毎日、年間で二五〇ページにわたるものを出された。年度末にはそれらを製本して一人一人に渡すサービスまでしてもらえた。その内容は、学校の行事の案内、児童の作品の紹介、担任の意見等様々で、子どもが学校でどのような生活をしているかが子どもの話以上に分かることも数多くあった。おかげで、たとえ納得できないことがあった時でも、担任の考えや学校の方針はかなり理解できたように思う。
 このようなきめ細かいことはサービスなのか義務なのか私には分からないが、子どもを預ける親としてはずいぶんありがたいものである。クラス通信以外でも、授業参観や運動会などの行事は、自分の子どもの成長の過程が分かったり、学習環境、先生の人柄、先生が生徒をどのように掌握しているのかが、断片的にではあるが分かるよい機会であったように思う。

 では、高等学校ではどうか。学校で何があるのかを家庭にどのように伝えているのだろうか。
 現在、高校で学校のことを知らせる手段は、学校の広報誌、PTAの広報誌、生徒会誌、各種行事のお知らせぐらいで、担任や学年から発行されるものはほとんどないのではないか。また、来校してもらう機会は、入学者オリエンテーション、PTA総会、保護者会、ごくまれに体育祭や文化祭といったものしかないのではないだろうか。小中学校は義務教育で高校とは違うという意見もあろう。しかし、九〇%を超える進学率の中、学力はある程度均質であっても、高校もさまざまな考え方の生徒や保護者を抱えている。それならば、これまで以上に多くの理解を得るための努力を学校が払わなければいけない時代になっているのではないだろうか。
 その手段としては、やはりクラス通信や学年通信のような配布物が頭に浮かぶ。しかし、これは場合によっては大きな労力が必要で、教員はかなりの負担を強 いられてしまう。また、担任や学年団の独りよがりの考えを書き連ねるものになってしまう危険もある。
 それならば、保護者が学校に来やすい雰囲気を作ったり、PTA総会や保護者会の前の授業をオープンにするなどして、学校での生徒たちの活動を保護者に直接見てもらう機会を作ってはどうだろうか。また、特別な機会でなくとも、希望すれば一定の手続きのもとでいつでも校内参観ができるようにならないものだろうか。これには教員の抵抗感や、不審人物の侵入対策といった問題もある。私自身も普段通りの授業が果たして理解してもらえるのか自信はない。けれども、授業を見せることは、普段から一生懸命授業に取り組んでいるはずの我々にとっては、クラス通信などに比べて決して負担増にはならないと思う。しかも、授業をオープンにすることで、保護者は自分たちの子どもが通っている学校の実情を知り、真面目な生徒が嫌な思いをしている様子や、上辺だけ良いことをいいながらその実何もしていない教員の実態を知ると思う。また、生徒の口から流れる「自分にだけ都合のいい情報」が誤っていたことも分かり、より近いところでの学校と保護者との本当の連携が図れるのではないかと思うのである。
(平成八年二月)


     生徒の家庭についての思い出

 現在の勤務校では、生徒の通学区域が広いということもあり、何か特別なことでもない限り生徒の家を訪問するということはないが、前任校では、担任したクラスの生徒全員の家を訪問するということがよくあった。その時の思い出に残っていることと、オリエンテーション合宿から帰校した時の思い出話を、以下に紹介したい。

〈第一話〉
 夏休み中のこと。汗を拭き拭き、生徒の家庭を一軒一軒訪問した。各家庭の玄関先や農家の庭先で、生徒やご両親に、「勉強は進んでる?」、「今○○君、何をやっていますか?」と尋ねたり、あるいは、休み前に渡した毎日の記録表を持って来させて、アドバイスをしたり、注意したり、励ましたりするのである。ご両親の中には、「どうぞ子どもの部屋を見てやってください。」という人たちもおられて、家に上がらせていただき、勉強部屋の状態についてアドバイスを求められる時もある。その中の一軒で、次のような家庭があった。
 玄関へお母さんがニコニコして出てこられ、応接間へ通されたあと、子ども(生徒)を呼びに行かれた。すると、生徒本人をはじめ、お父さんも、弟も妹も……家族全員が集まってきて、私に挨拶をしてくれるのだ。家族団欒 の中で、ふと気づけば、一時間も長居をしてしまっていた。さてもう一軒行こうと、次の生徒宅へ向かう途上、妙に清々 しい気持ちだったことを思い出す。

〈第二話〉
 これもまた家庭訪問をした時のことである。訪問する日時をはっきり伝えていなかったためもあって、私がその家庭を訪れた時、たまたまお父さんもお母さんも外出中で、お婆さんが出てこられた。訪問の意を告げると、「これはこれは、先生様、ご苦労様です。」と言われ、すぐに私を畳の部屋に上げてくださった。そして、孫(女子生徒)を呼びに行き、二人で戻ってくると、私の目の前で、その孫にお抹茶を立てさせたのである。
 私は畳の上に正座をして、生徒の立ててくれたお抹茶をいただきながら二人と話をしてきたわけだが、実にきちんとした家庭だなあと感じた。それまで何軒もの生徒宅を訪問したが、このような経験は初めてのことだったので、この時のことは大変よく覚えている。

〈第三話〉
 これは家庭訪問の時のことではない。前任校では、新入生に対してオリエンテーション合宿という行事が行われていた。長野県にある乗鞍青年の家という施設を利用しての二泊三日の行事である。そのオリエンテーション合宿も終わって、みんな揃 って無事に学校へ帰ってきた時のことである。
 先生たちの疲れた顔とは対照的に、生徒たちの元気のよい逞 しい顔、顔……。全員が学校の運動場に集まり、先生たちからの最後の注意、そして学校長からの話があって、解散。生徒たちは、三々五々帰宅していく。なかには、学校まで子どもを出迎えに来られる保護者もあるのだが、その中の一人のお母さんが、運動場に立っている私のところへ生徒と一緒に来て、「先生、どうもありがとうございました」と言われたのである。
 かつて生徒の人数も少なかった学校では、修学旅行から帰った時などこのような風景がよく見られたのであろうが、今ではほとんどなくなってしまったような気がする。別に教師が偉いわけではないが、親のこのような姿勢を見て育つ子どもは幸せだなあと思った次第である。
(平成八年六月)


     「いじめ」事件について考えること

 平成五年一月十三日山形県新庄市立明倫中学校にて、同中一年児玉有平君(十三)が「いじめ」にあい死亡した事件があったことは記憶に新しい。このことが最初に報道された時は、「何か不慮の事態で最悪の結末となったんだろう」と考えていた。ところが、一月十九日付けの毎日新聞にはその背景が次のように書かれていた。

  逮捕、補導された七人は、事件の後、互いの家に集まり、他の場所に行っていたとするアリバイ工作を相談、警察の調べに口裏を合わせることもきめていた。新庄署は十四日から、当時体育館にいた生徒約五十人を順次呼び出して事情を聴いた。しかし、ほとんどの生徒が「知らない。見ていない」と非協力的だったという。いじめになぜマットが使われたかについて、同中生徒たちの間で、体育用マットを使った「土管」と呼ばれる遊びがはやっていたことを指摘する声もある。用具室にロール状に巻いて立ててあるマットの中央部の空間に両足から入り、自力で床に倒れ、イモ虫のように動くのを周りの生徒がはやしたてるというもの。有平君はこの「土管」遊びをエスカレートしたいじめに遭ったとみられるが、逆立ち状態で押し込んだ点など、かなりの悪質ぶりで、新庄署はいじめの心理構造に踏み込んで七人を調べる方針だ。

 このような人を人とも思わない陰鬱ないじめや残虐な事件が、日増しに増えているように思えてならない。たしかに昔から「いじめ」はあったが、もっと明るくあっけらかんとしたものであった。私も小学校時代、クラスにボスなる存在がいてよくいじめられた。彼は、自分の思うようにいかない時や気晴らしで、殴ったり箒 で叩いたりした。しかし、しつこいわけではなく、他校生に囲まれた時には逆に助けてくれたりもした。このような存在は、恐くもあったが頼もしくも思えたものである。だが、最近のいじめは、これらと全く異質といってよい。
 先の山形県の事件は、他人に対する思いやりの心、友達・仲間と仲良くやっていく協調性などの、人間らしい徳目が失われてしまった現代を象徴する出来事であるように思えてしかたがない。今の親の年代は団塊の世代と呼ばれ、競争の激しい時代を過ごしてきた。自然を大切にする心、自分自身をじっくりふりかえる気持ち、そのような「ゆとり」を持たず、企業戦士と呼ばれるほどがむしゃらに仕事に打ち込んできた。家庭を二の次とし、子どもを母親まかせにする「父親」が多すぎた。そんな中で子どもたちは育ってきたのである。こうした家庭に十分な教育力が存在しないのは当然である。我々自身も、父親として、母親として、おおいに反省しなければならない。すべての基盤は家庭にある。家庭がしっかりしていてこそ、子どもたちは自らの「生きがい」を求めることができるのである。
 育て方の方針にも問題はある。自分の価値観である「競争に勝つ」ことを子どもに押し付け、やれ何点だの塾だのと子どもの自由を奪っている親は少なくない。子どもはもっとおおらかに育てる方がよい。明るいうちは子どもどうし戸外で遊ばせ、自然を学び、仲間を知り、豊かな心を育てたい。勉強や競争を学ぶのはその後からでも遅くはないのである。
 これまで述べてきたように、最近の事件の背景には、少なからず家庭の問題が存在するように思う。では、我々は、それぞれの家庭をどのように変えていけばよいのか。
 父親は家庭における最後の砦 である。子どもに対して、すべきこと、してはならないことを教える立場にある。時には易しく諭 し、ときには厳しく、子どもをもっともっと見守ってやることが大切ではなかろうか。母親は、自分の価値観を子どもに押し付けないよう心がけたい。母親が本来持っている包み込むような温かさ、鷹揚 さをもって接してほしい。そのような、昔の親たちが持っていた良さを、我々も取り戻す必要があるのではなかろうか。
(平成五年二月)


母 源 病

 不登校気味の生徒をクラスにもって三か月が過ぎた。動きははやかったつもりである。新学年が始まって二日目に早速欠席した彼の家に家庭訪問。名うての学校批判家である母親との関係を良好にしていくためにも、まずこちらの誠意を感じてもらわねばならない。そう考えて、以後も欠席が続くたびに家庭訪問を繰り返した。
 彼の場合は、いわゆる心因性の登校拒否ではない。朝、腹痛を訴えることもないではないが、どちらかといえば「怠学」である。
 母親の話によれば、中学時から野球がやりたくてしかたがなかった彼は、家からほど近く、かつ野球部のある本校を選んだ。しかし、坊主頭の強制と「オーッス」という野蛮なあいさつ、先輩との上下関係が嫌で、半年もたたぬうちに退部。以後、学校に行く目標を見失ったという。また、頭髪や服装などの厳しすぎる校則、何もしていない本人を目の敵のように叱る教師の存在が登校の意欲をそいでいる。どうしてこんないい子が高校の先生ごときにいじめられねばならないのか、という意味のことも言った。母親の話は、彼が学校へ行かないのは彼自身に問題があるのではなく学校のせいなのだというところから一歩も退かなかった。
 努めて客観的に記せば、彼の学校での実像は母親の話とは大きく食い違う。母親の話を聞いているときに唖然とすることもたびたびであった。課題を提出しない。呼び出しに応じない。変形ズボンをはじめとする服装の乱れ。たび重なる遅刻、無断欠席。入学早々からの暴力行為。そして、昨年冬には、「ガンをつけた」という理由で同じ学年の男子生徒の顔面をなぐり怪我を負わせている。(陸上部の投てき専門の顧問が何度もやり投げの選手としてスカウトするほど彼の腕っぷしは強い。)
 他にも目につくところは数知れない。当然教師の注意を受けることも頻繁である。しかし彼は、自分の都合のいいように事実をデフォルメして母親に伝えている。そして母親は、(彼の言葉にまったく疑いを抱いていないわけではなかろうが、少なくとも学校に対しては)学校の非を鳴らし続けている。横着なひな鳥が攻撃を受けると母鳥のふところに飛び込み、母鳥は翼でわが子を被い、そのくちばしで敵を迎え討つ構図である。
 いま少し例を挙げる。三度めの家庭訪問まで、そのいずれも訪問時に本人は不在であった。実は中学時の友人宅に毎日夜まで寄っているためであったが、その時母親は「私が頼んでちょっとお使いにやっています。」「親戚の家にものを届けさせています。」と偽った。六月にはその中学時の友人とパチンコ店に入るところを指導部職員に見つかり指導を受けたが、母親は「友達を捜しにいっただけなのよねぇ、○○ちゃん。」と弁解するのであった。

 彼の不登校や問題行動は、彼をかばう母親の温かな翼と無関係であろうか。その因果関係を明確に説明する力を持たないが、実感として、彼の症状は、深く母親の育て方にも由来するような気がしてならない。先月出版された曾野綾子著「二十一世紀への手紙」によれば、不登校の子どもの家庭はどこも優しく、家庭の中に、重大な病気、貧困、暴力、無法、別離、などが、多くの場合ないのが特徴だということだ。そして理解ある親たちは何でも話し合いで解決しようとし、わがままの許されるその家庭は、子どもにとってはまるで母親の子宮にいるときのように温かく居心地のよい場所だ、ともある。案の定、彼の家庭にあてはまる部分は多い。母親は、子どもにつらい体験を積ませ苦労をさせることがかわいそうで見ていられないのである。いみじくも昨年度までの指導部長は彼の母親を「まだ出産が済んでいない」と評した。親の子離れが、いかに子どもの成長に大切なものか、まざまざと見せつけられた事例だと考えている。
数々の曲折を経て彼は立ち直った、そんな結末でこの小文を結びたいところだが、残念ながら問題の彼の不登校の症状はいまだ一進一退を続けている。ただし、母親の口からはだんだん学校を非難する言葉が消え、最近ではほとんど聞かれなくなった。その口から学校への感謝と協力の言葉が聞かれるようになったときが彼が立ち直る日なのかもしれない。その日が来るのを信じて、粘り強く母親と接触していこうと思う。
(平成四年七月)


     子 ど も 会 雑 感

 先日自宅近くの本屋で立ち読みをしていたところ、一人の中学生ぐらいの男の子が近付いてきた。いきなり、「変な子に追われているんです。しばらく側にいていいですか。」と訴えてきた。何か怯 えた様子なので、あれと思い、よく顔を見ると隣の町内のソフトボールチームにいた子である。突然のことで状況を呑 み込めないまま「いいよ」と言って入り口付近に目をやると、異様な格好をした五人ほどの少年たちが店内の様子を窺 いながら入ってきた。その子を見つけたらしく遠巻きに近づいてきて、こちらを見るとはなしに視線を向けてくる。書棚をはさんで取り囲まれるような形になり、内心やばいなと思いつつも、隣にいる子を守らなければという気持ちで自らを奮い立たせ、いかにも平然と相手の出方を窺っていた。そのうち一人の子が近づいてきたので、「何か用?」と尋ねたら、「別に」と言って離れていった。それを契機に一所へ集まり、もう一度こちらに一瞥 をくれ外へ出ていった。ほっとして事情を尋ねたところ、塾の帰りに追いかけられたとの事であった。私が町内のソフトボールの監督をしているので顔を覚えていたらしい。少し心配だったので、自転車が置いてある場所まで付いていって、先ほどのグループが辺りにいないかを確認し、見送った。彼は安心したらしく、礼を言って急いで自転車をこいでいった。
 今回、たまたま私が三年前から子ども会のソフトボールチームの監督をしていたことから、一人の少年を、おおげさではあるが救いえたわけである。それまでは子ども会のお手伝いなど、忙しいということで知らん顔をしていたのだが、三年続けたおかげで、町内のみならず隣の町まで顔ができていたのである。今では朝の登校途中や公園などで出会うと、子どもたちが元気に挨拶してくれる。教員の多忙さから、土、日がつぶれることのよくある子ども会などは敬遠しがちになるが、そのうち自分の子どもも世話になるという思いで、意を決して引き受けたわけである。学校で培 ったものを地域でというような仰々しい考えではないが、来るべき学校週五日制を考慮すると、部活動指導での経験を生かした地域への奉仕もまんざらではないと実感した。
 子ども会の役員は五、六年生の母親で成り立っている。活動が土、日に限定されているとはいうものの、年間を通じての父親の参加は現状では難しいのだ。女性ばかりの所帯の舵 取りは簡単ではないようで、ああだこうだの愚痴が近所の噂として耳に届くことも少なくない。ほとんどの人が役員を終えるとほっとし、もう二度とやりたくないと言うそうである。
 最初に監督を引き受けた年にこんなことがあった。
 四月に役員の人たちがわが家まで監督の依頼にみえた。その時の話では、ソフトボールチームに関しては私の思い通りにしていいとのことであった。五月から練習が始まり、平日の夕方は役員、土、日は不都合な日を除いて私が面倒をみることになった。練習は順調に進み、選手登録をする段になり、私は学年に関係なく最強のメンバーを選んだ。それまで一度も勝ったことがないということだったので、何としても一回戦を突破しようと練習を積んできた。そんな経緯もあり、私としては当然の思いでメンバーを選んだ。ところが数日後、役員がわが家を訪れ、六年生を全員レギュラーにしてくれと頼んできたのである。どこかの親から去年までとは違うとクレームがついたらしい。変な平等主義を許してはいけないと思い、練習の過程で子どもたちにしてきた話や私なりの方針を説明し、最終的にはいろんな不満に対しての責任は私がとるということで何とか納得してもらった。(とはいうものの、やや不満げに帰っていかれた。)後で聞いたことだが、役員が私のところへ来る前に、この件についてかなり侃々諤々 があったそうである。
 試合当日、一回戦は緊迫した試合となった。補欠の六年生を出場させる余裕はなかったが、ベンチは盛り上がり、その応援も必死であった。幸運にも勝ちを拾った瞬間は、グラウンドの選手だけでなくベンチ内も大騒ぎであった。出場できなかった子どもたちも、試合に参加しているという実感を持てたのではないかと思う。試合が終わってから、「今日はベンチの応援が一番よかった」と子どもたちに言えたのは、我ながら上出来であった。二回戦の相手は強く、点差が開いたところで六年生の控えを出場させた。結果的には六年生を全員出場させることができ、少しは親たちの不満も解消したと思われる。だが、もし負けていたら、町八分になっていたかもしれない。
 子どもたちの人間関係のひずみが心配されている現在、地域で子どもを見つめていく目としての父親の参加が増えていけば、子どもの成長にとってより好ましい状況が生まれるのではないかと思う。お父さんの出番である。
(平成八年二月)


     近ごろの親子関係に思う

 早いもので、自分も人の親となって九年目を迎えようとしている。妻も教員で、わが家は典型的な共働きのライフスタイルである。長男、次男の子育てで、保育園にまる八年お世話になってきたことになる。
 自分の印象では、かつての保育園児の姿は、冬でも靴下をはかないなど身なりを構わず、おまけにしょっちゅう鼻をたらして公園などを走り回るという、誰の目から見ても「こぎたない」というものであった。ところが、最近の保育園の子どもたちはずいぶん「こぎれい」になった。保育園に着てくる服も可愛らしく、ブランド品も珍しくない。それはそれで子どもにとって悪くないことであり、「保育園の子どもは、なんとなくダサイ」というイメージを少しは解消してきたのかもしれない。しかし、自分の感性が古いのかもしれないが、どうも「こぎれい」な子どもは「子どもらしくない」と思ってしまうのである。生まれた年代の違いなのであろうか。
 着るものだけではない。最近では小さな子どもでも、大人顔負けのパーマや、ムースで整えたヘアースタイルの子がいる。耳にピアスをした子どもも見かけるようになった。ちまたには子どものファッション雑誌が出回り、名古屋には子どものDCブランドのブティックなどがいくつかあると聞く。子どもも大人と同様に、ファッションの追求ができるようになってきたのである。最近の「少子化」の傾向とも相まって、「少なく産んでお金もかけて、手厚く育てるのがトレンディ」という風潮も、それに拍車をかけているのかもしれない。
 ところで、最近のテレビの子ども向け番組を見ると、かつての子ども番組に見られたものとは笑いの感覚が変化し、大人が見てもおもしろいという内容のものが多くなっているように思う。だが、今小学校などで流行している『クレヨンしんちゃん』の「やればー」、「みさえー!」など、大人を小馬鹿にしたり、呼び捨てにしたりというのを聞くと、おもしろいというよりむしろ不快感をもってしまうのは自分だけであろうか。
 カラオケブームも、子どもとは無関係ではない。マスコミによく取り上げられる「ヤンママ」を特集した番組などを見ると、深夜のカラオケボックスには、まだ歩くこともおぼつかないような子どもも、両親のお楽しみに「おつき合い」というような光景が見られる。
 最近は、大人、子どもの区別なくファミコンを楽しんだり、子どもも平気で夜更かしをしているようだ。文化や生活面において、大人と子どもの区別がなくなり、もはや子どもらしさ、大人らしさの境目が見えにくくなってきている。
 その中で、親子関係にはどんな変化があらわれているのか。最近は、「親子関係」というより「友達関係」になっているのではないだろうか。子どもを一人の人格として尊重するのは結構なことだが、まだ精神的にも能力的にも未熟な子どもに、大人と対等なつきあいを求め、自分が子どもを育てる立場にあることを忘れてしまっているのではと思ってしまうことさえある。さらにつけ加えるならば、このような「親子関係」のもとで、「しつけ」や「礼儀作法」などを子どもたちは身につけているのか。「これはこれ、あれはあれ」的な考えでは心配でならない。子どもはやがて小学校や中学校へと進む。そして、集団の中で個人の力を発揮していかなくてはならない。その際に子どもたちが抱える問題や課題などに、親として毅 然とした態度で臨むことが、今の親にできるのだろうか。たとえ態度はとれたとしても、子どもが「拒否反応」を示さずにそれを受け入れるのだろうか。
 現在子どもたちは、幼い頃から親の手を離れ、スイミングスクールや勉強塾などに通っている(通わされているのかもしれないが)。習い事が悪いというのではない。しかし、「できなければ → 外注」というような図式はどうかと思うのである。少なくとも家庭で教えられることは家庭で教えるべきだ。そうすることで、「親子関係」も自然と深まっていくのではないだろうか。ともあれ、このような「親子関係」の中で育った子どもたちにこれから接していかなくてはならない。自分の持つ心配が、的を外れていることを願いたいものである。
(平成七年二月)


     長野五輪の感動を胸に

 長野五輪が終わった。期間中私は家族と共にテレビの前に釘付けになっていた。仕事のある日は、帰宅後、五輪番組やスポーツニュースを繰り返し見る。同じ映像を何回か見ないと落ち着かない。すっかり躍動感あふれる競技のとりこになっていた。スポーツはさながら人生のようだ。勝負には、日頃からの血の滲 むような努力と、それを発揮できるか否かを振り分ける集中力、そして、人間の力では及びもつかない「運」によって構成されるという。努力した者にはすべて栄冠を与えてやりたいが、それはどだい無理な話である。一見、現実の人生とは無関係に思えるスポーツに、私は人生の不合理を感じ、そして熱中していた。
 今回のオリンピックで私が最も注目していたのは、ジャンプ競技の原田雅彦選手だった。大会前のインタビューでは、「もしメダルを取れたら妻と抱き合って大泣きするでしょう。辛い時代を支えてくれたから。」と語っていたのが印象に残った。おそらく四年前のリレハンメル大会での失敗が脳裏に蘇 り、チクチクと胸をさすのだろう。悔しさを隠して冗談を言い続けてきたのか。人の生き方が一様でないことを改めて感じさせられた。得意のノーマルヒルでは不調。メダルを逃し、私は漠然とした不安を感じた。このまま不調に終わり、原田は悲劇の選手として人々の脳裏に記憶されるのではないかと。しかし、ラージヒルでは銅メダルを獲得、その時出た言葉は、「やったよ、パパは、本当に」と家族に呼びかける言葉だった。子どもたちに誇れる父親でありたい、妻の献身に報いたい、と願う思いが表現されたものだと感じた。家族の絆の上に築かれた努力に、私は強く心ひかれた。
 また、今回の五輪選手にはドラマが際だっていた。父を失い、母の支えで厳しい練習を重ねていた清水・里谷の両選手。とりわけ、厳しいコーチである父を失ってから、自らのスポーツに対する姿勢を確立していった清水選手に注目したい。父の通夜の晩にも泣きながらランニングをしていたという逸話には、胸を打たれる。五百bスピードスケートで獲得した金メダルを母の首にかける姿は、長年身を粉にして働き続け、自分を支えてくれた母に対する感謝を表していた。見つめ合い、喜び合った後、「これはお前のメダルだよ」と息子の首にメダルをかけ直す姿は、多くの人の感動を誘った。過去には遠征費が作れなかったこともあり、母は経済的に豊かでないことで、息子に対して済まない思いを抱いた時期もあったという。土管運びなどの力仕事で必死に働く母の姿は、清水選手にその支えに報いる決意を芽生えさせたのだと思う。生前、入院中の父を見舞うと、「そんな時間があるのならトレーニングしろ」と叱責を受けた彼だが、素直に父の真意をおもんぱかることができたのも、それをとりなす母がいたからだと思う。子どもが挫 けそうになった時、それを支える親の厚情の有無が、子どもの心の成長に大きな差を生むのではないかと考える。今回の清水選手の金メダルは、家族の支えに応 えた本人の不断の努力の成果と言える。また、五百bでの金メダルと千bでの銅メダルの表彰を受けた清水選手が、「清水宏保という人間が、メダルに引けを取らない価値を持つような生き方をしていきたい」と発言した。モラトリアムという言葉が使われ出してから久しく、本当の意味で成人する時期が問われる今、このような重みのある言葉を聞くことができ、私は非常に感銘を受けた。

 私はこのオリンピックを通じて、今日の日本社会が見失いかけている「家族の絆」を再発見し、それが子どもの成長に欠くべからざるものであることを再確認した。原田選手は、夫から妻、親から子への熱い思いを見せてくれた。清水選手は、親子が双方の思いに応え合って頑張る姿を見せてくれた。両人とも、運動選手としてだけでなく、社会人としても、おそらく申し分のない人物ではないかと思う。学校が、教師が、孤軍奮闘しても、家庭教育という基礎がなければ人格の形成は難しい。社会は、地域は、そして学校は、「家族の絆」をベースとして子どもたちの教育に取り組んでいかねばならないことを強く感じさせられた。
(平成十年三月)


     子の気持ち、親の気持ち

 少し古い話になるが、私が教師になった頃、こんなことがあった。
 ある店から、お宅の生徒が万引きをしたので引き取ってほしいと電話があった。私を含め職員二名がその店に出向き、謝罪した上でその生徒を引き取った。
 学校で生徒から事情を聞き、強く反省を促した。そして、保護者に学校に来ていただき、状況を説明した上で家庭に引き取っていただくことにした。また、保護者には、その店に謝罪の一言を言っていただくようにもお願いした。
 しかし、問題は、このあとに起こった。
 実は、学校からの帰途、その親子は店に出向いて、謝るどころか店の方に食ってかかったのである。「やったことは悪いが、なぜ学校に連絡をするのか」とひどい剣幕であったということを、後日、その店の主人から聞かされた。
 本末転倒というか、生徒を指導していて、なぜか悲しい思いが残った出来事である。子を思う親の気持ちはわからないわけではないが、やはり親として怒り、叱る相手を間違えているとしか考えられない出来事であった。

 一方でまた、これとはまったく対照的な親子があった。
 朝、私が出勤すると、ある生徒の父親が、私に話があるということで来校しておられた。
 「実は昨日、うちの娘が万引きをしたと店の方から連絡があった。昨日一晩、親として、子どもを叱り、諭したつもりである。人間として許せない行為をしたのであり、今日以降の数日はきちんと家で反省させたいと思う。子どもにはそのように言い聞かせたつもりなのだが、私の知らないうちに登校してしまった。今から家に引き取りたい」とのことであった。父親の真剣な思いを受け、すぐその生徒を呼び出して、簡単に昨日の状況を聞いたあと、帰すことにしたのである。
 親であるなら自分の子どもがかわいいのは当然である。ましてや、学校や世間に自分の子どもの不始末が知られることなど、親としては絶対したくないことであろう。しかし、それでも善悪の区別が分からない子どもには、親は責任を持って教える義務がある。それをこの父親はしただけのことだともいえる。だが、そういう親がこの世の中に多いかどうかということになると、どうも自信を持って多いとは言えなくなってきているように感じる。

 子どもたちを教え、育てることは、学校と家庭とが協力・理解した上で初めて成り立つものだ。それは今も昔も変わらない。そして今後は、さらにそれが重要になってくるはずである。子の気持ち、親の気持ちを理解しつつ、子どもたちを教え、育てていきたいと考えている。
(平成九年六月)






  第五章 生徒たちの実像








     我が国における「中学校卒業程度認定試験」の活用について

 文部省は、第十五期中教審の答申を踏まえ、この三月に、「いじめ」と「登校拒否」などの事情により中学校に通学できなかった生徒も就学義務猶予免除者と同じ十五歳で「中学校卒業程度認定試験」を受験できるようにするため、学校教育法施行規則を一部改正した。
 受験資格の拡大について異論を唱えるものではないが、一年前の答申の中で不登校生徒を対象にして「中学校卒業程度認定試験」の活用の提唱がなされたとき、不登校生徒と関わりの深い定時制高校に勤務しながら感じたことを以下に述べてみたい。  (平成九年五月)

 かつて教育委員会で生徒指導を担当し、中途退学の効果的な防止策を模索しながら悩んでいたとき、全日制のいわゆる指導困難校の教頭から次のような話を聞いたことがあった。
 「私は、最近、アルファベットが書けなかったり、分数の計算ができない高校生を見ても驚かなくなりました。平仮名や片仮名さえもまともに書けない高校生もいるのです。そのような生徒にどうしてこんなに学力がないのかと聞いたところ、『俺らはシオミザカ(潮見坂?)中学の出身だから』と、わるびれることもなく答えたのです。私は初めて聞く学校名なので、どこにある中学校かと尋ねたところ、『俺らが学校へ行くと校門の所で先生が待っていて、よう来た、よう来たと言いながら車に乗せて海の見える所まで連れていってくれ、授業の終わるころに学校に戻ってきた。先生は変わりばんこやったけど。』と答えたのです。潮見坂中学の命名には内心感心しましたが、この生徒たちの中学校時代のことを考え、暗澹 たる思いがしました。私の学校ではこのような生徒を抱えながら頑張っている現状を理解してほしいのです。」
 その後、私は定時制高校の勤務となり、この教頭の気持ちがよく理解できた。私がたまたま、最初に顔と名前を覚えたM君は、日本語が不確かで過去形と未来形の区別さえできなかったのだ……
 前の文部省審議官であり、現在の国立教育研究所長である菱村幸彦氏は五月十一日付け日本教育新聞の中で、米国のホームスクール(家庭学校)と英国のエヂュケーションアザワイズ(他の方法による教育)の制度を紹介したあと、答申の中の「登校拒否の子どものためのバイパスとして、就学義務猶予免除者を対象とした中学校卒業程度認定試験などを有効に活用したりすることも検討されてよい」の文言を引用し、現行の義務教育の考え方に大きな転換をもたらす施策として注目する必要があると述べている。そして、いずれ日本でも公認を求める動きが高まることを予測している。
 また、中央教育審議会の第一小委員会の座長である河野重男氏は五月十三日付け週刊教育資料の中で、「中学校卒業程度認定試験を有効に活用すると提唱した。これは義務教育の終了を保障しようというもので、子どもたちをさらに試験で縛ろうという意味ではありません。」と述べている。

 私の学校では、例えば、この春の県立定時制高校入試の最高の倍率である一・九一倍をクリヤした昼間定時制の生徒を取り上げてみると、中学校時代に不登校生徒(中学校第三学年時の欠席日数が五十日を超える者)で学習成績がオール1の生徒が半数を超えている。年間二〇〇日以上の不登校をした生徒も二桁に昇るので、各中学校長(今春の入学者一五九人の出身中学校数は一二三校)は学習成績と出席日数に関係なく卒業を認めているようである。
 不登校生徒は相対的に無気力な者が多いのだが、このような生徒が果たして中学校卒業程度認定試験を受験するのだろうか。仮に受験するとして、何人が合格するだろうか(この認定試験は、狙いとは逆に、多くの場合義務教育の未終了を保障することになりそうである)。定時制通信制教育にたずさわる教師にとっては、中学校卒業程度認定試験の導入は、現状では、定通教育を望む大半の不登校中学生徒の勉学の機会の剥奪となることは自明のことと思われるのである。
 日本の教育界を代表する二人の著名な知識人が定時制高校の現状をどれほど知っておられるのか、また、このような人が座長を務める第一小委員会の答申が定通教育にどれほど有効なものとなるか、少なからぬ不安を感じるのは私だけであろうか。
(平成八年六月)


     迷  い

 昭和五十五年四月一日。この日が、私の教員生活のスタート記念日である。
 小学校の卒業文集には小学校の先生になりたい、中学校では、中学校の先生に、高校のそれには高校教師になりたいと記した私の、夢が実現した記念日である。その昭和五十五年に産声をあげた子どもらが、今年の入学生、高校一年生である。その子らを迎えるにあたって、『初心』という言葉を常に念頭において、あらたなるスタートを迎えよう。そう思うところへ、転勤の辞令が渡された。タイミング的には実に絶妙なというべきか、自分の心の中で一区切りを仕切ろうとしたところであったので、なぜか「運命」のように思える現任校への転勤であった。
 新任から十六年間を過ごした前任校は私なりの青春が注がれた所であり、数々の思い出や気心の知れた同僚との訣別は、今年でなければできなかったかもしれない。何時 までも前任校での自分を引きずって、新しい学校への愛着が湧かない日々を過ごしていたに違いない。
 さて、『所変われば、品変わる』というが、「転勤」初体験の私にとっては、天と地ほどの変化を味わうことになった。
 生徒指導の技 は随分鍛えられてきたと自負していたし、教科指導もじっくり取り組んできて、「まあ、どこへ転勤になっても、生徒とはうまくやっていけるだろう。問題は、職員室の雰囲気だな。」などという、全く身の程知らずな発言は、今思い返しても恥ずかしい。
 自信満々の授業も三回目には、教科書を忘れる生徒が続出し、それを指導中にその他の生徒が自由気ままに教室内を動き回り、それをつかまえて指導する横で、ガムやジュースを口にする、やっと決着をつけたと思えば前の授業の黒板が消してない、ふと床に目をやると、ゴミまるけ……、拾って捨てるようにいっても、「自分のでない」といって数人でゴミを盥 回しにする。「全く何を言うの」と公衆道徳を正している私の目を盗んで女子生徒は、眉毛を抜いたり、化粧を始める。出席簿を記して授業を始めるのに十五分も掛かってしまう。老人介護の実習では、実習材料の蒲団 と寝間着でいかがわしげなショータイムがあちこちで繰り広げられ、奇声を発してバカ騒ぎをする。実習の最中に目を離すと教室からいなくなる。学校で用意した糊 は、実習後は半数しか回収できない。二千円の実習費は一月かけてもまだ集金できない。
 これでもか! これならどうだ! 知恵を振り絞り徹夜で準備した教材も、五人、六人の生徒が授業開始五分後には突っ伏して、揺り起こしても起きない熟睡状態である。
 一時間を予定した教材は二時間が必要であり、授業中発する声は今までの倍の大きさになり、二教室離れたクラスの生徒から、「先生、三時間目、××クラスで、キレとったでしょ?」と言われる始末。それほどの大声を張り上げて授業をしても居眠りする生徒は起きないのである。
 何を試みても報われず、十七年目にして初めて体験する、無力感であった。
 居眠りを叱ると噛 みつくように反抗的になる男子生徒に手を焼いていた。「そんなに私の授業はつまらんか?」と尋ねると、「いや、おもしろいよ。でも、眠いものは眠いんだ。」が、その後の問答の末に、この生徒は空き缶を投げつけて教室を出ていってしまった。追いかけて、話をして、教室に戻すことができた。叱って、なだめて、諭 して、「じゃあ仲直りしよう」と握手をして教室に二人が戻るまで二十分。この間、教室は無法地帯と化していた。残りの授業時間を気にしながらも、見逃すわけにはいかず、説教態勢に入った途端に教室のあちらこちらで授業用具を片づけるこれ見よがしな物音がたち始めた。一人の生徒をつなぎとめて、四十人を逃してしまったような、重い敗北感が襲ってきた。

 前任校での離任式。一千名あまりの人がいて体育館の中は、心臓の鼓動が聞こえるほどの静けさである。校長先生の離任職員の紹介にも身動き一つせず聞き入っている。校内に、ゴミ一つ無く、生徒からは、アメやガムの甘い香りは漂ってこない。

 今、目の前にいる生徒に、私がしてやれることは何だろうか。無力感と敗北感をコントロールし、打ち砕き、充実感に満ちて教壇を降りる一日を、どう作り上げていこうか。
(平成八年十一月)


     今 生 徒 た ち は

 いつもエネルギッシュな同僚の学年主任A氏が精彩がない。ここしばらく前から疲れが残り、夜中にも何度か目が覚めて眠りの浅いまま朝を迎えるというような日が続いてきたあげく、頭が重いなどの症状が出てきたという。A氏は四十代半ばである。多趣味で活動的、じっとしているのは性分に合わないのかと思うほど職場を精力的に動き回る。このところは、目前に控えた修学旅行、引き続いて予定されている学年末考査に向けた指導、新学年の類型とクラス分けなどの課題が山積みで、いっそう精力的な仕事ぶりであった。「週二回の早朝補習に、担任と学年主任、それにこの仕事……、このところしんどくなったよ」というA氏にすぐ病院に行って診察を受けた方がいいと勧めながら、私は一週間ほど前にA氏と交わしたやりとりを思い出した。
 A氏は、持ち前のエネルギーに独特の感性でぐいぐいと生徒を引っ張っていく。クラス経営にも、学年の運営にも、他の誰も真似できないようなユニークな企画を持ち込んで、活気のある雰囲気を作り出すことに長 けている。生徒の感情や思いをその感性で受けとめて、明るいトーンで応対し、必要な指示をきびきびと出していく。学年主任として進路の壁を前に立ち往生していた生徒たちと面談し、多くの生徒がA氏の励ましによって再び自分の進路希望を実現すべく立ちはだかる壁に向かっていく姿を幾度か見聞したように思う。
 そのA氏の口から珍しく生徒の悪口を聞いたのが一週間ほど前の会話であった。A氏が今担当している学年は、実は昨年私も担任を務めていた学年であるが、問題を抱える子の多い学年である。入学当初から不登校や他の問題行動が続き、学年団には悩みが多かった。その中でもA氏はいつもと変わらぬ精力的な仕事ぶりで、バタバタとしかねない担任団の中にあってどんな事態にも落ち着いて対応し、そのリーダーの位置にあった。そのA氏がグチを言い、生徒の悪口を言っているのである。会話の中で話題になったのはこんな現象である。

◇ 修学旅行に行かないと言い出した生徒がいる。理由を聞いても「行きたくない」、「寒いから嫌だ」とボソボソと言うだけ。親と面談をしたり連絡をとっても、あきらめているのか、期待した反応は返ってこない。
◇ クラスの雰囲気になじめないまま学年末を迎えようとしている女生徒がいる。提出忘れ、個人ロッカーなどの身辺の乱雑さが気になる生徒だが、最近強いパーマをかけて登校。担任の話には耳を傾けず、それでいてきつく叱るとその場を飛び出して家に帰ったりする。
◇ 所かまわずゴミを捨てる生徒がいる。ティッシュペーパーを使ってその場でポイ、アメ玉の袋をポイという具合である。
◇ 修学旅行の班編成をめぐって、女子の間に悶 着が起きている。数か月前に班を決めたときには仲の良かったグループ内で、いさかいが起きたのか、一人の生徒が班からはじき出されそうである。異分子を排斥しようという動きはいじめにつながりかねない。

 幼児性、社会性の欠如、女子指導の問題、耐性の無さ、自律心の弱さなど、いろいろな機会に指摘される問題が出そろっていることはよく分かる。しかしそうした分析が理解でき、その通りだとは思ってみても、釈然としない思いが残るのは、いうまでもなく私たちが日々その生徒たちとつきあい、彼らの成長を促す役割を負っているからであろう。担任としては、いわば頭で理解するだけでなく、そうした現象や生徒の感情を受けとめる柔らかい感性が求められるのである。A氏との会話で問題にしたのはまさにその点であった。A氏の経験と感性をしても受けとめられない現象が進行している。「何やら得体の知れない青年が育ちつつあるね」と、どちらともなく言った言葉にお互い頷 きあった。
 「疲労困憊 だよ」とA氏。「もう一度自分の感性を磨き直す必要があるのかね」と私。「だんだん通用しない年齢に近づきつつあるのかも」と二人。A氏の憔悴 の背景にあるのは、生徒の変化に対応できなくなりつつある私たち教員としての構えの問題ではないのか、と暗黙の内に了解しつつ。
 そういえば今の高校生はバブル景気の真っ最中に思春期に入った子どもたちである。バブル景気は日本の経済の様相を変えただけでなく、日本人の価値意識や家庭のカルチャーまで変えてしまったのではないか。自分の人生やそれを取り巻く社会のことに目が向き始めた年頃に、世はバブル真っ最中であった。それが彼らにどういう影響を与えたのか、その変化を受けとめる感性を我々が持ち合わせているのか、私にとっては深めていきたい課題である。
(平成六年二月)


     ほんの些細な生徒指導「論」

 定時制に勤務して半年が過ぎた。十年間勤務した前任校では九年間生徒指導部に所属し、問題行動に追われてきたため、振り返って見る精神的余裕が全くなかった。今は生徒数が四年生三名だけなので特別指導は全くない。この間の生徒指導について自分なりにまとめたいと思うのだが、生徒指導の理念を問われてもとてもまとめる自信はない。ただ、この十年の間に自分自身の中で生徒指導観が大きく揺れ動いたことは間違いない。
 そこで些末なことだが、せめてものドキュメントとして、前任校でしばしば発生した喫煙行為に対する生徒指導マニュアルを記しておきたい。

 校内での喫煙を指導するときに気をつけなければならないのは、事実関係をはっきりさせることである。自ら喫煙の事実を認めて特別指導を受けようという生徒はほとんどいない。事実関係が曖昧なままでは保護者も学校の決めた指導に納得しない。
 まず、巡回はできるだけ複数で行う。一人では逃げられたりしらばっくれられたときに対処できない。
 トイレに踏み込むと決めたらさっさと踏み込む。入り口で逡巡していてはいけない。なんとなく入って、いきなり喫煙場面に出くわすというのはいけない。生徒が複数いる場合、喫煙の事実がありながら生徒を特定できないと、振り上げた拳 の落としどころがなくて窮地に陥る。
 たばこを持っている生徒を見つけたら、その場で声を出してきちんと指摘する。その際、「お前らタバコをすっとったんか」という疑問文ではいけない。「伸介、まさる、敏夫、タバコ吸っとったな、これがおまえのやな」と断定しなければならない。そうしないと、「知らん、証拠があるんか」といって居直られる。
 そして証拠の吸い殻を押さえて(例え便器に捨てられていても拾う)、職員室へ連れていく。ここで無理矢理体を引っ張って連れてこようとしてはいけない。「タバコ吸ったんだから言い分を聞いてやる」と言えば十分である。逃げられることはない。
 一室に入れずに別々にして、喫煙に至るその日の行動を紙に書かせる。それを見ながらさらに質問する。どうやって手に入れたか、何歳頃から吸い始めたか、親は知っているか、ということまで聞けたら指導はうまくいく。
 関係生徒たちの供述が一致したら、親に連絡してできれば引き取りにきてもらう。だめなら、家まで送り届ける。家に帰らずに家出をしてしまうことがあるからだ。
 もっと教師が毅然として指導すればいいではないか、と思われるかも知れない。しかしそれは、生徒に教師を教師として上に見る姿勢があってのことだ。入学した時点から敵対心や不信感でいっぱいの生徒には、頭ごなしの指導は通用しない。三年間かけて教師に耳を傾ける生徒を作ることが一つの大きな目標である。
 なんと細かなことまでと思われるだろうが、ここまで配慮しないと、指導したことでかえって混乱を招くことになる。最初の段階で事実を確定できないと、取り調べに延々と時間がかかる。タバコを手に持っていても、「吸っていない」、「自分のでない」と言い張るのである。時には、発見した教師に反発して、ことさら対決姿勢を見せることがある。言い訳をする自分に縛られて深みにはまっていくのである。素直な自分が引っ込んでずるい自分ばかりが出てくる。だから、指導される生徒のためにも現場で事実を確定してやる必要がある。
 生徒が対決姿勢になってしまったら、焦らずに、その生徒と話のできる教師が説得しながら少しずつ聞き出す。「あいつは吸っているに違いないからこの際ここで指導しておこう」などと先入観を持って指導に当たってはいけない。生徒は疑われることには非常に敏感であるし、最も反発する。そして吸っていたとしても「自分は悪くない、疑う先公が悪い」とさえ思う。生徒が事態を受け入れない状態で、怒鳴って叱りつけても生徒は決して折れない。反発心が高まるだけである。説得の中から「やはり自分が悪かった」と思わせなければならない。
 そうしなければ特別指導の申し渡しの段階でも、校長先生に不満を述べる事態となる。「一応指導は受けるが、納得したわけではない」などと保護者が言ったのでは教育ではなくなる。ただの犯罪取り締まりに堕 ちてしまう。
 常日頃から生徒との人間関係がうまくいっていないと、このような非常事態にその反動が一気に出る。生徒の良い時を知っておれば、悪い場面にも辛抱強く指導ができる。生徒指導は積み重ねだ。                         (平成九年十一月)


     公 の 場 の 意 識

 先日、二年生の担任として修学旅行の引率をした。本校の修学旅行は、実に盛りだくさんで、班分散行動での体験学習をはじめ、いろいろな催しが目白押しである。その準備に、中間テストをはさんで、随分時間をかけたつもりであった。ところが、バスに乗り込んでみて、バス内レクの準備を何もしていなかったことに気がついた。やはり、準備なくしてはなかなかうまくいくものではない。そこは、カラオケ全盛の折、当然そちらへ……。ところが、ちょっと様子が違うのである。人の歌を静かに聞けなどと言うつもりはないが、途中から一部のグループだけが異様な盛り上がりを見せ始めたのだ。カラオケをよそに、ゲームに興じているのである。ゲームといっても、じゃんけんで負けた者の顔に、水性マジックで落書きをするというもの。次のトイレ休憩でバスを降りたときには、彼らは何とも言えない顔になっていた。
 バスの中はクラスの仲間みんなの空間である。しかし彼らは、それぞれのグループ内だけで楽しみ、他の者のことは気にしないという感覚で過ごしている。何かをしようとか、みんなで盛り上がろうとかいうのではなく、気心の知れた仲間・グループだけで楽しむような雰囲気が充満しているのである。これは、大人の社会でも、私たちの世代にも見られることで、特別なことではない。よく知っている仲間だけの方が、余分な気を使わなくて済み、話題の共通性もあって、楽しいに決まっているのだ。けれども、バスの中には同じクラスの仲間がいて小さな一つの空間を共有している。少なくともそうした場を意識して、まわりに気を配ることができなくてはいけない。
 自分の特定の仲間だけが楽しければよいという感覚は、新人類と言われた世代に片足を突っ込んでいる私たちの世代にもなかったものではないかと思う。このペインティングの一件は、普段の生活の中ではまったく問題がないといってよい生徒たちにすら、バスの中でも、教室でも、これを公の場として考える感覚が希薄になっているということを実感させる出来事であった。
 個人的な時間・空間がある一方で、公の場を意識しなければならない時間・空間というものもあるはずである。今は、そのことを多くの子どもたちが見失いつつある時代なのではないだろうか。遅刻や教室での私語。これらが、公の場に対する反逆的な行為であるという意識は、今の生徒には薄いのではないかと思われる。
 公の場の意識の欠如。ただ単に、有る無いの問題ではない。その背後には価値観・精神性の変化があるのではないかと思われる。大きな時代性の変化と言ってもよいかもしれない。よく言われていることだが、核家族化、出生率低下の中で、大切に育てられてきた子どもたちである。幼少時の遊びにもずいぶん変化が見られる。空き地で走り回り、缶蹴 りをし、ビー玉遊びをしたりする子どもたちの姿はもうあまり見かけない。家で一人でテレビゲームをして過ごす。そのようなことが、対人関係の苦手な人間を育てているのかもしれない。あるいは、個人の人権ということが強く叫ばれるようになり、社会よりも個人を尊重する時代になってきたことが影響しているのかもしれない。あるいはまた、過度に傷つくことを恐れる今の生徒たちが、人前に立って批判を受けたくない、まわりから浮きたくない、けれどもみんなですれば怖くないというようなことで、他のことを考えずにグループで大騒ぎをするという傾向を強めているのかもしれない。
 実は、あのペインティングの件を後で生徒に聞いてみると、バスの中が静かで盛り上がりに欠けていたので、自分たちだけでも盛り上がりたいと思ったというのである。さらに、みんなが参加してくれれば、とも言った。ゲーム内容の良し悪しは別にして、それならばみんなに呼びかけるなり、いろいろな方法があったとも思う。しかし、彼らもそれなりに考えてはいたようなのである。
 生徒のよい感覚をうまく引き出し、わかっていないところはきちんと教えなければならない。当然のことだが、そんな思いを新たにした。ただ、自分の持っている感覚と生徒の感覚とのずれには戸惑うことが多い。どこに線を引くかが難しいと思う。しかし、日本という国自体が大きく変わっていこうとしている時代、先が見えない時だからこそ、人間として見つめなければならないものを大切にしたいと思う。
(平成六年七月)


     学校生活不適応生徒への対応

 不適応の顕著な表れとして不登校(登校拒否)がある。これまで学級担任として、また学年担当として直接関わった生徒のうち、休学したり、出席日数不足で留年のおそれが強かったりした五名(すべて女子)の事例を念頭において報告する。もとより成果の報告ではなく、うまくいかなかった反省の弁である。

○ 接した不登校傾向生徒に共通する性向
  いずれも、頭痛、吐き気、腹痛、首痛(肩凝り)等の体の変調を訴え、欠席、遅刻、早退、保健室休養を繰り返したが、「自分はかくあらねばならぬ」という規範意識が強すぎ、実現できないギャップの大きさに悩み込むという性向が共通して見られた。成績からかけ離れた進路希望を持ち、誠実、けなげであろうとする。大病でもなく何日も欠席したことや、人の世話になったことを負い目に感じる。一方、支えきれなくなると何もかも放り出してしまい、自身の殻にとじこもる。人から咎 められるのを恐れ、縮こまり、逆に時には、身を守ろうと攻撃的になったり相手を無視する態度に出ることもある。
  この極端な差をどう埋めるか、自らを縛る規範意識を、本人の気力を維持しつつ、どう取りのぞくかが肝要だと考えて接した。
○ 対応の基本姿勢
 ・置かれている状況と本人の心理状態の理解に努め、できれば、何が根本原因か知ること。
 ・そのために、(心身状態に配慮するとして)本人との面談・会話、保護者との面談・連絡を密にすること。教師が語るのでなく、本人・保護者の話を多く聞くこと。
 ・学級担任一人が抱え込まず、相談係教員、養護教諭、学年内の他職員(前年度担任・学年主任・副主任等)と連携し、役割分担・協議すること。
○ 対応の実際(結果)
 ・根本原因の取り除きは無理であった。保護者との面談から、幼児期祖母が妹たちばかりかわいがり本人は疎 まれた、など生育歴・家族関係に関わる話を得たりはしたが、原因の特定には至らなかった。
・当面の要因である学業の負担感を和らげ、希望の持てる進路設定に意を注ぎ、一定の成果を見た。本人の興味方向に沿っているのを確認して、進学を美術方面に切り替えたり、就職担当者の骨折りで、一月追加求人の際、欠席日数の多いのを了解してもらった上で応募させたりした。ただし、その当座意欲を見せ喜んで進んだはずの進路先でも、見違えるようにはつらつとしたのは進学したうちの一名。進学した他の一名は途中転学しようかと悩み、就職の一名は一年経たずに退職。その後家庭でぶらぶら過ごしては別の勤め先に移るのを繰り返したと聞いている。(残り二名は在籍中。)
 ・家庭訪問は控え目にして、登校刺激を与えないことを心掛けたが、つい、電話し、訪問してしまうこともあった。訪問することが良かったのか、悪かったのか今もわからない。信頼関係をつなぐのと、強制として働くのと、その両方であることは確かであろうが。
・校内での対話も個人面談順がきた時を除いて職員室には呼ばず、業間放課、掃除中などに話しかけるのを常とした。機会の「自然さを作る」のは当然ながら難しかった。
 ・ただし、心身の状態の良さそうな時、まれに「ショック療法」のつもりで出席(欠席)時数を示して、奮起を促した。その場の反応は良くても、これも本当に効果があったのか自信がない。(翌日から逆に休んでしまうということだけはなかったが。)
 ・学級担任として接した三例とも校内相談係、養護教諭、学年主任等と連携をとって、誰がその生徒との対話役に適するかで主担当者を決め、時々報告・打ち合わせをすることができた。担任としては、長期間にわたる取り組みの中で疲れてしまうといったことがなく、助かった。立場の変わった今、担任を孤立させないよう心掛けている。
・保護者とは電話連絡のほか、たびたび来校を請うて面談した。協力的であったが、総じて「普通の子・普通の家庭」との意識が強く、専門家のアドバイスを受けるよう勧めても尻込みし、逆に、留年を心配してあせる傾向があった。
・クラス内の他生徒との関係では、大勢がカバーする姿勢を見せれば本人の負い目意識が強くなり、人柄のよい子一人に世話を頼むと依頼された者が負担になって難しかった。また、遅刻した場合等、どうしても他生徒同様にとがめるのが難しく、クラス一斉の生活規律指導がしにくい面があった。
(平成五年二月)


     気になる子どもの体力

 最近の教育に関するニュースでは、「いじめによる自殺」、「体罰による死亡事故」など悲惨な内容が、テレビなどでも多くの特集番組を組んで報道されている。そんな報道を見るたびに、教師の立場として、親の立場として複雑な気持ちで考えさせられている。
 さて、テーマに掲げたように子どもの体力は、ここ十〜二十年で随分変わってきたように思う。「最近の子はひ弱になった」、「青少年の体力は低下した」とよく耳にする。本校でも、「だるい」、「疲れた」と訴えて朝から保健室に来室する生徒も多く見られ、年々「線が細くなったなあ」という印象を私も持っている。はたして最近の子どもの体力はどうなってしまっているのだろうか。
 私が大学生の頃、国際児童年(一九七九年)を記念してNHKで「警告! 子どものからだは蝕 まれている」という番組が放送された。保育園の保母さんや幼稚園や小学校の先生(養護教諭)に「最近めだつ子どものからだの変化」について全国規模でアンケート調査をしたものである。その結果、全国的な傾向として、@朝からあくび、A背中がぐにゃ、Bころんでも手が出ない→骨折しやすい、C扁平足、D低体温、E朝礼で立っていられない、など今までの子どもにはあまり見られなかったものが、近年めだって増えてきたということであった。また、スポーツテスト(小学校から行う体力・運動能力テスト)の結果からは、背筋力の低下や柔軟性の低下が指摘された。「どうやら子どものからだに異変があるぞ!」というのが結論のようであった。
 さて、この調査結果は、全国の保育園や学校で深刻に受けとめられ、保育園や幼稚園では、「はだしの励行や乾布摩擦」、「上半身はだか」などに取り組み出すようになった。学校も、業前・業間体育(始業前の遊び時間や、少し長い時間の放課を設定し、遊びの時間を確保する)や、体育の授業にサーキットトレーニングを取り入れるなど、体力向上、『体力づくり』に学校をあげて取り組むようになってきた。そして、その結果が功を奏してか、次年度以降の結果では、たしかに「背筋力」等の記録に向上が見られるようになったのである。『体力づくり』は効果があったと評価され、現在でも継続的に行われている。
 しかし私は、今まで取り組まれてきた『体力づくり』にちょっとした盲点があったのではないかと考えている。人間が生存し、活動していく上で必要なからだの能力を「体力」という。さらに「体力」は、筋力、持久力、瞬発力や柔軟性などの「行動体力」と、免疫や体温調節といった、生きていく上で基礎となる「防衛体力」の二つに分類される。私は、最近の子どもの特徴として問題にされている体力は、行動体力よりもむしろ防衛体力の低下の方ではないかと考えているのである。もう少し詳しく説明する。防衛体力は、免疫系、ホルモン系、自律神経系などを構成要素とする。最近の子どもたちには、免疫系ではアレルギー、自律神経系では起立性調節障害(朝礼時に倒れやすい)や低体温などの変化が起きているのである。先ほども述べたように、学校での『体力づくり』の取り組みは、主に行動体力に力をそそぎ、防衛体力に関しては、特に指導をしていない。本来、防衛体力とは「鍛える」という性質よりはむしろ、「発達する・育つ、それも生活の中で自然に育つ」という性質のものなのだ。
 防衛体力の低下現象のうちでもっとも深刻なのは、「大脳前頭葉の活動の強さが育っていないこと」である。原因として「生活のリズムのみだれ」を指摘する研究者もいる。現在私たちが大きな問題としてとらえている不登校などの「心の問題」は、この防衛体力の未発達や、先に挙げた、学校での『体力づくり』の盲点と少なからず関係があるのではないだろうか。(現に、今私どもが接している子どもたちは、十数年前の幼児にほかならないのだ。)
 最近の水泳の授業では、以前に比べ泳げない生徒が非常に少なくなっている。多くの者が幼少の頃からスイミングスクールに通った経験を持つのである。家庭が子どもの行動体力の向上を重視している一つの現れであり、それはそれで良いことだと思う。(その裏には「泳げないと体育の成績が悪くなる」という家庭の心配もあるようだが……。)しかし、ここで私が強調したいのは、行動体力と防衛体力の両面の発達である。家庭でも、「泳げること=行動体力の向上」を考えるだけでなく、「規則正しい生活=防衛体力の向上」ということも考えてほしいのである。防衛体力の発達は、家庭での指導の賜 物であるとも言える。簡単なことでよい。早寝早起きや、夏休みなど地域で行っているラジオ体操に行かせることなどでよいのだ。身体的にも精神的にも社会的にも良好な子どもの発達は、まさに学校と家庭と地域との連携にかかっているといえるのではないだろうか。
(平成七年八月)


     女子高生の性意識について


   あなたに 女の子の一番大切なものを あげるわ
   きれいな 涙色に輝く 大切なものを あげるわ

 「女の子の一番大切なものとは何だと思いますか?」と尋ねられて、この歌の歌い手は、りんとしたまなざしを向けて「まごころだと思います。」と答えた。
 同じ質問を投げ掛けると、本校の女子生徒の幾人かは「えー、何ですか。何かエッチなこと?」と笑いながらも「分からない」、「難しい」、「愛」、「心」と答えた。
 男子生徒は女子生徒と同じリアクションの後に「体」、「愛」、「処女」と答えた。


 成績処理で二十時過ぎまで職員室で仕事をしていた。「生徒が裏の空き地で…」という電話を受けてその場へ急行した。懐中電灯で顔を照らされるまで、人が近付くのさえ気が付かない男女生徒であった。服装を整えさせて学校へ戻り、直 ぐ二人を別室に分けて事情を聴き、指導を始めた。女子生徒はしばらく泣きじゃくるばかりで話ができる態勢になるまで小一時間を要した。部活動が終わると待ち合わせ、学校帰りの道を悩みを打ち明け合いながら帰るうち、日曜日のデートを約束するようになる。何回目かのデートで待ち合わせをした公園で「させてくれないか?」と言われ、「好きだったし、断ると嫌われるかもしれないから。」公衆トイレで初めての体験をした。学校に知られるまで、人気のない幼稚園に忍び込んで、学校裏の空き地でと、求められれば応じていた。この女子生徒は、両親が先頃離婚し、別れて暮らす母親の耳にこの一件が入ることを恐れているようだった。

 無断欠席が続いた女子生徒の家に、学年主任と担任が家庭訪問を行った。娘が小学校二年の時に離婚をし、仕事に追われるその母親は、机の引き出しから女子生徒の預金通帳がなくなっていることと、二、三日家に帰っていないことを初めて口にした。
 母親の立ち会いのもとに、机の中、鞄を見せてもらうと、避妊具や電話帳が出てきた。母親の「ここ数か月間の電話料金が驚くほど高くて」という言葉にあれこれ心配をしたが、後日、その女子生徒の別れた父親から連絡が入り、帰宅した。

 ダスターシュートの清掃担当の職員から、女性物の財布を拾得したと指導部へ届けがあった。中を確認すると、ホテルの領収書と避妊具、居酒屋の会員カードなどが入っていた。その前日に盗難の届けを出しにきた女子生徒の財布であった。

 三人の女子生徒とも、成績は中位、発覚することがなければ普通に卒業式を迎える生徒たちであると思う。
 指導に当たって私の「性に関する常識」は全く吹っ飛んでしまい、彼女たちを理解しようと努めるところから始めることにした。彼女たちは三人ともに、学校が自分たちを許すはずがないと思い、一番気に掛けたのは「絶対退学ですよね」という言葉のように「切り捨てられる」ことであった。
 指導に先駆けて、「前任校ではこういう指導ばかりしてきた」と言われる先生は、「健全に生活している生徒への影響を第一に考えて指導の方針を考えるべきだ。通常こういう場合は親のほうも子どもを学校から遠ざける。続けたにしても学校に居づらくなってしまう。」と言われた。学校が指導をあきらめたら、この子たちはどこで過ちを正してもらえるのか?
 本人と家庭に学校生活への意欲を確認し、「絶対卒業する」、「絶対卒業させる」という生徒と教師の思いが一致したところで心の指導に入った。三人の生徒が卒業したとき六冊の交換日誌が私の手に残った。卒業式の日、思い出を語りながら焼却炉にノートを投げ入れた一人の女子生徒は、「女の子の一番大切なものは、自分を育て、守り、愛してくれている親や、友達や、先生たちを裏切らない真心だ。」と私に、言った。
(平成七年七月)


     ポ ケ ベ ル

 先日、三年生に、「ポケベルについて、良いところ悪いところを点検し、なぜ持ちたがるのかを述べよ。」という題を与えた。その結果、次のような意見が多かった。

【利点】 ・すぐに連絡がつけられる。  ・仲間と交流が深まることで一体感が得られる。
     ・長電話防止になる。  ・直接の会話や電話で言えないことも言いやすい。
     ・寂しさがまぎれる。  ・秘密の感じがいい。

【欠点】 ・静かにすべき時に鳴るとまわりに迷惑。  ・電話代がかさんで負担になる。
     ・公衆電話が混雑する。  ・内容がバカバカしい。(「オハヨウ」など)
     ・いたずら(「イタベル」というらしい)が多い。  ・話し下手になる。
     ・犯罪(売春)のきっかけになる。  ・そっけなく感情がこもっていない。
     ・ベルに縛られる。  ・まわりが持っているからというのでは没個性になる。

 全体に女生徒に好意的な意見が多かったが、利点として挙げることがらはほとんど同じような傾向にあった。逆に欠点として挙げていることがらは、「うるさい」ことと「混雑」以外は多種多様であった。そして、利用している生徒も利用していない生徒も、かなりの高率で「学校では不要」としていることが目につき、「禁止してほしい」という意見もいくつか見られた。私としては、もともとすぐにでも禁止したいのだが、なかなか議論が進まないのが現状である。
 さて、このような意見から浮かび上がる、「ポケベルを持ちたがる生徒」の精神的・心理的状況はどのようなものであろうか。(教員はどうしても否定的な面に目がいってしまうが、これはある程度やむを得ないのであしからず。)
 まず第一に、生徒は極度に「孤独を恐れる」傾向にあることである。これは、いじめられてもそのグループに留まる生徒と同じ心理であろう。異端(個性的)とされることに恐怖し、それに耐えられる精神力なり内的世界なりが欠如している。その恐怖の裏返しが、「一体感が得られる」というような反応になる。ポケベルのCMで、「ああいうのひとりぼっちっていうの?」と言われて、ベルが鳴って「脱出」となり、めでたしめでたしというのがあった。そのままの状況である。
 実際、独りでいてもやることがないし、おもしろくもない。テレビはいつもおもしろいのがあるわけではない。マンガも少し飽きてきて、何をしていいかわからない。結局のところ、自分の主体性で行動しようとしても、「自分の思想・感性」がないためにできないのである。自分でも思想や感性がないことに薄々気付いていて空虚感を味わっている。その打開策が「ポケベル」となる。他人と同じ道具を持つことで没個性に安心し、他人との連絡を密にすることで「精神的安定」を獲得する。その後、他人と会うことで「行動する自分」の姿を確認し、友人との相対的関係の中に「自己評価」をようやく得、「存在意義」を見出しているのではないか。
 実は大人だって同じようなものである。社会システムの中でのみ自分の存在を確認し、社会関係を離れたときに呆然としてしまう人は少なくない。
 先日、知人の別荘に行った。周囲は何もないところで、ただ静かな山の中である。その別荘の持ち主から聞いた話が興味深かった。夏に三泊四日ほど招待されて来る人には、三つのパターンがあるという。一つ目は散歩したり何かまわりにおもしろいことはないかと探したりして、山を楽しむ人。二つ目は、自由な時間があるからと自分の趣味のものを持ち込んで楽しむ人。三つ目は可哀想なのだが、ため息ばかりついていて、暇だ、やることがないという様子で不満そうな人。この人はそこにいる間、ほとんど仕事のことしか話題がなかったそうである。結局この三番目の人は、仕事に束縛されることでしか自分の姿を確認できず、そこを離れたために抜け殻状態になってしまったのであろう。これは珍しいことではなく、かなり多数見られることだそうである。
 生徒たちならなおさらである。大人のように、自分を必要としてくれる組織はないから。
(平成七年十一月)


     「個を生かす教育」雑感

 先日のことである。一年生のDが例によって遅刻して登校した。遅刻届を受け取る際に、頭髪の変色について注意した担任の胸ぐらをつかんで、「お前何様だと思っているんだ」と興奮する。止めに入った先生を含めて別の部屋で説諭をするが、その最中に勝手に部屋を出ていき、追いかけた先生に向かって廊下に立て掛けてあったモップをふりかざすという騒ぎが起こった。
 このD。学力は決して低くない。都会の学校を第一志望にして「自由で楽しい学校生活」を求めたが、結局は第二志望の本校に入学してきた。入学して間もない頃から学年会で話題になる、目立つ生徒であった。一学期の終わり頃には、服装、頭髪など身だしなみで注意を受けることも多くなり、授業中も居眠りをする、ノートをとらないなどの状態が生まれてきた。「やる気が無いなら帰れ」と叱責され、本当に帰ってしまったのもこの頃である。夏休みの課題もほとんど未完成のまま二学期を迎えた。九月上旬の学校祭の時は人が違ったように精力的に動いたが、それが終わって平常の学校生活が再開されると、欠席、二〜三時間遅れの登校、早退の日々が続くようになった。頭髪の指導に対しても「直す気はない」と言い張り、授業中も教材を用意しない、最初から机に伏せて寝ている、プリント作業など見向きもしない、といった状況になってきた。注意・叱責を受けない日はないのではないかと思える八方ふさがりの状況の中で、本人の態度も、開き直りや指導の無視、あるいは攻撃的な対応に変わってきた。曰く、「この学校は規則が厳しすぎる」、「自分ばかりが目をつけられ、怒られる」。さらに、このDの行動に影響を受けたのか、同じクラスで二名の生徒が課題を出さない、出席状況も急激に悪くなるという状況が生まれてきた。事態は猶予ならないということで、九月下旬以降、家庭(両親の別居という複雑さがある)との連絡、個人面談などを軸に工夫を重ねて、このところ少し落ち着いてきたのではないかと噂していた矢先の、先のできごとであった。
 父親とはここまで再三の接触があったが、この日は母親も来校され、初めて両親揃 って面談ができた。今後どうDの指導を進めていくかの話し合いは長時間に及んだ。その中で特に母親が何度も繰り返したのは、「あの子は病的です。ある種の病人だからすぐにはよくならない、指導に特別な配慮をしてもらえないか」という趣旨の発言であった。この文章を書いている今日現在、Dは親が引き取る形で、自宅で「今後のこと」を考えている。

 長々と経過を紹介したが、この事例の気になる点の第一は、このDの性向である。母親の言うように「病的」だとは思わないが、規範意識がないというレベルを超えて、およそ社会性というものが育っていないのではないかと思われるのである。出身中学校の話では、「あの子は個性的な存在でした」、「給食の時などふっと教室からいなくなり、捜すと校舎の片隅で一人で物思いにふけっているなどということが、時々あった」という。
 第二の点は、このDに同調したのか、同じ様な行動を示す生徒が出ていることである。今年の一年生には規範意識が弱く、同調性が高いという傾向がたしかにあるように思える。
 第三は親の気持ちである。「特別な配慮」という要請をどう受けとめたらよいのか。
 この三点の「気になる点」は、私の中で一つの問題に収斂 される。つまり、こういうことである。「個を生かす教育」は新指導要領の重要な柱になっているが、その崇高な「理念」の曲解が生み出した「現実」が、このDの行動ではないかということである。給食の時にふっといなくなる行動は、Dの現実として(指導がそこから出発するという意味において)受容される必要はあるだろうが、許容されることではない。個を生かすという理念に隠れて、教えるべきことが事実上放棄されてはいなかったか。親もまた、その言葉の美しさにもたれて、家庭でしつけるべき生活習慣を教えなかったのではないか。
 個を生かす教育は、ある意味で教育の本質を表現していると思うのでそれを否定するつもりは全くないが、その言葉が美しいだけに、それに酔ってうわべだけの理解に止まるとしたら教育にとっては自殺行為に等しいものになると私は考える。精神科の医師から、心理学に「 frame setting 」という言葉があると聞いたことがある。日本語では「枠付け」とでもいうのだろうが、高校生にとっても、生活の基本の枠付けは必要なのではないか。そうした基本的な社会性を持たないままに育ったら、個を生かすどころか社会生活に適応できない大量の若者を生み出すことになりはしないか。その時「自由に選んで自由に生きたらいい。ただし責任は自分もちだよ」とは言ってはおれないように思う。
(平成七年十一月)






  第六章 教師であること








     芭 蕉 布 の 思 い 出

 私の心に残る歌の中で一曲を選べといわれたら、迷うことなく「芭蕉布」を選ぶであろう。歌詞が素晴らしい。沖縄の民謡がとりいれられていて、しかもセンスが新しい。そして何よりも、この歌には私自身の思い出が込められているからである。
 先日、朝日新聞の夕刊(平成九年一月十八日付)「窓」の欄に「芭蕉布」と題した一文を見つけて驚いた。少し長くなるが、それを紹介したい。
 「二十年ほど前、ある外交官から歌を教えられた。

   海の青さに 空の青
   南の風に 緑葉の
   芭蕉は情 に 手を招く
常夏の国 我 した島沖縄(ウチナー)

 伝統的な織物に託して、沖縄のすばらしさをうたった『芭蕉布』(作詞 吉川安一、作曲普久間恒勇)だった。美しい歌詞と旋律にたちまち魅せられた。その外交官とは、いまペルーのリマでゲリラの人質となっている青木盛久大使である。」と。
 その青木大使がいかに沖縄を愛しているかということ、また沖縄県立西原高校のマーチングバンドと厚い友好関係が結ばれていること、そして、このたびの事件に対して大使の沈着かつ毅然とした態度が、人質になっている人々にどんなに安堵感を与えているかということなどが明らかにされていた。一日も早く全員解放されて、高らかに「芭蕉布」を歌える日のくることを願って、この文は終わっている。
 私と沖縄との出会いは、昭和五十七年(一九八二年)のことである。当時、教育指導員として四十五日間、沖縄に滞在した。主に、教育課程、生徒指導、教育相談などについて先生方と研究、研修を行うことを目的としていた。
 「信濃教育」という言葉があるが、同様に、沖縄にも「沖縄教育」という呼称があり、地元の人々は「教育県」としての自負をもっていた。
 当時、全国的に中学校の校内暴力が問題となっていて、その対応に追われていた。熱心な生徒指導が管理主義だといって新聞はしきりに学校批判を行っていた時代であった。
 そうした折、ある中学校を訪れ、音楽の授業を参観したときのことであった。授業が一段落したとき、担当の女教師は突然私を紹介して、愛知へのおみやげに歌をプレゼントしようではないかと提案された。生徒たちは、こもごも好みの歌を出していたが、突然、大きな声で「芭蕉布がいい」と叫んだ子がいた。その子はクラスのリーダーのようにみえた。生徒たちは、「そうだそうだ、それがいい」と意見が一致した。先生も「それが一番いい」とおっしゃって、実に整然と「芭蕉布」が歌われた。
 こどもたちの歌声は、澄んで美しく心の底にしみていくようであった。いい歌だなと思い、彼らがこの歌を選んでくれたことに感動した。
 丁重にお礼を述べ退出したが、帰途、校長先生が、「実は、あの提案をした子は、事情があって、私の家に引き取って面倒を見ているのです。ただ、土曜、日曜だけは、親元へ返して親と一緒に過ごさせています。時々勉強も見てやっているので、家ではお酒もなかなか飲めないのですよ」と、屈託なく笑っておられた。
 私は、そのお話を伺い、改めて校長先生のご努力に身の引き締まるような思いをいだいた。と同時に、この子は間違いなく立派な青年になるであろうと確信をもった。
 新聞の、青木大使と「芭蕉布」の話題から、私の十五年前の思い出がまざまざとよみがえってきたのである。
一昨年暮れに、妻をともなって待望の沖縄再訪を果たした。本島と久米島をくまなく回って、島の過去の歴史や、人々の暮らし振りに親しく接することができた。妻は、人々に心を寄せ、飾り気のない料理がすっかり気に入り、壷屋の焼き物を求めてきて愛用し、いっぺんに沖縄びいきになっている。
 十五年前、人間国宝であり、大宜味村にお住まいの平良敏子さんにお願いしてわけていただいた、芭蕉布に紅型で宝船を染め抜いたものを表装した額は、いまなおわが家の玄関に掲げてある。
(平成九年一月)


     教師としてプロであるとは

 どの世界でもプロとアマの差が少なくなってきた。だが、角界だけは違う。学生横綱も幕下から鍛え上げられて十両になるという。ところで、プロとかアマとかいうのはどういうことであろうか。端的にいえば、その技量・能力を職業としているかどうかであろう。俗な言葉でいえば、それを飯の種にして生活費などの収入を得ているかどうかである。

 修学旅行が帰着した。解散後も名駅のコンコースには数十人の生徒たちが残っていた。引率に携わった職員も出迎えの職員もまだ幾人もそこにいた。突如一隅から罵声があがった。駅などによくいるやくざっぽい男が生徒に絡んでいるのである。伏し目がちに立っている男子生徒の顔に自分の顔をまぢかに近づけて怒鳴りつけている。かなり険悪な雰囲気で、傷害事件にもなりかねない様子である。急いでその方向に歩を進めた。生徒たちはもちろん、居合わせた一般の人たちも成り行きを注視していた。
 すると、一人の職員が駆け寄り、両手に鞄などの荷物を持ったまま生徒と男との間に立ちはだかった。その男と職員は鼻づらをくっつけ合わすような状態になった。男はますます猛り狂ってきた。職員はあくまでも無言であった。私に代わって体を張ってくれたのは五十半ばの教師であった。揺るぎない教育理念と実践力をそなえた「闘士」である。
 すると、K旅行社の若い添乗員が敢然と我が職員とその男との間に分け入った。そして、囮 となって男を生徒たちから引き離し、口論の相手をしていた。そこへ警察官が来て男をその場から連れ去っていった。
 難癖をつけては幾分かの収入を得ようとするやくざもプロ、生徒をかばって立ちはだかった教師もプロ、また、囮になったK旅行社の若い添乗員もプロ、警察官もまさしくプロである。こうしたプロの動きを生徒たちは見ていたのである。
 後で、その「闘士」にお礼を言った。彼は、「顔か腹を一発ぐらいは殴られるかも知れないと思っていた」と言った。どうもこうもああせざるを得なかったからやった、とも言った。
 彼とこのような会話をしていて重大なことに気づいた。彼が生徒をかばって立ちはだかってくれたことを見てとって、そこで私の歩の速度が落ちていたということである。生徒に怪我をさせてはいけない。同様に職員に怪我をさせてもいけないのである。顧みると実に我ながら恥ずかしいことである。あのときのことを思うたびに、例の教師はますますまぶしく輝いてくる。我は内心忸怩 たるものがあり、顔が上げられない思いでどうしても俯 きかげんの姿勢になってしまっている自分を発見する。あのとっさの時、その他の職員の幾人かは、警察官を捜しに行ったという。それが普通であろう。一般的な知識階級である教師であろう。教師を生活の手段としているいわゆるプロなのであろう。我もその類のプロなのである。
 後日、K旅行社の上司にその時の話をし、お礼を言った。そうしたら、それはあたり前のことであり、自分がその場にいてもそうしたであろうし、会社の者なら誰でもそうするであろうとのこと。生徒に解散後といえども怪我などさせてはならないという企業人としてのプロ意識の方が、教師としてのそれよりも確かなものであるように感じ、愕然とした。もちろん、K旅行社の添乗員と我が職員の行為は同じようなものでも、そのような行為に駆り立てた思いは同質のものではないのだが。

 小学三年の担任は松永という先生だった。終戦直後のこと、父が戦死して母子家庭となった我が家は貧しかった。松永先生がどういう言葉で言われたか記憶していないが、誰も教室にいなくなるまで残っているようにと言われた。不思議に思って残っていると、小さな包みを手に教室に現れ、今から思うと「おはぎ」だったのだが、それを食べさせてくれた。食糧難の時代ではあったが、とりわけ食事もろくにしていない私が特に目についたのだろう。家に帰っても誰もいないし、食べ物も無かった。教室の子供机の上に広げられた包みの物を一ついただいた。先生はもっともっと食べよと言ってくれた。気持ちが動転していてお礼も言えなかった。あの時の味は忘れられない。それとともに、食べている私を軽く微笑みながら眺めていた先生の慈悲深い目、あの教師の目が終生忘れられない。
 あの男子生徒も、体を張って自分をかばってくれた教師のことを生涯忘れないであろう。
(平成九年六月)


     も っ と 心 を

 木地師によらず、山に糧を得る人々の「玩具」や「手慰み」として芽生え、わが子に与えたこけしは、時を経て湯治客の求めるところとなった。
 こけしは小芥子。芥子は幼児の髪型、女児の姿にして男児にあらず。
 製作者は「こけし工人」と呼ばれ、東北を中心に四百人余が活動するも原木の伐採から描彩までこなす人から、木地を引くだけ、描彩専門もいる。工人は世襲制から系統が生まれ、優秀な工人がつくるこけしは「○○型」と賞賛される。近年の遠刈田 で、佐藤吉弥が「吉弥型」を、佐藤丑蔵はもともと木地師なれど後に描彩にも進出し、「丑蔵型」を生んだように。
 こけしが奇妙に製作者の面影を伝えるのは、小説の主人公の作者と重なるに似る。伝統こけしには、津軽系、南部系、木地山系、鳴子系、遠刈田系、弥次郎系、肘折 系、作並(山形)系、土湯系、蔵王系がある。頭と胴が一体化する木地山はいい。頭部に赤い放射線模様の遠刈田は「華麗」と称されながら、細い胴が子どもに握りやすくする思いやりのはてであると知れば心和む。土湯のそれの、蛇の目頭は可愛い。鳴子は、こけし発祥地の一つであり、それだけに多くの工人に会える。摩擦熱で頭をはめ込み、回すと音がするので「鳴子」になったというも定かではないが、緩やかに胴の中央へ続くくびれはあまりに名高い。
 早坂せつ。農家の長女はやがて、夫の指導で描彩を始める。彼女は木地を引かない。ひたすら描き四十年余。耳順を出るもその秘めた情念を描彩に託す比類なき工人。この人に出会うまでに私は五十年近くを要した。彼女のこけしは五寸から二尺を超えるまで、ほぼ一寸刻みで描かれる。円熟が時として「衰え」の意味を予感させるのなら、彼女のこけしに円熟はない。会わずして往く人を思うとき、私はこの縁を感謝する。どこがよいのかの問いには、理趣釈経の筆写を請う最澄へ、「文字だけで伝わると思われますか。」と断った空海の例を引かせていただく。
 伝統こけしの世界にも「はやり」があるが、安易に売らんかな主義の工人に時代の評価は受けられない。情念は心に湧く感情や心に起こる思念である。感動を呼ぶこけしは、心がつくるものである。
 翻 って、我々の生業である「教育」を考うるに、現在は、教育へ期待と不信がかつてないほど寄せられている。こういう秋 こそ実はチャンスである。平坦な退屈な時代ではない。教師受難の時代といわれる今は、教師飛躍の時代でもある。これほど、叱られ、要求され、攻撃されるのは、そのまま、教師への期待と読み取れる。この評価に身が引き締まる思いである。この時代に教職を任せられたのは、その腕を買われたからである。
 教育の「不易」と「流行」が再び注目されている。もともと、不易流行は芭蕉の俳諧用語であり、ともに、風雅に帰すべきものとして根本では一である。
 これを、安易に教育に当てはめようとすると無理が生じる。「不易」として文字どおり不易の評価を得られるものを教育の方法に求めると混乱するが、人間が生きていることと、人間が生かされていることは不可分である。人が地球環境の支配者であると錯覚してはならない。そのような権利は付与されていない。あまりに身勝手な人間中心主義は結局、そのまま自己中心的な偏った個人主義に行き着く。「人としていかにあるべきか」は、「人はどこから来て、そしてどこへ行くのか」という人間最大最高の命題と重なる。
 この命題に向かって学校、教師が邁進する姿は、惑うことなき不易である。
 学校教育がどこまで教育を背負えるかは別として、学校は教育の場であることを、教師は再確認するべきである。「学習」には好ましくない内容も当然含まれるが、「教育」にそれは困るのである。学校教育に心の教育が求められていることは意義深いものと思うが、「心」はまた具体性を持たない宿命がある。
 私が今でも克明に覚えていることがある。小学生の私は、教師の「心はあるか」の質問に「ある」と答えた。教師は「そんなものはない。」といった。
 また、「あるというのなら、どこにあるか示せ。」ともいった。私は、「それでも、心はある。」と答えた。「それでもない。」と教師は重ねて答えた。
 幸いに私は、「偏屈な児童」であったが故に、「被害」を免れたが。
 十分に吟味された教育を施すのは、我々の義務である。「教師は生徒を選べない」などと断じて言ってはならない。「生徒は教師を選ばない」ことこそ、悲しくも、恐るべき、厳粛な現実なのである。  ―― もっと 心を。――
(平成九年十一月)


     百 歳 の 先 生

 前日本育英会理事長鈴木勲氏が内外教育に「日本一小さな高校」を紹介してみえた。副題に「偏差値にとらわれない人間教育」とあった。それは山形県にある、基督教独立学園高校のことである。
 二代目校長武先生から伺った独立学園高校の概要は、「無教会主義者の思想家内村鑑三のもとでキリスト教の伝導に携わっていた初代校長の鈴木先生が、東京大学の助手をやめて一九三四年に設立した」とのこと。新潟県境に近い山々にすっぽりと包み込まれ、透きとおったきれいな水が流れている川に隣接しているなど、自然が贅沢すぎるような環境に立地している。
 一学年の定員は二十五名で全寮制が原則。したがって、全校の生徒数は七十五名である。これが全人教育の限界である、と語られた。
 山里深い小国の町にすっかり溶け込んで、そこに生き生きと汗を流しながら、労働と勉学に励んでいる若い生徒諸君と先生たちに、私は感動し、敬意の念を抱いた。朝昼夕三度の食事は、当番制で自分たちでつくる。朝は全員(教職員と生徒)の朝食と昼の弁当をつくってから、私道のような砂利道を挟んだ校舎に向かうのだ。他にも、ニワトリ(卵は一〇〇%自給)や乳牛の世話をし、畑で野菜などを栽培している。
 トイレは生徒たちの希望で汲み取り式になっている。野菜の肥料として必要だから生徒たちが水洗化に反対しているとのことだった。授業で、有機栽培農業が人間にとっていかに大切であるかということを学んだ成果だという。
 「働くことは生きることの原点」というのが学校の大切な教育方針だという。「はた」を「らく」させないで自分だけ楽をしようなどということには無縁な世界で生きている人たちであることに、再び感動し、学園生たちに終始頭が下がった。
 「人の上に立つ人間でなく、人に仕える人間になれ」というのが初代校長の考えであったと聞いて、さらに頭が下がった。学園を訪問した日は一日中頭が下がりっぱなしであった。しかし私の気持ちは、まことに爽やかであった。
 ところが、数か月後、私は大きな後悔をすることになった。けれども後の祭りであった。
 武校長先生のお話しを伺っていた時に、「一晩でもよいから寮に泊まってくだされば、先生や生徒たちと話をする機会が持て、本校の本当の姿がわかっていただけると思います」と勧められた。しかし、次の日はどうしても休めない事情があって、その好意に感謝しつつ学園を後にした。それが今でも悔やまれてならない。
 学園を訪問したその年の十二月、テレビ番組『知ってるつもり』で、百歳まで現役で書道の一教師として生涯を貫かれた「うめ子先生」の生き様が放映されたのである。うめ子先生はそれから半年足らずで亡くなられたのだが、その存命中に訪問していながらお会いすることもなく帰りを急いでしまったことに、とてつもなく大きな後悔をしてしまったのだ。
 テレビでは、うめ子先生の授業に魅入られるように筆を動かしている生徒の姿が大変印象的であった。これが学校だ、これこそが学校の本当の姿だ、と感動した。そしてまた、これが先生と生徒の真の姿だと何度もうなずいた。
 ある日、一人の男子生徒がどうしてもうめ子先生に会いたいといって訪ねた。その生徒は、うめ子先生の顔を一目見るなり黙ってその手を握りしめ、ポロポロと涙を流して何も言わずに帰っていったという。生意気ざかりの現代っ子たちも、うめ子先生の前ではたちまちおとなしく素直になってしまうとも語られた。
 深い愛情の奥底に武士道的俊厳さを秘めておられたうめ子先生は、どこまでも謙虚であられたとのこと。どんな問題児も筋金入りの謙虚さには抵抗できないのかもしれない。なぜなら、本当の愛と勇気のある人だけが真に謙虚たりうると思うからである、という結びにも感動した。
(平成九年六月)


     未熟さをもちながらも

 JRにも自動改札化が進められている。日頃通勤のため乗り降りする普通列車しか止まらない駅でもその工事を進めている。ある朝、いつものように改札口を通ろうとすると、
 「だめ、向こうを通って」
と強い調子で言われた。自動改札の工事が完了し、その朝からそちらを通るようにというのである。ちょうどその日に限って両手が大きな荷物でふさがっていた。自動改札を通るには、荷物を下に置き、定期入れから一枚の定期券を指で引き出して機械を通さなくてはならない。両手分の荷物を片手で持って改札口を通らなくてはならない。そこで、とっさに、
 「荷物があるのでここを通してもらえませんか」
と言ってしまった。すると、前よりもさらに語気強く、
 「向こうへ」と手で指示された。
 若い背広姿の青年が険 しい表情で立ちはだかっていた。毎朝挨拶を交 わし合うJRのユニホームの駅員がいつものように窓口に座り、申し訳なさそうにしていた。
 あの青年が職務に熱心であることはわかる。言わんとする趣旨もわかる。しかし、もう少し言い方があるのではないか。こんな感情的な思いがふともたげてきた。そして、思わず苦笑した。
 うちの子が悪いということは認める。しかし、先生の叱り方が納得できない、という類の保護者の言をよく耳にした。それとよく似た論法である。このような自己が隠れていたのか。このような反発的な感情を抱いた自己を凝視しなくてはならない。
 教師は、生徒を叱ったり注意したりすることが多い。そうしてくれる教師は貴重な存在であるのだが、ややもすると、そうされる生徒側の感情の起伏を洞察することを怠ってはいないだろうか。
 現在、いじめ問題は、教育界にある病根の至らしめるところとして個々の教師にその対応が求められている。それにしても心身ともにひ弱な生徒たちがいる。耐えることができない彼らに耐えることを求めることは適切ではない。まず、たくましく強靭なものを培ってやることが必要である。そのため、教師はもっと生徒に迫っていき、生徒を激しく揺さぶってやらねばならない。ところが、いじめ問題が取り上げられてから、多くの教師は、どちらかというと生徒から距離をとってこれを客観視する傾向があるように思える。
 それにはそれなりの理由があるようだ。いじめの被害調査をすると、授業中に先生から、「そんな問題もできんのか」とみんなの前で言われた、などという訴えが出てくる。それほど傷つきやすいのである。
 人には、その立場になったその人にしか分からない気持ちがある。だからどのような訴えもむげに軽んじることはできない。だが、それが分かる故に教師は戸惑ってしまうのである。したがって、立ちすくむのである。
 JRの改札口で立ちはだかった背広の青年により味わわされた「反発的な感情」の体験を大切にしたい。人として錬 れていないから故、抱いた浅はかな感情である。その未熟さを恥じる。だが、生徒は若い。もっと未熟な者もいることを忘れてはならないのだ。
 だからといって、あまり距離をとっては教師としての働きができなくなる。教師は生徒を褒 めたり、励ましたりする。だが、それは、情的にではなく、知的に解釈、理解、判断をして行っているのではないか。あまりに知的に冷めた教師では生徒には近づけない。生徒も受け入れてくれない。
 人としての一面の未熟さを持ちながらも、生き生きとした感情を備え、信念をもって行動する教師が必要である。そうした教師でなければ生徒を変えていけないだろう。ただし、現代の社会は、教師の「人としての一面の未熟さ」を許容してはくれない。学校も、教師個人も、絶えず完璧なものを求められているという強迫観念に囚われているところがある。だが、人としての未熟さをもちながらも勇気を持ってダイナミックに実践していく以外に道はない。
(平成八年二月)


     見 習 い

 時々行く割烹料理店の主人と、カウンターをはさんで、「今の若い者は……」と話がはずんだ。その中で主人の話に、はっと聞き入ったことがあった。
 曰く、私はこの道に見習いから入りましたが、修業時代は親方や先輩の仕事ぶりを見て、いろいろのことを覚えていったものです。漬け物の盛り方一つにしても、すばらしいなぁと思ったことが何度あったかしれません。包丁さばきにしても、刺身がどうしてあんなに形よく切れるのかと感心したものです。そして、見よう見まねで覚えたものです。今、「見習い募集」などといってもなかなか人は見つからない。「調理師募集」と言わないと見つかりません。初めから一人前だと思っているのでしょうかねえ、見習って覚えようとする若い人が少なくなりました、と。
 私は考えさせられた。そして、覚えようとする者、学ぼうとする者の真面目で真剣な姿を思った。学習の基本を改めて教えられた気がした。
 元来、「学習」の「学」は「まねぶ」とも読み、真似 をする意味を持つ。真似て繰り返し習う「学習」と「見習い」とに通ずるものを感じ、主人の話にうなずいたのである。
 主人は続けて言った。私の親方は無口な人でしたが、よう仕込んでくれましたし、よう面倒を見てくれました。今あるのは親方のおかげです、と。
 私はここに教える者と学ぶ者の心のつながりを感じた。そんな話の中で、私はつくづく自分のことを思った。
 私自身、教職についてから今日まで、多くのすばらしい先輩に出会ってきた。学識豊かな人、人間味あふれる人、実行力のある人、高い見識を持った人、等々。それらの先輩の姿や教えを、私はどこまで見習うことができただろうと省みると、「今の若い者は……」と言えない自分を感じた。
 これからも謙虚に見習いをしていきたいと思っている。
(平成六年二月)


     いや・きらい・だめ・あした

 昨年亡くなられた藤山一郎といえば、昭和のはじめ、まだ東京音楽学校(現東京芸大)の学生だったころ、『酒は涙か溜息か』や『丘を越えて』を歌って一世を風靡し、卒業後も『影を慕いて』や『青い山脈』などのヒット曲を歌い、昭和の歌謡界の第一人者と言われた人である。人柄も極めて誠実で折り目正しく、それだけに周囲の信望も厚く、昭和四十七年には、日本歌手協会の会長に推されている。
 その歌手協会会長に就任の際、インタビューに訪れた新聞記者に「生活信条は何ですか」と質問されて、「いや・きらい・だめ・あした、はできるだけ避けるのがモットーです」と答えたという。
 これは実に含蓄の深いことばである。私たちの日常の生活にあてはめれば、次のようになると思う。

○ 人から何か頼まれたときには、できるだけ「いや」と言わないようにする。

  人から物事を頼まれたとき、「押しつけられた」と思うか、「信頼されて任され
 た」と考えるか、そこには随分な違いがある。教員の世界はとかく忙しい人と暇
 な人の差が大きい。我々は常に忙しい人になりたいものである。


○ 好感の持てない人に対しても、あからさまに「きらいだ」という感情を示さないようにし、その人の良いところをさがし、好きになるよう努める。

  職場には肌の合う人とそうでない人がいる。たとえ嫌いな人がいたとしても、
 同じ職場の同僚として勤めることに変わりはない。どんな人にも必ず他人にない
 長所は持っているもの。その長所を見つけ、良好な人間関係をつくりだす努力が
 必要である。


○ 未熟な人、欠点の多い人に対しても、性急に「だめだ」と決めつけてしまわず、その長所をほめて伸ばしてやるようにする。

  昨年プロ野球で日本一になったヤクルトの野村監督は、今の若者はしかり方が
 難しい。プライドが高いし、傷つきやすいから。ただ、これだけは言っちゃだめ
 という禁句がある。「昔は……」というやつだ、と述べている。
  我々もこころしたいものである。


○ 今日できることは、「あした」と言わず、多少無理をしてでも今日やってしまうよう努力する。

  帰宅前に、今日一日を振り返って反省し、やり残したことはなかったか、報告
 すべきことはないか。それがすんだら、明日しなければならない仕事とその手順
 をメモしておく。明日の仕事の能率をあげる意味でも、仕事は翌日のばしにしな
 い。


 「いや・きらい・だめ・あした」をできるだけ避けること。私たちも、彼のこのモットーを旨として日々の教育活動に努めたいものだと思う。
(平成六年二月)


     実践することの大切さ

 私は、四年前に現在の学校に転勤してきた。最初に学校に入って感じた雰囲気は、明るく、自由で、のびのびとした好ましいものであった。しかしながら、学校全体がほとんど掃除されていない状況であり、学校のまわりの垣根は伸び放題、校舎周辺、運動場・コート地区の周囲なども雑草が伸び放題、昇降口の透明なガラスは磨 りガラスのように汚れ、土間は三センチぐらい土砂が積もっていた。校内が本当に汚く、よくこんな所で生活しているものだという感想を強く持った。
 このような状況の中で、保健部を担当することになり、学校を綺麗 にするためには何から手をつけようかと考えた。まず、学校の顔である正門周辺と生徒が毎日利用する昇降口を掃除しようと思い、実行することにした。
 運よく、この年から新しい用務員さんがお見えになり、昇降口と渡りのガラスを四月当初から一枚ずつ丁寧に磨いていただいた。お陰で、五月中頃には見違えるように綺麗にしていただけた。
 正門周辺の雑草抜きは、私自身が担当していた一年生の体育の授業を使い、雨天時に実施した。

生徒 どうして僕たちだけ、体育の授業で草を抜くんですか。
私  悪いね。正門のところがあまりにもみっともないから、たのむよ。
生徒 手が汚れるし、気持ち悪くていやだな。
私  誰かがやらないと綺麗にならないからね。協力してほしいな。

 最初は文句を言う生徒もいたが、何回か繰り返すうちに、積極的に取り組んでくれるようになっていった。
 昇降口の砂を取り除く作業は、授業後に毎日三十分ほど実施し、一か月程度かかって、やっと綺麗にすることができた。

生徒 先生何やってるの
私  砂をとらないと掃除もできないからね。
生徒 大変だけど頑張ってください。
私  たまには、手伝ってくれよな。
生徒 エヘヘ。さようなら。

 この年の後半から、生徒も少しずつだが掃除をするようになり、一部の先生方の協力も得られるようになった。
 二年目に入り、学年会の協力が得られるようになった。下校時にほぼ全員による十分程度の清掃が実施され、教室も少しずつ綺麗になってきた。授業後には、廊下と階段を掃除機で掃除する方法をとることにした。こうした二年間の取り組みの中で、職員、生徒の清掃に関する考え方が、大きく変化したように思う。

 現在の保健部は、全員清掃はもちろん、環境緑化にも力を注ぐことができるようになり、チューリップの球根植え、花壇の整備などが現在展開されている。
 私は、自分自身のできる範囲から少しずつ実践することによって、徐々に周囲の協力が得られるようになり、やがて大きな目標が達成できるのではないかと思っている。
 数年前、ある校長先生が、「『不跂不跨 』という言葉を、機会あるごとに生徒に言い続けています」と言われた。この言葉は、「一歩一歩着実に前進せよ」という意味だそうである。私も、この言葉を忘れることなく、毎日の教育活動に取り組んでいきたいと思う。
(平成五年二月)


     先  生

 私は今までの教職生活の中で、熱意と気力に溢 れた多くの教師に出会った。その中から教育は「人」である、という考えを得た。教育観は様々であり、個性も人それぞれである。しかし、それらを越えて教育を一つに結びつけているものは、目の前の生徒を「立派に成長するよう何とかしてやらなければならない」とか、「たくましい生徒に鍛えてやらなければならない」といった熱意である。教育の理論や方法はたしかに必要なものではあるが、直接生徒に対していくのは一人の人間である。一人の人間の個性や熱意が生徒に伝わり、それが教育を支えていくと思うのである。したがって私たち教師は、常に自己の資質を磨くことが必要であり、またそれは私たちに課せられた義務でもある。私たちは、経験に裏づけられたしっかりとした方向性に基づいて、「人」としての自己研鑽に努めなければならない。

〈新任が力不足は当たり前〉 力量不足は時間をかけてやりきれば補うことができる。「石の上にも三年」の気持ちで努力すること。能書きは言わなくてよい。まず実践し行動することである。他人の長所をまね、自分のものとする。体当たりで盗み取れ。
〈生徒、親は教師を選べない〉 責めても文句を言わない親、叱っても面と向かって言ってこない親のいらだちを、いつも考え頭に入れておく。
〈人のことを言う前に自分を振り返れ〉 言ったらそれ以上のことをやらなくてはいけない。それが責任というものである。
〈学校は甘い社会と見られている〉 こんな甘い社会は他に存在しない。お互いを許しあい、言い訳が過ぎ、責任をとらない。結果が勝負。
〈教師は楽しい仕事ではない〉 教師の言いなりになる生徒を相手にし、厳しく自己を規制し、責任を果たしていく仕事が、楽しいだけで済むはずがない。
〈高校では高校でしかできないことがある〉 「社会へ出たら」では責任転嫁だ。
〈背中で勝負〉 服装言動は重大な意味を持っている。生徒は教師の言葉よりも、教師の姿から学んでいく。寝ていて人は動かせない。
〈生徒を甘やかすな〉 自分の能力不足と引き替えに生徒に勝手を許すなどというのはもってのほかである。それで生徒から好かれていると思うなら救いがたい。
〈教師の迫力は、教材についての自信から生まれる〉 教師の力量にもいろいろあるが、教科指導力が第一。これがないと生徒に完全になめられてしまう。
〈若い教師の魅力はひたむきさにある〉 その魅力を発揮するためにも、心身の健康にくれぐれも注意しなくてはいけない。


 担任は学校の最先端で生徒と親に接している。親の学校への信頼も、生徒の学校生活への姿勢も、すべて担任の言動にかかっている。だからいい加減な気持ちでは務まらない。教師なら担任を持たねばという気持ちはあろうが、甘ったれた自己満足で持たれたら、生徒の未来を狂わせかねない。労を惜しみ楽をしたいなら担任を希望してはいけない。心身ともに大変な苦労を背負い込むのだから、それだけの覚悟を持つべきである。苦労の末に現れる喜びと満足を、生徒とともに味わうことが大切である。
〈担任は指導者、生徒に有無を言わせない力を持て〉 生徒は教師を実によく見ていて、それに合わせて立ち回る。いい気になってうつつを抜かしていると、大変なことになってしまう。指導者であるからには、生徒に頼りがいがあると思われなければ駄目である。苦しいとき必ずメンバーはリーダーを見る。その時リーダーがぐらついてはどうにもならない。指導者は命令する人である。生徒に頼んでやってもらうなど、もってのほかである。
〈全力でぶつかれ、担任の熱意が生徒の心に火をつける〉 生徒はすれているとは言うが、まだまだ意気に感じるところを持っている。そこに火をつける。全力でぶつかるから腹も立つ。だから叱ることもできる。叱れない教師は教師として失格である。
〈生徒の前でエエ格好をするな〉 学校の決定された方針や活動について、生徒の前で批判したり逆の言動をする者がいる。とんでもないことで、大変な混乱を招き、学校を崩壊させてしまう。自ら墓穴を掘るだけだ。クラスを任されたからといって何をしてもよいというのでは決してない。責任をとるといっても、対外的に責任を負うのは校長である。担任がとれる責任に限界があるように、自ずとその言動にも限度がある。
(平成八年二月)


     大砲とチョコレート

 バレンタインデーの翌朝、本校の通学路でいつも見事なアクションで交通指導をしている秋田さんが、手紙を持っていらっしゃった。その手紙を紹介する。

   津島北高校の皆さん「おはよう」。昨日は心のこもったプレゼントに感謝しています。北高の誰かさんと、あたりをおじいちゃんは見まわしたが分かりませんでした。
   おじいちゃんは諸君にふたつの感謝の気持ちを表します。一点、誰かさんの贈り物のチョコレート。サンキュウー。机の上にかざりながめては、さあ、今日も頑張るぞ! あの子たちの好意に応えて大ハッスルするぞ。気分充実、やる気満々。
   無謀運転するドライバーから絶対守ってみせるぞ! 法を無視する奴はおじいちゃんの正義感が許さんぞ、という心で歩行者を誘導指導している。
   もう一点。おじいちゃんはあくまでもボランティアで、衣服も手袋も一切私物、手当も無し。君たち全校生徒に感謝する。君たちが通学時、おじいちゃんの誘導に素直に従ってくれること。おじいちゃんは嬉しい。ありがとう。
   (中略)
   おじいちゃんはガードマンではない。(いつも服装はガードマンスタイル。) 大東亜戦争で大砲の音に耳をやられ、名古屋大学のプラズマ研究所の守衛をしていたが、電話が聴きとりにくくやむを得ず職を辞した。(後略)


 また、秋田さんの別の手紙にはこうしたためてあった。

   おじいちゃんは戦争から生き残ってきたが、若者の交通死亡事故を見聞きするたびに、もっと生命を大切にすればおじいちゃんの年代まで生きられるものを、と残念に思う。若者の暴走による死、公園でのシンナー遊び、人前もはばからず抱き合って口づけしている制服姿の学生。北高生にはそんな子はいないとおじいちゃんは信じます。さて、今月は、今日から誘導を休みます。入院する結果となりましょう。触れ合いが無くなり淋しく感じます。
 こう書いているうちに気分が悪くなりました。最後に皆さんにお願いです。
   ○ 朝五分、早めにゆったりとした気分で登校
   ○ 災害は忘れた頃にやってくる
   ○ 交通マナーを守る
     1 二人以上の並進はしないこと
     2 横断歩道を通ること


 高知県生まれの秋田のおじいちゃんの、若者の生命を守る姿にいつも感謝している。そして、自分は退職後に、はたして若人の生命を守る活動ができるだろうかと自問する。

 福岡で朝食をともにした、定年後ボランティア活動に精を出している元教師がポツリと言った。
 「退職した教師のボランティア活動は本当に少ないんです。」と。
 なにか心にひっかかるものを感じている。
(平成五年二月)


     いつ、どこで学ぶ

 六年目研修で該当教員を指導することになった。私は次の事柄を挙げて、それぞれに順位をつけてもらった。
 @ 教師の仕事として …… ア 教科指導  イ 分掌・クラス指導  ウ 部活動指導
 A 良い教師の資質として …… ア 教科指導力  イ 生徒理解  ウ 性格
この項目を重要と考える順に挙げるというものである。ほぼ全員が、@、Aとも、イ→ア→ウの順に答えた。
 新任から五年間は見習いであったかもしれないが、六年目からは一人前の教員として仕事をしてもらわなくてはならない。その基本は教科指導力である。全員の教科指導の現場を見る機会はないが、別の場面でその教科指導力を推測することはできる。それは清掃指導である。一斉清掃をする学校では、一日に一度全員が校内清掃を行う。教室はもとより特別教室や外庭での清掃指導を見ていると、教員の指導力が如実にわかる。広い清掃区域を力を合わせて清掃活動をしている一画があれば、教員が生徒を追いかけ回しているだけの区域もある。教員がいないこともある。生徒に指示を伝えるために特別教室で笛を吹いている体育の教員もいる。
 教科書もノートもない広い教育活動の場で重要なことは、教員と生徒の相互理解である。そしてその時には、教員として威厳を持って指導する厳しさがなくてはならない。必要とする注意指導を逃げずに行う信念が要求されるのである。それができている教員の授業ならば生徒は真剣に聞いていると確信できる。
 私は生徒の学校生活を、よく自転車に例えて説明する。自転車の前輪は生活、後輪は学習である。この前輪と後輪はチェーンで結ばれており、前輪のハンドルさばきでどの方向にも向かうと言える。それほどに生活面は重要である。それならば教員は、担任として、あるいは分掌の一員として、生徒の生活面の指導にあたることを最も重視するべきなのであろうか。実はそうではない。やはり、教科指導が生徒指導の基本にあるのだ。教員は、教科指導の中で生徒の信頼を得て、そうして初めて、担任として、また分掌の一員として、指導力を発揮できるようになるのである。
 教員になってまだ六年、自分の力量不足を感じたときには、経験豊かな年長者や、分掌主任、教科主任の指導を受けることが必要である。だが、教員の世界は、初任者も経験者も生徒の前で同列であるため、経験者が若い教員の指導を遠慮している場合が多いように思う。
 最近読んだエッセイにこんな話があった。

  卒業した生徒が来る。口をきかず部屋に入る。冬なら外套 を着たまま。
  「調査書をください」
  「前もって電話をしてから来なければすぐには準備できないよ。」
  「いつ来ればいいですか」
  ……二、三日して、「できましたか」と電話。
  「書いた」と答えると、
  「では取りに行きます。」
  その言い方をたしなめるつもりで、「郵送しようか」と言うと、
  「いや、どうせついでですから」
  ……疲れる。
  外套を着たまま入ってくるのは、すぐ辞去しますという意思表示なのだ、君は依頼をすることがあって来たのだろう。書いてもらった調査書は、「取りに行く」ものではなく、「いただきにあがる」ものだ。だいいち「ついで」でいいようなものなら頼むな。……ったく、疲れる。
  こうして疲れるのは私だけでなく、ほかの学校の先生方もきっと……、と書いてきて、待てよ、若い先生方は、こういうこと、大丈夫だろうなあ。

 六年目研修の指導の中で痛感したことは、教員としての勉強不足と、教育に自分の時間を割くことを惜しむ気持ちの強いことである。自分の生活時間を犠牲にしてまでは、という姿勢である。若い教員に対して、経験のある教員がいかに手を加え、一人前の教員に育て上げるかということを、真剣に考える必要がある。
(平成八年六月)


な げ の こ と ば

〈その一〉
 六月に最初の保護者との面談を行っている。

 クラスに、おとなしくてけっして目立つ生徒ではないが、陰ひなたなくよく努力する生徒がいる。その母親に、
 「ほんとにいい子ですねえ。クラスでもいっとういい子ですよ。」
と担任としての印象を述べると、
 「先生……、そんなこと言われると泣けてきちゃいますわ。」
そう言って本当に、面談の最中においおいと泣き出してしまわれた。
 「小学校のときから、いるかいないかわからないような子と言われていたのに……、先生はよくわかっててもらえて…………」
 担任して二か月余り、母親の言うようにその生徒のことを「よくわかっている」などとはとても言えない。さらに、最初の保護者会ということもあり、多少の戦略的な意味あいがあったといううしろめたさもある。目の前で涙をぽろぽろと流されここまで感激されると、何と言葉を接 いだらよいのかひどくとまどってしまった。
聞けば、父親が長期の単身赴任で、子どものことについて日常なかなか相談することもできない事情である。母親は子育てに内心心細さを抱えていたために、ほめ言葉にほっと安心をされたのであろう。

〈その二〉
 先日、稲沢に出かけたときのことである。
 JR稲沢駅からタクシーに乗った。人のよさそうな小柄な老運転手さんがことばをかけてこられた。
 「毎日よく降るねえ。雨の日はいかんねえ。」
 「ほんとにそうですね……。でも雨の日はタクシーは商売繁盛じゃぁないですか?」
 こう文字にしてみると嫌味な言葉であったのかなぁと今さらながら反省してしまうが、その時の自分にはけっしてそんな皮肉めいた気持ちなどなかったのである。なにげなく出た言葉だったのだが、この「商売繁盛」という言葉で老運転手さんは急に機嫌を損ねてしまわれた。
 「わたしは金儲けしようなんて気持ちはこれっぽっちも持っとりません。毎日食べていくだけの儲けがあればそれでいい。金を貯めてもあの世まで持っていけるわけじゃあない。葬式代だけ残しとけばそれでいいわねと、うちのばあさんともよく話しとるんです。雨の日にはそりゃあタクシー使う人が多いが、駅前は送り迎えの車でものすごい混雑でしょう。わたしは混むのが大嫌いでねえ、儲かるかもしれんがそんな時は絶対駅には行かんのです。」
 そんなつもりで言ったんじゃないのに……。まずいことを言ってしまったなあ、と悔やんでいるうちに、目的地に着いた。代金はたしか六七〇円ほどであったが、人のよさそうな表情に戻った運転手さんは「六〇〇円でいいわね」と言ってそれ以上受け取ってはくれない。恐縮してタクシーを降りたが、心は空模様と同じく沈んでしまった。

 それにしてもことばとは難しいものである。自分の発したものでありながらその行く先を制御できない。ことばを飯の種としている教師として十年以上教壇に立っているのが、我ながら恥ずかしい限りである。表題とした「なげのことば」とは徒然草に出てくるもので、「ちょっとしたことば、無造作なことば、心から深く思いこんではいないことば」の意である。兼好法師は、なにげない言葉が、こちらの意図を越えて思わず喜ばれたり感激されたり、あるいは人を傷つけたりすることがあると述べている。世の人々への処世訓である。まして多感な高校生を相手とする我々は、よくよくこのことを心得ておかなければならない。そんなことをあらためて思い知らされた。
(平成七年七月)


     あるひとりの卒業生

 これは、あるひとりの卒業生の話である。
 彼女は高校卒業後、東京方面の大学に進学した。在校中から語学に興味を持ち、大学に入ってさらにそうした勉強を進めたかったからである。
 一人暮らしも落ち着いた頃、彼女から近況を知らせる電話が時々掛かるようになった。よい仲間に恵まれ、大学生活も楽しんでいるようだった。
 彼女の進学した大学には帰国子女が多く、仲間同士の会話の中に少しずつ英語が混じりだし、そのうち会話のすべてが英語になってしまうといった話を、彼女はいかにも楽しげに語ってくれた。
 大学の授業については、語学の進度が相当に速いという話、レポートが多く、その内容も非常に考えさせられるという話などもしてくれた。
 例えば古典のレポートでは、「蜻蛉 日記」とそれについての批評文を読み、その上で自分の意見を記せといったような課題を与えられるので、どうしても作品全体を読まなければならなくなる。原文ではつらいので口語訳と対照させながら読むことになるが、高校時代には断片的に知っていただけの作品が一つの流れとなり、平安朝を生きた作者の人生について考えることができてとてもおもしろかったという。
 また、「三夕 の和歌」について自分なりの鑑賞文を記せという課題が与えられたこともあった。夜遅く電話が掛かり、私もそのレポートに少しだけ協力したことを記憶している。彼女はこの三夕の和歌を徹底的に調べて力作を書き上げたようで、後日、教授から良い評価をもらったと、喜んで電話をくれた。
 このように生き生きと大学生活を送っていた彼女から連絡が途絶えたのは、彼女が二年生の後半頃だったと思う。引っ越しをし、大学も中退してしまっていた。彼女にとって、非常に苦しい時期があったのだ。
 再び連絡がくるようになった時、彼女は学習塾の講師一本に道を絞っていた。もともと生活費を稼ぐために始めたアルバイトであったが、東京で生活をしていくために、そして気持ちの整理をするためにこの道を選んだのだ。いや、この頃では生徒が可愛くてしかたなくて、離れられなくなっていたと言った方が正確であろうか。
 その塾は講師指導が徹底していた。学力試験を課し、原則として大学院生以上の者しか講師として採用しなかった。ただ、彼女の場合は学力試験の結果がよかったので、とりあえず仮採用ということになったらしい。教える教科は彼女が得意とする英語ではなく、第二希望の国語の担当になった。得意教科ではかえってわかりやすい教え方ができないということであった。新米講師の授業はすべてビデオに撮られ、先輩の講師より指導を受けるといった形で質の向上がはかられていた。また、生徒にアンケート調査を行い、授業がわかりやすいかどうかのチェックが定期的に行われた。模試の結果が悪い状態が何度も続くようだと職を失うこともあったようだ。
 こうした厳しい条件の中で彼女はよくがんばり、正規職員として採用されることになった。責任の重い中三・高三の進学クラスを何度も任されたという。仕事は、授業を教えるだけではない。保護者会、個人面談もこなし、生徒、保護者のよき相談者としての役目も果たさなければならない。こうした当時を振り返り、彼女は「身体はくたくたなんだが、その疲れを忘れるほどの充実感を得ていた」と語ってくれた。そして、「高校時代、先生方が私たちにして下さった気持ちが本当によくわかりました」とも。
 有名な大手予備校から、今の年収の三倍の契約料を払いますとスカウトされたこともあった。だが、その時持ち上がりできていた学年が中三・高三生で、どうしても彼らの笑顔が見たくて辞退をしたそうだ。
 その彼女が今、故郷に戻ってきている。医者の診断で、半年以上の療養が必要と判断されたからだ。教師という仕事に生きがいを感じ、そのおもしろさを味わい始めた矢先に辞表を提出しなければならなかった彼女の胸の内は、いかばかりであったろう。
 だが、私は、心身ともに傷ついた彼女が自分の力で立ち直るのをただただ見守ってやることしかできないのである。
(平成九年六月)


     今になって振り返れば

 私に、学年主任という重責が与えられた。それまでは、与えられた仕事に一生懸命頑張ってきたつもりだが、自分で企画・運営することは少なく、責任も伴わなかった。期待をかけられた嬉しさとそれ以上の不安が交錯する中で、四月が始まった。
 年度初めの忙しさの中で、何とか一か月をのりきった。しかし、五月には、集団暴力、万引きと、非行を起こす生徒が多発した。退学者も少しずつ出始めた。他学年からも批判を浴びだした。多難な船出だったのである。担任の先生方も苦労されていた。特に、新任の先生四名(うち本校初の女性教員が二名)の心労は、計り知れないものがあったと思う。
 私は、物事をよい方向に変えていくには自分が落ち込んではいけない、常に行動し、言い訳をせず、楽天的に振る舞おうと思った。そして、率先して物事に立ち向かうよう心がけた。
 学年会では、「授業に集中しない」、「やる気がない」、「遅刻、欠席が多い」などの愚痴が出た。対策を話し合うたび、「教員の一致した指導が大切である」との結論になるのだが、それが現実の行動に結びつくことはなかった。今考えれば、それは、具体的な改善方法が見つからなかったり、示さなかったためである。月日だけが流れ、生徒たちの様子は一向に改善に向かわなかった。
 二年生になっても状況に大きな変化はなかった。そこで、十一月の学年会で、「一つだけ全教員一致した指導ができることを決めよう」と提案した。それぞれの意見を自由に発言してもらった。そして、具体的指導項目を、「授業始めの挨拶を、服装を整えさせ、きちんと行う」ことに決めたのである。議論の結果から生まれた目標でもあり、教員にこれまでとは違う動きが出てきた感じがした。そして、時をおかず、徐々に生徒も落ち着いてきた。
 生徒に対して各教員が同じ指導をすること。同じ内容の発言をすること。これは、生徒にとって教員集団が団結していると映る。ある教員が厳しい指導をしても他の教員がそのことを批判すれば、生徒は必ず優しい指導が正当と判断し、厳しい指導をした教員に反感を持つ。教員側には、指導方法に少々の違いがあっても、根本的な指導方針には差があってはならない。そのことに全教員が気付いたのがその時であったと思う。
 本来、教育では、人としてやるべきこと、やってはならないことをはっきりさせ、信念をもって指導していくことが必要である。教師は、指導しにくいことから絶対に逃げてはならない。そしてそのためには、教員間の協力体制を確立させておくことがきわめて重要なポイントである。

 今、その時の自分自身を振り返ると、反省すべきことが多い。自分は本当に行動し、愚痴を言わず、楽天的に振る舞っただろうか。日々、朝から晩まで努力しただろうか。前向きな姿勢を維持していただろうか。先生方の指導しやすい目標設定ができていただろうか。
 その時の自分は、不安が先に立ち、感情を表に出すことを恐れていた。また、教師間のトラブルを避けていた。それによって自分が傷つくのを恐れていた。心細さも感じていた。そんな臆病さが解決を遅らせていたことに、今気付くのである。
 このような経験の中から私は、仕事は不安なところから解決すること、早めに他に協力を呼びかけること、今までのことをそのまま真似するのでなく自分なりの工夫をすること、事なかれ的な道を選ばず弱気にうち勝つこと、具体的な目標を設定することの大切さを身をもって学んだ。
 そしてもう一つ。私が不安な思いを抱えている時に、私の方針に共感してくれる先生が、一人、二人と現れた。それが、自分の自信にもつながり、やがて学年の団結を促す結果となった。信念を持った指導には共感者が必要である。少々労力のかかる指導であっても、共感者ならば共に苦労してもらえるものである。
 こんな体験から、私は、信念を持った教育の大切さ、有言実行の大切さ、共に苦労してもらえる仲間の大切さを知ったのである。
(平成八年十月)


     見えないところの行為について

 今年の卒業式の前は連休で、前週の金曜日に式の予行が行われた。それも昼までには無事終わり、すっかり暗くなったころ、いつものように溜 まった仕事を口実に遅くまで職員室にいた私が事務室を覗くと、まだ若い主事が残っている。
 「きょうはまだ残られるんですか?」
 「……ええ」
 その訳を聞いて体育館へ行くと、ステージの上でアルミ製の二段ばしごが目一杯伸ばされている。そこに主査と用務員さんと電気屋さんが、電球を替える仕事をしておられた。
 十分な足場もなく、はしごはおそらく舞台の天井から垂れた鉄線に不安定にかけられて、今蛍光灯が一つ取り替えられたばかりなのだろう、妙な明るさのステージになっていた。さらに切れた蛍光管を取り替えるために、どう足場を作るか相談されているところであった。
 けがをしてもおかしくない危険な状況で、普段と同じゆったりとした会話をされる三人の様子を見ながら、ああこれが学校なんだなと、黙って感心した。このステージは見事に明るくなるだろう。けれども、それに気づく人はおそらく少ないに違いない。人に見えないところでなされる行為ほど、人に恩恵を施しているのだと知った。
 生徒会役員が、球技大会の名簿と実施要項を何度も作り直したり、文化祭前夜に案内パネルを制作するために夜遅くまで作業をしていたことなどは、ほとんどの生徒の知らないことだろう。けれども、社会に出たときに求められる判断力や行動力は、こうした裏方としての活動を通して、確実に彼らの血肉となっていくに違いない。
 その一方で、たちこめる煙以外にタバコの証拠を残さず、問えば乱暴に罵 る生徒、万引きをしながらその発見者に怒りをぶつける生徒、不正行為の証拠もないのに疑わしい行動だけでなぜ指導ができるのかと食いさがる生徒の現実がある。見つからなければいい、証拠がなければいいという居直りに、教師側の指導も弱腰になってしまうところがある。生徒にとっては、行動の善悪が問題ではなくて、それによって指導や懲戒を受けるかどうかが問題なのである。見つかれば損をした、見つからなければ得をした、そんな幼稚な合理主義またはご都合主義が若者の世界にはびこっている。善悪の価値観を見失った行動は、その人を堕落させるのみか、われわれの社会全体を悲惨な方向に助長していくことになるであろう。
 先日新聞で、姜r 著「看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記」の存在を知った。豊臣秀吉の朝鮮出兵で、一家ともども日本に連行された学者の話である。彼の幼い子二人は朝鮮の海岸にうち捨てられ、やがて溺 れ死んだ。親族の子は船の上から日本人が投げ捨ててしまった。四国の伊予の長浜に着き、連行される途上、飢えと疲れから六歳の娘が歩けなくなる。妻と妻の親が交互に背負ったが、川を渡るときついに水中に倒れたまま起きられなくなってしまった。
 そのとき、岸の上にいた一人の日本人が、このありさまを見て駆け寄ってきた。
 「ああ、何とひどいことを! 太閤は、この人たちを連れてきて、いったい何をさせよう というのか。お天道さまが見ていないわけがない。」
 その人は、涙をこぼしながら、そう言って救い出し、一家に飲み物と食を与えたという。時の為政者にしても然り。見えないところの行為の確かな力は、人を厳しく裁いていく。
 ひるがえって、我々教師の姿勢はどうであるか。
 不登校の生徒とどれだけ接触をとろうとし、親の苦しみをどれだけわかろうとし、あるいは学校の指導への理解をどれほど求めているのか。ただ時間や頻度だけをいうのではない。だれも見ていないところで、我々は、どれだけその生徒のことを気遣い、悩み、そして真剣に考えているのか。
 見えないところでする労力を、大変なんですと声を上げ、見せようとするのが社会の風潮である。だが、声を上げた瞬間、そこから大切なものが抜け落ちていくような気がする。朝鮮の学者一家を救ったあの日本人が言った、誰が見ていなくてもお天道さまが見ているという言葉を、我々はもう一度じっくりとかみしめる必要があるのではないだろうか。

 私たちの学校に、毎朝用務員さんの次に早く来られる先生がいる。人柄の良さで誰からも親しみをもたれるその先生は、夏はまず職員用の麦茶を作られ、冬には仕事で遅くなるとすっと温かい生姜糖を出していただける。何事につけても目立たないが大誠実の人である。
 私も、ともすれば与えられた責任を果たすだけで精一杯の毎日ではあるが、その中で生徒やまわりの教員に対してどれだけ心労を尽くせるか、日々自問していかなければならない。
(平成十年三月)
  はじめに


    今朝もまた教師になりて口きかぬ子らにも声かくおはようおはよう
仙台市 遊佐敬子
 これは平成八年十二月二日付けの朝日歌壇に紹介された歌である。
 作者の思いは別にあるのかもしれないが、この歌は、校門であいさつをせずに通り過ぎる生徒に、虚しさを感じながら声をかけている教師の姿を浮かびあがらせている。
 だが、これこそ生徒指導の出発点であり、学校全体で懸命になって指導にあたっている尊い実践のひとこまである。しかしながら、こうした努力を越えて、学校を取り巻く今日の教育環境は厳しさを増し、その対応はますます難しくなってきている。
 たとえば、しつけの崩れ、学校にも家庭にも居場所のない生徒たち、服装、茶髪、携帯電話、アルバイト、覚醒剤、援助交際、ナイフによる殺人、自殺、など ―― これらの様相は今までとは違ったものをもっている。
 「教育方法研究会」の活動は、こうした問題にいろいろな視点から検討を加え、解決の糸口を見つけていこうというものである。一口でいえば『指導の基本にたちかえる』ということである。すでに発足以来十年余を経た。公私を超えた高校教師の集まりであるが、皆それぞれが各学校で幾多の経験を積み、熟達した教師であり、素晴らしい人たちである。
 彼らが、年に三回集まって討議を重ねた中で、この冊子は生まれた。いわば、学校を預かる教師らの生の声を集めたものである。
 ここには、今日の教育課題解決のためのいくつかのヒントが隠されている。それらを広く、教育に携わっておられる方々に提案したい。

 なお、いろいろとご叱正、ご指導をいただければ幸いである。

  平成十一年二月六日                   監修  坂田 正英
   目    次     第二章 育てること、導くこと

        造林と教育  四四
第一章 教えたいこと     言葉の力  四八
        ある中退した生徒
リンゴの季節  二      にとっての「教師」 五二
植林のこと  四   ひとことの大切さ 五六
存在への問い    八   親和と共生 六〇
若葉して御めの雫ぬぐはばや   一二   「広い心」での対話 六四
バラバラでいっしょ 一六   教師の一言           六八
四万十川のうなぎ   二〇   励ましの言葉          七二
自分を大切に 二四   褒めて叱ろう          七六
今 学ぶという事 二八   ラブの贈り物          八〇
自己の再発見  三二  「いじめ」問題について ― 雑感  八四
短い人生を精一杯生き抜いた生徒  三六   葡萄の実            八八
Incivility(無作法・無礼)     四〇   危機からの脱出          九二
                       感動・発見する体験        九六
あいさつの素晴らしさ      一〇〇

第三章 時代の考察 第四章 親の姿勢、子の姿勢

高校生のモラルと非行 雑  念 一六〇
     ― 在り方・生き方 ―   一〇四 人生半分 ― 子へのかかわり ―  一六四
    教育のアポリア 一〇八  学校給食と学校週五日制    一六八
    教育改革に思うこと 一一二  愛 ― 有縁 ― 恩 一七二
    豊かさを考える 一一六  親と子の対話について 一七六
    タイ国の生徒から学んだこと 一二〇  親の信頼           一八〇
    私学の心   一二四  オープンな学校        一八四
    意地減・真面目 一二八  生徒の家庭についての思い出  一八八
    父 性 愛    一三二  「いじめ」事件について
不易流行 一三六          考えること  一九二
    笑えないテレビCM 一四〇  母 源 病           一九六
    豊かな時代の進路指導 一四四 子ども会雑感         二〇〇
    三十年目の一年担任   一四八 近ごろの親子関係に思う    二〇四
    教師の結束          一五二    長野五輪の感動を胸に     二〇八
    神は死んだ 一五六 子の気持ち、親の気持ち    二一二
第五章 生徒たちの実像 第六章 教師であること

    わが国における「中学校卒業程       芭蕉布の思い出        二五八
     度認定試験」の活用について   二一六 教師としてプロであるとは   二六二
    迷  い 二二〇 もっと 心を         二六六
    今 生徒たちは 二二四 百歳の先生          二七〇
    ほんの些細な生徒指導「論」 二二八 未熟さをもちながらも     二七四
    公の場の意識 二三二 見 習 い           二七八
    学校生活不適応生徒への対応 二三六 いや・きらい・だめ・あした  二八〇
    気になる子どもの体力 二四〇 実践することの大切さ     二八四
    女子高生の性意識について 二四四 先  生           二八八
    ポケベル 二四八 大砲とチョコレート      二九二
    「個を生かす教育」雑感 二五二 いつ、どこで学ぶ       二九六
     なげのことば         三〇〇
                         あるひとりの卒業生      三〇四
                         今になって振り返れば     三〇八
                         見えないところの行為について  三一二


     おわりに

 この本は、教育方法研究会の会員四十九人の、教育実践を通しての生の思いを記したものである。この研究会が発足したきっかけは、今から十年ほど前、県教育委員会から高校入試改善について研究委嘱を受けたことであった。当初は三、四人の集まりであったが、やがて四十九人に拡大していったのである。
 その時々の教育問題について協議をし、自由に討議をしたのが始まりであった。そこで耳にした言葉、出会った見解、何気なく拾った片言隻句は、その後の日々の教育活動の支えとなりヒントとなった。この会に集まった人たちが優れた教師であったかどうかは別にしても、教育を真正面からとらえ、実践する人たちであったことは確かであった。
 実践の記録は毎回、「砥尚 」という形でまとめられた。十年余にわたる活動の中で、この本の背後にある随想は膨大な数になった。その中から選んで編集されたものが、こうしてまとめられたのである。事務局を担当した若い教師は、この作業を労を惜しまずやり遂げてくれた。その努力がなければ、この本はできなかったものと思う。
 こうした経緯から、この本は、一人で書き記したものと比較すると、文章の形式、体裁が不統一で読みづらいところがある。しかし、それだけに会員の実感がこもっているように思っている。
 この本をお読みいただいた方には、是非読後の感想を事務局あてにお寄せいただければと思う。多くのご指導、ご叱正を賜ることができれば幸甚である。

平成十一年二月六日     教育方法研究会 代表 村本 邦夫


※「砥尚」の由来   「砥」とはなめらかな石のことであり、それで刃物を研ぐように自分を磨くということ、「尚」とは神に願うことであるが、自分を高めよ、ということでもある。春秋時代、晋の宰 相となった趙盾は、この「砥尚」の言葉を胸に、艱難に耐え、学問に励んだという。
〈執 筆 者〉
  安藤 清巳  木戸 邦人   野々垣晴邦
  石黒 茂  坂田 正英   野呂 孝
  伊藤 直史    佐藤 忍   服部万寿夫
  犬塚 裕幸  佐野 好宏   春木 淳二
  内田 富夫   塩谷 伸晴   日置 儀市
  大竹 玄之   渋谷 有人   日比野敏夫
  大西 久司   瀬治山みど里   平野 征人
  大山 康  竹内 健司   福島 敏雄
  小川喜与一   田辺 秀穂   本多 正美
 小木曽 稔   冨田 昇   宮部 幸雄
  荻原 哲哉   豊永 利英   村本 邦夫
  小澤誠太郎   中城 牧彦   森 俊通
  加藤 勝男   西尾恭一郎   山本 圭一
  加藤 博文   西口 佳子   矢満田道之
  加藤 信   野田 良彦   吉沢 雅之
  川合 政仁   野中 昌介
川合美智子 野中 悦羌 (五十音順)


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平成十一年二月六日 発行
発 行 者 教育方法研究会
監修 坂田 正英
 同事務局 〒四八六‐〇八四一
      愛知県春日井市南下原町
      一五一番地 荻原哲哉
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