?の部分教えてください
No6〜

| 悟あるべしと、兼て用意の釘かすがい 数百手取出し、其外心中に入用の物共? 足と下知をなしける時に、手下の者ども 申けるは、然ば早速隠し置たる千余人の 浪人共を集め、当城を切落し召時に久 野山に楯籠申さんと立膝立膝所に、廓然坊 表より馳せ来り申けるは、江戸より 早打として駒井右京殿只今城中へ 乗込れし様子、いぶかしく?ると云いけれは、 正雪聞聞(偖社?)大望顕はれたるに疑ひ なし、然りといへども此度の企は、駿江一時に 焼亡し、六十余州を手に入んと思ひ定め たる事なれば、今更千余人の浪人共を集 め久野山に籠りて、乃至国の二ケ国や三ケ |
No7〜

| 国・四ケ国切取候共、終には本望とげがたか らん、猶又諸方の国々も堅めたるべし、其 上抱え置たる者どもに三百や五百者勢 来る共、はかばかしからず。却て足手まど ひに何かせん、正雪が忠死の時節到来せ り、各は是より何国へなりとも遁れ出、命 全ふし、面々出世を遂らるべしと云ければ、 皆々言葉を揃へ、大望思ひ立て此かた十八 年、我々どもが命は兼て貴公に参らせ 置たる者共にて儀を??とすべし、 と存罷在所に、斗らずも大望露見致 せし期に及んで、爰を立退末代おく びやうの名を残さんや、兼て覚悟究し なりといふ。正雪喜悦して各の心底を顕 |
No8〜

| 頼母敷、されは駿府を十重・廾重に取巻 ?石の如くかためたりとて、我々十一人の者 切て出る物ならば、一方は切破り何方へなり とも安々と落べけれど、死すべき時に 死せざれば、必不覚の名をさらす、是武 士の恥る所也、此上はいさぎよく腹かっさ ばき名を末代に残すべしと、騒ぐ気 色なかりけり時に、九郎右衛門申しけるは、此期に 及んで何の益なき申事には候得ども、正雪 老の思召承りたし、かかる大事や(みみ?)顕 わるる事全く悔むには有らねども、一重に 忠弥不覚によって仕損せり。不才の人を 以、江戸の大将と成しの不覚、公の思召其 意を得ず?賢慮はし御座候哉、正 |
No9〜

| 雪尤の不慮なれども、左にあらず元来、忠 弥は長曽部の二男にて、?罫家は彼れ が君父の仇なり、殊に四千八百人の内二千人 は皆、長曽加部普代の者共にて、父の仇を報 ぜんと一心に志す処は江府にあり、依て忠 弥を江戸の江戸の大将たらんは、当然の理なり。 然るに今、大事あらはる之事、全く忠弥 が器量の不足にあらず。此事を企てより 十八年以来壱人も洩る事なし。明後廾六日の 夜は江府・駿府一時に焼亡し日本を手 に入れんと計る所に、今一日・二日にして顕は るる事、皆過去達この因縁ならめ、然れ ば、各忠弥に恨みを??べし。我又 ?大望成就せずとも大慶におもへ候哉。 |
No10〜

| 元来、吉岡欣右衛門といふ賤しき染屋 の子として、志ゆうあくせんと、四千八百人 の浪人共とかたらい、斯まで事を斗りし 名は末代に残るべし。是事は末期の思 出なりといふて、さもゆふゆふと春霞と言 名香を焼き、髭を剃り身を清め衣 類を取出し支度を改め、各最期は用 意覚悟をしたりけり。此時駿府の御城代大 久保玄蕃頭殿、御加番は秋田安房守殿・松 平彦兵衛殿・奥村太郎左衛門殿・戸田藤四郎 殿、御詰所大手四ツ足竹源、三ケ所御町奉行 落合小平次戸殿なり。然るに七月廾五日の朝江 戸より、早打の御上使駒井右京進どの 江駿の間四千里の処、暮六ツ江戸出馬有 |