アズアドッグ
11
窓の外は暗くなり始めていた。開けたばかりの店には、ひとりの客もいない。三
人のバーテンは、カウンターの後ろでグラスを磨いていた。毎日、繰り返されている光景
だった。
カウベルが鳴った。
白いヒール、ベージュのスーツ、肩の両側に流れ落ちる長い髪。その女性は奥のテーブ
ルに藤村を見つけ、まっすぐ歩み寄った。藤村は温いバーボンを手にしたまま、近づく彼
女を見つめていた。彼女は藤村の前で立ち止まると、椅子の背もたれに片手を添えた。
「捜したのよ」
涼子の声は囁くようだった。
藤村は黙ったまま頷いた。
彼女は椅子に座り、スーツと同じ色のバッグをテーブルの端に置いた。
「あなた、私を騙したわ。私はあそこに残って、証言をするべきだったのね」
藤村はバーテンを呼んだ。
「何か好きなものを頼むといい」
涼子はテーブルの上のボトルに目をやった。
「それを頂くわ」
「グラスと氷を」
藤村は側に来たバーテンに言った。
「あのときはあなたの言葉を鵜呑みにして、私が残ればかえって迷惑をかけると思った。
……馬鹿ね、あなたは私のことしか考えてなかったのに」
涼子はバーテンが離れるのを待って言った。
「君がいてもいなくても結果は一緒だった。酒を飲んでひとを跳ねた。それだけのことだ
」
涼子は目を伏せた。
「ごめんなさいね。会うなり恨みごとで。あなたに謝りたくてここに来たのに」
バーテンが肉厚のグラスを涼子の前に置いた。藤村がバーボンを注ぐと、氷が澄んだ音
をたて、崩れた。
「ギムレットばかり飲んでいたのにな」
「あなたが、それしか頼まなかったからよ」彼女はグラスを持ち上げた。「あなたと会わ
なくなってからは飲んでないわ」
ふたりはグラスを口にした。同じ酒でも温度が違えば味も変わる。藤村の飲む方が
ずっと苦いはずだった。彼は言った。
「辰野はどうした」
涼子は汗をかき始めたグラスの腹を、人差し指でなぞった。
「三ヶ月前に別れたわ」彼女は顔を上げた。「結局、辰野は何も教えてくれなかった。私
も少し疲れたわ」
ドアが開き、数人の白人が派手に騒ぎながら入ってきた。彼等はカウンターに陣取ると
、思い思いに飲み物を注文し始めた。涼子は首を回して彼等を見た。
「面白そうなお店ね」
彼女は藤村の顔に視線を戻し、微笑んだ。
「ああ、退屈はしない」藤村は煙草を取り出した。「そういえば、辰野が絡んでいたクス
リの件、ひょっとすると何か分かるかもしれない」
涼子は藤村の肩越しに窓の外へ目をやった。そこにはただ暗がりが広がっているだけで、
何も見えるはずはなかった。
「辰野は何かに追いつめられているみたいだったわ。もし、助けてあげられるものなら
……」彼女は言葉を切り、首を振った。「ごめんなさい、これ以上あなたに迷惑掛けられ
ないわ」
「別に君が気にすることはない」
白人客は、カウンターに五百円玉を積み上げていた。ここでは全ての飲み物をワンコイ
ンで売っている。コインの山が小さくなると、騒ぎは大きくなる。
藤村は彼等の様子を眺めながら、くわえていた煙草に火を点けた。
「俺がここにいることを誰に聞いたんだ」
「この前、ここで事件があったでしょ。そのときの事を人伝に聞いたの。あなたを知って
いるひとがいたみたいだわ」
ロンが刺されたあのときから、いろいろな事が動き始めたようだった。
「事故の日以来、電話をしても繋がらないし、家にいけば引っ越しているし、途方
に暮れたわ。警察を辞めさせられたと聞いたときには居ても立ってもいられなかった」
涼子はグラスに口をあて、飲み干した。琥珀色の液体が彼女のなめらかな喉の下を通って
いくのが分かった。氷だけが残ったグラスをテーブルに置くと、彼女はバッグを引き寄せ
た。
「でも、良かったわ。こうして会えて。……今日は、とりあえず謝りたかっただけなの」
彼女は立ち上がった。
「辰野とは会ってないのか」
藤村はテーブルの上に目を据えたまま訊いた。
「ええ」涼子は言った。「今の辰野と一緒にいると、とても不安になるのよ。何を考えて
いるのか分からないの。……以前のあなたみたいに」
店のドアが開き、三人連れの着飾った女が入ってきた。彼女達はカウンターの男達と
視線を交わしあい、一通り品定めが終わると、彼等の方へゆっくりと近づいていった。
「あんな風に簡単に振る舞えたら、楽しいんでしょうね」
彼女は、藤村に微笑みかけ、小さく手を挙げた。
「また、来るわ」藤村の手元に目をやった。「あまり、飲み過ぎないでね」
「ああ」
彼女は店を出た。
そこに居るときは気付かなかった微かな柑橘系の匂いだけが、しばらくテーブルの上を
漂い続けていた。
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